phantasmal closet 2003年8月

パジャマを着て一晩中.


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 NOMAD

出発前に旅行用の歌をMP3プレイヤーへ.
真似っこなのでちょっと気恥ずかしいけど,せっかくだから載せてみる.

01 青い記憶(Hello, world)
02 雪のかなた(SNOW)
03 煌星(Hello, world)
04 ふたりの足跡(SNOW)
05 僕と,僕らの夏
06 時の砂・月の雫 〜目覚めない夢〜(忘レナ草)
07 空のつづき(みずいろOVA)
08 さくらんぼキッス! 〜爆発だも〜ん〜(カラフルキッス)
09 Princess Bride!
10 Kiss the future
11 Natural Generation(Natural 0)
12 涙の誓い(とらいあんぐるハート3)
13 君と出会えた季節(とらいあんぐるハート3)
14 シアワセノサガシカタ(ジサツのための101の方法)
15 タイムマシン(夏祭)

 んでは,行って来ます.

(2003/9/1)

 summer light, through dark glasses

恋愛と視点の話を考えているうちに「なぎさボーイ」「多恵子ガール」「北里マドンナ」(氷室冴子)を思い出した.同じ恋愛話を三度も別の人物の目で辿り直してしまうのは,そこで起こったことに一粒たりと漏れや偏向を認めないような,あまりに純粋なものではなかったか.一般に繰り返しプレイされるノベルゲームでは相性がいいのか当たり前の手法となってしまったが,そのピュアな輝きはサングラス無しに見れない代物であったような気が今さらしている.そうしてみると僕は知らず知らずのうちにいつも遮光眼鏡のまま作品に臨んでやいないだろうか.かけっぱなしでは見えない色がある.眼鏡は作品の性質に合わせてかけたり外したりする必要がある.誠実な態度で臨んでくる作品に対してはいくらだって素顔で傷ついていい.だけど誠実さは読了までに必ずしも明らかにならない.一人でフィクションに臨んではいけないと思うのはそういう時である.一緒に読んでくれる誰か,あるいは自分の未知なる作品に対する信頼できる誰かの言葉の積み重ねが必要になる.

その反対に,作品のために心を開いていた無防備なところを他人のえげつない評価に出会って切り裂かれそうになることもある.そういう言葉はまずは目に入れないよう必死に避けて,後でまた眼鏡をかけてから立ち向かえばいい.そのときには愛用のエメラルドの眼鏡でもかけてさ.

今月は久々に長い日記ファイルになった.これほど長かったのはsense offの月とAIRの月にしかなかった.よほど楽しかったのだろう.あるいはよほどしんどかったのだろう.

(2003/8/31)

 「僕と,僕らの夏」(5) まだまだ途中.

僕らは行動を選ぶことが出来てもその意味まで選ぶことは出来ない.ましてやそれが恋愛沙汰ならば自意識にしても他の人間への思い入れにしても過剰に高まった状況下で意味なんてものはわやくちゃになる.自意識が高まるのは相手が自分のことを好きかどうかなんて確認するのは難しいからだ.それはノリや雰囲気のいい時か余程切羽詰ったときでないと出来ない.また他の人間への思い入れが過剰になるのも,「好き」なんてめったなことでは言えないからである.いつ訪れるのか判らないタイミングに縛られて,行動の意味は確認することもままならず面白いように転がってゆく.

「どれほど時間があるようでも,本当の機会は……一瞬なのだ.」とは,貴理に振られ冬子先輩にも嫌われて取り返しのつかない状況まで転がっていった恭生による回顧である.貴理が有夏に告白されて混乱しているときに,恭生は冬子さんと会って貴理とのことを相談していた.貴理が恭生を村中探して周り,「今日,会えなかったら (中略) わたしは,変わってしまうかもしれない.」そんな運命に祈るような気持ちでいることなど恭生には知りようがない.どちらが悪いというわけではなく,それぞれの行動には説明がつけられる.恭生と話す機会を逸したまま貴理の気持ちは有夏へと傾く.そうすると今度は貴理と有夏というカップルが確定したことにより恭生が貴理に何も言えなくなってしまう.あるいは有夏と恭生のカップル確定により貴理が何も言えなくなってしまうこともあった.

「僕と,僕らの夏」の中でこれまで僕が辿った話はいずれも少年少女の四角関係のうちどこかに注目したものであり,そこではこのタイミングの魔力が徹底している.行動は直接の結果を予想できても確認の機会を欠くために結末を想像させない.また,確認できたとしてもそれは最悪のタイミングで訪れる.行動と意味とが全く繋がらないならばそれを不条理と呼んで片付けることが出来るが,ここではむしろ繋がっているのに事前に結末を想像することが出来ないのだ.事前に想像できなかったことを事後になって納得できるよう導くのが物語の力であり,本作品の大きな魅力となっている.彼ら四人の始まりの位置に対して選択肢や新たな情報による操作は微小であるが,その範囲でさまざまな恋人関係が生まれ,それぞれが納得できるように語られる.恭生と貴理はほぼ相思相愛だが決定打がない.貴理と有夏は肩を寄せ合うようにして育った幼馴染であり,有夏は貴理を愛している.英輝は有夏のことが好きであるが,今は一歩引いた位置に居る.そこから物語は始まる.貴理と有夏の同性カップルも無理なく在ったため,もしかすると順列組み合わせで結ばれるのではないかとも思ったがさすがにそれはなさそうだ.(恭生と英輝のカップルは彼ら四人の間での洒落としては存在する.)

彼らの苦労は自分の行動から結末を想像できないところにあって,僕も選択肢によってそれに一枚噛み,そのままならなさをいくらか共有している.ここで選ばれた行動の結果を想像し得ない結末へ滑らせてゆく手法は,女の子の気持ちを描く向きに強く機能している.恭生に関して有夏に寄り添った選択をすれば,恭生と有夏のカップル確定後の貴理の気持ちが語られる.また,そこから恭生と貴理の間の誤解の存在が導かれて二人はよりを戻し,今度は振られてしまった有夏の気持ちが語られて終わる.恭生が有夏と付き合い続けたまま貴理の気持ちが語られて終わる結末もある.想像し得ない結末に辿り付いた時,どうしても振り返らずには居られない.そしてここでそれを語るのは女の子である.恋愛成就した女の子の話よりも振られてしまった女の子の話の方が重きを置いて語られる.そりゃあそっちのほうが気になりますとも.二人の女の子が個別ではなく四人のうちの二人として描かれた末の話であるから,成就しなかった女の子のほうはプレイヤーが勝手に想像してくれ,では困る.女の子の無念さを物語が引き受けて,その後にプレイヤーへ手渡しているのは当たり前かもしれないが誠実な描き方だ.また,そうすると貴理と有夏が結ばれ恭生が振られてしまった場合には恭生の気持ちが語られることになるが,この場合は貴理の悩みと有夏と結ばれた後の気持ちのほうがより丹念に綴られる.大願叶って顔がふやけっぱなしの有夏も可愛らしい.単に振られたほうの気持ちを描くというよりは女の子の気持ちを描くという原則のほうが強く働いており,気の塞ぎかねない複雑な恋愛関係は女の子を描くことに奉仕し,また描ききることによって昇華されている.あと,ままならなさは笑いによっても救われる.毎回,貴理と恭生のうち振られたりどうにも上手くゆかなかったりしている方が冬子さんに酒いれられてくだをまくのは,パターンになっているが故に面白い.

プロットを単独で載せるのはこのゲームにおいて反則中の反則の気がするが,誰それルートというのが明確でないこのゲームでは後で判らなくなるのでプレイ順にメモしておきたい.以下コメントアウト.

コメントアウトここまで.書き出してみると恭生はまるで駄目っぽい奴であるが,そういうわけではない.単に,上手くゆかないのだこれが.また,全く上手くゆかなかった場合については縁だ何だと言っても仕方が無い.それは上手くいったからこそ大きな声で言える話である.

イギリスへ発つ前に忘れないよう書いておきたかった.まだまだこの先,何が起こるか判らないから油断できない.

(2003/8/31)

 「臆病な姫君と勇敢な王子の冒険のお話」

多少,男顔かなという以外はごく普通の眼鏡少女,本城理沙.
これは,そんな彼女を主人公にした甘くて,やわらかくて,それで少しだけ胸が痛むかもしれない童話.

眼鏡の理沙は大人の理沙へ,大人の理沙はプリンセスブライドへ,

弱虫だった少女が,今,メタモルフォーゼする.


大変な事態である割に,本城理人には甲斐性足りてなさそうなところが気になっている.彼には大きくなる魔法でプリンスブライドへ二段変身してほしい.最低,5年後くらいには超絶美形王子に育ってくれるのでないと争奪したい気がしない.

結婚,つうとやっぱ伊集院玲君(怪人20面相)が理想ではないですか.背ぇ伸びる伸びる.しかも白衣のお医者さんだ.話を戻すと,今のままだと中谷恭一のほうがまだ結婚したい度が高い.理人君が本物の王子様だって言うなら早く偽造じゃないほうのプリンスカード(お見合い写真と身上書)を見せやがれい.

デモムービーを見る限り,今のところ楽しげであるのは女の子の5人揃った絵が多いところだ.

(2003/8/29)

 電子辞書が大好きだ.側にないと強い不安に襲われるしきっとそのまま干からびて死ぬだろう.欲しい言葉が手に入らないと目が回ってくる.またキーを叩くことであるべき言葉へ近づいてゆくリズムが心地よい.ここ一年で広辞苑+英語辞書大量搭載機種が増えており両方使う僕にとっては嬉しい傾向だ.新製品のSR-M5000は小さいサイズに英和大辞典もシソーラスも載っているので11月上旬発売を待ち遠しく思う.今のPW-S7000は薄いのはいいがもうキータッチがへちょくなったので困っている.単に使いすぎかも知れないが,そこにシャープらしい一点豪華主義を見て取ることはできる.

