phantasmal closet 2003年7月

パジャマを着て一晩中.


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 ニコパチDVD(坂本真綾)

マメシバ.坂本真綾が走った道を小さな犬が別カットでもう一度走ってゆく.犬に追いかけられてどこまでも走る真綾さん,という変な映像だとはじめ思ったが(どこかでご本人がそう書いてたせいだと思うのだが探し出せなかった.シングルジャケットの話だっけ?),真綾さんイコール犬で二つの映像が一人の女の子に重なってるのだなあ.同じ踏切に引っかかるところが面白くて,そこで真綾さんと犬とがパチパチ切り替わらなくてもきっと判った.同じ踏切は二度とあり得ない.踏切って共通の時間を生きてることの手がかりなのだ.

雨で白いブラウスが透けているのはえっちい.思わず口に手を当てた.

「マメシバ」と言えば“大きな声で名前を呼んで”が「夜明けのオクターブ」にも出てくる言葉なので耳に残る.夜明けの〜で呼ぶ名前は「ポーチ!」であって,長らく犬の名前だと思っていたのだが,単にナップルテール(門倉直人)の主人公の名前だった.しかし,そういうわけでともかくも真綾さんと言えば犬という印象がある.

走る.「DIVE」のポスターを日本橋のヤマギワで貰ってきて嬉々として部屋に貼っていた,その頃の映像.好きになるときはなんでもポスターから入っているような気がする.ご本人のライナー・ノーツが面白い.『バスタブでラララとは,ちょいとブリッ子ぎみじゃありませんか坂本さん(18才).いいえ,10代だったんだからセーフです.』

セーフ!

メイキング・ニコパチ.23歳の顔,顔,顔.真綾さんの顔,好きだなぁ.再来週はついに生真綾さんを観にゆくのだ.

STAFF+小さくおまけ映像.「しっぽのうた」に合わせてオチが見事に決まっている.


ところでBBSを閉じました.書き込んでくださった皆様,サンクスでした.

はれるでしょう.はれるでしょう.コミュニケーションは今後より暗黙的に.

まずは,「はれるでしょう」って何だ? というところから感じてください.原典なんか知らなくていいから.

(2003/8/2)

 みずいろ OVA版とPS2版

PS2版も日和編と雪希編を終了しました.私がこれまで書いてきたのは基本的にOVA版オリジナル要素で,PS2版は話が全く違うからそこんとこよろしくー

両者の違いを書き始めると長くて,今時間ないので判る人には判るメモを少し.

いきなりであるがムービック製作の「ONE」ドラマCD第一弾を思い出してほしい.長森が皆口裕子で浩平がマイスイートヴォイス野島健児のあれである.女の子の気持ちを追いかけたあのドラマシリーズを素朴に読むと,僕はお姫様であって僕には僕だけの優しい王子様(浩平)が居る.プロデューサーでありシナリオライターでもある松永孝之氏や中村誠氏はその後何本もゲームのドラマCDやアニメ化を手がけていて,私はその全てをフォローしているわけではないが,今回のみずいろOVA版は私がONEのドラマCD長森編を聴いたとき折原浩平に惚れた幸福な気持ちを思い出すに足りる.

PS2版の片瀬健二は前半頼りなさげで後半彼氏になるが,OVA版では終止頼りになるお兄ちゃんである.で,PS2版において日和と健二の恋愛の節目となったこと,つまり迷子の出会いとクローゼットに隠されたチョコの発見は,OVA版では全て健二ではなく雪希が担当するのだ.女の子が男の子の役割取っちまう.かくしてこのアニメは雪希こと僕にとって頼りになるお兄ちゃんと大好きなお姉ちゃんに囲まれて暮らす幸せな物語となったのだ.

(2003/7/30)

 みずいろ(OVA全2巻,ムービック版)の話(4) そして三人

私が最も好きなのは,パジャマを着た兄妹二人と,居場所やら身体やら中身やらがちぐはぐな幽霊とが一晩中嬉しそうに思い出話に華を咲かせるところである.寝間着の兄妹は年に似合わぬお泊り会という風情で,幽霊のほうもたいがいとぼけた奴で,そんなありえない夜が楽しくないはずがない.あと友人たちのおせっかいも心地よい.健二と雪希とが日和の死のためにそれぞれ別のやりきれなさを感じているときに,進藤はなぜか日和にいつも以上にぺたぺたとくっついてくるし,清香や友人の三バカも健二の周りを賑やかにする.

さて,全編を通してこの話を魅力的にしているのは繰り返し述べたよう雪希が日和のことを大好きに想う気持ちだ.しかし,これは野暮であるのでいちいち理由を述べたり気持ちの流れを追いかけたりする気が起こらない.言うのがもったいない.だけど一つだけ端的なものを記しておくと,兄妹二人のときは圧倒的に兄の味方である雪希だが,健二・日和・雪希の三人になると途端に日和の味方につくから男一人に女二人でお兄ちゃん弱ってしまう.

一番おいしいところは書く気が起こらないので周辺の話をのんびり追いかけてきた.ただそれすらも追いかけたい気がしたのは,絵の演技の細かさによるものである.例えば,雪希がヨーヨーを渡すときの健二がスニーカーを履く上半身の慌てたようなリズム.健二はそのときいてもたってもいられない感じで玄関から出てゆくのであって,そうでなくては雪希が本当のことを言いそびれるようなことはないのである.ああ,あと幽霊だから靴下は汚れないのに,わざわざ脱いで素足で外へ駆け出す日和の女の子らしい仕草!

残りの良さはもうDVDを買って直接その目で確かめてください.(プロモーション映像

(2003/7/29)

 ゲーム版のみずいろ話を捜してWeb界をさまよう.たまたま2001年5月22日とか25日の記述にたどり着いて独りニマニマする.(2003/7/29)

 みずいろ(OVA全2巻,ムービック版)の話(3) 片瀬兄妹

片瀬兄妹の仲の良さ,特に健二が見せる雪希への優しさはオープニング映像で十二分に語られている.雪希に手を伸ばすときの健二の顔は男前である.卒業式,海,サッカー,雪だるま,四季折々のスナップ写真も二人仲良く笑顔で写っている.が,本編が始まってからもこれは止まらない.二人きりの朝食風景,ふざけたことを言い合ったりしてとても楽しそう.二人で一緒に登校,玄関口で雪希が霜を踏み鳴らしながらくるりと回るのを愛しむように見つめる健二.あやうく遅刻を逃れてまたくるりと回る雪希,凍った水たまりに足を滑らせるが,再び健二が手を伸ばして胸に受け止める.どこか照れたような様子の雪希とただ怪我が無くて安心したという顔の健二.そんな二人を見てからかう進藤に健二が手刀を叩き込んだのは,まるで兄妹じゃないような言われ方をしたからで,もらわれっ子である雪希がそのことで苦しまないように健二はいつだって気にかけている.しかし,この兄妹は周囲の目からはどう見ても仲が良すぎるのだ.私は兄妹がいくら仲良くたっていいと思うが,ただまあ,それはからかわれるには値する.清香にバレンタインのチョコのことを聞かれ,一度は妹からもらっても嬉しくないと言う健二であるが,その直後,清香から義理チョコ一つ貰ったことの無い男たちとして他の友人と十把一絡げに哀れみを受けると,俺は違うとムキになって反論する.やはり雪希から義理チョコを貰うことにはこだわりがあるのだ.

