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Ms Cooper's garden

2004年7月18日 CLANNAD (2)

Ms Cooper's Garden in Castle Combe, UK
カッスル・クームのカントリー・ハウス"Fosse Farmhouse"に宿泊したときのもの.
オーナーのキャロン=クーパーさんのお庭.2003/9/8

人がある場所に居なくてはならないということは酷いことでもあるし有り難いことでもある.酷いほうの話なんてしたくないから有り難いほうの話を僕は何度もする.大学というのは勝手がきくように見えて僕には必修単位というものが窮屈に思えてならなかった.工学系の場合は実験や演習がこれに相当して落とすと留年が確定する.僕はというと三回生の実験を途中で入院退場した.大学にも人情があるので遅れてでも提出すれば可をもらえたように思うが,一回生の入院以来勉強する自分の姿を嫌悪していたし他に打ち込んでいることもあったためわざわざ頑張る気にはなれなかった.二度目の三回生も相変わらずだったがここまで来て卒業しないのも悔しいという思いに体を引きずられるようにして実験にだけは出席した.周りは誰も知らない人たちばかりで参ったが,グループ作業なので否応なく話をすることになる.もともと手先を動かすことは好きなので手を付けはじめると苦もなく深夜まで作業した.そんなとき隣にいた奴とは後々まで研究会などで顔を見かけたときに話す間柄になった.

四回生へ上がったとき,研究室見学でたまたま知らない奴と居合わせた.利害が一致するとき人は素早く意気投合するもので,なんとかこの研究室へ入ろうということで結束した.俺より一年上やったん?と言われるのがこそばゆかった.その後,一年を共に過ごした.彼からはONEとメタルを教わった.彼はそのまま修士へ進み,僕は奈良へ行き,また彼の就職した東京で再会した.彼ほどしっかり生きてない自分が格好悪くて2年ほど会っていない.そろそろ会いにゆけるかもしれない.

高三のとき大学へ上がったら下宿したいと思っていた.たいした理由ではなく僕の想像する輝かしい大学生活のなかに下宿というものが自然と含まれていた.家族にはよく下宿の話をしていた.どんな顔をして聞いていたのだろう.高三の秋に僕が入院したことでうちにはもうそんなお金がなかった.そういう話を合格が決まってから親がすまなそうに切り出した.ついこないだまで僕はこのことをずいぶん恨んでいて,始めは嘘をついてた親を恨み,その次には病院を恨み(本来お金のかからない病気だった),次には勉強を恨み,と大学でうまくゆかないことはなんでもかんでもそのせいにしていた.一緒に居たい人があっても門限のせいで上手く関係が築けないように思えた.はじめの一年はまともに大学へ通学できる体でもなくてバイトする余裕もなくお金もなくてそんなだから何でも入院のせいにするのはたやすかった.だけど今,久しぶりに思い出したってことは,もうこのことは僕にとって終わった話なのだろう.

泣いて頼んだとはいえ僕は肝心なところでは親に甘やかされてきて,翌年の留年生活以降は京都で過ごすことが出来るようになった.友達の近くに居ることが出来るようになった.現金なものでそれですべてがいい方向へ動き始めた,と僕のお話のなかではそういうことになっている.そのくせ親には有り難いとも思わず大学生活に節目がつくまで僕はそのことに拘り続けてきた.家なんかもう帰りたくなかったし,東京生活が良かったのは何よりもそこが実家ではないことだった.最近は実家に居ても昔よりは気分が悪くならない.ああ,酷いほうの話もしちゃったけど,もう終わったことだと思うから.

岡崎君みたいに家に帰らなくて済むのは有り難いことだ.家というものは場所であるからなかなか変化しない.山とか川と同じだ.人はもっと速く変化する.合わないとき別の場所へ行けるならばそれは有り難いことだ.もしも合うようになればまた帰ればいい.

