Waffle in the AIR

AIRのおはなし



AIRについての日記みたいなおはなし。

waffle wAnderland


うちのWebPageの名前が里村茜に由来するっていうのはご存じのことと思う。里村のことがどれくらい好きかっていうと、雨が降ってBGMが変わるような朝には、わざと靴をじゃぶじゃぶ濡らしながらあの子の待つ空き地へ行かざるを得ないようないたたまれない気分になるし、だから一限目の間は塗れた靴下を乾かしながら、机の下で足をぶらぶらさせてるのが気持ち悪いのだけどこれはもう仕方がないというような、体感やなんらかの形で同一化を図りたいという程度にですが、その理由とかはもう忘れました。思い出せません。ただ体でだけ覚えてます。

中川亜紀子の茜声が、記憶障害の理由かと思う。BabyBabyという白倉由美のリーディングストーリーがあって、そこで中川亜紀子は声を失った少女の話を朗読してしまうわけですが、なんでヘッドホンから声をもたないはずの少女の台詞が聞こえてくるんだ、って聞いてて頭がおかしくなりそうでした。たとえば、澪が澪の声で澪シナリオを朗読するのを想像してみてください。聞こえるんだけど聞こえない声というのは死にそうな気分にさせられます。中川亜紀子でない場合の効果は保証しかねますが。伝えるために、現前とした声として発せられるけれども、それが声であることは否定されなければならない。これは声じゃない、と声で伝えることの不可能さ。文楽は舞台に人形遣いの黒子がいて、それはいないものとして扱わねばならないし、また観られる存在でもある。澪の、スケッチブックに描いてしまうという発想には、ないものがあったりはしない。ないものはスケッチブックに描いたって、やっぱりないものなのだ。ないものはないから、みさき先輩に澪の声は聞こえない。そして聞こえないからこそ、笑いが成立している。それは、作られたというよりむしろただ指摘することによって生まれる残酷な笑いだ。ないものをあることにする物語をつくらない。みさき先輩の視力についても、ないものがあることになったりしない。作劇上、走ることができたとしても、彼女の視力は最後の最後までやはりないものとされる。それは、意図の残酷さというよりむしろ世界の残酷さで、その残酷さに対する怒りが、指摘した人へ向かざるを得ないというのはありふれた話なんだけど。ただ、久弥直樹という人がただ何かを指摘するでもなく意図を持って作り込もうとすると、むしろ名倉由依のような地獄絵図の誕生日を迎えることができる。

人の残酷な指摘に耳を貸してはならない。愚かかもしれんけど、おおさまははだかじゃなくていい。でも名倉由依が可哀想だという風には怒っていい。平等に見れば澪のことは残酷で、公平に見れば由依への仕打ちはひどい。

いや、それより里村のことが今でも好きなんかということはよく分からないという話をしたかったのだった。

昨日近かった場所が、今日、もう遠い。
昨日分かったことが、今日、もう分からない。
昨日好きだったものが、今日、もう嫌い。

自分というものはわりと過去から未来へと連続するものとして捉えられることが多いみたいだけど、多重人格なんていうかけ離れた例を持ち出すまでもなく、過去と未来とは綺麗に繋がらない。昨日までとは違う自分、なんて言葉がポジティブにそして慣用的に使われたりしてるわけで。あるいは、あなたはいま何に熱中してるの、と人に尋くとき、過去と似た答えなんてほしくない。いつだれが何をしてるかなんてことに興味深々の場合、あっと驚くような新鮮味のある答えをこそ期待する。あいつは今は彼女にお熱。え、まさか、人間になんて興味はないと思ってたのに、なんで? 向こうのほうから見初めたんだってさ。 信じられんなー、あんな二次元スキーな人を。 すべての時間的断絶は理由で繋げられ、その繋がりは納得のゆかないものであればあるほど望ましい。ようするに、ここで繋がりというのはまるで理由にならないもののことだ。それでも、繋がりは疑われない。