夕食後に健二が皿を洗っていることから,彼が家事を雪希に任せきりにすることなくよく分担していることが判る.そんな風に二人きりで生活することが多くて,健二はやはり雪希のことが一緒に暮らす妹として可愛い.義理チョコを貰えるのは兄としてとても嬉しいけれど,本命チョコは違う.本命チョコを渡す相手が出来たら兄として自分が見極めてやると健二は雪希に告げる.そのときの健二がぎこちないのは兄妹でも色恋沙汰を話すのは恥ずかしいからで,それ以上に含みは無いだろう.私だってどこの馬の骨とも知れぬ奴に姉を渡すつもりは無い.雪希としてもそんな風に自分のことを大切にしてくれる兄のことを女の子として好きになってしまった.だから本命チョコの話をされたときも,雪希の決めた相手は健二であるにも関わらず,そういう兄を見てどこか嬉しそうである.

そんな二人の暮らしは日和の死を知ったことによって大きく動き始める.幽霊と引越し先の噂話という状況証拠により日和はもう死んでしまったのだと兄妹が信じたとき,共通の幼馴染を失った悲しみに加えて,雪希にとってそれは日和に対する負い目を深くするものだった.健二はいつだって自然に優しくて,どこまで本気だったのか判らない「ヨーヨーとだったら交換してもいいぞ」という条件を雪希が(でも本当は日和が)馬鹿正直に満たして見せたとき,「約束だからな」と笑顔で指輪を渡してくれる.しかし,そのあまりの自然さにタイミングが合わなくて,雪希は本当のことが言えないでいる.ありのままの兄と,もう妹ではいられなくなった女の子と,それは今に至るまで彼らの構図で在り続ける.ただし雪希の悩みはあまりに兄らしい兄を好きになることで自分が普通から外れてしまったことそれ自体ではなく,そうすることによって大好きだったお姉ちゃんを裏切ってしまう点にある.あの日,誤解を解かないまま指輪を手にしてしまって,おそらくは日和お姉ちゃんならば普通にそうしただろう,だけど雪希にしてみれば大人っぽく背伸びをして誰も見てないところで左の薬指に指輪をはめてみた.その指輪が夕日に輝いて見えれば見えるほど,日和への罪悪感は募った.すぐに指から外して引き出しにしまいこんだ指輪は,日和の引越しによって正しい持ち主に渡すことが出来ないまま,そして今,日和は手の届かない死の世界へ行ってしまった.彼女が何度も引き出しを開けたり閉めたりしながら思いつめた顔をする姿にその取り返しのつかなさが現れている.それに加えて,日和と幼い頃に結んだ「抜け駆けはなし」の約束.日和が死んでしまった今となっては,雪希が健二と共に暮らすだけでそれは日和に対する抜け駆けであるように感じられてしまうのだろう.

二人にとってそれぞれ別の悲しみに満ちた夜が明けて朝,雪希は昨晩の悲しみとは反対に極力日和の話題を健二に振ろうとする.健二はそれに対して投げやりな言葉で返すが,雪希に叱られてむしろ自分こそ配慮がなかったことに気付いて謝る.大切な幼馴染のことで自暴自棄になるのは相手だって喜ばない.この素直さこそが健二の真骨頂である.しかし,その決意に身体はついて来なくて,健二はその日の間,自分の身体をどこかへ投げ出したくなるような気分だった.健二は朝に天気予報を聞いていたはずなのに傘を持たず,学校で清香に天気予報を見なかったのかと問われる.その問いに答えることで健二は改めて自分のやるせない気持ちを確認しただろう.家に帰ると今度は日和が同じように天気予報を見なかったのかと聞いてくる.同じ問いであるのに二日ぶりに出てきた日和を見た健二の嬉しそうな口ぶりが印象的である.この転調から健二は幽霊の日和のことを今までよりもっと愛しんでやりたい気持ちになってゆく.

雪希は日和のことを大好きな気持ちの裏返しとして深い負い目を持っていた.指輪は彼女達二人の事情に過ぎなくて,健二は雪希の負い目に対してどこまで理解できていたのか判らない.妹ではなくなった女の子と兄と,すれ違った二人の構図をそのままに,雪希が日和を大好きなことと健二が幽霊の日和に心を砕くこと,二人の個別の気持ちは最後の遊園地で一人の幽霊の上に辿りつく.すれ違っていてもそれは決定的に破綻することなく,彼女を中心として出会う.凍りついたままだった幼い日の想い出が,今改めて心を揺さぶられるまでに甦り,すれ違う日々も優しく繋ぎとめて彼らの明日を紡いでゆく.その溢れんばかりの力が一人のか弱い幽霊によってもたらされたことが,美しいものとして心に沁みてくる.

((4)へ続く.2003/7/28)

 みずいろ(OVA全2巻,ムービック版)の話(2) ふたりの日和

子供なりに日々忙しくしているうちに気がついたら高校生になっていて,小学生の頃には思いつきもしなかった日和を探しにゆくことが出来る力を手に入れていた.ただそのなんでもないことに健二と雪希が気付くためには一つの事件を経る必要があった.日和を失った小さい頃の自分と今の自分とはそう簡単に繋がらない.日和のことを想い続けていれば気付かぬはずがないと言うなかれ,子供は子供なりに日々忙しい.

ある日,健二の部屋のクローゼットの中から幽霊の日和が出てきたことによって,彼らの今と昔が繋がり始める.幽霊の日和はかつて小学生の健二によってクローゼットに閉じ込められた忘れがたい思い出によってそこに居るらしく,それ以降の記憶を持たない.記憶も心もその小学生の時のままであるが身体だけは高校生に成長していて,あいかわらずのズレっぷりである.初めて見たとき健二も日和も大きくなってしまった互いのことが判らないが,雪希にだけその女性が日和であると見抜くことが出来たのは,日和へのこだわりゆえだろう.今となっては日和よりも雪希のほうがずっと大人びていることを思うと,既に雪希の気持ちに入り込んでいた私は再会までかかった長い時間に涙が滲んだ.しかし冷静に見るとやはりズレている.この心だけ子供のままの幽霊は一体何なのかと.