僕にとって辞書というのは読むときには難しい言葉を理解するためのものであり,書くときには易しい言葉を書くためのものである(綺麗な言葉を探す際にも使うが今回の話では視野に入れない).難しい言葉,というのは格調を持たせたり法律文のように独特の言い回しを持つ文章様式あるいは専門用語が必要とされる書き手の居場所から,おのずと知り,また導かれるものであるため普通,辞書を使って書くものではない.読むときのことを考えれば辞書が必要となるのは越境があるときで,それはもちろん書くほうにも言えるのだが,自分の不慣れな場の言葉を使おうとすると辞書では歯が立たないことが多い.そんなとき,まるで服に着られたような感じになる.僕が文章を書くときに辞書を使うのは,ぱっと頭に浮かんだ言葉の意味がもやもやして感じられる場合で,そんなときは辞書の説明文を使って少し冗長にくだいて書く.真にスマートな文章というのは話の流れで読ませるものであるが,僕はその域にまだまだ達しない.そうは言っても論文を書く場合,子供が書くような文章は馬鹿にされるので漢語を多めに使うことになる.学術向けの文章は平均程度に書いているがこのWeb上の文章のほうが圧倒的に分量が多いため,どうも切り替えはうまくない.そんなとき英語で書くほうがまだしも日本語文の癖が出にくくて書きやすい.

ところで,このWeb上で今日の出来事や思い出の話を書くとき,それは出来事について順を追って話してゆく書き方をしている.生きてきた時間のことを素朴に綴るとそうなるのだが,それは子供の読書感想文の書き方と同じである.「この本を読んで」「こんなことがあって」「こう思いました.」小さい頃,読書感想文を上手に書くことが出来なくて,だから今もまだ夏休みの宿題を続けているのではないかという気がする.小学生が書くような作文を今の自分なりに書いている.しかし,学術向けの文章は手続き的に書き連ねたものよりも構造を持つもののほうが望ましいとされるのでやはり困る.そしてこれもまた英語のほうがやりやすい.近頃は満足のゆく読書感想文が書けるようになった気がするので,英語を書く時に心掛けていることを日本語のほうにも反映させつつある.一体どうなるのだろうか? 読書感想文の先にあるもののことを,僕はまだ知らない.先があるのかさえもよく判らない.

(2003/8/28)

 昔はアニメを絵として見ていた.僕がアニメを好きになった頃,というのは80年代後半のこと,アニメの中で僕のような子供の目を引いたのは作画監督であり,大貫健一や北爪宏幸,菊池道隆,後藤隆幸,奥田万つ里といった人々だ.原画のキレや話はほとんど判らなかったが,全体的な絵の良し悪しは子供でも言葉にしようがある.自然,アニメ誌の付録に囲まれがちな暮らしとなった.奈良にもアニメイトが出来たがパブリシティ商品はとても高かった.アニメディアを姉と割り勘で買っていた時代であるから,一人で500円とかちょっと手が出ない.そもそもなぜアニメディアだったかというと,二人で今後我々が買うべき雑誌を選定した際にセル絵が他誌よりも多かったというただそれだけの理由である.レンタルビデオは高かったのでこれまた姉と割り勘であるが,そのわりに月に一本くらい見ていた気がする.あと読売テレビの「アニメだいすき!」を合わせれば当時のOVAはだいたい一通り見ることができた.ああまた姉の話になってきたのでほどほどにするが,ともかく作画に寄ってアニメを見ていた中高生時代があって,大学に入ってからはあまりアニメを見なくなり,また帰ってくる頃にはすっかり絵よりも文章で話を追っかけるノベルゲーマーとなっていたためアニメの見方をあらゆる意味で見失っていた.

キャラクターが演技する,と話には聞くが僕にはそれが見えなかった.だから「みずいろ」のOVAで健二たちがこれでもかと言わんばかりに演技するのが見えたとき,目から鱗が落ちたような気分になったのだ.健二の上半身の動きしか見えないのに,カメラフレームの外で下半身が動いて靴を履いてる様子が判るとか,日和が靴下を脱ぐ仕草の女の子らしさの現れであるとか,そうしたことが一つ一つ驚きだった.今から思えばミラクル☆ガールズが好きだったのも安濃高志監督がともみとみかげにさせた演技だったと思う.あと演技以外ではポポロクロイスのアニメでヒュウが地上から空へ舞い上がるパースの効いたアニメーションが素敵だった.あれは原画の人の仕事だったのだろうなということを思い返す.些細なことばかりではあるが,最近アニメを見るのがとても楽しい.

今木さんとこでもたまたまポポロクロイスの話になってるので,ヒュウ役の宮島依里といえば季節柄「1999年の夏休み」を思い出しながら,しかし,もう世に言う夏休みも終わりである.実際に休みじゃなくなった今でもこの季節になるとどこへ行けば良いのか判らなくなる.じっと立ち止まって,独りきりで何かしていたくなる.

(2003/8/27)

 Princess Bride!

ようやく発声の癖も判ってきたような気がする.「の」と「ど」を入れ替えてみると世界が開けた.Special Merge 版 8/25 その2

(2003/8/25)

 今木さんにもやって頂けて判ったのは,やはり言葉遊びという手がかりが無かったら書き取りようがなかっただろうということだ.人の言葉が聞き取れないのは,およそ会話の文脈が判らない時である.例えば,英語を全く聞き取れないのは,どういう訳で僕に話しかけてきたのか想像のつかない時だ.英語どころか日本語でも僕は始終気が散っているのでよく取りこぼす.当たり前のことなのだけど,ここまで実感したことはなかった.

今は歌詞を頭で追いかけながら一日中脳内再生という具合なので,今木さんのも参考に加えさせて頂いて自分が気持ちよく歌うためのSpecial Merge 版を作っておいた.今回は確信度の低い部分は発音より話の流れに寄り添った.

(2003/8/23)

 Princess Bride!(作詞:うつろあくた,作曲:KOTOKO,歌:KOTOKO)

日本語も英語も書き取りは苦手であるが,歌詞が気になったのでやってみた.

以下(反転部),読み進める前に出来れば自分で歌を聞いて書き取りをやってみてほしい.おそらく,面白いと思うから.


Princess Bride!


I want to be your princess.
I want to be your princess.
Tell me my prince, what can I do for you? (can I do for you?)

今から胸ドキドキ 彼の部屋の前
宿題なんかせっせっせっせ やってる場合じゃないね
独占欲メラメラ 待ってるだけじゃ駄目だって
勇気を出して Knock!Knock! 小さな小さな大冒険

二人の進度どれほど? ここの戦法は no guard
好感度は word card 一世一度の semi-nude
ベッドは二人の island これレディの virgin road
私にはあり? それぞれこの際 Darlin'

お見通しよ リングの booby-trap
かじるなら 甘い forbidden fruit
勝手に覗くわ 鏡よ鏡
自分ノリでキャラづくり Snow White

乙女の pride 夢の bride
Lovin' Tollin' Feelin' Healin' Kissin' again, Darlin'!
秘密に触れてよ もう震えない
朝も昼も夜もずっと好きになってく

回るよ世界 眩暈するくらい
Flyin' Smilin' Fallin' Lyin' Show me lady, Heroine!
腕を伸ばしてよ ぎゅっと掴むから
朝も昼も夜もずっと抱きしめて



ゼロから言葉を拾うのは難しい.そこにある話の流れが判らなければそもそも音韻すら切り分けることが出来ない.音声処理ソフトウェアの気持ちが少しは判った.しかも,結果としてストーリーになっていなくても韻を踏んでるんだかノリなのか単に間違いなのか区別がつかない.かつて何度かやったRPGリプレイの書き起こしも大変だったが,ある程度元テキスト(シナリオ)があるし,どんなストーリーになったかも知っているからまだマシだったのだ.

書き取った後と前とでは歌の速さが3倍は違う.ワードもストーリーも判っていない状態では聞き取りようがないものだから言葉が恐ろしい速さで流れていくように感じる.これだけの長さで数時間かかった.しかし,書き起こした歌詞を見ながらだと耳より目が先行して意味を拾うものだから,なんでこんなものが書き取れなかったんだという遅さになる.

「乙女の pride 夢の bride 〜」のあたり,可愛いらしいじゃないですか.ゲーム本編は「設定がかゆい」と言って身体が拒否しているのだけど,時々こうツボを突いてくるから迷う.・・・もう少し正直に言うと,主題歌ダウンロードページの聖と愛生が特に.あ,これDVD版パッケージだ.やっぱ買うか.

ちなみに多分,歌詞はいろいろ間違ってる.正確な歌詞が知りたい人はゲームを買いましょう.

(2003/8/22)

 

発表のため9/2-9/8の間,ロンドン(というかオックスフォード)へ行ってきます.

どこかに見学できるプレップスクールがないかなと思ったけど,そんなのありえなさそうだ.ホテルを探しているが,せっかくだから大学の寄宿舎を申し込んでおけば良かったと今になって後悔することしきりである.プレップスクールとカレッジでは全然違うだろうが,イギリスの寄宿舎という響きにはやたら惹かれるものがある.

お話には書いたものの午前零時のキングスクロス駅および車両内に本当に四葉が侵入できるのかが気になっている.イギリスの改札/検札システムがよく判らなかったのだ.

ビッグベンの下で,遠いお空を眺めてきます.

(2003/8/22)

 僕と,僕らの夏(4) SpecialMerge版,有夏から貴理へ

有夏は弟に対しては頼りになる姉で貴理と恭生に対しては甘えん坊である.それはごく普通のことで,複数の事情の下で生きる以上,人の異なった一面を発見して驚くのはピュアである.しかし,それでも何らかの契機のもとにまざまざと見せつけられることがある.僕は有夏のことを見誤っていたんじゃなくて,ここで,見誤っていたというように意識させられた.有夏が子供たちの世話を焼く様子は初めから恭生の視界には入っている.しかし,彼が彼女のしっかりとした一面を意識するのは彼女と別れた後になってからのことである.恭生と貴理が有夏を裏切らなくてはならないというままならなさに苦しんだその時だからこそ,有夏の二面性が注目すべきものとして取り上げられる.

別れた恭生のことを有夏は冷淡に迎えるが,子供を前にしたときだけは仲良く話す.彼らは事情によって顔を使い分けることに意図的なのではなく,ただ自然にその場の事情に従っているだけだ.しかし,その場その場の事情の移り変わりに対して微小に手を加えるところに意図を働かせる.恭生が有夏よりも一言早く子供のほうと約束することによって,その夜みんなで一緒に過ごさざるを得なくしたのはそういうことだ.