CLANNADは好きだ.それぞれ自分の好きな場所を占有している子たちに沢山会ったからだ.一ノ瀬ことみは図書室の床を,宮沢有紀寧は資料室を,岡崎君は春原の部屋を,あるいは古河渚と過ごす中庭や演劇部の部室を.学校の空間は人が居れば場所になる.それは佐祐理さんや舞のときもそうだったはずだ.階段の踊り場や夜の廊下にそれはあった.何百人もの子たちが学校空間を細かく切り分けながらそれぞれ過ごしているのに,それは誰のものでもないみたいに気付かれないままそこに在って,時々輝かしい神殿や太古の洞窟を見るようにして自分のものとして発見する子がいる.そういう子はちゃんと生きていけそうなのが判るので安心して見ていることができる.

そんなことを考えながら古河渚の話を読み終えた.坂道に立ち尽くせば坂道に人は居る.中庭であんパンを食せば中庭に人は居る.出会いというのはそもそも,自分がそのときそこに居ることしかできないと感じられる場所に居るところから始まるものだと思う.

一言で表すなら吉本新喜劇のような話だった.話芸と力の抜き加減が素晴らしかった.あと何よりあの一つ屋根の書き割りのように場所の力が印象深い話だった.


2004年7月18日 CLANNAD (3)

とか言いつつもATMがメンテナンスで閉まっていることを忘れていた相変わらずの僕が居る.ついでに言うと明日が休日であることも忘れていた.我ながら頼んない.お金がなくてゆとりだけはあるので今日はこのままそういう日にすることにして気になっていた宮沢の話を読み終えた.そこは僕が思い浮かべていたそのままの部屋だった.資料室,というのは保健室や技術科準備室と置き換えてもいい.いつもの例の奴らの口から「ここの住人」という言葉がぽろっと出てくるような.ともかくそういう部屋はなくちゃならない.

あと,確固たる理由をもって学校をさぼれるのならその心は少なくとも健全ではある.変な風に死んだりしないと思う.だから勇くんを見てると安心だ.人が死にそうにないということはいい.何度も繰り返すがそれは安心して見ていることができる.

CLANNADは何度も読まなくちゃならないと聞いていて重荷に感じていたのだが,進んで何度でも読み返したいものである.


2004年7月19日 CLANNAD (4)

ジリオン銃で遊び倒した.これちっちゃい頃やりたかったんよ.やはり傑作なのは杏が男子便所に隠れているところで,こういうとき彼らの中に普通は足を踏み入れてはいけない場所があるのだという感覚が浮かび上がるのが面白い.学校空間のある部分が誰のものかってことは普段は意識されないのだけど,場所とそこにいる人間がズレている状況に出くわして初めて,またその時だけ意識されるものだ.いつも教室で過ごしていると人間が教室に居ることは当たり前なのだが,隣のクラスの人間が居るときだけどうにも違和感がある.しかし,居てはいけない校則があるわけでもなく,普段からそれを言葉にすることは難しい.

(椋に弁当を届けに来た杏に)
朋也「なんでこの教室にいるんだ?」

(椋の席に女の子達が集まっているのを見ている岡崎朋也,春原,杏の三馬鹿.杏が居ることに気付いた春原曰く)
春原「ってなんでおまえがここにいるんだよ?」

藤林杏がズレた状況に居合わせがちであるからこそ,春原たちのこんなコメントも出てくる.

春原「案外男子便所の個室に隠れてるかもしんないよ」
朋也「そこまでするか?」
春原「藤林杏だぜ?」
朋也「うーん…」
否定できない.
(中略)
朋也「てめっ! 男子便所からマジかよ?!」

一方で,藤林椋を男子便所に放り込むことは十分脅し文句足り得るのである.春原ひでえ.