クローゼット事件以降の日和の記憶と彼女が幽霊になった理由を探るため,三人は覚えている限りの思い出話をする.幽霊の日和にとってそれは不思議な体験で,彼女の記憶では建設中の遊園地がもうとっくに完成しているのだと健二に聞かされる.クローゼット事件以降のことは,健二と雪希にとっては昔のことでも幽霊の日和にとっては驚くべき未来のことである.そもそも高校生の,小学生から見ればずいぶん大きな人に違いない健二と雪希と一緒に話をしていることが不思議だ.そんな風に時を越えてやってきたのは日和のほうであるが,小学生のままの日和の無邪気な反応に釣られるかのように,健二と雪希こそが過去の時間に引き込まれ,朝まで三人はずっと思い出話をしてしまう.だけど,懐かしい人と会って朝まで話しこんでしまうなんてほんと嬉しい出来事のはずなのに,三人の目の前にあるココアのカップのうち日和のカップだけは減ることがない.幽霊はココアを飲むことが出来ないのだ.高校生の健二と雪希は過去に触れるきっかけを得るが,静止したままの過去との間にある距離はまだ遠い.そして日の光の下で幽霊の日和は消えてしまう.

クローゼット事件から時間の進んでいない日和がそう感じるように,思い出話が未来的であるのはむしろ普通のことである.同窓会を開いたとき,ある昔の時点で別れた僕らがする話は,その別れた頃の気持ちで聞くと全て未来的に感じられる.誰それが結婚した,という話は言い方こそ過去形であるが,その経緯を想像するとき僕らは心を別れた時点まで戻して,その先にある共有できなかった未来を辿りなおすことになるんじゃないか.高校生の健二と雪希は童心に返り,童心の日和が居て,三人で思い出話をする.日和は知らない未来の話を聞いた.そしてもしもこれが同窓会なら健二と雪希も自分達の知らない未来を日和から聞けるはずなのに,そこはぽっかりと抜け落ちて,おかしな空白があるように感じられる.そこには高校生の日和の記憶が足りない.幽霊の日和が幼い頃に別れた日和の死霊か生霊であれば霊となる直前までのことを覚えているだろうが,この幽霊はそうではない.強いて言うならば健二と雪希の兄妹と日和が遠く長く離れていた隙間に化けて出てきた何かであり,それはただその空間を埋めるべく生きていて,遠い地で入院している本当の日和とは関係を持たない.だから,幽霊は高校生の日和の記憶を持たないし,健二と雪希は同窓会が正しい形で行われるよう祈りながら,抜け落ちた空白を埋めるべく奔走したのだろう.

まずは日和が死霊になって出てきたと思い込んだ健二と雪希は,昨夜の思い出話から担任の先生に思い当たり,日和の引越し先について調べ始める.この調査の辿りつく先が最終シーンの入院先の日和であるが,そこに辿りつくまでに埋めておかなくてはならない気持ちの空白が彼らにはたくさんあった.それは健二の雪希と日和に対する気持ちの確認であり,雪希が日和のことを大好きであることの確認とそれに伴う謝罪と,そして実は日和も雪希に遠慮していたという気持ちの行く末だった.入院先で日和は幼い頃の夢を見て,そのとき健二と雪希に会えて嬉しかったのだと言う.夢の中で,幼い頃の彼女は幼い頃の健二と雪希とに会っただろう.高校生の日和の見た夢と,高校生の健二と雪希とが幽霊の日和と出会ったことはそのまま重なりはしない.ただきっかけはほんの偶然で,クローゼットからどこかズレた幽霊が出てきた.そのとき健二と雪希とは想い出を取り戻しながら日和のために奔走し,遠いところにいた日和もたまたま昔のことを思い出し始め,三人はついに出会った.幽霊のことだってけして忘れたりはしない.それだってもう,これから失くすことなんてない三人の思い出の一つであるはずだ.振り返ってみると,幽霊の日和がいなくても何も世界は変わらなかったようにも思える.彼女は健二と雪希以外には見えなかったし,彼女がいなくても引越し先のことはいつかは気付いていただろう.思い出の中の物しか触れない彼女が残したのは一言,さよなら,と記したカードだけ.だけど,理屈や形の上では残らない,きっかけを作り出したのは彼女だ.これは,三人の死んだように眠っていた記憶を一つ一つ呼び起こしてくれる,へっぽこで人の良い,放っておけない幽霊の話だった.

((3)へ続く.2003/7/27)

 みずいろ(OVA全2巻,ムービック版)の話(1) プロローグ〜オープニング映像

原作のゲームも知らないのに手を出したのは,紹介記事のまるくて綺麗な絵柄に惹かれたからだ.第一,パッケージの幸せそうな女の子たちがいい.後になって見るとこれは日和が雪希に抱きつく瞬間のスナップであり,再会を喜び合う二人の笑顔は本OVAの内容を代表していると言ってもいい.

プロローグからオープニング映像にかけて,既に話の骨子を判るようにしてあるのが嬉しい.先の展開を隠すようなところがないので書き味は丁寧で繊細.加えて原作を知らずとも足りないところが無い.小学生の頃はたった一年の違いが覆し難い身体や居場所の差になった.日和も雪希も健二も小さかった頃,雪希は他の二人よりも一つ年下で,性格もあったかもしれないが二人と同じ位置に立つことが出来なかった.冒頭,コンビニの前,公衆電話よりも背の低い彼ら.健二がガチャガチャをするところを後ろから日和と雪希が覗き込む.健二の影からぬっと二人の顔が出てくるのだけれど鼻までしか出てこないところがいかにも寸足らずだ.いつも一番前にいるのは男の子の健二で,日和はその斜め後ろ,背の低い雪希はほとんど隠れてしまう.健二が引き当てた指輪を欲しいという日和が「わたしなってもいいよ,けんちゃんのおよめさん」と無邪気に言うのを,雪希は何も言えないでただぼーっと見ている.指輪とプロポーズとを繋げて考えてしまう健二と日和のませた雰囲気は雪希にとって別世界だ.これは二人が教えあった将来の夢もそうで,日和が健二のおよめさんである一方,雪希のほうは健二が白馬の王子様になって迎えにくるというもので,ませた少女とまだ夢にもそういうところがない少女との違いを見て取ることが出来る.

