my life, da capo 2002年7月
曽我 十郎


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 シスプリのネタなど話の外の要素が混じっているように見えますが,よくよく俯瞰するとライターである御影氏の語りの中に無理なく収まっているところが面白いと思います.さくらの話は開始後三分でさくらと純一との関係が規定されてるから,始まった途端にもう完結しています.「ボクが本当に困ったときは,助けにきて……」といういかにも大切そうな言葉が冒頭にあるんですけど,その言葉を因果の出発点にして話の続きが始まるというよりは,そういう湿っぽい言葉のやりとりがあったことは意図的に無視され続ける,つまりさくらの話ではその言葉のやりとりの中に含まれていた世界が延々と語られます(だから言葉はわざわざ自己参照されない).話の中にある話が丁寧に綴られてゆくから大袈裟になりようがないし,多少遊びが混ざっても,どこか物語からはみ出して臭ってくるような嘘がないのだと思います.でも,KANONに似てるというのはどのへんかよく判んないです.

D.C.の話に飢えていたのでがつがつと.ゲームの続きをできる予定は未だないのですが.

ところで将来,音夢の話を終えたあたりで,ここで女の子の話をするのをお休みしたいと思います.想像だけで物事を書くのは実に幸せなことだったのだけど.そうはいっても,どこかに書かなきゃきっと生きてゆけません.どうしよう,掲示板みたいな形のほうが書きやすいかな.

あ,なるほど.見た目は似てるかもしれないです.あゆの場合,大事なことが隠されているから,後になってなんでそんな大事なことを早く言わんのだと思うことになる.だけどさくらの場合,大事なことは早々に明かされていて,6年前と変わっとらんし生活感もないこいつはどうにもおかしい.それで,実は先生,とかいう全くナンセンスなことこそが仰々しく隠されている.(2002/7/22)


 昨日は関西から金子修介の話を聞きにきた友人を迎撃,という名目で高校の同窓会でした.

大学を出ようとしたところで,Ever17ラッピングバスが学内のロータリーに止まっているのを発見.TPOを無視した珍妙な光景です.あわててデジカメを取りに帰ったのだけど,戻ったときにはもう出発しておりました.水姫に見せようと思ったのに,無念すぎる.

秋葉で忘レナ草のヴィジュアルファンブックと白詰草話を購入.昨日の第一稿の間違いがたくさん判ったので修正しました.白詰草話は体験版が120%大槍色だったのでようやく安心して手にしました.あとMOON.が売れているようですね.いい世の中になったものだ.すのこを解する人も増えましたか.

その後,新橋で同窓会.くじらを食す.(2002/7/21)


 「忘レナ草〜Forget me Not〜」(ユニゾンシフト)

死を弔うにはなんらかの物語が必要です.だけど,人間というのは強いんだか弱いんだか判らなくて,病で命を落とす数日くらい前までは一見元気そうだったりするものだから,死ぬのはいつだってあっけないものです.だから死ぬことの理由なんてまともに考えることができないし,生死にまつわる話というのは多くの場合ナンセンスにならざるをえません.

舞台は病院,正広は死神に執行猶予を与えられ,生きるためには月が欠けるまで入院している女の子たちと交わり続けるようにと告げられます.ナンセンスついでに,女の子を自由にその気にさせる力も貰い受けます.しかし,女の子と交わることは女の子の生を吸い取ることでもあるのです.特に考えもせず三日三晩連続で同じ女の子と寝たら,翌朝,その子の身体は冷たくなっていました.ついでにいうと,それはゲームオーバーでもあります.

物語が始まった時点で一度正広は死んだと指摘されており,また生きるためには他人の生を吸い取る必要があるということは,つまり人ひとり分の命はすでに失われていて,それを取り戻す術は物語のなかに用意されていないということです.ない袖は振れない,それは変えようがないことなのに,死を弔うためには話を続けなくてはならない.正広が自覚のないままに死ぬところから話は始まるけれど,それはどうしたって話せば長くなる弔い話を始めるきっかけに過ぎません.特に説明はされませんが,TrueEndの場合,物語の冒頭で保留された死とは実は正広のものでなく,弔うべきはそれぞれ別の存在であることが各話の最後に判ります.上のゲームオーバーというのが暗にそう言っているのかもしれません.

