Waffle in the AIR
AIRのおはなし
AIRについての日記みたいなおはなし。徒然なるままに二つめ。
好みの話。
昨日まで大好きだった食べ物が、
今日になって気持ち悪く思えることがある。
小学校時代、やたらグミキャンディの流行っていた頃があって
私も好きでたまらなくてモリモリ食べてたんですが、
ある日突然に、それがひどい味に思えるようになって
以来、私はグミキャンディを食べられなくなったのでした。
どれだけ好きなもんでも、いつか嫌いになる日が来る。
そもそも好きとか嫌いとかって判断、
好みなんてそういうええかげんな側面を持つ。
ほんとうに好きなもの、ってあるのか。
と、この勢いでAIRに話を振ると、
がお、とか、ラーメンセット、とか
こいつら何も判断してねぇや、と感じられるのが聞いてて楽で良かったりする。
例えば今リンゴとみかんのどっちを食べたいかと聞かれたら
簡単に応えられるんですが、
名簿の記入欄なんかで文脈もなしに
「とにかくあんたの好物を言え」なんて言われると、
何と応えればいいか判らない。
何を持って自分の好みと判断すれば妥当なのだろうか。
味か、値段か、思い出の有無か、そしてそれを何と比較すればよいのか?
文脈もなしに自分の中だけを見つめて応えろと言われても
そこには何も見あたらないわけで、
そんなとき仕方なく頭の中でサイコロを振る。棒倒しでもいい。
判断なんてできない。
特に小さい頃ってそんなことないですか。
小学生の頃「どっちでもいい」が口ぐせで、
いつか「どちらか選びなさいっ」とひどく叱られて、
それでも選びようがなくて泣いた覚えがある。
ある意味、自分の思いに正直だったそれまでと、
サイコロの存在を意識した瞬間。
ただ、サイコロを振り続けているうちに変ってくることはあって、
萌えてゆくことなんかそう。
正当な理由なんぞ破壊して、ともかくキャラクタへ突入してゆく。
はじめに大した判断があるんじゃなくて、
耳、耳、耳、と言い続ければ
耳と自分との間におはなしが、
おさげ、おさげ、おさげ、と言い続ければ
おさげと自分との間にいやがおうにも関係性が生まれてくる。
自分の中の何も基準のないところに、
意識的に基準を築きあげることができる仕組み。
それでようやく好き、とか言えたりもする。
萌えというのは、自分的に今世紀最大の救済であったと思う。
人にせよキャラクターにせよ物にせよ
全てとの関係において時間と好意とは交換可能で、
長森と浩平との間にある距離の
"べったり"という言葉を越えた破壊されっぷりは、
ただ一緒にいるというそれだけのことで生まれてしまう好意への
気持ち悪さの表明であるかもしれない。
自分自身への好意もそう。
がお、とか、ラーメンセットとか言い続けることでようやく、
母へのわだかまりを持つ、あるいは
ラーメンセットが好物であると形作られる
自分自身に対する好意を支えられる。
自分は何が好きで、何が嫌いで、何に依存して、何をやりたいか、
自分が何者かということを、
まずサイコロを振って、あとはそれをリピート、リピート、リピート。
がお、がお、がお、
みゅーっ、みゅーっ、みゅーっ。
無判断に言い続けること、やり続けること、
ただ経過した時間のみによって築かれる部分。
だから、ラーメンセット、とか聞いてると、
よぅ、兄ちゃん、あんたもまだ言い続けとるんかいな、
と古い仲間を得たような、青く酸っぱい安心がある。
だから聞いてるほうも口ぐせのように、がおがお言ってみたくなる。がお。
少なくとも、ねこー、とか、うぐぅ、とは全然ちがって、
自分の中の幼い風景に繋がってくる言葉なのです。
叱る話。
判断し続けることで、壊れてゆく部分のこと。
つーか、晴子さん。
あなた「がお」の由来を知りつつ、
あえてそのことを集中的に叱りますか。
ただの口ぐせなら、ほっときゃ変わるんです。
親として子のいけないところを叱らねばならない、
という義務感を持つのはいいとして、
普段その義務感を果たせていない思いがあって
思いつめてしまっているからこそ、
義務感の矛先が一番向けてはならない事柄へ向いてしまうあたりが
なんともうまくゆかない。
そこへ向けては駄目だと分かってはいても、
思いつめてしまっている自分がそれを止めさせない。
思いつめているときに判断しても、全ては悪い方へ落ち込みます。
それは一番の問題点を浮上させる作用でもあるんだけれど。
なんかヤバイ展開だなぁ、とここまで考えたときに
ふとある情景が思い出されたので、古いPUREGIRLの写真を引っぱり出してみる。
ぐわっ、晴子さん、観鈴にそんなことまでするの?
(ていうか早くスタッフロールくらい見なさい、俺。)
がお、と言い続けて自分を支えるのも、
それを叱り続ける義務も、
相手を向いてるようで自分を向いた
互いに直交してそっぽを向く無判断と判断だけど、
その交差する根っこに共有すべき問題のあることを
いつでもメッセージとして送り続けている。
でも、自分を築くことで手一杯の観鈴に
そのメッセージが届くようになるのは、
あと5年では済まなそうな気がする。
強い子の話
マニュアルに書いてる「強い子」という観鈴の性格付けは
わざわざマニュアルにある、というその点において第一に信用している。
PUREGIRLの広告で麻枝さんが、最後、大きな構想へと繋がってゆく、
という物語の構造をあらかじめ明かしていたところをみると、
同じように事前情報として書かれたこの「強い子」という言葉が外せない。
だから、なんやかんやあっても観鈴は一人でやってけるはず。
旅立ちに未練のある往人に比べ
「よーい、どん」なんて言える潔さは、
その別れが自分にとっていいか悪いかなんて自分に聞いても判らないから
時間を経過させてみるしかなくて、
あと5年、あるいは10年の時を待てば
どんな物事でもきっと妥当な方向へ向かっているだろうという
時間への過剰なまでの信頼があるのかもと思う。
反面、たったいま自分の目の前で起っていることへの鈍感さ、無反応さと。
はた目には、なんであいつは時間に対してそんなに身を投げ出すことができるんだろ、
とそれが強さという言葉でもって感じとれるのかもしれないけれど、
実際のとこ本人はその投げ出した「身」自体が
そもそも時間の経過に深く依存するものだと思ってるので、
強さでもなんでもないんだけれど。
ただそれは自然の事態とか現象とかいうべきこと。
Prismaticallizationでは、「処世術」、
と、否定的に評された雪乃の態度でしたが、
そういうよりも、
リアルタイムな出来事に反応する以前に
時を経過させることに対して手一杯な感じで、
処世以前に処自分がある。
先日、末永に会ったとき
麻枝さんに関して「距離の破壊」という言葉をもらったので、
こんなことをつらつらと考えました。この件はつづく。というかむしろそっちが主。
(2000/10/5)