有夏の嘘については過ぎたことであるし謝れば済むことだった.そもそも恭生はそれほど気にしていない.問題はむしろ恭生と貴理の二人が感じている割り切れなさをどう収めるかで,有夏が事情に寄り添うように生きていることは今回の恋愛沙汰とは直接関係ないにも関わらず,暗に取り沙汰されてしまう.顔を使い分ける,というのは良いも悪いも五分五分くらいの言い方であるので,有夏に対して素朴に適用するようなことはしたくない.顔を言うならば恭生も村人と部外者の顔のバランスをうまく取っている.そもそも良いとか悪いとか評価を受けるべきものではない.こういう話はしてみたところで結論は出ない.それでも恭生と貴理の切実さは,ごく当たり前であるはずのことを有夏の側の事情として事細かに掘り出すことになった.「……せっかく,あたしと数日でもつきあったんだから.お願いですから,もう少し,大人になってください」なんて言葉,彼女だって言いたくはなかっただろうが,わざわざそういう話を持ち出されては言うしかあるまい.彼女が恭生に対して本気だったことなど判りきっているのに,そんな状況になったからこそ「……あたし,本気だったんですよ」と繰り返し言わざるを得ない.恭生と貴理とが有夏からこういう言葉を引き出さずにはいられなかったのは酷いが,有夏だけを大人と位置づけることによってひとまずこの場が収まるならば,どちらかと言えばこれで良かったと思う.良いか悪いかという評価を先延ばしにした挙句,僕がここで良かったと言っているのは,彼らに関係を持ち続けてほしいからで,大人だった子供だったという一つの形を与えることは関係を忘れずに保存し続ける上ではいい.もう会わないと彼らは言ってるけれど,きっと十年後にはダムに沈んだ村の同窓会をやるだろう.その時にもう一度出会うために,失いにくい形が必要だったと思う.形は残り,気持ちは変わる.形がなければ気持ちは霧散する.関係なんて曖昧のまま別れることがほとんどで,そんなことはなかなか出来ない.かくいう僕は全く苦手である.

前の話との比較では,貴理が英助と父とのダム談義に対して別の感慨を抱くのが面白い.前回の貴理はそれを理解できない大人の事情とするが,今回の話ではそれを理解した上で自分と恭生とのすれ違った関係を投影する.

さて,どうしてこんな展開になったかというと,恭生視点の時に有夏に寄った選択をすると,恭生ではなく貴理が有夏のことどう思っているかという話が延々と始まったのだ.選択が各人の意図を表現した内容であるにも関わらず,結果は必ずしも本人に真っ直ぐ返らなかったりする.貴理の身体を求めてそこで完全に破綻するか破綻しても先があるかはタイミングの差でしかなかったことも印象深い.些細な事情の変化で話が面白いように転がってゆく彼らの暮らしに,どうやら僕も一枚噛んでいるように思われる.僕が選んで次に起こることは予想できても,次の次まで判る気がしない.だけどそれは彼らにしてみたところで同じだということが感じられる.

ところでこれは貴理の裏ルートと言うべきものなんでしょうか.ここにあとどんなルートが在り得るのか全く予想することができない.

(2003/8/21)

 夏の鬼,はじまりの鬼.

貴理(きり),という言葉が心地よく響くわけを長らく判らないでいたのだが,水淵季里の季里(きり)である.貸し出し中であった「夏の鬼,その他の鬼」(早見裕司)が手元に戻り,三日経ってからようやく気づく体たらくだ.昔の写真を思い出して,確かめたら今日の日付だった.ちょうど一年前の今日,僕は季里の足跡を追って井の頭公園を訪れた.

《季里が飛ばされた所は,みんな,水路とつながりがあった.水路をたどっていけば,きっと『水』に会える.季里はそう思ったのだ.》
("水路の夢[ウォーターウェイ]"(早見裕司) IV-1 水のモニュメント.以下,引用は全て水路の夢から.)

井の頭公園は神田上水,玉川上水という二つの水路に挟まれた地区であり,内側に大きな池が水をたたえている.この井の頭池は神田上水,いわゆる神田川の水源にあたる.


水源には鬼が居て,川の始まりを探しにきた子供を棍で打つのだ.今日も一人の少年が鬼と出会った.

「そこをどいてくれ.僕は川が始まるところをこの目で確かめたいんだ.」

「ここには水源なんぞない.あちらからこちらまでが水源であると,縄が張ってあるとでもいうのか.それとも水の生まれるごく微小な一点がここにあるというのか.」

「だってお前,水源の鬼じゃないか.そこに水源があるんだろ.」

「あんたが名付けて俺は生まれたんだ.目に見えないと不安かい? だから俺には体があるんだ.取り付く島もないっていうんで俺には口もついている.さあ,川はどこから始まるのか.あらんかぎりのとんちで俺を打ち負かせてみなよ.」

「桃太郎の桃はどこから流れて来たんだろう.」

「鬼退治かい,ぞっとしないね.」

「目には見えない場所があるんだ.取り付く島の鬼が島ではお前と話ができるけど,だからといってここには鬼なんかいないんだ.」

「ふむ,語呂はいいがまだまだ子供だねえ.3点.」

少年にかすかな棍の痛みを残して,鬼はひゅるるぽんと消えた.最後に笑われたけれど,少年はここで彼と話ができたことを嬉しく思った.どうせこの場所には何もないだろうと少年は思っていたのだ.


鬼がいるかも
井の頭池端の立て看板.
いわく「ここが神田川の源流です.」
いない
「ここ」と呼ばれる場所.

水源地の表記というものは谷とか滝とか何たら橋付近であるとかなんとなくのことしか言わないものだから,この看板は衝撃的だった.「ここ」が源流だ.ほとんど人の手で造られた水路であるだけにそこに始まりがあるものとする人の意図が強く伝わってくる.ところで,「ここ」ってどこだろうか.怪しさを感じながらもうっかり看板付近を写真に撮ってしまったので,そのフレームが「ここ」であるような気がして仕方なくなった.そう思ったが最後,フレームの中に人は写っているけれど,曖昧で奇妙で怪しい鬼はどこにも見えない.

井の頭池
井の頭池.
池の奥は次第に細くなり,神田上水として流れ出る.
井の頭池周遊
井の頭池を巡る道.

全体的に明るく綺麗な場所であるが,季里が心を引かれるのはその隅に隠れているような場所である.

《「あっちにも,何かあるね」
 指さした向こう岸,井の頭文化園の分園に抱かれるように,小さな社がある.
「行ってみていい?」
 季里は,心を引かれたようすだった.
 池にかかった狭い木の橋を,互いの傘をよけるようにして,ふたりは渡った.》
 (II-2 九月は短い月)

傘の動きがなんとも可愛らしい.

お稲荷さん
木々に抱かれた小さな社.
裏手
歩道から見た社の裏手.

《「うしろへまわれ,っていうんだけど……」
 「うしろ? 道しかないけどな」
 けれども回ってみると,社の背に,かがんで入れるぐらいの暗い穴が口を開けていた.》
 (II-2 九月は短い月)

僕には見えなかった.だけど,ここは季里の場所であって僕の場所ではない.ただそれだけの違いだ.

玉川上水
玉川上水沿いの道(井の頭公園〜三鷹駅).
玉川上水を覆う緑
川面を橋上から覗きこむ.

整備された道と鬱蒼とした緑に覆われた水路とが対照的である.上水沿い,といっても季里と恭司が歩いた道ではない.季里の通った逝川高校は玉川上水に沿って三鷹を通り過ぎ,小金井公園を経て,西武国分寺線恋ヶ窪(水原賢治「恋ヶ窪スケッチブック」の舞台である)の隣,鷹の台駅付近であることが読み取れる.僕はそこまで歩くつもりだったが,もう日が暮れかけていた.

続きはまた今度にしようと思ってからはや一年が過ぎてしまった.僕はこんな風に実にのんきな配分で京都の街を周ったものだ.だけど,この街ではそれはいかにも遅すぎて,僕は玉川上水の風景を見失いそうな気がしている.

水淵季里のことを教えてくださった今木さんにあれこれと捧ぐ.

(2003/8/20)

 自転車がパンクしたので今日は地下鉄だ.帰りの坂道で「僕と,僕らの夏」を聴きながら歩いていたら,歌には無いはずの川の流れる音が重なった.不思議に思いながらまた歩いてゆくとまたちょうどいいところで川の音が重なる.足元にはマンホールの列,僕の歩いてゆく小道が楽譜だった.

水の流れる音が好きだ.マンホールの上に立つと歩道では聞こえない音が聞こえてくる.京都では深夜によくマンホールの上に立っていた.しばらく歩けば鴨川があったけれど,マンホールの川はどこにいても手に入れることができた.

雨で増水した夜は御蔭橋の上に立つといつもと違う音が聞こえた.霧雨を白く染め上げる糺ノ森の献灯が美しかった.切ない夜は,田中神社の境内にただ立ち尽くしていればそれで良かった.

東京でも,時々そういうことがある.

(2003/8/18)

 某所への返事みたいな.

大抵だとか,そういうものだとか.僕は僕の体験したことをあたかもいつだって起こることであるかのように書いているけれど,ただ一度や二度しかないような,良かろうが悪かろうが,だけど印象深い出来事を大切に抱え込んでいるだけで.たかだか30年弱しか生きぬ若造の言うことは残り30年がそうした忘れがたい出来事で一杯であってほしいという期待ばかり先にある夢見がちな言葉だ.あるいはたかだか40年弱,たかだが50年弱.年よりも同じ出来事を何度も重ねた人の台詞こそが聞くに値する.記憶を懸命に集めたとて,矛盾だらけのそれがどうして話になるだろうか.例えば縁だ縁だと格言のように言ってみたところで,それがどれほどの場面で本当だろう.本当のことを言おうとした次の日には,それが嘘になるようなことをやっている.さようなら,さようなら,さようなら.日に千の別れと千五百の出会いの中の,一つのさようならを僕はどんな気持ちで言えばいいのだろう.