女の子三人のうち二人は長期入院していて,一見元気そう,つまりいつ死んでもおかしくない容態にあります.正広は彼女たちのことを好きになって,ある女の子は人らしく生きるために死にました.別の女の子は生きのびたけれど,その代わり死神が一人消えてしまいました.ある女の子は心を壊して記憶を失いました.結果は命ひとつ分が失われるはずの痛みを伴って,冷酷に収支が合わされます.

死に瀕した好きな者同士が互いの生をやりとりすることは賢者の贈り物になりようがなくて,失われた以上に得られるものなんてありません.どうしたって人がひとり失われるわけで.語り続けなくちゃならないことだけが残って,それは幸せでも不幸でもなく,ただそうするしかないというものであると思います.あるいは,失われたもののことは忘れてしまうのかもしれません.だけどその忘却は創作的で,それはなんとか辻褄を合わせて忘れ続けなくてはならないものなのだと思います.

もちろん痛みは当事者以外に理解できず,そこに物語は認められず,いくつかの話を終えるうちに,生をやりとりする力を持つ死神がいたという証拠は示すことができないのだと気づかされます.それは当事者以外にとって全くナンセンスで,だからこそ本当に死者が生き返ったりするような無理がない,真摯な弔いの言葉として受け止めることができました.

Why does a tale last until sadness disappears?
Why does the tale finish with complete oblivision?
I wish "Forget me not...";
nevertheless, the wish always reminds me a brand-new story.


懸案の忘レナ草についてまずは第一稿.ビジュアルファンブックをまだ入手してないので,読んだあとにまた少し手を加えるのではないかと思います.

あと今日よりメールアドレスにsoga@summer.nifty.jpを追加しました.summerってあたりがいいでしょ.ちなみに前のアドレスでも問題なく届きますので,連絡はしません.(2002/7/20)


 カラオケの日,この鳥の絵を塗る手順をよんぱちさんにお見せしたとき,「自分の好きなとこから塗ってますねー」と言われたのが強く印象に残ってます.判りますか?てな感じで嬉しかったです.しかし,デジタルの世界では直感的には何度塗り替えようが彩度が落ちたり汚れたりしないんですが,よんぱちさんのようにやはりちゃんと手順を踏んだ絵のほうが色が綺麗になると思います.ところで枠線ってどうやって引いたんですか?

実は塗る手順をお見せしたときに隠していた絵があって,いつものことですが,構図が描き始めの頃と変わっています.はじめのは,しんどい,というのがあまりに判りすぎる絵だったので,そこへ無理やり鳥を描き加えました(左から右へ向かって絵が新しくなります).こういう話はどうもうそ臭くていけないのですが,望みのある絵を描いていると自分も望みが出てくるということは時にあるようです.いつもそうなるとは限らないし.ほんとに大変なときはそもそも絵なんて描けないのですが,四葉に救われたという話をちょっとしておきたかったので.(2002/7/19)

落下する四葉猫(4/19)

鳥(5/28)

鳥,捕り,ひとり.(6/21)


 話は溜まってゆくばかりで,人に話せばいいのだけれど,誰かに会ったときはまた別の話が出てくるから,古い話はどんどん胸につっかえてこれは身体に悪いと思います.

いつものように,とりとめもなく.どれから話そうか.