健二は自分が兄で雪希が妹であることを意識して雪希の手助けをする.しかし健二と同い年の日和は雪希と年の差があることをよく判っていなくて,同じ立ち位置で雪希を見て雪希を連れ回す.健二から指輪をもらう交換条件のヨーヨーを引き当てるために日和は走り出す.そこで雪希を誘うところが彼女の天然だ.指輪を貰う約束をしたのは日和だが,そのときもう日和にとっては雪希も同じ約束をしたのと同じことになっているのだろう.結局ガチャガチャを回しているのは日和のほうで雪希はそれを見ているだけなのだが,実際に誰がやっているかは重要でなく,小さい頃,仲のいい者同士ではこんな風に体験が未分化だったように思う.そしてそんな日和のことが,雪希にとっては憧れるような不思議なような,そして大好きなお姉ちゃんだったろう.行き違いがあって,日和が取ったヨーヨーは雪希が取ったものとして健二に誤解され,雪希は指輪を受け取った.おそらく日和にとって雪希は近すぎてどちらが指輪を受け取っても等しく嬉しかっただろう.だけど雪希にとって日和は自分とは違う健二と同じ世界に居る人で,それを裏切ってしまったと考え込んでしまう.健二にとって日和は友達,雪希は妹.雪希にとって健二はお兄ちゃんで日和はお姉ちゃん.日和にとって健二と雪希は同じ高さに居る友達.日和のズレた感覚とそれに流されるようについていった雪希は賑やかな幼少時代を過ごすことが出来たけれど,いまや姉のようなその人はどこか遠くへ去ってしまい,ガチャガチャの景品と誤解だけが手元に残った.時が過ぎて雪希がしっかりしてくるにつれ,いつも一緒でいつも同じ高さにいてくれたお姉ちゃんにただ付いて行くだけで誤解を解くことも出来なかった自分の不甲斐なさが辛くなる.日和は別になんとも思っちゃいないだろうけれど雪希はいつか日和に恩返ししたかったし,それは自立した自分の姿を日和に見せることと等しかったのではないかと思う.

オープニング映像はプロローグの復習から.主題歌とシンクロした映像が美しい.想い出のアルバムの中でたくさんの彼ら彼女らが写っている.大体の写真にはちっちゃい女の子にとって気後れするものが写っていて,大きな犬,深い川,野球の試合,それぞれを前にして雪希は健二や日和の後ろに隠れ,日和は平気で健二と一緒に笑ったり泣いたりしている.だけど卒業式の写真以降,いつも三人一緒だった写真は健二と雪希の二人だけの写真ばかりになってしまう.

丘に大きな木があった.木の上に居る日和と健二に対して雪希は当然のように登れないでいる.立ち位置ではない身体的な差はお兄ちゃんの健二が埋める.妹に手を伸ばし引き上げると同じ高さで三人の笑顔,街を一望し海まで見渡せる景色にタイトルバック「みずいろ」.本編中に登場する遊園地が街に描き加えられているところが細かいと思った.ただそれだけで,木の上から見下ろした街と三人が子供の視点で走り回った街とが同一の街であると感じられる.

街を右から左へ駆けてゆく子供時代の三人,健二を先頭に,日和,雪希というお決まりの順序で走っている.続いて道の真ん中で泣いている日和.母親が迎えに来て彼女をどこかへ連れてゆく.右へ.日和を追いかける健二が右へ,そして左に振り向いて時を越え,高校生の健二が日和を捜す.最後,高校生の雪希が右からイン,日和を捜す.振り向いた日和の側を走り抜けてゆくのは子供時代の日和と雪希.その行く先はどことも知れぬ遠い地で,大人びた(高校生の)日和が雪希を待っている.最後は夕方,木の上からは遠くに見えたあの浜辺を行く高校生の健二が振り向いた側を,また子供時代の日和と雪希が走り抜けてゆく.手を繋いで走る二人はいつしか高校生の二人になって,健二を呼んでいる.不意に途切れてしまった三人の時間を取り戻すために彼らは振り返り,街で,海辺で,子供時代の思い出が縦横に駆け巡り,今どこかにいるはずの日和と接続することを願う.プロローグからオープニング映像にかけて一気に綴られる喪失感とその回復へ向けた想いを見るにつけ,本編への期待が高まる.

(2003/7/27)

 「どれみと魔女をやめた魔女」(おジャ魔女どれみドッカ〜ン#40)

幕開け早々,どれみの行く手に二又の分かれ道のあることが僕の目に飛び込んできた.おまけに交通標識までそう指し示しているのでこれは相当に下品な絵であるが,おかげで忘れようにも忘れられない.二又の道を念頭に置いて話を見てゆくと作中にもう一つ二又の分かれ道があることに気がつく.第一の分かれ道と未来さんの家との間にある階段道である.第一の分かれ道と第二の分かれ道は何度も登場するが,第一の分かれ道で選択したことが必ずどれみにとって意識されているにも関わらず,第二の分かれ道で左を選ぶ時それは最初からそう決まっているかのような自然さで行われる.アニメならではの面白さは最後にどれみが第一の分かれ道から第二の分かれ道を経て未来さんの家まで一気に駆け抜けるところで,入り口だけ大きな分岐があったように見えておそらくは階段道に代表されるよう途中にも無数の分岐があり,それは真っ白な頭の中で考えるというよりは風景の流れ方と足の裏の感覚だけで選択されていることが鮮やかに判る.未来さんがどれみにしてあげたことは,どれみにとって無意識にそうなってしまうこの避けがたい感覚を,ヴェネツィアに来るか来ないかという言葉にすることだった.

僕はこれまでおジャ魔女どれみというアニメを一度か二度しか見たことがないのだけれど,先週末永に見せてもらったこの回の話は単体でよく判る気がしたので文章にしている.どれみという人は未来さんがいるようなエキセントリックな場所に強く引き込まれてしまう人なのだと思う.そうでなくては,最後の日に迷った挙句,あそこまで必死になって走ることはなかっただろう.未来さんがどれみをヴェネツィアに呼びたかったかどうかはよく判らなくて,きっとどちらでも良かった.ただ未来さんは自分の立つ場所に避けがたく辿りついてしまった未熟な少女に対して,その避けられなかった無意識の操作を一つ一つ言葉と形に代えてあげる先達だった.未来さんのはじまりの分岐から幾つも角を曲がった先に,ガラスの美しさと悠久の時間があった.どれみがはじまりの分岐から未来へ向かって時を駆け,その間どうして曲がったかも判らない角たちそして見過ごした風景たちは,ガラス製作の手順と技術,鏡台の中の旅と出会いのスナップとして未来さんから手渡される.貴方がこの家に辿りついてしまうことには例えばこういう気持ちの操作が隠されているのですよ.そしてその先にはここではないほかの場所,ヴェネツィアがあるのですよ,と.

どれみという人は今後,「ここ」と「ここではないほかの場所」の二つに引き裂かれながら生きてゆくのだと思う.そのときぐちゃぐちゃになってしまうのではなく,自分の居るこことここでないほかの場所とがどんな場所であるのかを常によく知り,落ち着いて,格好よく生きてゆくために,未来さんの手ほどきはどれみにとって一生忘れられないものになるだろう.

藤浪氏の描く50年後は,そういう理由によって理想だ.

ところで未来さんの容姿がターニャ=リピンスキーそっくりなのは偶然かご愛嬌だか判らないのだが,ターニャの勤めている小樽運河工藝館はもちろん実在し,今月初め僕はそこでガラス吹きを体験してきた.基本的に未来さんがどれみを手助けしたような形で作業を進めるが,溶けたガラスは1300℃であるため危険であり,棒を振ってガラスを操るところは職人さんが行う.僕に出来ることは空気を送ることと簡単な押したり切ったりという作業だけである.職人さんは男女一組であり,体験者が男性のときは男性の職人さんがガラスを操り,女性の職人さんが体験者への説明と直接のサポートをする.体験者が女性の場合はこれが逆になる.ターニャを意識して当然のように橙色のガラスを作成したが,どれみ並の出来映えであるので写真はお見せしないことにする.