僕はいつも同じことばかり思い出して話している.記憶すべき事情なんてそれほど巡り合うことはない.しかも同じような事情に出会うことなど多けりゃ年に一度,少なけりゃ十年に一度で,だからこそなにか少しでも気に掛かったことがあればそこに手がかりを探して,例えば格言や言い伝えのような何かで,記憶しておきたい,だから記憶に残ったことを拡大適用し,さも何度もあったかのように,またこれから何度も起こるかのように話してしまいます.それらが矛盾していたとしても,そうやって,記憶に残るような事情を貪欲に求めているのだと思います.

記憶に残すことを大切にするあまり,それを導くはずの暮らしがおそろかになっているようにも思います.

だけど,僕が暮らす1日24時間の中で僕はどれほどのことを覚えてるだろう.そう考えてしまう時の気持ちを寂しいっていうんだ.

(2003/8/18)

 僕と,僕らの夏(3) SpecialMerge版,8/4 - 最後まで

貴理の話を追いかけた.ダムに沈む村を舞台としたのはただの感傷だと思っていたが違っていた.彼ら高校生4人が,背景の事情というものに左右されてしまう人間の気持ちを思うとき,そもそもその場その場の事情を認識出来たり出来なかったりすることがすっきりしなくて,ままならないダムの存在はそのすっきりしなさを代表するように感じる.ダム反対派の本庄英助とダム工事の監督である父とがどういう事情で折目正しく一緒に夕食できるのか貴理には判らない.英輝にとって恭生はあるときは村人だと思いたいしあるときは思いたくない.世話焼きの彼は他人の置かれた事情はよく見えても自分の事情は他人ほど見えてないだろう.僕ら同じ人に対する気持ちが事情によって左右されて,そして,恋愛沙汰なんてのはその最たるものなんじゃないか.このすっきりしない気持ちを彼らは一つ一つ行動に変えて,なんとかしたいと考えている.僕が好きだと思うのは彼らの前向きさというよりも,そこで彼らが心地よい関係を築き続けるために,不味い話題を回避したり先輩を頼るなど外の関係を利用した迂回路を幾つも用意するところだ.それは失敗したり不発だったりもするが,それでも彼らには決定的な破綻が起こりそうもないところが優しい.

迂回路とはネガティブな響きだろうか? 英輝は今年で村が沈むことを契機に懐かしんで訪れた元村民を嫌っているが,それでも数年ぶりに帰ってきた恭生のことは別の事情において親友である.恭生は幼い頃から夏だけこの村を訪れる.英輝は次々と帰還する元村民と合わせて恭生がやって来たのを見て,彼がこの村の人間ではないという割り切った物言いをする.「お前は,最初から見せ物を見に来てるだろ」だから「村に残っていた俺たちの気持ちが判るなんて言わないだろ.安易に同情なんてしないだろ」.しかし,村祭の準備を始めれば恭生のことは村人同然にも思えて若い衆が着るはっぴは「お前がこれを着たって,誰も文句をいいやしねーよ」となる.どちらに気持ちが向くかは話の流れ次第であって,好きでしかも嫌いだという両方の気持ちを同時に捉えるのは難しい.多くの場合,自分の望まない気持ちへ自分を導かないためには,そういう気持ちが持ち出されないように話題を制御するのが一番だ.英輝は他人のことに関しては気が利いているので,運動場掘りという場の下で貴理と恭生の雲行きが怪しくなってきたことに気付いたら,ひとまずその場を解散するように仕向ける.一方,恭生が英輝の行き過ぎを察して村のはっぴを着なかったことはやはり気が利いている.恭生が村の人間であるかどうかなんて今はまだどちらかに決めないほうがいい話だ.

また,貴理のダムに関する事情は二つ語られる.一つは父のこと,もう一つは自分の出生のことである.ダムに反対する本庄英助は工事を監督する市村章をはじめて夕食に招待する.英助は恭生を下宿させており章は貴理の父で,最後の夏ということもあるが家の子供同士の縁もあっただろう.ダムに激しく反対した英助と父とが礼節を守って夕食をとったり話をすることが貴理には納得できない.僕ならなんと説明するだろうか.大人の事情や欺瞞じゃない.もう5年以上前の話であるが,後輩から僕が誰それのことを大嫌いなのにどうして普段は一緒に笑えるんだと言われて,それとこれとは別だ,と答えた.当時はいまいち判らなかったが,他の人もいるからそうしないと場の雰囲気がおかしくなるとかそういうんじゃなくて(そんなこと考えてるようじゃそれこそ雰囲気がおかしくなる),単に自分の気持ちがその場の文脈に依存しがちであることを知っているだけだ.酷いことを言うから嫌いな人があるとき優しくて好きだと感じられた.その人は同時に酷くて優しい人なんじゃない.あるとき酷くてあるとき優しくて,僕はあるとき嫌いであるとき好きだというだけだ.もしも二つを同時に想像できたとして,そのとき自分がどちらかの気持ちを優先したかったとすれば,相手と自分がそうなるような場を常に選ぶようにするべきだろう.だから,言葉を間違えないことよりも話題を間違えないことのほうが難しい.言葉だけで爆弾は炸裂しない.そのとき既に話題によって導火線が引かれ火がついているのである.それに気付くことができれば足で踏んでもみ消すが,たいていドカンである.上手くできりゃ苦労しない.

一つの場所へ辿りつく道がいくらでもあるのなら,わざわざ地雷のある道を選ぶ必要はない.だけど道のないこともある.貴理はダムがなければこの町で生まれ育つことがなかったからダムを否定することはできない.それでも貴理はこの村がなくなって欲しくない.彼女は村の暮らしにも慣れ友達も出来たが,最も辛いのは恭生と会えなくなることである.このことを話せる事情を持ち合わせている相手は当事者である恭生だけだったが,行き違いがあって道がうまく繋がらなくて,大雨の中,河原で二人は互いの好きな気持ちを文脈も無茶苦茶で無理やり吐露して恭生は身体を求め,結果としては関係が壊れてしまう.

しかし,そこに道は次々と生まれてくる.二人だけの世界では決定的な破綻があるかもしれないが彼らの周りには人が居て,世話する者とされる者の関係が築かれていて,二人の間の道が駄目ならば迂回して繋がればいい.貴理は「冬子先輩は,恋敵かもしれないのに」彼女に恭生とのことを相談する.冬子先輩が恭生にキスしたことで貴理の行き違いは始まり,キスについては後になってもこだわってることが判るが,この場に限っては彼女たちは姉貴と子分であり冬子先輩は優しくて大人で頼りになるし貴理はしおらしい.この文脈と気持ちとの関係に君はいつ気がつくだろうか.今回,彼女は自分のことで一杯過ぎてそこまで気は回らない.だけどこの人たちの中にいればいつかはきっと発見するだろう.冬子先輩は「ちゃんと出来るように,わたしが教えてあげるから」って飲んだ後,部屋までとってくれてさ,お姉ちゃん風が吹く旅行の夜のお時間である.とりあえず聞きたいこと全部聞いとけエロトーク!ってなもんで,こういう人が側にいると心強い.一方で恭生の元には有夏と英輝がやってくる.恭生は相手が自分を拒否する言葉尻にとことんこだわる性質なので難儀ではあるが,有夏や英輝の思いがけない言葉からまた別の道で貴理へ向かってゆくことが出来る.また英助も何気に尻を叩く.

貴理と恭生がどれほど熱く結ばれても,恭生は最後の最後で余計な話題を持ち出す.昨日の今日で気持ちを疑うようなことをいっちゃいけない.貴理さん大激怒である.恭生はやはり言葉を信じすぎるし言葉がないと信じられない性質であって,フィナーレで女の子にはたかれる少年もなかなか稀だ.それにしても,彼らの関係は破綻する気がしない.例えば恭生くん,君はいい奴だとは思うけれど,貴理のことが好きだったら貴理の尻に敷かれる道のほうをその時その時で選べるようにしておいたほうがいい.

幾つもの迂回路越しに繋がった彼らは一つの関係ではなく,新たな迂回路が引かれる度にダイナミックに変わってゆく.有夏にとって貴理は大好きな人だけれど同性だから先輩後輩としてしか繋がってゆくことが出来なかった.そこに貴理と相思相愛の恭生が現れたこと,また有夏が恭生に気持ちをぶちまけたことによって,有夏は恭生を通して「恋する貴理」を見ることも出来るようになった.有夏が恭生とひと悶着あった次の日にフォローのため恭生を訪れるのがいい.そこでまた新しい道が一つ生まれた.有夏が貴理を想う気持ちは変わらないだろうが,いつも押しかけ気味で貴理の気持ちを知る道を持たなかった彼女が恭生を通して貴理の気持ちを知るようになった.新たに道を引き続ける限り,そのうち一本が切れたところで彼らの関係は壊れない.ここで事情は関係と言ってもいいし道と言ってもいいし縁と言ってもいい.ともかく破滅的な気持ちでない限りにおいて,そういうものはあるに越したことがない.

新たに道を引くとき面白くなるのは会話である.冬子先輩が貴理に言いたいこと言わせようと思って酒を飲ませてしばらく待っていると,貴理が恭生のことをぶっちゃけはじめるのは貴理の一大見せ場であると言っていい.息をつく間もなくまくしたて何いってんのか判んないのであるが気分は良く判る(貴理の声の人の見せ場でもあった).また恭生は貴理の言葉尻を気にしすぎで貴理にとって恭生は言葉足らずであり,二人は性格的に相性がいいようには見えないが,その代わりに年季が入っている.二人きりの夜になると小さい頃にぺたぺたくっついて過ごした思い出を持ち出して,うまいこと今の二人を繋いでゆくことができる.

さて,この話は逆に言うと破滅や孤独の中に居る人がなんとかしたりされたりという話ではない.わざわざそんな話を持ち出す理由は「すいげつ」を思い出したからだ.どうしようもない事情を何とかしようとする少年少女の姿は互いに重なりあうが,親兄弟も揃わず記憶もないままに三角関係どころではない世界から始まる「すいげつ」の事情は彼らにとって非常に酷い.用意された環境の中で他にはありえないという形で突き詰められたアリス・マリア・透矢の三人の姿は,やはりどこか危うい.彼らも迂回路を用意する人たちではあったが,周りからのサポートはなく彼らの仲間内だけでなんとかする必要があった.僕は貴理たちの暮らしぶりに対してそうありたいと願うが,一人きりを感じてしまうようなときには透矢たちと心が近くなる.