成恵の世界に言う猫の時間というのがいい。猫は過去も未来もバラバラに生きている。その代わり飽きっぽいのだ。ここで時間のバラバラさと飽きっぽさは同時的に語られる。

いくつも趣味らしきものを持ってる人、わたしだったらゲームしたり絵を描いたりプログラミングをしたりというのがそれに当てはまるんかもしれないけど、わりとこれらを同時に進めるということはなくて、ある時はゲームばかり、ある時はプログラミングばかり、と躁鬱的にバラバラやってるのは私の場合、日記あたりに見てとれるかもしれない。いや分かんないんだけど。気が多いってやつですか。ゲーム好きな自分とかザウルス好きな自分とかいうのはそれぞれの中で連続してるんですが、それぞれの自分が入れ替わり立ち替わり現れるもんだから、全体としてバラバラに感じられる。連続してるけど視点を変えれば飽きっぽい、それがバラバラということだ。

ここではむしろ、本当に連続してるのか? ただ飽きっぽいだけじゃないかということを疑ってるわけなんですが。自分に親しい人、兄弟やらのっやったことに対して自分の関与とか責任を感じることはあるんじゃないかと思うけど、この別の時間を生きる自分に対して責任とか関わりを感じることが出来ない。それは責任放棄の楽園なんかじゃなくただ寂しさが増すばかりで、昨日好きだったものが今日もう嫌いという事情に対しては、どうすればいいのか途方にくれるだろう。

高河ゆんという漫画家がいて、私は結構この人の漫画で育ったんですが、高河ゆんの同人誌のほうは全く面白くない。というのも、この人は商業誌と同人誌というのをきっぱり分けていて、同人誌にはほんとに自分の好きなことしかたれ流さないもんだから、登場人物の誰かと誰かが好き合ってるというのが前提として説明なしにあって分からない。カップリングもマイナーだし。夜嬢帝国とか名前だしていいですか? もちろんただの数冊しか読んでなくて、某所で笑点とか書いてたのに反応したくなったという、知らないことまで書いてしまったかなり痛ましいラヴコールなんですが。

同人誌と同じくCDやアニメもいいものがなくて、ゆんは好きかもしれんが普通の人には響かないというものばかりだ。少なくともファンサービス、という概念では作られていない。一方、CLAMPの20面相におねがい!!のドラマCDなんかは音楽の耳障りの良さとかファンサービスに徹した作りでしたけど。あと、ちはやの声は佐々木望じゃないだろう!もっと女の子みたいな声か、その反対に男らしい声でなくてはならない。ちはやはかわいくて同時にかっこいいのだ。裁判のときなんか、影艶のほうが女っぽい。ちーのほうが男だ。けして中性的な声でなんかはありえない。一方、阿修羅が林原めぐみなのはもの分かりのいい選択だったわけで。この際、アニメ版の伊倉一寿というのは忘れてください。

と、これだけ文句をたれつつも、美幸(むろん、不思議の国のほうではなく、アーシアンのWorld's ENDの美幸)は生涯最高の女であるし、伝説として残っていい少女はこの世でじゅりあだけだ。あるいは、東京BABYLONの最終回よりは、「神さまが見てるよ…」から続くちはやと影艶の裁判に胸を熱くしていたわけで、とかくゆんとCLAMPを比較するというパラダイム(で結論としてゆんのほうがすごい)に生きていたなんて言った日には、世間的にも考古学的にも興味をもたれない人種であることは疑いようがないんですが、まぁ、この比較の話は後のほうでたぶんまた出てきてしまう。ええとつまり、今回は自分語りばかりです、ってことでひとつよろしく。