大学前のカレー屋に初めて入ったら,おっちゃんとおばちゃんの夫婦経営で,お客は私一人だったからか気さくに話しかけてきました.こういうとき方言の話から始まるのは常で(銭湯のおばちゃんもそうだった),私の関西弁を聞いて「どこから来たの」,となります.関西人の性分であるのかそんな風に聞かれたときはいつも,わざわざベタな関西弁で喋ってしまいます.サービス精神なのかどうか判らないのだけど,身体が勝手にそう反応するの.家が近いと知れて,私は家から大学まで歩いて40分だと言うと,私の家からだったら15分で行けるはずだとおっちゃんたちに笑われてしまいました.近道を教えてもらったのだけど,とても25分も変わるとは思えません.犬の散歩みたいに歩いてるんだろ,と言われましたが,よくよく考えるといつもうわの空で,精一杯歩いていることはめったにないように思います.あぶない.

煮詰ったとき,構内の大きな池のまわりをぐるぐると回りながら考えます.京都にあるのは哲学の道ですが,私のぐるぐる散歩は哲学の回り道で,しかも,終わりがない文字通りの回り道で,何の変化も起こることなくまた研究室へ戻るのでした.東京のいけないところは山手線然り,基本的にぐるぐる回るように道が出来ているところです.ある日,一つの名前の道が平気の平左で90度くらい曲がっていることに気付いたとき,頭ん中にあったこの土地の絵が壊れました.つまり,道は碁盤の目に走らないという当たり前のことを当たり前のこととしてようやく認識したのがその日で,それでこの街のことが少し判りました.

輪っかの向こう側には何かがいるか何もいないかのどちらかですが,障子の桝目の向こう側には必ず何かがいて,そいつが向こう側にいることは常に見えているのだけど,障子が間にあって隔てられている.あるかないかではなく,あるけどないことになっている.東京の輪っかの下には何か埋まってそうで怖い.京都の碁盤目の下には何が埋まってるのか判ってるから怖くない.九字の目の向こう側にスダマを囚うというのは,そういう風にひどく納得がゆきました(もっけ,熊倉隆敏).なんかもう予想通り過ぎてこっぱずかしい気がしますが,瑞生が愛しくて仕方ありません.


今日,年上の人に「趣味とは一体どのように定義されるものか」と尋ねてみたら,仕事が煮詰っているときに,仕事が終わったら絶対これをやるぞ,と思うような「これ」が趣味なんだと教えてくれました.ということは,私の今の趣味はダ・カーポでしょうか.はよ続きやりたいです.

最近,私の机は汚れています.机の上に文字がたくさん書かれているからです.デジタルの時代です,メモ帳というものが身の回りから姿を消して久しく,ゲームをやってて気に入った文章があったとき,メモを取る紙を探すのが大変でした.sense offのときは封筒を開いて表裏に書いていたりしましたが,忘レナ草のときにもうたまらなくてそのまま机に書き写してしまってから,やみつきになってしまいました.必ず手元にあって書き込めるし,どっかいったりしないし,いつでも目に入る.今,大学の教室の机の上みたいに落書きされてます.芳乃さくら,なんて好きな女の子の名前を書いてみたり.よく耳にするように,好きな子の名前を机に書いたりするような人が本当にいるのかは疑問なんだけど,そういう想像のイベントを今,一つ消化できたように思います.あ,これは,みなさんも一度書いてみてください.すごいから.

ヨシノ,という音は奈良生まれの私にとってはソメイヨシノでなく千本桜の吉野のほうになります.山裾から順に下千本,中千本,上千本,奥千本と花が開いてゆく様子は,徒花を転じて永遠を連想するよりむしろ,時の流れる様を感じさせます.幼いころ純一にさくらんぼと徒名された少女は,アメリカから帰ってきたとき実も葉もつけない花ばかりのさくらでした.永遠の桜,時流れ始めたなら,花の跡に種を落として.今度は徒名でなく本当に,さくらんぼと呼びたいから.


ところで本当は忘レナ草とワタリベ氏の話を書きたいのだけど,まるで文章が出てこないのです.(2002/7/16)


 天つ風 夢の通い路 吹きとじよ,つーか,なにを願いさらすんじゃこのクソババァ!ここはまた認識力学研究所の付属学園なんか?

いや,いいですよもう.「音夢のこととか,不思議な力とか…….そんなものを追求したいんじゃなくて.俺はさくらに会いたかった.」て純一が言ってる.だからそんなことは問題じゃないんです.