透矢たちのことを思い出したのは貴理と恭生との優しくてどこか可笑しい艶話のためでもある.二度目の夜,今度は混乱も緊張もなく,まるで日常のなかの一コマを切り取ったようである.恭生が貴理の部屋に落ちてたパンツを拾って,二人でパンツの話を平気でしている.そのとき二人の間にタブーはなくて下着のことだろうが身体のことだろうが平気で話したり見たり出来る.「ねぇ,わたしとパンツ,どっちの方が好き?」ってパンツを手に握り締めてする話ではない.ていうか部屋に入ったらまずは延々とパンツの話である.既に二人とも頭がおかしくなっている.貴理の改まった告白は盛り上がるところであるが,彼女自分がパンツ握り締めたままであることに気付いていない.格好が問題じゃない.そこでは幼い頃に一緒に寝たりお風呂に入ったりした思い出を盛り込みながら,無理なく今の気持ちや欲望が伝えられてゆく.二人は本当にのんびりとお互いの身体のことや共通の知人のことを話の種にしながら楽な姿で抱き合っている.普段はできない下着や部位の話をするのはそれだけで何を言っても面白くなってしまう.

「僕と,僕らの夏」からはいっそう話が外れてしまうかもしれないが,もちろんここでは水月の花梨と透矢の会話を思い出している.しのぶさんの花梨についての文章を拝見して以来,もう一度自分なりに語りなおす必要があると感じていたけれど,今,素敵な物語にめぐり合えて,花梨と透矢の会話についてもプレイ当時より判ったように思う.はじめにしのぶさんの花梨と透矢に関する文章を幾つか引用させて頂きます.

『あと、えっちシーンが日常と地続きになっている点を私としては高く評価したい。』

『ここに私が感じ取るのは、ラブシーンに突入しようともふたりの関係は変わることがあってはいけない、という作者の姿勢である。花梨は花梨のままでなければならない。それだからこそトノイケ氏は、焦って身を投げ出そうとする花梨の行為を、透矢に止めさせるのである。』

『換言すれば、トノイケダイスケという人は、ベッドの上での行為を描くのではなく、えっちシーンを通じて花梨という少女がいかに可愛い女の子であるかをひたすらに大真面目に語っているのである。』

なかでも『花梨は花梨のままでなければならない』という一言が彼らのことを見事に言い当てておられると思います.ベッドシーンを通じていかに花梨が花梨のままに(また僕が思うには貴理が貴理のままに)魅力的に語られうるだろうか.「隠すものがなくなった人間の言葉っていうのは本当おもしろくて,おかしくて,正直で,布団ひいてからの彼らの言葉は自然とこみ上げてくる笑いに支えられていて,とくに互いのシモの話など笑うしかないもので,」と以前は書いていて,この隠すものがなくなった状態についてもう一度取り上げたい.女の子や男の子が可愛さ愛しさ格好さを示す言葉は普段はとても限定されている.身体の話やえっち周りの話が出来るようになるだけで,そこにはとても素敵な言葉が残されていることが判る.ここで彼女ら彼らは日常から変わってしまうのではなく,ただもともとそこにあったはずのものが丹念に掘り出されてゆく.それは自分の背中を改めて見るようなものだ.二人で裸にならなければ自分の背中の細かいほくろまで判らない.「僕と,僕らの夏」の早狩武志と「水月」のトノイケダイスケという人は彼女らのことを描くにあたって,彼女らを一度きちんと描ききった上で,その後,そこに同時にあったはずの気持ちを,使えなかった言葉が解放されたときもう一度辿りなおすという労を惜しまない.それは彼女らを愛する上で,非常に尊いことだ.

その以前の自分の日記に花梨が夢に出てきたと書いてあるのを見て,はっとした.実はこの前の土曜日にもそういうことがあった.長い長いボートに人がずらりと乗っていて,僕はその中ほどの席に着きながら,長い壁に沿ったボートを壁に手をついて突き放すようにしながら必死に前へと進めていた.その傍らには貴理らしい少女がいて,僕は大変だったけれど幸せだった.

メインじゃないかと思う貴理の話が終わった時点で,CGがほとんど開いていない.ここにあとなにがあるというのだろうか.

音楽の樋口秀樹氏のページ.ED曲「僕と,僕らの夏」は詞も樋口氏であり,色鮮やかなはずの夏の景色が時間とともに遥か遠く淡い色になってゆく様が美しく謳い上げられている.樋口氏による夏の音楽が無かったら,彼らの村に風景は無かったと思う.

(2003/8/17)

 コミケに行かなかったのは久しぶりである.人と話してる間以外は全然駄目で,鬱.ならば人と話しに行けば良いのだが,ほんとに辛い時は電話する力も家から出る力も,また当然のようにWebを更新する力もない.もちろん今はその力がある.

どこでもドアよりも現実味のある夢として,タンジブルな携帯電話,つまりぺたぺた人に触るコミュニケーションを遠隔地間で行う携帯デバイスを考えた.名づけて背文字携帯.入力は僕が右手の人差し指で自分の左の手のひらに図や文字を書いて行う.するとその軌跡が拡大されて遠隔地の相手の背中へ伝わるのだ.相手にしてみると突然背中いっぱいに文字を書かれては困る場面もあるため,マナーモードでは全部「…」という字に変換される.ウッドストックのように全て感嘆符に変換してもよい.

背文字携帯のミソは入力した文字を自分の手のひらで感じ取れることである.声であれチャットであれ自分の発信がその場で自分の耳や目に返ってこないと,相手にどんな風に伝わっているか想像できない.声は耳で聞くものであるが,ここで触覚メディアのフィードバックはやはり触覚的であるべきだろう.相手の背中を想像しながら,自分の手のひらから感じてください.なお,触覚を利用しているのにわざわざ図や文字で伝えるようにしたのは,それが子供じみていて可愛いらしいという理由と,またそうしないと容易にエロマンガ的発想が出てくるからである.だけどまあ,図や文字以外にも背中をくすぐったりモールス信号打ったりするくらいは許されていいだろう.

背文字で検索したらこんな中学生たちが.幸せはこういう場所にあってほしい.

(2003/8/17)

 レ・ミゼラブル(帝国劇場・2003/8/14夜の部)

元は大河小説のはずなんだけれど,二時間ばかりの歌として違和感なくまとめられていた.ものごっつい編集力を感じる.

ジャベールのソロは二度とも美しい星空を背景とする.あの世界で彼だけが星空を見ている.その美しさの中に逃れがたく天体の運行や法を見出してしまう彼に惚れ.ファンテーヌの死に際してバルジャンと歌をぶつけ合うとき,歌では押しているようだった彼は最後バルジャンに殴られて倒れてしまう.全く彼らしい話だ,と言っても原作は読んでないので舞台に限って言う話である.歌勝負とか思っちまうのは先日ダイナマイト7を見たせいか.

お目当てのエポニーヌ(坂本真綾)とマリウス(山本耕史)の二人は,マリウスがエポニーヌを抱き上げてクルリと回すところが可愛いのだけど,彼女の表情は不満げである.マリウスはコゼットしか恋愛対象として見とらんから.エポニーヌのこと「見捨てない」とかどの面下げていいやがる.麻郁の爪の垢を煎じて飲ませたい.

真綾さんのソロはこれまでCDで聴いたどの歌よりもさらに上手い.出鱈目な上手さである.うちの貧弱なオーディオ環境と,生伴奏・劇場の音響効果という差はあるにしても.あとミーハーなことを言うと真綾さんちっちゃくて格好よくて可愛くて.1階12列目といういい席で見せてもらったのだけど,これがもしあと数列前だったら気を失っていたかも知れないというくらいに可憐だ.アンコールで跳ぶように走ったり,他の役者さんにおんぶされていたのが楽しげで良かった.

(2003/8/14)

 おねがい☆ツインズ #3

麻郁お兄ちゃん,なんて格好いいんだ.深衣奈と樺恋が盛り上がる理由はよく判る.麻郁はタイミングに非常に恵まれていて,前回は深衣奈が家から出てゆこうとした瞬間に鉢合わせる.今回は樺恋の父から不意の憂鬱な知らせがあった.思いがけない出来事で揺れた彼女らの心の隙間に麻郁の人情が刻まれてゆく.それはそういうもんであって,醒めるのもまた一瞬である.「少しでもときめいた私が馬鹿だったわ!」てなもんや.縁というのはそういうことの繰り返しで.

前回,深衣奈を引き止めるときは「肉親を見捨てたりしたくねえ」「他人かも知れないのに?」「肉親の可能性だってある」と血縁にこだわる言い方をしたのだけど,女の子二人養わなきゃならん責任を負う理由として「可能性」を持ち出すのは,その場は収まっても問題を先送りにするだけだ.麻郁の仕事はかなり大変な様子であるし,いつか破綻するのではないか.そうすると彼にとってどちらが肉親であるかを無理にでも決める必要に迫られるのではないか.肉親である可能性を前提とすると辛い状況下では容易に1か0かが持ち出されそうである.つまり,肉親でないほうは出てゆけ,という.

だけど,彼らの将来にそんな二分法があるとは想像できない.というのも,彼らは肉親にこだわる一方で,自分たちが同じ色の瞳をしていることにも随分こだわっている.それは奇縁であり,結果的に肉親であることの状況証拠となっているが,気持ちの順序としては肉親であることより瞳の色のほうが前であるようにも感じられる.第一話における三人の出会いは運命的で,彼女たちは麻郁が肉親らしいことを知る前に,彼を見て彼の瞳の色に奇縁を感じていた.今回,麻郁が樺恋へ告げた言葉は次の通りである.「俺と樺恋は,同じ瞳の色してるだろ.だからいいんだ,ここに居ていいんだ.」ここで肉親と言わない限りにおいて,瞳の色は肉親であることの状況証拠であるとともに,いつまでも変わり得ない縁のことを述べているように聞こえる.奇縁も縁のうちであって,肉親問題を先送りにする猶予のうちに縁は深くなってゆく.“俺は見捨てねぇぞ,絶対に”という思いが肉親の可能性でなくそこに在る縁によって語られるとき,出てゆくか出てゆかないかという話にはならないだろう.同じ家で暮らしてりゃ縁が生まれてしまうものだが,より積極的な事情として,同じ色の瞳,という言葉を取り上げたい.