杏の纏っているズレを理解していたとしても,春原たちは杏や椋が男子便所に居ることのおかしさをいつも意識しているわけではない.一日中そういうことばかり考えてるのは変な人である.他にも三年生の朋也,渚,春原が二年生の教室前でたむろしていると出てくる生徒から訝しげな目で見られてしまうとか.あと自分の部でない部室には入りにくいとか.放課後の体育館に制服のまま入ると浮いてしまうだとか.普段は学校空間に自分の居ていい場所とそうでない場所があるなんて意識していないのに,何かの拍子にそういう状況に出くわすことがある.逆に,宮沢有紀寧や藤林杏のような人は学校空間が数百人の子たちに切り分けられているということばかりいつも考えがちな人なのだと思う.そうでなければ宮沢みたいにどこかの部屋(この場合は資料室)にあんな風に居座ってもいいということに気付くことは出来ない.そして宮沢とは対照的であるが杏のようにいろんな場所を(おそらくは)楽しげに侵して回ることも出来ないだろう.CLANNADでは校内の場所に対するズレの感覚がことあるごとに描かれて,それが人それぞれの形で受け止められていることがよく判る.僕にとって学校というのはそういう場所だったので,彼らの学校はとても身近なものに感じられる.

そうこうしているうちに,芽衣の話,つまり春原部屋の話を読み終えた.芽衣からは朝起こされて布団に潜り込んだまま飯を食わせてもらって,と随分な世話焼きっぷりを受けた.歳も離れてることだし惚れた腫れたと勘違いもせずこう仲良く出来るっていいね,芽衣のほうも単に面白がってるのだろ,とか始めは余裕をかましていたが,そのうち道を踏み外しそうな気持ちになった.危ない.おにいちゃんええ格好しいだからわざわざ芳野祐介に会うために途中で始めからやり直しちゃったよ.水姫んちで見たときから思ってたのだけど,第一に顔がとても可愛くて好きだ.

それはともかくとして,春原陽平は確かにやくざであるが自分の部屋を岡崎朋也と分けているその一点において彼は偉大だ.部屋の主であるということにおいては宮沢となんら変わりがない.陽平がこの街に残ることについて芽衣が納得したのは,つまりは陽平が一部屋の主であると判ったからだと思う.


2004年7月19日 CLANNAD (5)

勝平・椋の話.この二人応援していたのだが,なんとかならんものか.

一度メインストリームへ戻ることにして,藤林姉妹の話を追いかけている.藤林杏はどうも男子便所と縁のある奴だ.便所行くねんと言っても平気でついてくる.今回は入り口では恥ずかしがっていたので,勢いというのもあるのだろう.あと,春原「うわっ! 藤林杏っ! なんでおまえが僕らの教室にいるんだよっ!」これ毎回言われるのな.

椋の話と派生する幾つかの話.杏ちゃん,こういうのはしゃーないやん.いいも悪いもないと思うのだけど,スタッフロールが流れないとこちらが悪いことをしたような気分になるので,なんらかの形で終わりの印が欲しかった.別れた人ってのは一度キリがついていれば2年や3年経てばまた違う形で巡り逢えると思うのだ.・・・なんてことは確かに高校時代には考えもしなかったのだけど.もう彼らとは時間の流れ方が違うのだな.あるいは僕が今というものに対して冷たくなったか.

藤林椋という人については,あの占いの連想力とその内容に囚われないところが好きだ.

杏の話を読み終えた.にも関わらず椋の話をするが,あそこであのヘキサグラムを読めるのはやはり凄かった.椋の読みは矛盾なくストーリーになっていたが,やましさを感じていた朋也は変な風に読みとってしまう.(自分が一人ではないということを憶えておいて下さい)のくだりは,これまでに彼女が彼女自身が側に居ることとして何度も朋也に告げていたはずである.いいも悪いもなく彼女は朋也の側に居るのである.椋が杏のほうをちらっと見たことには意図があるだろうが,占いであるのでその言葉自体に椋の意図があるかどうかは判らない.意図があるかどうかはともかく,少なくとも朋也の力ではその言葉を彼女の気持ちと結びつけることが出来ず,彼は自分のことばかり考えていた.それで最後の放課後に謝罪する段になってようやく朋也は椋の読みに驚かされることになる.こんな風に世界を強く読む力がある人は逞しいと思う.だけど,逞しいだけに損をするのかもしれない.