(2003/7/26)

 「ウィニーザプー大好きな奴が エロゲーム漬けガイでもいい」

我々が○年前に通過した場所だ,と×歳下のtani君から.セラムンといえばあれですか,等身大ポスター.当時の僕はあれを部屋に貼る心境が判らなかったけれど,僕は遅れてきた二次コンなんで年甲斐もなく今になって色々やっている.HDD自爆装置の話は前にチャットで話した気もするけど,誰に見られて困るかを考えると僕はリアルワールドの物品のほうがマズかった.

(2003/7/26)

 花と太陽と雨と(グラスホッパー・マニュファクチュア)

ここは南国,高い建築物はないから高所恐怖症の僕でも安心である.ロスパス島を走り回りながら僕はICO君のみだらな息遣いを思い出したさ.ICOは高くて出来やしない.値段じゃなくて,足場が.確かに「花と・・・」は廉価だったが,収録のムービークリップ二本だけで元が取れそうなお買い得感だ.ただし実写へCGの混入だけは勘弁な.白ワンピの少女と黒スーツの男と南国の島だけでオールオーケー.ああそうだった,走り回るのはICO君ではなく,黒スーツの男である.左手にはアタッシュケース.前をはだけ,風を切ってなびく黒スーツが真夏のハイウェイを走る.車なんて使わねぇのが男の色気だ.南国アレンジの軽快なメロディに乗って,灼けたアスファルトをたたく革靴の音,湿った砂浜に深く沈む足音,時にはぜいたくに自転車で,だけどそれは所有しちゃいけない.青年からかっぱらった自転車で,遠くへ.セクシーだ.

空港から爆弾を捜しだすことが彼の目的だ.何度も繰り返す同じ一日,出ることのできない自室,ジャンボ機爆発.辿りつけないホテルフロント,ジャンボ機爆発.目的は常にすり替わり,空港テロそっちのけで優雅にコーヒーを味わう朝,ジャンボ機爆発.ガイドブック片手に島中を走り回り,一冊読み終えるころにはロスパス島観光を極めている.ええと,テロは? 「嬌烙の館」を思い出させる自己言及と徒労の果てにはやはりふざけたオチしか待っていない.ただそれは南の島の怠惰なループで,そのうちコーヒーで胃が悪くなってくるくらいに退屈で,ただ太陽の下,過剰に走り回ることだけが快楽だった.ジャンボ機爆発.グッバイ.

正直さんざ笑ったにも関わらず,大人向けのナンセンスに対する気持ちの入り難さを感じている.それはそもそも感情を注ぎ込んでまで語り尽くす必要がない.笑ってもうそれだけで終わってしまって,ジャンボ機爆発はその節目である.それで何が一番お気に入りかと問われれば,やはりPVに出てくるほうのトリコとスミオである.あの二人は青く儚い.もしも二人があのままで本編だったとすれば,何らかの言葉を与え続けてやらなければ溶けてしまいそうだっただろう.

勢いで買ってそのまま通読.やはり貴方の記事を読み直してからにするべきでしたか!!
シルバー事件,売ってません.

(2003/7/25)

 ヒトミ (真柴あずき+成井豊,演劇集団キャラメルボックス,1995)

一昨日から熱と下痢とで大変だった.大家さんからメロン半分(と例によってパイナップル缶)を頂いて,下痢には悪い気もしたが気持ちがとても有難かったのでみな食べた.そのお陰か今日になってようやく小康.それまでは入退院を繰り返していた頃の症状を思い出させたのでかなり取り乱した.とりあえず何があってもいいように部屋から四葉の特大ポスターを取り外した.母親を泣かせないためである.こんなとき貴方ならどうする?

平熱よりは1度高いが昨日よりは1度下がった.体が楽になってくると気の滅入ることのほうが深刻なので,何気に思い出したビデオを見ることにした.2000年にCaramelboxTV(シアター・テレビジョン内)で放映された「ヒトミ」と「スケッチブック・ボイジャー」の公演ビデオを姉が録画していて,わざわざ送ってくれていたものだ.この二作は僕にとって特別で,金星楽団(藤浪智之つうか僕にとってはわきあかつぐみ氏)の本に愉快な舞台紹介があり,それが僕あるいは僕らにとってキャラメルボックスを知るきっかけとなった.(余談であるがこちらのエロゲメーカーのURLにハイフンが入るのは,先にこちらがあるためである.)

気晴らしにビデオ鑑賞をと思ったのだが,あろうことか交通事故で未来を絶たれ入院する話だった.繰り返し言うが偶然には意味などなく,ただ記憶するきっかけになるだけだ.だから今日もまたそういう記憶のおはなしである.事故のため首より下が麻痺した女性ヒトミは,脳と直結したハーネスと呼ばれるサイバネ機器とリハビリ訓練により自分の身体を「操作する」ことが可能になる.触覚やら痛覚やらは無いままにそんな土くれのような体を電気的に操作するのだ.病気になるということは土くれになることだと僕は思う.自由にならない体.突き刺さる管から注入される特殊な薬剤が冷たく毛細血管を駆け巡るのを感じると,血液でない何かで動作するロボットになったような気分がする.体内の様子は血液検査を通して外部から数値的にモニタされる(僕が「雪色のカルテ」をクソリアルに感じるのはこの体験のせいである.)自分の体重よりも多いくらい薬を飲んだんじゃないかと考えると,自分の体細胞はもう一粒もなくって全身が薬で出来てるんじゃないかって気にもなる.ただ,こんな風に遊離して初めて,自分に身体があるということに気が付いたかもしれない.僕は自分の胸のカラータイマーは見えないけれど,遠くの信号機なら判別できる.自分の身体の中身を感じることは必ずしも内部的直接的に行われず,外側を回り道して行われるかもしれない.なんでもありだ.神経を体の外側でバイパスするハーネス技術もおそらくは自分というものの境界を変貌させる.内と外の境界は明確でないけれど,それに対するときの態度が変わる.その場限りのはかなさでもって見つめるか,あるいは豊かさとして陽気に受け止めるか.

「キャラメルボックスのお芝居には深刻どよどよ防止装置がついている」というコメントがヒトミ放映後の加藤昌史の談話中に紹介される.シリアスなシーンにはツッコミが入る,泣けてくるようなシーンには笑いが入るという成井豊の作風を評したものである.ファンタジーあるいはSF的ギミックの下に作り出したドラマを「あらへん,あらへん」と自己ツッコミかますことのできる余裕が見ている僕のゆとりにもなる.世の中,思いつめるとロクなことがない.うっかり,はかなくなってしまう.明日には落ち着いて,また四葉のポスターを貼り直したいと思う.

