ひな鳥の名前がティコ=ブラーエ.おかげで瑠璃色クロニクルにあるスタッフコメントのガリレオ=ガリレイと最後の明け瑠璃シナリオとが繋がりました.それでも地球は動いている,という言葉の代わりか,手がかりの石を残して死んだ母の跡を継いで,フィーナは異端審問に勝利します.
地球と月っていう枠組みは,かぐや姫というよりはそんな天文史への思い入れから導入されてるんだろう,色気はないけど,偏向している様子は好ましいです.
Wikipediaのマスドライバーの項を見に行ったら明け瑠璃が(笑)マスドライバーといえばまずは中1のころ放映されてた機甲戦記ドラグナーが思い出されます.ZZの後番で,ZZに出てきたコロニーを落とすという発想はよくわかんなかったけど,マスドライバーはまだ兵器として想像できる範囲だった.良くも,悪くも.
それはそうとして,とりあえずはリース.
アルトネリコより,波摩.案内人で,小さくて可愛くて,誠があって,だけどいつも怒っている人.どこかで見たような気がしてたけど,遠山トオだと思い当たった.
アルトネリコ2は今年中に発売予定.わーい.
日本ゲーム大賞2007に投票してきました.レースとして見れば「Wiiスポーツ」-「世界樹の迷宮」の連勝単式を買うところだけど,投票してきたのはアルトネリコ.The best版だからなにもかも手遅れだけどね…….
ケータイゲームが許されるなら,ハプロケに一票投じたかったところです.
後輩のお薦めで買った素敵ソフトComicStudioPro3.0初描きにて,風子習作.
タッチを入れてみましたが,やっぱ時間かかります.夏の本ではどうしようかなぁ.
水姫に四畳半神話大系より優先よといわれて受け取ったParfait.
明日香,どの人の声も周波数の低いところから染みてくるので良いのだけど,この人の声がまずは一番に響いた.そして「こういうこそばゆい展開になると,どうにもいたたまれなくなってしまう俺が悪いんだが.」てなもんで,おっさんの感覚と高校生の感覚とが出会う話.「せんせ…わたしを馬鹿にしてるでしょ.」「馬鹿にしてない.けど,大人は色々考えることがあるの.」あるのだよ.定型句だと思ってたけれど,何かにつけ責任感じてしまう話であって.大人っていうか,年齢の差とか仕事場と教室との差とか原因はともかく,片方の人だけスイッチ入ってて,もう片方はそれを距離を置いて見るしかないっていうの,どうしようもなくて.これ,選択肢があったら絶対首を横に振ってたなぁ.「女の子にここまで…ここまで言わせといてぇ…えっちな気分にならないひとはダメだよぉ…っ.」ダメ呼ばわりされてしまったけど,そういうの仕方ないじゃない.ずいぶんと長い時間,上目遣いのすっごい視線くれるんだけど,耐えるところだよね,ここ.
じつはスイッチなんて入ってませんよーと見せかけるために,嘘泣きしてわざとバラしてみせて,その場はお開き,としたところで,意外や相手から不意打ちのキス.僕ならああするこうすると判断の分かれそうなところは,素早く目先を変えて瞬間のめまいの中で,ひとつの方向へ定めて動かしてゆくのね.ここでようやく選択肢のないゲームだったことに気づいた.そうしてみると,こういう場合において選択肢っていうのは修辞に身を委ねないことであるのだなぁ.言葉巧みであることよりも選択がそのまま結果に繋がってゆくような素朴かつ青臭い仕組みを,デジタルの女の子と辿る運命の上に,求めることがある.天いな,っていうのは僕にとってそうでした. 絶対とか意地とか,後悔の装置.
コイバナあふれる女子高でこの人がどれだけ煽られてきたかって想像つくので,きみのそれは一時的な気の迷いであるからして云々,あるいは生徒は先生にそういう錯覚を抱きがちであるから云々とか,だいたい去年のクリスマスがネタだったのにどうして,とか,第一こちらとしても自分のことを慕ってくれる理由が先輩だからとか先生だからとか思ってないと変に誤解しそうだからとか,ちょっと遠くから見てたところまでは,おっさん気が合うなぁ,しかし,あんたと里伽子さんとじゃそりゃうまくゆくまいて,と思ったりしてね.