2004年7月20日 CLANNAD (6)

寮母部屋編,もとい美佐枝さん話をしんみりと読了.例によって人の場所に居座る話であった.なにげにマニュアルを開いたらヒントページがあった.まだいろいろあるらしい.ようやくことみに会う方法も判った.

一ノ瀬亭ことみの話を途中まで.図書室の主の話だと予想していたがむしろ演劇部室にたむろする子たちの話だった.はじめはことみが何しゃべってんのかよく判らなかったのだけど,ことみの周りに人間が増えてくると彼女の言葉も上手く会話のパーツとして組み込まれてゆく.その結果がチャーリー浜? なんでやねん.上で新喜劇とか書いてたらこちらでは本当にやってたので驚いた.まあ,関西らしい日常会話ではある.一つ一つを見れば何やってんだか判らないけれどずっと引き込まれてしまう楽しい場所だった.部員でもない杏が渚のことを部長呼ばわりするようになるのはこの場所に入ってゆきたいがための杏なりの足がかりであって,また足がかりだけでなくこの場所を維持するためのものでもあって,そういう人なつっこさは見ていると嬉しい気持ちになる.

さらに途中.演劇部が実際に結成されなくても部室さえあればそれだけで楽しかったのだなぁ.ちょっと素朴なことを書いちゃうけどさ,「日本の作家が書いた本で,読むと楽しい気持ちになって,私のお気に入りの本」というテーマでことみが探してくるのが『第七官界彷徨』でさ.ことみがそれを朗読してくれて,朋也はそのうち気持ちよくなってうとうととし,夢を見る.その内容が本の主人公の町子たちの暮らしぶりとことみたちの部室の日々がちょうどはまって交じり合った楽しげなものでさ.思わず僕が書いた第七官界の感想をサルベージしていた.2002年の9月に掲示板で書いた,よんぱちさんへの紹介文である.

“機会があれば尾崎翠の「第七官界彷徨」という話を読んでみてください.
 蘚たちの恋(!?)についていちいち考えねば気が済まないという風の
 僕が言うところの「難儀な人」の姿が,なんとなく判るようになるかもしれません.”


“みんな変な人なんだけど,同時にそれが自分と等しかったり
 当たり前であるようにも感じられます.

 ただそういう当たり前のことを当たり前とするのでなく
 オカシク切なく書き綴らずにはいられないところであるとか,
 その姿勢のどこか美しくさえ思えるところが,
 私が難儀な人を好きになる理由であります.”

一つ屋根の下の出来事とか恋のこととかいろんな引き出しを持つこの本は,どれでもことみが今ある状況に重ね合わせることが出来ると思うのだけど,それでもあえて彼女が「読むと楽しい気持ちになる」という基準でこの本を選んできたところが僕は好きだ.いろんな出来事があったけれど,彼女の一番前にある気持ちはともかく楽しいっていうことだったのだ.朋也の見るヴァイオリン漫談(コミックオペラ?)とだんごの恋の夢もおかしくていい.元の話を知らなくてもこの夢を見ればおかしさや楽しさだけでも伝わると思う.

古いページを見れば6年前の書評もあるが文意不明なのでリンクしない.勢いで載せたが2年前の文章でもたいがい怪しいのである.古いページを見直していると僕の知らない書店に僕が行って本を買っていた.ありえない.書店名で検索してみると確かに当時の僕の好きそうな本が置いてある.今度行ってみよう.