彼らを見てる僕としては,同じときに同じような事情で同じ瞳の色をした人間が集まってしまっためぐり合わせが素晴らしい,ともしも堂々と言われたらついていけなかっただろう.だけど,肉親の可能性を云々してああだこうだ言いながら暮らしてゆく裏方をそのめぐり合わせが支えるならば,慎み深く,触れやすい.

前回の補足のような話が長くなってしまったが,今回の見所はもちろん,深衣奈と樺恋が階段の途中に座り込んで秘密会議するところである.麻郁が現れて「お前ら何してんの?」と突っ込むところも良い.本当に大切な話は居間ではなされなくて,だからといって全く秘密の場所でも行われない.狭い家の中で秘密にし通せることはごく限られてるから,むしろそこで話していることは聞こえないことになっている場所,というのがたくさんある.階段なんてのは一階と二階のどちらとも繋がっていて下手すりゃ声など筒抜けであるわけだが,どちらからも直接は見えないし暗かったりするのをいいことに秘密の話をしていい場所として認識される.「お前ら何してんの?」というのは別に麻郁が彼女らの話を聞いていたわけではないだろうが,秘密の大事な話が行われる場所とそこで噂に上っている彼氏の居場所がごく近い距離で繋がっているのが,家の中らしい可笑しさだ.

家の階段とかクローゼットの中とか,暗くて狭くてごちゃごちゃしてるところにしか興味ないのか俺は.

ところで胸キュン2においてもそれはやはり健在です.

(2003/8/14)

 プロフィールに「お兄ちゃん研究家」と付け加えようとしたが,それでは四葉と同じだと思って考え直した.君に兄が居ることの証拠なんて幾ら調べたってありませんよ.お兄ちゃんの日にお兄ちゃんの部屋へ押しかける君は,そのまましれっと居付いちゃいなさいな.

すてプリとか南海奇皇とか見つつ.意外に多いな兄妹話.

(2003/8/12)

 僕と,僕らの夏 (2) 7/30 - 8/3

貴理たちの街は夏の音楽で満たされている.思い出すのは秋の音楽に満たされた琴平睦月の住む街であるわけだけど,夏に音楽が不可欠であるというのは夏影(AIR)の影響もありますか.

恭生と貴理の忘れてしまった思い出がそれぞれ違っている点がやきもきさせる.恭生は幼い頃貴理と一緒に宝物を埋めたことを思い出すのだけれど,貴理は覚えていない.逆に貴理は同じ頃に恭生とキスしたことを覚えているのだけど恭生は覚えていない.貴理が恭生から何をと言わずに覚えてるかと尋ねられて真っ先に思い出したのはキスのほうであるわけだが,もちろんそれは口に出して言えるはずもなく.そして何をどこに埋めたかはっきりしない恭生の思い出のほうははっきりしないのをいいことに皆で探すことが出来る.いつも一緒にいた二人が同じ頃に大切にした思い出の対称性を考えると,ファーストキス程度には気まずいものが出てきそうなものである.だけど貴理は気まずいよりも不安になるばかりで,自分が覚えていないし恭生のほうでもどこか曖昧なこの思い出の相手が自分でなくて他の子かもしれない!と思って,他の女の子に確認するわけですよ.貴方には恭生とのそういう思い出がなかったかって.これって恭生の過去の女を捜しているわけで,口に出して言えない代わりに女の子のほうではもうかなり盛り上がっている.しかし,男どものほうは英輝が考えるよう受験生が闇雲に運動場の土を掘り返す作業に没頭すること自体が俺たちだけの馬鹿な思い出になるって,勝手に幸せを感じてやがります.んもう.

貴理に寄り添うような選択肢を選んでいる.そうしてみると恭生の気持ちが変わるというよりは貴理の気持ちがいっそう生々しく語られるようになる.選ばなかった場合を確認したわけではないのだけど,恭生と貴理の視点を交代しながら進む話だからこそ出来る語り口ではないかと予想している.女の子の視点で見ることを好む私としては,貴理を好きだと思う選択肢というよりは貴理になるための選択肢であるように思えてくる.

こんなとき,選択肢の話は女の子を志向する純粋性が失われる気がして半年近く封印していたのだけれど,DALさんとお話していてそんなことでどうかなる気持ちではないと判ったから復活した.

さて,ゲーム内時間がリアル8/11になかなか追いつかないのはゲームの進行が遅いからではなく,僕がちょっとずつしかやってないからです.もったいなくてさ.あと下で風景の話が出てきたのはこのゲームをやっていたせいでしょう.

(2003/8/11)

 ARIA(天野こずえ)(1)-(3)

時は24世紀.火星のネオ・ヴェネツィア市は21世紀前半の地球におけるヴェネツィア市をモデルとした観光都市であるが,作品中でこの都市が地球人の物見遊山の視線に晒されることは意外なまでに少ない.第1話によると地球での暮らしはネオ・ヴェネツィアよりも1世紀は進んでいるらしいが,ネオ・ヴィエネツィアが観光都市となりうるその1世紀分の差は具体的に語られない.そもそもこれまでゴンドラの客となった地球人は第1話のおじさんだけである.それどころか火星生まれを入れても暁さん一人だけだ.

ここでほんとうの観光客は灯里であって,ウンディーネ(観光客専門のゴンドラ乗り)の修行をしながら先輩であるアリシアさんにいろんな場所へ連れて行ってもらっている.灯里が地球生まれだからという訳ではなく,彼女がネオ・ヴェネツィア市内に住む者であるがために,アリシアさんに見せてもらうお稲荷さんの鳥居道,雪虫の野原,温泉宿,そして軽便鉄道の丘には風景がある.第13話で灯里と藍華とアリスが捜し辿りつくのも市内を一望する風景である.そして風景に辿りつくまでの旅路には,現から夢(狐の嫁入り)へと向かう心,現在から過去(捨てられたままの車両)へ遡る心,あるいは宝物を探索する心がある.

およそ旅の目的地には用意されている見開きの風景絵が印象深い.そこには旅人のような感じやすい心が付随しているのだけれど,風景というのはそもそもそれがあってこそ現れてくるものではないだろうか.ARIA第1巻の帯のあおりに「未来形,ヒーリングコミック」とあったのだが,風景=ヒーリング,とするならそうであるが,単に風景を求めて旅する女の子の漫画という所で留めていいのではないか.そうすると確かに灯里の旅人の心を支えまた様々な風景へと案内するアリシアさんは,超一流のウンディーネであることが判るから.

女の子たちのことについて触れるなら,薫さんの「心地良い関係が人々の聡明さによって支えられているのが良いです。」という言葉で過不足なく美しく語られていると思います.あと風景についても薫さんの方が正確に話せそうな雰囲気なんですが.俺,テクノスケープって言葉,知らんかったもん.

(2003/8/11)

 僕と,僕らの夏.7/29

貴理という子は恭生が再会するなりどんくさい格好だったけれど,彼女の部屋中に散らかった外出着を見て赤面しました.クローゼットからひっぱりだしては迷ってやめて,その結果が白シャツか! 女の子なんだから多くの人が居るとか誰かに会うとか,人から見られてしまう場所へ出掛けるときはもっとマシな外出着で行くはずなんだけど,恭生のことはただのその彼女を見る存在としてすらまだ意識したくないのだなあ.悩ましい.

(2003/8/10)

 「書淫、或いは失われた夢の物語。」の話をもう一度(2)

ネタバレなので,クリアしてない人は読まないでください.

昨日の話の構図はつまり書淫的である.もしも書淫と「痕」との関係を捜すとすれば,例えばある物語ルートにおいては千鶴さんを酷い目に遭わせなくてはならない理由について,フィクションの登場人物(ここではもちろん女の子)と自分との間に愛情裏切り義理人情などの社会性を見出した上で突き詰めたものと言えるのではないか.

そこに理由があるとして,それは罪悪感や弔い,転移や逆転移であり,僕と彼女たちとの直接の対面的な関係に帰結する.そもそもそんな関係があるのかというのはまた別の話題であって,そこではギャルとゲームのうち保留した前者について語ることになるのだろう.

(2003/8/9)

 クローバーランドのお姫様(10)


結局のところ,四葉探索隊はラッパの目と耳が頼りでした.
山中から四葉の声が聞こえたという彼の言葉に従ってみると,
そこは竜の住む洞窟でした.

甲賀四葉

「やいやい,四葉さんをどこへやった.四葉さんに何かあったらただじゃおかねぇぞ!」

「ゴーーーッ.」

「この,火ぃ吹きやがったな!」

「ゴーーーッ.」

「親分ひとりで大丈夫ですかね.」

「こんなときのためのアイツだろ,ほっとけ.それよりちゃんと見ててくれよ.」

「はい,えーと,あっ,あの竜,泣いてますよ?」

「ゴーーーッ.(わたしが四葉よ!)」

ごめんな.こういう話なんだ.

(童話絵のVGA化は時期尚早だったのでQVGAに戻した.Zaurus MI-E21 + PrismPocket 1.21 ,2003/8/9)

 プリンセスチュチュ・卵の章

これまで天野美汐にはずいぶんな目に遭わせてきた.二次創作に影を落とす悪趣味を回避するために,僕は四葉を聞き手とした.つまり僕が騙る四葉の物語は僕が僕の目の前にいる四葉のために語るもので,僕の物語の中で泣いたり笑ったりさせられる女の子に対する聞き手である四葉の感情移入こそが,物語の中の四葉である.・・・というような構図の物語をいつか四葉に聞かせたけれど,僕の目の前にいる珠のような四葉が僕の勝手な物語によって傷つかないために,彼女を物語の聞き手としてどこまでも遠く遠く後退させたいんだ.