「魔法使いは,人を本当に好きになると魔法が使えなくなる――って.」そういう恥ずかしいことを素では思うことができず,つい性悪ばあさんの顔が目に浮かぶ.あるいは,まんぼう,とか言ってはずしたりする.もっともらしい言い草を避けることでようやく本当に言いたいことを指し示すことができるというじじ臭い語り口と,一方の若すぎるふざけ方のミスマッチが面白い.だいたい冒頭の雰囲気よさげな場面で「十二人の妹」はないでしょう.だけど不思議に読みやすいのは,想像の綺麗さと性悪さがちょうどいいくらいに交じり合ってるからかな.

もちろん,おはなしは霊能以前のもの.純一にとって不自然なまでに事実の隠されていることは,私ら自然に感じ取れるわけで,そもそも原因が分かってそれを取り除けば終いではお話にならない.世界の根幹に関わる問題があったとして,さくらの影が純一に言うよう「あなたが考えているよりも,彼女の問題は実際は浅く単純で,心は傷ついている」.大山鳴動,だけど桜一本散っただけ.魔法だなんだといっても,それは二人,あるいは三人の間だけのことで,島中の桜が散りはしなかったのは,そういうささやかなことだからさ.

はじめから,このおはなしは完結しています.「ボクが本当に困ったときは,助けにきて……」「……それは約束しない」「え?」「約束しなくても助ける.約束なんてしなくていい」「……うん.あっがとうお兄ちゃん」 あの舌足らずな声を覚えていたら,それでいいんです.フィーネはいつだって楽曲のはじめ,主題の最後の小節あたりにあります.音夢の言うよう,それは腹の立つやり口だったかもしれないけど,そんだけ彼女は切羽詰まってたんだからどうか許してあげて.

(ダ・カーポ,芳乃さくら編.7/17/47/6,2002/7/7)


 想像でものを書くもんだから,プレイ時間よりも感想を書いている時間のほうが長くなってきました.だけど一気に話を読み終えることが出来ないから,読後感想文というのは向きません.そんなこんなでようやく4/20までのお話.かなりネタバレですよ.

まさか高校生編があるとは思ってなかったので,驚きました.つまり,説明されない部分が回収されることは期待していなかったのですが.なくてもだいたい判るし.

まずは勘違いを直しておくと,さくらは「おじいちゃん子」ではありませんでした.純一がおじいちゃんみたいな手をしていたもんだから,マニュアルの「お兄ちゃん子」というのを読み違えていました.出ないだろうと思ってたおばあちゃんが出てきて和菓子話を回収するもんだから気付くことができました.(とか思ったけど,冒頭の夢の中でやっぱ「おじいちゃん子」って言ってる.誤読じゃなかった.(7/7))そして,さくらと音夢とは別にもともと友達じゃなかったみたい.さくらが純一と出会った時には,純一と音夢とは既に兄妹でした.フック船長は,なんと複線になっていましたね.あと,音夢の寝巻きは左前,つまり男物のシャツですね.はずしてるボタンは第一ボタンまで.えらく見えそなんで二つくらいはずしてるかと思いましたが,純一いわく,それでも音夢の胸元の絶対防衛線は破られていないということでした.ほんまかいな.

さて,さくらの存在の不自然さには純一も薄々気が付いていたのでした.さくらの家が実在するって判ったから逆に私の方が彼女の存在の確からしさに安心してしまっていたのだけど,純一のほうは不意打ちみたいに気付いていた.ただ私も,さくらの部屋を見てはじめに思ったことは星虫の広樹の部屋に似てるってことでした.部屋に全く不釣合いなコンピュータ.ぜってーこいつ実は天才少女だと思いました.