(いつの間にか120000人になってた.2003/7/24)

 時計坂の家(高楼 方子)

宝物の本を4年ぶりに手に取った.6月22日に同作者の「十一月の扉」を読んだ流れである.7月初めにたまたまマシュウさんと出張先の話をしていて,僕は大沼の思い出を,マシュウさんには函館のトラピスト修道院を勧められた,その矢先.僕は「時計坂の家」の舞台が函館をモデルにしていることをすっかり忘れていて,作中では汀館と呼ばれるその土地にマシュウさんからお聞きしていた姿の修道院を見たとき,ようやく思い出したのだった.物語が自分だけの特別なものだと思えるのはこういう偶然が重なったときで,僕が「十一月の扉」を読んでその次の週にマシュウさんとお会いして出張先の話をして函館の話をして僕が時計坂の舞台を忘れていたこと,ばらばらだった出来事が一つの自分だけのエピソードとして強く記憶に刻まれた.

生活体験に寄り添った読みは諸々の出来事を偶然やその時の気持ちによって形作られた暗黙の膠で繋ぎ留め,エピソードとして積み上げる.他人にとっては明示的な繋がりの見えない体験の集合を説明することは困難で,物語の良さを体験的に語ろうとするとそこに物語の才能が必要になる.実作志向の「十一月の扉」はその極端に位置するだろう.またそうした読みは物語から生活に流れ込む読みをもたらすことがある.悪い空想しか浮かんでこない潰れてしまいそうな日にはいつもの読みが現れて,例えばしょぼくれて帰ってきたそんな日に俺には俺を胸に抱いてくれる厨川さくらはいないんだと,帰って来れそうにない世界へ思考が飛んで行きそうになったとき,通いつけの銭湯がどういうわけか入浴剤を試していて,それが「さくら」の湯と書かれていた日には笑いがこみ上げてしょうがなかった.自分しか判らないはずの空想をこの銭湯の看板が知ってやがるんだと思うとなんだかあほらしくなった.

生活とフィクションとの幸福な関係が描かれた「十一月の扉」と比較して,「時計坂の家」は危うい関係を描いている.まず,死んでしまった祖母と従姉妹であるマリカのことが彼女の目の前のフィクションと結びついたとき,汀館でのフー子の暮らしは精彩を帯びる.フー子が扉の向こう側にマツリカの園を見なければ,マリカのことを考えて落ち込んだりはしゃいだり狂おしい日々を送ることはなかっただろう.それはみんなマツリカのエピソードとなってフー子の十二歳の夏休みを埋め尽くしてゆく.そしてマツリカの園の話を通じ映介と仲良くなる一方で,フー子はチェルヌイシェフの創作したフィクションであるマツリカの園にも深入りしてゆく.いや,チェルヌイシェフがどう考えたかはともかくフー子がそれを読み取った以上,フー子にとってマツリカの園は元のフィクションではなく彼女の,彼女だけの,彼女の暮らしの中でしか辿りつき得ぬエピソードだった.そこに自分だけのものがある.その妖しく甘い蜜の香りに惹かれフー子がマツリカの園の中心を目指したことを誰が責められよう.チェルヌイシェフいわく,その衝動は憧れ.何に憧れるのかは明らかにされなかったが,それは自分の,自分だけのエピソードを永遠に生み出す何か,いやそもそもその自分って何なのかその疑問に答えてくれるような何かであろう.フー子のエピソードに先行するものとしてチェルヌイシェフと祖母とのエピソードが語られている.『扉の向こうは,さぞ,おまえさんのお気に召しただろう?』『ええ,生まれた時から捜していたものを,とうとう見付けた気がします.』この世に生まれてきたときに,自分の他に何があったと予想できるだろうか.

いや,いずれにしてもそれは予想でしかない.フー子がマツリカの園の主(フー子が何に憧れたか)を知るのは全てが終わった後である.しかし,それを本当に知ることは出来ない.本当に知るためには暗く甘い穴に落ちて死ななければ判らなかった.もちろん,死ねば判る,というのは危険に満ちた考え方であり,その危険な考え方をこそフー子は最後に知る.穴を目の前にした時の不可知のどん詰まりからフー子を一歩下がらせたのは映介の声と手であった.そのことは半分大切であるが,見逃したくないことがもう半分ある.フー子はマツリカの園のことを忘れない.最後に覚悟として語られるのは,フー子がその危険と隣り合わせでないと自分の暮らしを色鮮やかに営むことが出来ないということだ.映介を選んだことを殊更に取り上げるのではなく,それは常に甘美さと危うさの手綱さばきを伴って選ばれるのだということを強調したい.たとえ映介が側にいようが,フー子はその手綱を取らずに生きることは出来ないのだ.

(2003/7/22)

 ノスタルギガンテス(寮 美千子)

『あらゆる名づけ得ぬ廃墟の,唯一の,だからこそ無数の,名』

無数の名づけ得ぬものたちが一つの名の下に無数の名として展開されてゆく.入力と応答が高らかに宣言されるその機関の名はノスタルギガンテス.石膏像は生成流転させる機関を手に入れるがこの機関自身は生成流転しない.つまりノスタルギガンテスは「生々流転」そのものではない.石膏像が得ているマージンは「生々流転」そのものと生々流転させる機関との間にある何かでありそれは実に薄気味悪く成長してゆく.またカメラ男の得ているマージンはそのものと写真との間にある何かであり草薙櫂は石膏像のマージンの果てでカメラ男のマージンの断片を紙飛行機にして遥かな空へ沈める.持ち去られたものがたくさんあった.しかしこの物語の中で本当に消えたものはあの最後の紙飛行機だけだ.

入力と応答あるいは明示的な理由と結果を持たずにキップルの山の境界は産出されてゆく.そのときたまたま草薙櫂と石膏像とカメラ男とが草薙櫂とKとが草薙櫂と母とが関係を持っていた.草薙櫂にとってそのネットワークは運動でも芸術でもなくただそれ自身そのものであるに過ぎないのに石膏像は名づけカメラ男は映しKは怯え母は救われる.もしそれをオートポイエーシスと名づけてみたとしてそれすらも草薙櫂にとってはたまらなく違うだろう.

草薙櫂はそれ自身を見続けることだけでもうぎりぎりだった.そこに美しいものを夢見る力が残っていなかったのだと彼は言う.だけど,夢を見てください.美しいものは本当に消えたものから始まってゆく.永遠には始まりも終わりもない.その消えないはずの世界から消えたもののことを忘れないでください.君が始める永遠と「永遠」との間にあるマージンに美しさが宿ることを僕は祈るから.

泣きそうだった.

(2003/7/21)

 da capo al fine

一年前,止めたきりの言葉を.終止記号に届くまでもう一度.