という欺瞞に満ちた.

先日,僕が自分のWebページついて,苦労して書いてもいつも自分にがっかりするばかりだと洩らしとき,「ソガさんの話を聞いている四葉が楽しそうに見える」と転さんが言ってくださったのは,本当に嬉しかった.その瞬間,少し許された気がしたのだ.

(2003/8/8)

 「書淫、或いは失われた夢の物語。」の話をもう一度.

繰り返しプレイを要する事情,分岐を要する事情,そして選択肢の漸増を要する事情が全て,僕と彼女とがここで一緒に生きてゆくためにある.話の枝葉を広げる力と広がりきったそれを回収する力は僕と彼女たちとの関係に由来する.そのことが,ギャルゲーマーとしては心強い.

(2003/8/8)

 僕に出来る選択肢の話は二つだけあって,一つはとらハ,もう一つは水月の話である.

とらハの冒頭で,ななかが僕の恋愛感を尋ねてくるとき,その設問の見た目の重さに反して僕の回答がゲーム内の出来事へ反映される度合いは軽い.見た目が重いというのはここで僕が望む恋愛を選択することが攻略対象の女の子たちとの出会いに反映されるのは容易に連想されるからである.それはななかが彼女たちを紹介するのかもしれないし,表面には現れないシステムパラメーターの変化かもしれない.何せ恋愛のゲームで恋愛を問うているのだ.しかし実際はこの回答が攻略に影響を及ぼすことはない.もしも回答の反映される先がないとしたら選択は無意味だ.反映される先は何も攻略要素だけでなく,選択の直後に女の子が異なる反応を示してくれるのも嬉しい(根本はえっちシーンでどこ触るのか選ぶのと同じだ).しかし,攻略対象でも攻略に必要な要素でもないななかという女の子の問いかけに選択肢を4つも用意するのは過剰だ.

この設問が攻略に影響しないことは数回プレイする内に判る.というのも,とらハでは女の子と会った回数が攻略対象を決定するのと,そもそも選択肢のうち攻略に影響するものが少ないことに気付くのは容易だからだ.それはどうか,と思うような回答も攻略上はスルーされることがある.ここでは上記のななかの選択肢だけに話題を絞るが,そうしてみると設問の重さと反映の軽さとのズレは,ゲーム内の出来事からは切り離された僕への質問を新たに浮かび上がらせる.ななかは僕の好みを聞いてくる.「じゃあ,どんな人がお好みなんですか?」この質問がゲーム内で回収されないのだとしたら,僕のホントの好みを答えるしかない.答えは次の四つから.「優しい人」「綺麗な人」「明るい人」「俺の事好きになってくれる人」だ.貴方ならどれを選ぶ? 攻略とは関係ないと判った瞬間,興のさめる人もいるだろうが,この過剰な形で選択肢を設置するからには,それに本音で答えてしまう人の良さが求められているように思う.そもそも僕がなぜとらハをプレイしているのかを考えてみればそれはとらハの女の子たちと出会いたいためであり,出会いを求めてしまうその前のめりの姿勢が利用されている.結果はゲーム内の出来事には強く反映されない.しかし,僕が恋愛について答えた行為そのものがただそれだけで僕がゲーム内の恋愛を認知することに影響を及ぼす.

選択肢は攻略のためでもあったし気になる女の子から複数の反応を引き出すためでもあった.そのどちらからも切り離され,僕の信念を導き出そうとするななかの問いかけは,ときに苛烈と思えるほど誠実な態度を求めてくるとらハシリーズを代表する選択肢だったと思う.

選択肢についてもう一点,思い出深いのは水月におけるマヨイガの選択である.詳しいことは一度ここに書いているので省くが,選択肢が設けられるときには選択すべき何かがあって,その何かは操作的に提示しうるのだ.雪さんが現実であるか幻であるかは僕にとって切実な二択だった.また,そこには雪さんを選ぶか花梨たちとの生活を選ぶかという二択もあった.二つの二択は互いが互いの選択の理由になることも出来るため複雑だ.そんな風に悩んでいると,ここでは庄一が一言述べるだけで,さっと問題が収束する.「現実か幻かを決めるのは,その人間次第だと思う.」現実であるか幻であるかの二択は客観と主観がないまぜだった状態から主観のみで語ってよい雰囲気がもたらされ,肩の荷が少し下りる.そこで雪さんを選ぶか花梨たちとの生活を選ぶかという二択の重みが相対的に増すのであって,このとき物語を転がすダイナミックな会話が選択肢の周囲に生じている.

以上二つに共通するのは,選択肢が設けられるときの僕に対する語りかけである.そこには僕の信念を導こうとしたり,僕の絡まった状況を整理しようとする能動的な働きかけがある.僕が女の子の反応を見るために一方的に選ぶときよりも僕に誘いかけるよう選択肢が語るとき,僕が選択肢で操作するときよりも選択肢が設けられることによって僕が操作されたように感じるとき,僕は自分が会話の中にいるような面白さを感じる.

(2003/8/6)

 感想文の難しさ

話の筋であるとか僕が読んだ状況であるとか僕そのものであるとか,文脈に依存しまくる必要がある.文脈に依存しないツールで読んだところが交じると変に評論くさくなってしまう.

(2003/8/6)

 おねがい☆ツインズ #1,#2

これだよ,これ! 幸せだ.

集まったのは男一人に女二人だけど,持ち寄った同じ写真の中の子供は男女一人ずつ.思い出の写真は何の含みも無くただ母親に持たされた,あるいは何か知らんけど手がかりとして持っていたに過ぎなくて,写真の中の男女が自分たちであるかどうかは同定できない,というかそもそも同定しようというつもりも無さそうだ.とりあえず,男だからきっと左の子,女だから右の子,程度であって.麻郁の言い分としては女二人のうち一人が自分と兄弟でもう一人は他人ということであるが,第三者的にはそれを茶化した深衣奈の「枠外にも一人写ってるとかー?」「麻郁が他人だったりしてー」というのも大差なく聞こえる.いやそもそもこの写真の子供って双子なのかという疑問すらあるわけだが,「そんなわけあるかよ」と麻郁が言下に否定して収まるものだから,彼ら三人にとってあの写真の子供たちが双子でその一方が自分でその背景の家が生家であるという信念はよく伝わってくる.あそこが生家であることについてはそれこそ茶化されることすらない揺るぎなさだ.

彼らは状況証拠からその信念を導かなければならないほど差し迫っていて,切実,という言葉を深衣奈が何度も口にする.たまたま一昨日,前世少女の切実さについて話をしていた流れで,実は前世で貴方と双子でした,という前世双子が三人集まったのかもしれないと思った.麻郁と深衣奈は写真でしか知らなかった生家をテレビで偶然に見てその場所を訪れた.きっと家は誰とも知れぬ人に渡っていて話だけ聞いて帰ることになるだろうけど,もしかしたら何か自分の生まれについて手がかりがあるかも知れない.そんなとき,どちらにしても訪れてみないことにはキリがつかない.前に進めない.

だけど,そこには何もないはずだ.幼い頃,市内で何度も引越しをした.2,3歳の頃の写真を見ると僕の知らないアパートで僕を抱いた母が笑っている.かつて20年以上も前に僕が遊んでいたはずの公園を訪れた.僕の住んでいた家からそこへ行く道は高いフェンスや用水路のある困難な道で,姉に連れられた僕は何度も泣いたはずだった.ずいぶん前に引っ越した場所だったけれど自転車で行ってみると意外に近かった.改めて判ったことなんか何もなかったけれど,少なくとも過去の風景には何もないということと,ただキリだけはつくということが判った.

彼らにとって結果はキリをつけるだけでは終わらなくて,おそらく麻郁にとって予想しなかった形で訪れた.そこには今は借主のいない貸家と,それを借りることのできる収入のある自分が居た.深衣奈にとっても旅の結果は在り得ないこと,つまりそこに住むということだった.訪れるだけでキリのつくはずだった切実さは,麻郁が家に住み込んだことによってその先が作られてしまい,キリをつけるのではなくとことん突き詰めることしかできなくなってしまった.信念それ自体はけして検証されることなく信念のままに在り得ないものを突き詰める勢いは,そのまま無明を爆走するか,矛先を反転し,無から有を生み出してしまうかしそうだ.

彼らの場合は結局のところ,見つけた家に住んでしまった麻郁のセンスの良さが,三人にとってなかったものを在るものにしてくれると思う.家とは風景でも思い出でもなく住むものだ.麻郁によって絵の中の家に住む可能性が生まれ,今やこの家に住みたいという欲望で三人が結ばれている.深衣奈と樺恋の切実さから来る行動のイタさは,「家」に「住む」というあまりに筋のいい組み合わせの前に小さい.幸せに暮らしてください.僕も写真を持って,麻郁おにいちゃんの家の門を叩きたいと思う.彼らの信念において彼らは双子であって,兄妹か姉弟かは判らない.この場合即ち「おにいちゃん」という箇所が僕の疑うことなき信念である.

(2003/8/5)


 兄弟のアウェアネス.

ネットパルからの連想でネット家族というものを考えたとき,一言,ありえねぇ,と感じた.ここで言うネットとは異なる居場所の異なる時間を生きている人同士を繋ぐ媒体のことで,ひっくり返すと,僕が家族を同じ居場所で同じ時間を生きる人として受け止めていることが判った.いや,僕に限っていうのなら家族というかあれだ,特に姉とか兄とか,兄弟に対する認識である.

姉しよの海お姉ちゃんと空也の間にある湿った関係に最も影響を与えたのは,彼らが一緒の部屋で育ったということだ.これは半分,海お姉ちゃんのことをダシにして自分の姉の話をするのだが,姉と共有する子供部屋というのは家族とは切り離された二人だけの国であって,喧嘩のときにまずするのは相手を部屋に入れないことだ.お姉ちゃん開けてー.国外追放である.海と空也の話に戻ると,海が他の姉たちよりも空也に対してお姉ちゃん風を吹かせるのは,海が柊家においてではなく海・空也国において空也の姉だったからだ.