純一の想いをよく感じとっている音夢が同じことに気付いていないはずもなく,いえ,純一の目に見える範囲であれだけ鞘当てしていたさくらと音夢ですから,男には見えないところではもっと,つまり,さくらのことは純一以上に判っている音夢でした(「泣き虫さくら」「泣き虫音夢」の項参照).このへんから音夢のことも放ってはおけなくなってきました.ひらしょーさん流に言うと,さくらも音夢も放っておくと死んじゃう度が高い.和菓子の力のことが音夢にばれていることを,純一が知らなかったのは非常に問題がありました.「何年,兄妹をやってると思ってるのよ?」て言われた.さくらのことも純一は何も知らなくて,だからこれまで知ろうとしなかったさくらの6年間を(さくらに言わせれば純一の6年も合わせて12年を)さくらの部屋で語り合うことにしたのに,結局は話をすることもなく,一緒の部屋で一緒に居るだけで満足してしまいました.いや,純一のやってることは判るんですよ.だって,家族のことなんて詳しく知ってますか.父母が高校生の時分どうだったかとか.姉んこととか.これだけ姉の話書いときながら,実は姉の大学時代の専攻のこと軍記ものという以上は知らなくて,この前ちょいショックでした.よく知らなくても一緒に居るだけでなんとなく過ごしてしまえる.そうなんだけどさ.純一がさくらのことも音夢のこともなんにも知らないのは,やっぱ兄妹だったからだと思うんですが,彼女たちは実は女の子でもあって.音夢の言葉を正しく言い変えると「何年,兄妹みたいに一緒に居ると思ってるのよ?」でしょうか.そういうことがはじめて判ったのが,新学期直前の寝苦しい夜のことでした.

高校生編ではのっけから顎が落ちました.だけど,衝撃から立ち直ってみると,あのさくらの姿は痛々しいばかりです.ひどくない? どうしてアメリカでそんな変なもん背負って,帰って来たの.そりゃ夢だったかもしれないけどさ.

純一のかったるさの表れではありますが,にいや〜,とか「第1回:さくら ちゃん救出作戦会議」とかふざけているとは思います.引っ掛かりを覚えつつもここまで喜んで読んでるのは,基本的に綺麗な夢を見ている人だと思うからです.さくらと音夢の担当は御影氏.水夏の二章担当らしいので,こちらも読んでみたいところです.

(2002/7/6)


 望むと望まざると,男性向け作品より先にやおいの味を知ってしまうということはあります.そこから逃げ出すために大学入ってからは必死に男性向け作品を読み漁ったわけで.おかげで僕も,女の子好きー,とか思えるようになりました.とかいいつつも辿り着いたところは,お兄ちゃんが好き,で,これは妹萌えのフリが出来て便利ですね.それにしても姉と同じ部屋に居てベッドの下なんかに隠してある姉のアレな本を読むということは,ごく普通にあることではないでしょうか.あるいは男子高という異次元の話ではありますが,私の周りでは聖伝やらアーシアンやらは普通に読まれていて.男向けだろうが女向けだろうがエロはエロのために,話は話のためにありました.話の面白いものは男女区別なく読めるし(私は聖伝を面白いと思わないけど周りでは流行っていた),エロにしたって助平な青少年ならどっち向けだろうが読めるもんで.中高生の頃はどちらだって自然だったものが,年を食うと男だ女だとガツガツするようになってくるような気がします.あるいは,男でも女でも読めるような話がなくなってきたのかもしれないです.サウス休刊ですって(最近読んでなかったけど).やたらユニセクスを強調する雑誌社エニックス(そういえば響きも似ている)で高河ゆんがあいかわらずな漫画を描いてるのを見ると凄く安心します.ぱふのインタビューを読むと新規読者がかなり多いとのことで,そうだ少年少女よ,もっとゆんを読め.

姉はもちろん積極的にエロを弟に薦めるようなことはしません.そんな悪い姉はお話の世界にしかいませんてば.だから読むとしたら紫宸殿とかになりますが,ところでレイアースのあんまりな紫宸グランゾートっぷりはどうですか?レイアースは男性向けグランゾートという当たり前のような当たり前でないような言い方がよく似合う作品でした.とはいえ,私が初めて思い入れを持った女の子が海ちゃんだったというのは今振り返ってみるとよく判ります.大学二回生の時のことでした.