2004年7月21日 CLANNAD (7)

庭師編,あるいは裏庭編,あるいはことみ編,終章.舞台はことみたちの庭へ.朋也が荒れ果てた庭を整えてゆくうちに,ことみの気持ちを整えるための彼の気持ちの下地もできてゆくのだと思うが,なによりここで庭の話が出てきたのは朋也を感応させるというよりは,CLANNADではことみの話だけに限らず他の話でもそうだったように特定の居場所のおかげで出来事がよい方向へ向かうことがあるということを信じ続けてきたからだと思う.

庭については何度も書いた気がするが,まだ書いてないようなことを幾つか書き留めておきたい.僕の実家はマンションであるが,一階の住人は暗黙的にその裏庭を使っていいことになっていた.ベランダから裏庭までがひと続きのささやかな庭だった.祖母同様代々花の好きな母の植えたホウセンカや三色スミレのことを良く憶えている.小学生の頃,夏には僕と姉の植えたヘチマやら瓢箪やら朝顔やらで鬱蒼としていたものだ.母が家に居て,僕らにも十分な時間があって,夏が来て.僕のそういう豊かな記憶と庭とは切り離すことが出来ない.「私のお庭は,広いから」と今の母にも言わせたいものである.小さい頃は母にもっと大きな庭付きの家に住んでもらうことが夢で,家のチラシばかり見ていたことを思い出した.もちろん,ことみが「広い」と言ったのはそういう意味ではなく,彼女のゆとりのことだろう.

オフィシャルガイドの涼元氏によるとやりたかったことを詰め込みまくった話だということだったが,僕にとっては僕の好きなことが沢山詰まった話だった.

ネタバレが怖くてちらっと覗くことしか出来なかった高橋むぎさんのことみ絵をゆっくりと拝見できるようになったのも嬉しい.




箸休め.




2004年7月9日
歩笑の話だけ読みました.シスプリ2のトラウマがあるので前作に出てきた人たちの話はきっと読まないと思う.この人は空也の姉というより帆波さんの妹で,この二人が暮らしている家にお婿に行きたいと思った.いつも家のどこかで帆波さんの声がしてそうなのがいい.歩笑と一緒にこの人を大事にしたいと思った.

2004年7月10日
姉といえばこのところ気に掛けているのは神楽坂明日菜のことである.ネギ君との姉弟っぷりは見ていてとても和む.もしかして日本人ではないのかもと思ってカラー絵の瞳の色を確認したら,彼女が誤差の範囲ではなくオッドアイであることに気付いた.なるほど,彼女には魔法が効かないということが有りそうに描かれている.

ネギま!のいいところは,コマの背景にもわんさか登場する女の子たちがそれぞれ好き勝手な行動をしてるように見えるところである.行動の理由が容易に想像できるという点では素朴だが,端っこでちまちま動いている女の子たちがそれぞれ別の行動をとっていて,それが既登場のクラスメート30名分あるわけだから騒々しくも楽しい.読み返していると発見も多い.

2004年7月25日 下鴨神社・御手洗(みたらし)祭
日が落ちてから,御手洗池の中を裸足で蝋燭を捧げ持ってじゃぶじゃぶと歩くお祭.大人も子供もおねーさんも.僕は半ズボンで参加.浴衣を着てる女の子は裾を捲り上げて行くことになるのでとても色っぽい.ご一緒していた桐野さんが小学校のプールを思い出していたけれど,そんな風に,つまりは田んぼに落っこちるようなお祭だった.京都三大水祭として数えあげることにしよう.

本当にみたらし団子の由来だった.食べときゃ良かったね.

2004年7月28日 ヴィジホン
FOMAテレビ電話で東京と10分ほど話した.はじめ屋内,その後,屋外へ移動.初代FOMAの実験で話したことがあったが,そのときより画面も大きく画像も綺麗で段違いに良い.しかし,画面を正視してイヤホンマイクで話していると,はたから見ると電話をしている人というよりも電話機に向かって話しかけている変な人にしか見えなかったと思う.

時代は確実にNOëLに追いついてきた.

