ジョー先輩はもういない



中学にあがってクラブに入ったとき,先輩はみんな三年生だった.ちっちゃな一年生五人を三人の巨漢が面倒見るというまるで幼稚園みたいな状態.巨漢といっても男子校なので中一と中三の差がやたらある,ということだったんじゃないかしら.中三の先輩たちのことはまったく大人に見えて,ついてゆくのが楽しかった.年の差をいいことにずいぶん甘えた.ずっとこんな年の差が続いてゆけばよいと思った.

中高一貫だったけれど,僕らの歴史部は中学と高校が別の団体であるため次の年に先輩たちはいなくなってしまった.そして,新三年生がとつぜん現れて部長になった奇妙な一年間を経て,僕らは三年生になった.かつての巨体の先輩たちは高校二年生になった.高校の文化系クラブは二年の文化祭が最後なので彼らは高校の中心メンバーであり,僕らもまた中学の中心メンバーとなっていた.それでどちらが言い出したのか忘れてしまったのだけど,この年は中学高校で一緒に活動をすることになった.夏には瀬戸内海の水軍の古跡をみんなで訪れた.そして秋の文化祭では共同でテーマ展示をした.

高校へあがるともう誰も上にいなかった.そして最後の年,高校歴史研究会は文化祭で最高の賞を得て,僕らは引退した.僕らがもういないのだなと,後輩たちは思ってくれたろうか.


ぼくらは短い学校生活のなかで二度の黄金時代を見るんじゃないかと思う.一度目は入学したとき,上級生の圧倒的な強さに包まれて,俺たちはものすごい場所へやって来たんじゃないかと感じる.二度目は最終学年のとき,今度は自分たちが最強であることによって.だけど,僕のあの中学三年の夏はそのどちらでもなくて,中学の最高学年でありながら,もういなくなったはずの最強の人たちともまた一緒にやれる,黄金と黄金の間にある,また何か別のくすぐったいような理想の時間だった.


「ぐいぐいジョーはもういない」(樺薫)の構成上の特徴としてすぐ気づかれるのは,高校一年のときの部活動と三年のときの部活動が交互に書かれている点である.

小駒鶫子は一年生だった頃を回想する.

私たちは,強かったのだと思う.
三番に,俊足・強肩・好手・強打・巧打にさらにキャプテンシーまで持ち合わせた,前司主将.
四番に,女子柵越え時代の申し子とまで言われ,当時の高校通算本塁打記録を作った庵堂先輩.
二人の後ろを打っていた私と真梨威は,その背中を常に頼もしく見つめていた.
(p.154)

それは大変誇らしげである.本作品に登場する先輩たちはそれぞれに大きい人であるように思える.

だけど,前司先輩も庵堂先輩も小田先輩も,郷先輩も,もういない.

一年のころ,部活の華は三年の先輩たちと共に在ることであり,三年になれば部活の華は自ら勝負の舞台に立つことである.「ぐいぐいジョーはもういない」は二つのきらめくような時代を一つに折り重ねた構成が美しい.


そしていま,小駒先輩もジョー先輩も,もういない.黄金時代は巡り巡ってく.


2010/9/7 疏水太郎


ぐいぐいジョーはもういない (講談社BOX)

ぐいぐいジョーはもういない (講談社BOX)
作者: 樺薫
出版社/メーカー: 講談社
発売日: 2010/09/02
メディア: 単行本(ソフトカバー)