しかし,責任感じる話だな.先方は感じてなんかほしくないだろうけど,ほれ,こちとらおっさんだからさ.20歳でおっさん呼ばわりとは彼に申し訳ないが.
先日,ハチクロも読み終えていて,あとアニメの第一話も見ました.
ファンシーかつ気分げな画面とちょい下品なノリという漫画版の最も好ましいところが,アニメのほうでもアニメなりのやり方で見せてくれてるように感じられました.
気分げ,っていうのは絵柄とか画面づくりのくるくる変わる感じが,いかにも描き手の指先の気分を反映してるように見えるという意味合いで,画面が柔らかくて目に優しいのです.
漫画のほうは,扉絵に描かれまくってるいろんな姿のはぐと山田さんのことも見てると幸せになれます.
太陽の塔(単行本p.50まで)
登場する部屋はだいたいあの人とかアイツの家のあった場所だなぁって一致してしまうあたり,具体的過ぎて可笑しいです.
90度回転する東大路通りに警戒を怠らないあたり(p.11),話がよく判る人だ.このセンスで東京へ行くと 本郷通りを警戒することになります.
叡電は線路を外れて走り出しそうだよね.嵐電が道路を走ることを思えばさ.そして,自転車より遅いぜと市内の生徒や学生になじられ親しまれている京福の路線たちよ! いつか同じ道路で競争してみたいものであります.
僕は田中神社に守られるように生きてたし,そして今,東大路の電飾はしょっぱくてね.50年もたてばこの界隈に生きた学生を伝える素敵な資料になるね,これ.そして三四郎読んだときみたいにね,今でも変わんないよなぁと思えるようであってほしい.
まなびゲーム版より,めいとお出かけ第一週目「……わたしはお兄さんの居る天宮さんと違って一人っ子だから,一人で居るのには慣れてるの.」やっぱ兄弟姉妹のことは理由付けに使われるものだよね.いや,芽生は単に一人で本読んでたいだけなんだけど,「一人じゃ寂しいでしょ?」とか言われたら,なんかもっともらしい理由をつけて答えなくちゃならない気になるわけで.
芽生は保育士のバイトを普通にこなすことができる.園児? そんな接触性の生き物どもを,と思うのですが,そういえばこの人は同級生が苦手なだけだよね.芽生が学美とお出かけしてると,プールや図書館ではしゃぐお子さんをもてあますお母さんにしか見えないっていう落ち着きで,そういう感じはこの人にとってやりやすいかも知れません.
芽生の美少女っぷりが町中の人に褒め称えられる(デパートの10メートル垂れ幕に!)とか素敵である一方,昔の同級生との話をまたもや聞かされたのは辛いわ.
女の子と仲良くなるゲーム,という意味でのギャルゲーの臆面もなさというのを,ときメモが出たときには感じていた.結局はそんな風におおっぴらであるほうが素直でいい.アルトネリコのコスモスフィアは女の子の悩んでること隠してることなんかが絵地図として描かれた場所で,僕はそこを旅して秘密を解いてゆく.夏夢夜話のフェルネラントにもよく似たところがあったけど,コスモスフィアは本当に地図を絵に描いて見せてしまった点であられもなくってね.心と地図と物語とを繋げてしまうような臆面もなさは,そもそもギャルゲーだという時点でいまさらのものとして,いっそ好ましい.
それはそうとして,この地図は彼女らにとってある程度描き換え可能なものとなっていて,ミシャのはじめの地図では主人公のライナー君に見せたくない部分が彼女の手によって塗りつぶされている.どの地図を見せるかということがライナーとの関係の深まりによって変わってくることもあわせてみると,コスモスフィアの地図はあらかじめ定められた不変のものではなく,ミシャとライナーのふたりの関係のなかに描かれてゆくものだと判る.
世界樹の迷宮をやってて思ったのは,ギャルゲーもこんな風にマッピングできるのがあればいいなぁということで.どこでだれと出会ってなにをしたかってのを描き込んでゆくと,僕と彼女たちの思い出がそこに残されてく.書淫で深沢豊氏がゲームシステムとして僕らがテキストのメモを書き込めるようにしたのも,そういう気持ちだったんじゃないかと考えてる.