2004年8月6日 卒業
春からの成果がまとまり,ボスからこのままもう好きにやってよしとのお言葉を頂いた.学位記よりも嬉しい何よりの免状である.

2004年8月7日 眠れぬ夜の庭で
はじめに聴いたアルバムに好きな歌が多いというのは当然のことで,多かったからこそ好きになったのである.全部が全部好きというのは難しくて好き嫌いに波があるとすると,一番波の高い時に巡りあわせたのだからその思いがけない幸せは後に続くものではない.あるいははじめに聴いたアルバムは新しいものに比べて何度も聴いているから好きなのかもしれない.しかし姉によるとそのどちらでもなく新しいものは単に好きになるのに時間がかかるということである.彼女がいつものようにTMのライブへ行くとトランス?になってて全然良くなかったらしいのだけど,RHYTHM REDの“ロック”が当時嫌いだったのに後になって好きになったからこれもそのうち好きになるんちゃうかなー,とか言ってた.ここでは回数というより姉はちょうどそのあと別の方面からロック好きになっていた.僕の解釈によるとつまり時間が経てば他で縁を持つ機会が増えるのである.8月3日のKOKIAライブのアンケート項目に,KOKIAをどこで知ったかとなにで好きになったかという項目が別にあって,前者は確かテイルコンチェルトのCMで,後者はファーストアルバムsong birdである.最近のKOKIAのアルバムで好きな歌といえば私の太陽くらいで,だけどこれだけは何度も繰り返し聴いている.アンケート項目にはライブで良かった歌の項目もあって迷うことなくそう書いた.アルバムとしては今のところ好きではないが何年か経てば好きになるかもしれない.僕が一番長く聴いているのは誰だっただろうとプレイリストを眺めたら遊佐さんこと遊佐未森だった.遊佐さんとは姉と僕が遊佐未森を呼ぶ名である.二人で空耳の丘を買ったのが1988年のことだからもう16年で,他にこういう人はいない.それでもやはり最近はご無沙汰でCDも歯抜け状態になっている.特に東芝EMIに移籍してechoより後からは波が低い.最近,古いものから聴きなおしていて,移籍後のアルバムに庭という題のものがあることを今更ながらに再認識した.庭の話は一ノ瀬ことみをきっかけにもう5つや6つは出来る状態にあるのだが,そういうときに思い出すのが面白い.そうすると低い波も高くなる.ようやくこのアルバムをきちんと聴いた気がする.歌だけでなく僕は5年後に好きになるために本を読むことが少なくない.今は面白くない本もそのうち面白くなる.


2004年8月12日 忙しいです.15日の東京行きを楽しみにしてたけど無理.あんよさんとこの本とかCLANNAD本とか色々欲しかったのだけどCLANNAD終わらせる時間もなし.その代わり京都へ来られる方が何人かおられるので,その方々と少しお会いすることが出来そうなのが嬉しい.あと自分へのご褒美に劇場版AIR前売は三枚分購入ボタンを押した.あのPVの夏力を受けて押さずにいられようか.なにより赤い幟がいい.川上とも子の声を聴いてPS2版も欲しくなった.ウテナとクリス・クリストファの声しか記憶になかったので意外さに打たれたのだった.

2004年8月14日 なんやかんやいいながら夜更けは今木さん尽くしな三日間でした.初日は遅くから済みませんでした.今晩はマシュウさん薫さんDALさんを京都駅で迎撃.がぉ.構内を案内したり雷の娘シェクティの話が出来て幸せでしたわん.

2004年8月15日 水姫は妖精経由で早狩さん=僕夏は知ってると思ってた.私が一番好きなのと言っても過言ではないので,今度押しかけで持っていきます.

2004年8月16日 五山送り火は,「法」の字を「子」に書き換えたいと思った.青森でテレビ中継見てる彼女がびっくり! みたいな.

五山はうちの屋上から舟形以外すべて見えるのだけど,遠くから眺めるよりもあの間近で見る迫力のほうがいいものだと思いました.


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