少数派というのは自分と同様の考えを持つ人間の数を,実際よりも多く見積もるものらしいですが.別に社会性を持った言葉を話すつもりもなく,身近な人にちょっと知っておいてもらいたい程度で,沈黙のスパイラルを回しているに過ぎませんよ.

判ってやってるんでしょうけど,平和に生きているやおい女とやおい原理主義女とを混同した,じゃなくて混同させるアジは,ちょっぴり辛く思ったのでした.

私,何,いじけてますか.ごめんなさいね.先に謝っちゃう.

(2002/7/5)


 「ボクはフック船長だ!」言葉とか行動が幼く見えると思っていたら,やはりさくらたちは中学三年生でした.新学期を前にして気持ちが軽く見えるのも,エスカレーターで進学できるゆえかな.春になっても校舎が変わるだけ,っていうのはそういう意味なのだと思います.

お昼ごはんを食べながら話をしていたら,そのうどん一口くれ,なんて純一が無造作に言いました.生理的に自分と近い存在として家族が意識されるのはこういうときで,自分の食べ物に家族の口がつくことはあまり気になりません.だからさくらも平然としていました.当たり前すぎて,確かとくべつ返事すらしなくて,お椀だけを差し出しながらそのまま会話が続いていったと思います.たとえばアイスクリームやスープは家族でも恋人でもない異性には口をつけさせにくいでしょう.生理的な距離は,普段どれほど同じものを触っているかによって決定されています.あるいは,ソファーに染み付いた彼の匂いに慣れてしまうこと,抜け落ちた彼女の髪が気にならないこと.さくら専用の入口である純一の窓の下には彼のベッドがあって,さくらが降りるのはその場所のはず.純一とさくらが小学生の頃,ベッドの上でふたり暴れていたのは,なんとなく想像がつくでしょう.

一方で,純一と音夢との関係はえっちくさいです.純一の日課である音夢の熱測定(おでこごっつんこ)であるとか,音夢がブラウス(シャツだったかも)の第二ボタンまであけて純一の部屋に入ってくるのとかは,どうもお互いのまだ青い助平さを確かめあうように見えて,中学生諸君よその若さを存分に楽しみたまえ,なんてほほえましく.純一のほうは,男の子として一つ屋根の下で暮らす義妹である音夢に対していろいろ想像こいてしまってならないどうしようもなさは,音夢がいないときに冗談交じりに声出して叫んでるから,話は淫靡にならず健康的でしかありえないのですが.「そんなこと,したいけど出来るかー!」

会話は理想的な流れにならず,「一口くれ」であるとか突飛な物言いによってことごとく崩されてゆきます.彼らの事情を説明するような書き言葉がないためか,その不均質な話しことばから何か汲み取ろうという気にさせられます.自分たちの話す様子をMDレコーダーにでも録音してみれば判る事ですが,私たちの会話はとてもじゃないけれど小説みたいに理想的な流れではありません.「さくらと純一のことが好きなんですよ,兄妹みたいな振る舞いでさ,あ,さくらというのはダ・カーポのさくらで.」 主語がない,順序逆で最後になって理由を付け加えたり,前の話をふとむしかえすと話の前後も無茶苦茶で,喋っていたその時には難なく理解できていたと思うのだけど,録音したのを再生させると何いってんだか判りにくいものです.だから日常の会話というのはそのままで小説の会話にはなりません.日常の整然としない話し方は小説の調子を狂わせますが,音夢とさくらにはそれが味となるような仕掛けがあって,音夢が学校ではよそゆきの喋り方をすることや,さくらが帰国子女であること,つまり,彼女らの会話のスタイルがそもそも均質でないということくらいは,納得のゆく形で感じ取ることができるようになっています.さらに言うならさくらは輪をかけて支離滅裂な会話スタイルを持っていて,時代劇に影響を受けていること,幼い頃は舌足らず,子供のように発想が飛躍してそれに取り憑かれるようなところがあること(フック船長のくだりはとてもお気に入りです),そして日常の会話のゆらぎはそうした説明のつくゆらぎの中に混ぜられているから,会話が決定的に壊れることはありません.その場はそういうものとして流されて,だけど後になってからすごく気になってきて,ついには心を奪われます.