寝るときは二段ベッドで姉が上,僕が下である.うちは小学校4年くらいまでは8時までに寝る決まりで(ただしドリフのある土曜日だけは特別),しかしそう簡単に眠れるわけもなく,電気を消した暗い部屋のベッドの上下で二人延々と話をした.歌合戦と称して代わりばんこに二人で唄った.しりとりもした.そんなものは当然居間には筒抜けで,10時頃にもなると親が怒鳴り込んでくる.

時々は僕が上段のベッドへ潜り込んで二人一緒に眠った.何より眠る前のこそこそ話が楽しい.二人一緒に眠るのは特別良くも悪くもないことだった.ただたまたまそこにベッドが二つあって,一応の割り振りが親によって決められていたけれど,その日の気分で自由に行き来したというだけである.しかしそのうちに二人で眠るには子供用ベッドが小さくなったことに気付いた.

当時は二人で一つの所有物というのがあった.お小遣いが少ないものだから分担するのが良かったのだ.はじめに二人で買ったものは吸血鬼ハンター"D"で,ソノラマ文庫でさえ一人で買うには高かったのだ.それにしてもオタクな姉弟である.で,中学入学前後にもなるとお互い見せられないような個人の物品も増えてくるが,そんなものは隠し通せるはずもない.僕のベッドの下,いや二人の二段ベッドの下にはエロ本ではなくやおい本が隠されるわけであるが,お互い知らぬ振りである(実際はもりもり読んだが.)そのうち数が増えると本棚まであられもない本によって侵食されてくるわけで,その頃にはお互い見えるけれど見えないことになっているものの存在について暗黙の了解が成立している.同じ部屋で過ごしていると明示的なものさえも暗黙的なものに変換して,それで上手いことやってゆくことができる.極端な例では,姉が男の子が見てはいけないビデオを見ている間,僕はベッドで本を読んでいる.まあ,居間で見るわけにもゆくまい.そういうとき,ベッドとテレビセットとの間には暗黙のカーテンがある.あんたなんでこんなシーンの時だけこっち見るの! いや,たまたまだってば.とか言葉を交わしつつも,相手がそういうものを見ているという気があまりしない.

同じ部屋で一緒に居るとき,そもそも気配とか物音とか鼻をすする音とか何となく感じる視線であるとか,相手がどういう状態であるかを気づくための暗黙的な情報が溢れている.それが時間的な連続性をもってより明示的な情報すらも暗黙的な情報に変換されるようになったとき,僕は兄弟的な関係を感じる.海の他の姉たちを圧倒しうる怖さは姉たちにとって明確であるが,空也にとってはたとえそれを目の前にしたとしても暗黙的にしか察せられていないように見える.

さて,前言を撤回するようでもあるが,ネット家族,いやネット兄弟というものが在り得ないとしても,僕はそういうものを求めてしまう.だって,好きだもの.みずいろ(PS2版)において最初一緒の部屋だった雪希と健二が途中で別の部屋にされてしまうときには身の引き裂かれる思いがした.健二は部屋が広くなったっていって喜んでやがるし許せねえ.案の定,雪希は寂しくて隣の部屋から壁を叩いて信号送ってくるわけだ.そこで唄って返事をしてやる健二を見てようやく溜飲が下がった.みずいろ(OVA版)で朝までパジャマで話す二人を見るのもやはり嬉しい.異なる居場所の異なる時間を生きる二人が相手の暗黙的な情報を察するためには映像情報や実時間の情報を用いた臨場感通信を利用するしかないんじゃないか,昔書いたことがあるのはそんな一日中巨大テレビ電話をつけっ放しにする夢だ.だけど,Web媒体における現実的な方法としては個人宛のメッセージを細かく書き換えるなどして,察知してますよ,という情報を含ませようとしている.あるいは宛先があるにも関わらず明記しない場合にも,見る人が見れば判るその相手に対して気配を体感してもらおうとしている面がある.

もしかすると昨日の項目で書いたような,自分の想定する聞き手の判らない話題をここに書く気持ちにも,暗黙化への期待があるのかもしれない.読めるところだけ読んでください.無視してください.だけど,それは無いものではなくて在る.二人の関係において目に見えるけれど見えないものというのを,そこに在らしめようとしているんじゃないか.

だけど,結局,部屋と時間の制約がない今のネットで同じことが起こりうるのかどうか判らない.僕の夢はこう書き直されるべきだろう.どこでもドアを僕にください.そうしたら僕の部屋と貴方の部屋とを今すぐ繋げるからさ.どこでもドアの普及した世界こそがきっとネット兄弟の在り得る世界なんだろう.

(2003/8/4)

 前世でも来世でもなくただ現在において願い続けざるを得ないものとして,

すっぽんぽんでおちびな木蓮を見た日にはさ,彼女みたく綺麗で,えー性格した少女になりたいと思ったものである.んで大好きなのは紫苑,ってこういう話はそろそろ聞き飽きましたか.昔から何度も繰り返されている話で.

判んない語彙は使いたくないが判んない固有名詞だけはむしろ積極的に使いたい.前世+木蓮+紫苑と続けば白泉男児なら「ぼくの地球を守って」を想像するところであるが,私の友人に白泉男児はそれほどいない.いろんな人の視線がこのページの上で交差していて,PDAを好きな人(わっふるwonderlandの読者),児童文学や長野まゆみを好きな人(星影拾遺の読者),白馬に乗った王子様を待つお姫様(白泉男児),白馬に乗ったお姫様を待つ男の子(ギャルゲーマー),いつも私の判らないこと書いておられるのだけどこのページを見に来る人,サークルの面々,研究室の面々,など.私は人並みに理解してほしい欲望と理解してほしくない欲望の両方を持っているから,誰かには判んないけれど誰かに判るという話題をローテーションで切り替える我侭をしている.だからこそ,わたしの判らない話をしないで,という言葉が私に届けられた訳で,あの人の言い分はやはり正当であって,あの人は私のことを理解しすぎていたし,それを口に出来る立場にも居たのだ.似すぎていたから駄目だった.もう時効だと思うから未練がましいことを一言だけ書きたかった.

自分のことを全て理解されてしまった,と気付いたら,ついには全力疾走で逃げるしかない.理解されてしまう杜撰さよりも理解してもらう丁寧さが望ましくて,そうでないと平静な暮らしは訪れない.毎日が嵐である.

さて,転叫院さんの話であるが,「ぼくの地球を守って」に対する私の読みは冒頭の通りなので,当時の前世少女の事情はよく判っていない.ただ前世で共に戦った少女たちが出会ったとき,前世を知るために皆で睡眠薬を飲んだという出来事を聞いたことがある.在り得ないことが在り得たとき,つまり掲示した前世名に対して返事があったときには,きっとそういう痛々しいことが起こってしまうのではないか.例えば私なら全てを投げ売って近寄ったりあるいは逆に逃走したりした.僕の書いたことが理解されてしまうなんて! そんな在り得ない返事,つまり幽霊通信について私はローテーションを組んでなんとか逃走し続けるしかない.前世で戦った仲間が見つかった後どうするのか,ってところをお聞きしたいと思うのです.あああと糸電話の距離でメールを打つことについてとか.これ,明日のネタフリです.

(2003/8/3)

 みずいろ(PS2版) 清香の話

そこにトラウマと癒しがあったとして,両者は必ずしも綺麗に繋がっているわけではない.清香の母が後妻であり清香の鬱屈がそのことに由来しても,健二は最後までそれを知らないでいる.清香の言う母親とは前妻と後妻の両方の意味を重ね持つが,健二にとってそれは全て後妻さんのほうを指している.健二は深い事情を知らないし清香からもあんたにゃわからねぇと言われるわけであるが,その判ることの出来ない健二の気持ちが丹念に描かれているところが良い.彼が物心つくまでに母親と死別していて母親というものをよく知らないとか,あるいは彼が後妻さんと話をしたとき思ったことをいちいち挙げてみるとか,彼なりの分析はある.そして判らないなりに母親のことを話し続けた健二が,いつもなら砂絵を破り捨てたところで終わっていたはずの清香の思考を持続させて,気持ちにケリをつけさせる.第三者であるところの僕は清香の過去の事情を知らないと訳が判らな過ぎるが,健二が清香を好きになるときに彼女の過去の事情をよく知って対処方法を考えるというようなどうにも冴えない手順を踏む必要はない.ただ彼は僕よりもずっと彼女の側にいて,そりゃ他人同士どうしても判らないことがあったとしても健二は常に彼女の現在であり,それは話を聞くにつれ第三者にもよく判ることだ.いやつまりね,彼らが事情を目の前にして二週間もなにやっていたかというと,事情を無理矢理紐解くのに費やしたわけではなく,ただ朝から晩まで一緒に居ることを選んだってところがいい.健二は清香の家から二人一緒に登校しまた帰ってくる.あんたどこの家の子やねん.まるで新婚さんの二世帯住宅であり,この母親公認の住み込み感はSNOWの澄乃編を思い出す.あれは逆に母と娘が家にやってくるわけであるが.

あと気に入ってるのは最後に砂絵を渡す前からもう母と娘の会話が始まっているところだ.全体的に因果や契機を劇的なものとしてそのまま話に放り込まず,極力ならしたりずらしたりしているところが押し付けがましくない.

たまには好き嫌いについて明記しておくと,この清香の話はとても好きだ.

PS2版は日和,雪希,清香を終わらせたが,あとは当分手をつけないつもりである.せっかく幼年期でルートが確定するというのに,どうして高校編で二人がはじめから付き合っていないのだろうか.付き合う女の子が確定しているなら,朴念仁でヘタレな男の子など別に見たくは無いのだ.高校編で送る時間の長さが生かされていたのはようやく清香編であって,彼らの付き合いの長さを知るにはちょっとこちらも同じように付き合ってみないとと思う.また,そういう気が起こるのも健二が最初から最後まで清香にちょっかいを出す気持ちやどこかズレた人柄がそういうものとして一貫しているからであり,他の話のように前半は馬鹿で後半はまともになるという取ってつけたような態度の分かれ方がないからだ.「身についた」何かについてはひらしょーさんが上手く仰っているが,これは男の子のほうについても同じことが言えると思う.

(2003/8/3)


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