D.C.のPC版の話.基本的に芳乃さくらのネタバレ満載である.

さくらと純一は同じ器のうどんを食べても平気である.それに加えて,さくらは純一のベッドの上に平気で乗るわ,純一が手から排出したものを喰えるわで,二人はだ液や体臭で汚れあってもいい関係にある.一方,音夢と純一はお互いが青い果実を持ってることを意識していて,それをちらちらと見せ合いっこするチラリズムによって青春を謳歌している.甘い誘惑はいつも冗談や兄妹的な睦まじさによってオチがつく.しかし,口に目覚まし時計突っ込まれようが彼女が彼女の果実を使って遊んだという事実は残る.それはお互い承知の上の,誰に咎められることもない中学生同士の触れ合いでさ.音夢に聞こえない場所で純一が叫ぶ「そんなこと,したいけど出来るかー!」は美少女ゲーム史上に残したい名文句である.誰が咎めるでもないがそれでも「そんなこと」へ短絡するのは自分が咎める.心の声でなく本当に叫んでしまうところがストレートで素敵だ.

本気を上手く表現できないから,音夢は演技するみたいに振舞う.外ゆき内ゆき表裏は女の子の持つ通常技であるが,音夢が兄に向けるそれは過剰である.表か裏のどちらかを隠してるならともかく,すでにネタが割れてることは双方了解済みなのである.それはもう電源スイッチのようになっていて,オンオフをぱちぱち切り替えるのは中間の微妙な調整が難しいからだろう.だけど,そういうこんがらがった状況をあの兄妹は楽しんでいる節がある.

一方でさくらの不自然な言葉遣いは隠すべきことを隠すために行われる.表層では時代劇スタイル,任侠スタイル,偽アメリカ人スタイル,その他あらゆる語尾のスタイルを利用し,またわざと子供であるようにそして再会を楽しんでいるように振舞う彼女が抱えているものは,難しい.自分の願ったことが必ず現実になってしまうと考えている彼女は,綺麗な言葉を使うわけにはいかない.綺麗な言葉は自分の想いを一つに収束し,そこに願いをもたらしてしまう.上のだ液だとか体臭だとかいうのもそう振舞っているのであって,さくらはどこかで作ってきた大人の心を使って,なんとしてでも隠さなくてはならないことがあった.また,純一のほうもさくらの不自然さに薄々気付いている.しかし純一がさくらの事情へ無理に踏み込まないのは,すでに物語の冒頭でさくらが純一に助力を求め,純一がそれを請け負っているからだ.そのとき,二人の間に無理なところは何もなかった.もうそのことは二人にとって改めて確認する必要がない自然体で.さくらが事情を切り出さないのは純一が過去の約束を忘れていることを心配したわけではなく,全く別の事情である.そうであるが故に二人は,願いの結果ではない現実の想いを確信するためにだけ,約束の必要すらなかった純一にとって当たり前の請負の元で,ゆっくりと時間を費やすことが出来た.6年と6年,12年を埋める時間だけが必要だった.貴方の気持ちは本当に貴方がそう思ったからその気持ちなのか.自分の気持ちが本当かどうかなんていつだってコトバでは保障出来なくて,ましてやそれが君の見た夢,君の願いに操作された結果かどうかなんて知るか.

さくら「それは誰の気持ち?」
純一「まんぼう」
さくら「うにゃ!?」
純一「お前は俺が変なこと言うことまで自分の夢だなんていうのか?」

脈絡なんてくそ食らえである.実のところ,さくらが頑張って作った不自然トークはちゃんと会話になっていて,そんなの僕らが喋ってると自然に出てくる会話の遊戯に過ぎないでござるよニンニン.不自然がいつしか自然となって,自然に振舞おうとすると不自然になる.自然と不自然がひっくり返った時,この世に自然と不自然の区別などないと思える場所で,恋の確信は訳もなく,そしてほんの一瞬だけ目の前にあるのだろう.

手と口,目と耳で触れ合う子供たち(2002/7/4)
さくらの不自然さ(2002/7/6)
「約束しなくても助ける」(2002/7/1)
大山鳴動,桜一本(2002/7/7)
D.C.とkanon(2002/7/22)

サクラサクミライコイユメ,第一話,第二話.アニメ版のさくらからは過剰に不自然な言葉遣いが取り払われている.また,純一はさくらに対して何も請け負っていない.アニメ版でさくらは美春に対して三つの約束の話をするが,純一がそれを覚えているかどうかは不明のままである.もしかすると純一はさくらが主役の放送回にそれを「思い出す」かもしれないが,冒頭から思い出しているPC版の話と比較すると,純一,さくら,音夢の三人の関係は自ずと変わってくる.千客万来の札も純一が貼り直すのではなく,さくらが自分で書いたことになっている.総じて純一の中でさくらの占める割合を減らす方向に変更されており,これは三人の話だったPC版を音夢の話として語り直すことが目的なのだろう.原作の台詞はできるだけそのままに,しかし数を削ってまた順序を並び替えることによって新しい解釈を与えるのはリピュアBパートの四葉の回を思い出させる.無論,アニメ化スタッフはおよそ同じであるわけだが,単にテレビの尺に合わせて要約あるいは追加を行うのではなく,台詞やシーンを組み替えることによって別の話を作ってしまうのは面白いし,また原作をよく読んだ上で操作されているのが嬉しく思う.原作における文字ベースの悪ふざけ感覚はアニメ化できないが,その分,漫画的な楽しさが付け加えられているのも面白い.しかし,さくらが純一にキスするときの「ただいま兄さん.なんか変な胸騒ぎー!!」で部屋に駆け込んでくる音夢の勢いが無くなってしまったのは残念である.この胸騒ぎは音夢の意識に上っているので判りやすいが,音夢がさくらと純一の関係を感知するのは多くの場合より無意識的である.音夢の体の調子は丁度さくらと純一がどこかで二人一緒に居る時に悪くなる.これは無論,音夢がさくらと純一の居場所を知っているからではないが,純一は結果として音夢の元に帰らざるを得なくなる.このように,さくらと純一が関係を持つたびに発動する音夢の共時的な感覚は,三人の関係が中心でない以上,語られないままで終わりそうである.
(2003/7/18)

 クローバーランドのお姫様(9)

storytelling

「今だから申し上げるんですがね,
 大きいつづらも小さいつづらも選ばなくてよかったですね.」

「わたし,ものをもらう理由がなかったからそうしたの.」

「姫様はまだ判らなくていいですが,
 大きいつづらは強欲で,小さいつづらは小ざかしいといいます.
 その次はどうしましたか?」

「王様は小さな紙風船を冠から出したわ.
 だけどわたし,壊しちゃったから,代わりにこの手鞠をもらったの.」

「待ってください.どうして手鞠をもらってしまったんですか.」

「どうしてって・・・そう,王様はこれまでのお詫びのしるしだって言ってたから.」

「でも姫様にはものをもらう理由なんてなかったんでしょう?」

「そうだ,わたし,風船を壊してしまって,風船がかわいそうで,かなしくて,
 それで王様にも悪い気がして,だからこれを貰わなきゃいけない気持ちになったんだ.」

四葉は王様が本当に渡したかったものが何なのか判らなくなりました.つづらも紙風船も手鞠も,全ては宝物であるように思えましたし罠であるようにも思えました.あのときつづらを選んでいたら,紙風船が壊れなかったら,手鞠を受け取らなかったら.四葉は全て自分で選んだような気もしましたし,誰かにそう選ばされたような気もしました.