ついに,うたまるが登場しました.突然現れたのにさくらと結びつきが深いのはなぜなのか,そういうことはあいかわらずさっぱり判らないのだけれど.

(2002/7/4)


 ダ・カーポって好きでした.左から右へ,上から下へと流れる楽譜を,エッシャーの水路みたいにてっぺんまで戻すのは子供心に楽しくて.子供だから,フィーネに辿りついても無視して,何周でも飽きるまで繰り返し弾くようなこともありました.それはそういう無邪気な季節で.

D.C.の3/1まで.おはなしはまだまだ始まったばかり.事情がずいぶん省かれてるので,さくらがどうして帰国したのか判りません.彼女の家の話がないもんだから,また昔みたいに隣に住んでるのか,そもそもほんとに帰国してるのか?そう疑いたくなるくらいなんですけれど,事情は判らないままに気持ちだけは先走りして,はっきりとしています.「ボクが本当に困ったときは,助けにきて……」「……それは約束しない」「え?」「約束しなくても助ける.約束なんてしなくていい」「……うん.あっがとうお兄ちゃん」 舌足らずな声を覚えている.だから,なにか困ったことがあったの,さくら?

たしかに,年上の妹ということは容易に成り立ちます.たとえば,兄にとって弟のお嫁さんは必ず妹.では,兄にとって妹の友達は? むしろこの場合は少年から見て少女が妹であるかどうかではなくて,少女から見て少年が兄であるかどうかが問題です.私にとって女ともだちと男ともだちだった二人がある日突然兄妹関係になってしまったら,私は一体どこに身をおけばいいのかしら.音夢の兄だけじゃなく私の兄にもなって,私を守って欲しいという(小さいが一応純一より年上の従姉である)さくらの要求はわがままみたいだけれど,純一とさくらとの間ではそれが許されています.純一にとってはさくらでなく音夢のほうが妹になったからといって,純一がさくらのことを守ってやるという関係は変わるはずがなかったし,さくらも音夢が義妹という形でもらったのと同じくらいの約束を欲しがったに過ぎません.

純一くんは全く兄らしく優しい.いじめっ子なところも含めてさ.さくらのための玄関は彼の二階の部屋の窓で,彼女がアメリカへ行ってしまっても,いつかまた帰ってくる日のために窓の鍵は壊れたままにしておく.窓ガラスに「悪霊退散」なんて貼れるのは,そこが彼女のための道として了解されているからで,明日には「千客万来」に貼り直す.

だけど,見て.その窓は猫が通るみたいな小さい窓で,アメリカから帰ってきた彼女は小学生の頃のままの小さい体で,その窓を通り抜けることが出来る.彼女,ほんとう大丈夫なのか.杞憂ならいいのだけれど.

純一の手のひらから和菓子を生み出す力にはとても安らぎを覚えます.手を握るように合わせてさくらにお菓子をあげる,あれはおじいちゃん,おばあちゃんの手のひらです.おじいちゃん,おばあちゃんの手のひらには気付いたらいつも和菓子があって,孫たちに分け与えてくれます.うちの大家さんもそうですね.大家さんの手のひらから私はいつも和菓子やら果物を頂いています.純一のこの力を知るのはさくらだけで,そういえばさくらはおじいちゃん子であるといいます.純一とさくらとの間には,そういう年長者と年少者の間にあるような親愛があります.

この序盤において彼らの現状に関する説明はあまりに少ないんですが,さくらと純一の考えてることだけはそんな風に胸のなかに湧いてきてしまったので,早いけど書き出してしまいました.

(2002/7/1)


なつかげめいきゅう ほしくさせんろ (c)1996-2184 曽我 十郎
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