電子的なゲームシステムが提供するものっていうのは,根本的には,プレイをデータに変えて残してゆく仕組み,それだけなのよね.ということは当たり前すぎるのかしら,XBOX360では実績とゲーマースコアという形でハードの基本機能として提供することにしてしまった.PS3もPlayStation Homeでこれに追従する予定らしい.
さて,AIRの絵地図には観鈴にとっての町の思い出が込められてゆく.往人さんとの出会いも含んでいるけどふたりの地図と呼ぶにはコスモスフィアよりも一方的な,解釈からは距離を置いた,それに,あれはむしろ,僕が描きたかったものである.なぜ君が?と思った.
なんかひらめいたので.「アルトネリコでわかる観鈴マップ(仮)」と題して,天いなととらハの話の巻き込みつつ,とか.たぶん5月の気分で変わりそうだけどね.
朝,なんとなくプリキュア5.この枠は数年に1話見るかどうか.もの喰う乙女たちがよかった.あと絵も.さあ喰えやれ喰え,たんと喰え.毎回こんな感じなら良作.
あと,あんまり誉めている声を外から聞いちゃうと落差が感じられてしまうものだと思うので,他の人の声を適当に忘れるまで続きは見ない,読まない.というのはまなびに限らずいろいろなんだけど.妙な話,評判悪い作品のほうが気楽に触れることが出来ます.
だったら僕も高河ゆんは世界一とか言わなきゃいいのにね.
氷の海のガレオンの表紙風味.杉子にとってのハロウ,というよりも,もっと楽園みたいな,灯りに近い場所として.
僕は生まれながらの弟だから甘えん坊なんだと思うのですが,長男だからしっかりしなくちゃねとよく言われます.僕は僕のままとして,僕と誰かとの続柄を理由にする場合,本人にとって都合のいい関係が選ばれることがあります.そもそも同じ続柄を理由にするのでも,ある人はお姉ちゃんだから妹とにぎやかに暮らしているかもしれないし,ある人はお姉ちゃんだから親に構ってもらえなくてさびしんぼかもしれません.続柄を理由にすることはなんとでも言えるがゆえになんの意味もないのですが,それでもなお理由として採り上げられるのだとすれば,表面的なこと以外を理由にして人を語るのがとてつもなく難しいからか,あるいは,続柄そのものへの強い関心であって,たとえば兄妹のいることが嬉しかったりうらやましかったり,うとましかったりするからでしょう.
アニメ版まなびストレート!のキャラクター紹介文(link)でわざわざ兄妹のあるなしに触れられているのがどの程度特別かというのは,ゲーム版の紹介文(link)でそれがばっさり省略されてるのと比べればよく判ります.何もそこまで完璧に省略しなくてもと思うのですが,メディアを変えてもう一度紹介する時,そうしたくなる程度には余分な部分に見えるわけでして.
キャラクター紹介文というのは,キャラクターが生まれて,彼らとはじめて対峙してみたとき最初にあった気持ちがにじみ出ている,もしくは勢い余ってはみ出しているものであって,ここでもやはり,兄妹によって彼らのことを語りたいという気持ちが働いていたんじゃないかしら.前にも話しましたが,アニメ版紹介ページで,みかんは一人っ子のためか甘えたがりで,めぇーちゃんは大人びた考えを持ち,まなび達の頼れる存在の一人っ子であるという,一人っ子の人物像に対する揺れ具合を見ると,つまりは一人っ子そのものについて興味が向けられているのであって,僕も兄妹で人を(とくに自分を)語りたがるので,こういう態度はとても好ましく感じるのでした.
せっかくなのでゲーム版紹介文の面白いところも.めぇーちゃん(めぇ)の紹介で,アニメ版は「一見クールだが,負けず嫌いな女の子」というようにクールと負けず嫌いとが逆接になっていますが,ゲーム版は「一見クールだけど,友達を放っておけず,ついつい面倒を見てしまう.ツンデレキャラクター.」であって,クールと面倒を見ちゃうのとが逆接になってます.芽生という人は僕の思うツンデレには当てはまらないのでアニメ版の紹介文ほうがしっくりくるのですが,それにしてもゲーム版の紹介文はツンデレという結びへ繋ぐための言葉のスライドが効いていて,こうした読み替えは紹介者の解釈が漏れ出ているので面白いと思います.