「姫様,本当に危険な選択というのは,そこに選択があったことすら気付かれないものなんですよ.」

「王様はわたしに助けが必要なときに使うんだって言ってたけど,あれは嘘だったのかしら.」

「いいえ,わたしたちネノクニのものは嘘をつくことができません.
 ネノクニはきっと終わるでしょう.
 この世におしまいが訪れるでしょう.
 だけどそれがいつのことかは知りません.
 また,その天輪儀は姫様に助けが必要になったら使うものでしょう.
 だけどそれが姫様を助けるものであるかどうかは知りません.」

「そんなの疑いはじめたらきりがないわ.」

四葉は考えるべき可能性と知るべき物事がたくさんあるように思いました.

「そうですね.だから,どうしたってきりはつける必要があります.
 姫様は言葉をよく聞いて,手順に注意して,
 自分の気持ちの変化を忘れないようにしてください.
 そうすれば,何が起こってもそこに物語が生まれます.
 そのときあなたは決して動じることがないでしょう.」

けれども四葉にはもう旦那さんの声がよく聞こえませんでした.
四葉の内側に星の数ほどの形が浮かび上がり,
内と外はいつしか逆さになって,
四葉はその中に埋もれて消えてしまいそうだったのです.




毎回,顔と等身が違う.どうか並べて見ないでください.
前の話から二ヶ月経ってしまいましたが,ぼちぼちとやります.
おうちに帰るまでが遠足です.

(Zaurus SL-C750 + PetitePeinture & Zaurus MI-TR1 + PrismPaint,2003/7/17)



 とらいあんぐるハートシリーズ,全ての人の話とおまけの話とを終了しました.

そういうわけでようやく,とらハ好きに100の質問。へ回答します.(2003/7/15)

 タチヤーナ・ヴラジーミラヴナ・リピンスカヤであるところのターニャ

セーブデータを見れば,1999年の6月である.顔と声が好きだったのだと思う.iモードでメールを交換したとき,突然,この人は僕に合わないと思った.真面目で,一度これと決めたら周りを見なくて,頑固で,ああそれは気高さだったのだと今になって判った.女なのにリピンスキーを名乗ること,赤いガラスばかり作ること.ナンパな僕の軽口は通じない.見てるものが,違うみたい.

それでも未練がましく,はじめて会った頃の思い出のままに,彼女の住んだ街を今日はじめて訪れます.

(2003/7/11@札幌→小樽)


 涼宮ハルヒの退屈(第二話) 笹の葉ラプソディ

第一話はいつでもお貸ししますわよん.あちらは非常に力が抜けてます.

第二話のほうは,やっぱなんであんたらあの部室に背ぇ向けるかなぁと言ってやりたい.部室にはハルヒがいて,それはみんなで七夕しよ,なんて言ってくれるうい奴で,そんでベガとかアルタイル宛てに短冊書けっていかにも与太で馬鹿げてて且つみんなで楽しくできそうなことを押し付けてくれるのに,どーしてあんたらはそこから出て,電波ーな世界に興味を向けなくてはならないのかと.いやそういう迂回路しか持ち得ない人たちなのだろうけれど,全くもどかしい.

そんな彼らの正体がハルヒに内緒っていうのは,本人に言っちゃったが最後この迂回路が壊れてしまって,ハルヒとの距離が測れなくなって,彼らにとって安定してた世界はどうかしちゃう,それこそ崩壊しちゃうのだろうけど.

朝比奈さんの運命論パラノイアっぷりは文庫本のときよりも進行していて,ハルヒの側にいる限りはせいぜい体を触られたり変な服に着替えさせられたりとハルヒの健康的な愛撫になされるがままという程度だったんだけど,彼女の側から離れた途端,TPDD(なんだそれは?)がないからもう元の世界へ帰れなくてこれは決定された規定なんですよう,とか彼女にしか判んない運命で自己免疫的にパニックになってしまうのを見てると今後が心配になってくる.これはこれでキョンがほっておけないのは判る.あと古泉よ,あんたぜったい何も考えずに反射だけでコマ動かしてるだろ,とかズバリ言ってやりたい.うがー.

僕はたまたま今日読んだので,(彼らには悪いけど)ハルヒと楽しい七夕を過ごすことが出来ました.25年と25光年,16年と16光年先の時と場所へ向けて願いを放つという発想は,素朴に綺麗です.(2003/7/7)

 涼宮ハルヒの好意

自分が見て来たことは無かったことに出来ないので,ああいう書き方になりました >こばもすさん. 僕のハルヒに対する好意を背景としていますが,その好意については納得のゆく理由が見当たりません.そんなとき,他人からは肯定的に読まれるか否定的に読まれるかは判らないのですが,ただこういうことがありました,と筋を辿りなおすことでしか好意を表現できません.なによりも寂しいのはハルヒのことが一行の語る余地もないつまらないものとして黙殺されてゆくことなので,こういうことがあった,ということだけはしっかりと(そして可能ならば他人にあきれられるほど過剰に)書きつけておく必要があると考えています.(2003/7/5)

 glass forest

biosphere years 1988-2000 zabadak special DVD boxが届いた.noren wake からもう10年ですよ,信じられますか.観始めると勢いがついたので一気に三枚弱ほど.上野洋子さんはやはり伝説の中に住んでいらっしゃる娘さんで,あの可憐さは時を超えていると思う.

その10年前というのは僕がzabadakを知った時期とあまり変わらなくて,確か受験の年に姉が友達からwater gardenを借りてきて僕にも聞かせた(僕の趣味というのはだいたいそんな風にして姉か姉の友達経由だ).当時の僕は今よりもずっと神話とか魔法とか祈りとか怨念とかの力を信じていて,「ガラスの森」はそういう世界に特有の叫びであるように聴こえた .

道を歩いていたら急に泣けてきたなんて馬鹿なことがあったとき,頭の中にあったのはPsi-Trailingだった.大学に入りたての頃の寂しさが音楽を呼び,また音楽が寂しさを呼んだのだろう.今,寂しい素振りを見せるときはつまり構ってほしいという信号に他ならないが,当時の寂しさはただ純粋に寂しかった.

(2003/7/4)


 クウのラッカに対するお姉さんらしさについて.ああ,それですよ,それ!

(2003/7/3)


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