私も聖伝なんかはイラスト集だと呼んでたくちですが、20面相におねがい!!は良かった。聖りいざが絵を描くと少女漫画になるという印象がある。20面相はもこなと二人だったと思うけど、他の短編では一人だったり。で、愛する奴のためには、世界に対してけして隙を見せない。20面相ならとくに玲くんで、さっきの美幸もそうなんだけど。あと、北都ちゃん好きだったんで、最近のCLAMP作品のどんどん語らなくなってる女の子見てると胸が苦しくなるはずなんですが、そういうことはもう忘れました。ちぃ。

以上のことをとりまとめますと、高河ゆんファンだった私は大学二回生のとき海ちゃんに撃ち殺されまして、その頃からCLAMP萌えになったという話です。うちの大学には立て看板部というのがありまして、これが立て看板のエキスパートの集まりだったんですが、ある年、なんかともかくどでかい海ちゃんの立て看板を作ってやろうと考えた人がいました。あ、レイアースの話です念のため。縁あって私はその制作過程を横で一緒にみてたんですが、まぁ、これがベニヤ板数枚四方に及ぶ例えばコミケ会場になんて入りようのない巨大なものなわけです。大学の石垣ほどにも高くそびえたつ海ちゃんでした。巨大な女というのは正義です。つぶされたい。で、きっとそういうわけで、海ちゃんに萌え始めました。もうちょっとまともな理由を考えておくと、レイアースという漫画はなかよしに連載されていたとは思えないくらい大流血漫画です。中学生の女の子の体から血がどくどく流れて、やばいくらい艶っぽいです。とくに海ちゃんが。そういえば、アニメ版の大川脚本の回でもそんなことがありました。とくに光ちゃんが、友達を助けるためならもう幾らでもぼろぼろになる、全編大サービスで赤く血まみれの回で、文部省推薦アニメの迫力とか感じました。以上。おまけにいうと、なかよしでCCさくらの連載が始まった瞬間、CCさくらメーリングリストなるものに入ってしまっていたという過去まであったりしますが、やっぱりそんなことは忘れました。高河ゆんファンだった私がゆんを忘れてCLAMPファンになったのと同じように、今はCLAMPのことは知りません。むしろ、最近読んだ高河ゆんの同人誌は最高だと思います。SDR。何も持たない故の美しさ、なんて素面で言っていいのはゆんだけだ。あと頭の弱い女の子を書いていいのも。「君はあきらかにヨゴレだが、制服が似合う」 つまりは、たれ流す部分での趣味が近くなってきたのだろう。「エロ〜なまんがは、若い子の読むもんだというのが持論ですので、極力18禁は避けてます。18才以下がエロ本読まなかったら、誰が読むというんだ。」とか、私のONE論に近いし。高校生はPC版のONEこそやるべきであって、えっちのないPS版は大人になってからでいい。あのゲームが性的描写という点で原体験であり得るのは高校生くらいまでのものだから時機を逃すなという大変下世話でオヤジ的な発想。私がONEについて主張する内容は、主にこういう一般的にはがっかりな内容です。

おこめ券ください。


というようにまぁいちおう毎回考えちゃあいるんですけど、ええかげん気持ちの変化に正当な理由を考えるのはばからしくなってきます。ずらずら思い出を書いてるけど、本気じゃないだろと思う。昔の自分と今の自分に繋がりとかあるんか。ころころ変わるやん。もっと、自分っていうのは一本筋がとおってるものだろ。とはいえ、気持ちが揺れ動くとか、人が変わるなんてことはわりとふつーに言われることで、その理由がなにかっていうのもこれまたふつーに詮索されるんだけど、ふつーのことじゃないだろうそれは、もっと問題になっていいんじゃないか、理由よりむしろ一人の人間といものに前後のつながりがあるのかないのか、切断されてるんか連続体なんか。とかいうことを考えてる神経症は、たとえば物語中においても人物の気持ちの変化について云々する助平根性によって、いつもつまらないものとして一蹴されていることは認識しておきたい。知りたいのはたいていの場合、なぜ、あの子はあいつに惚れたのかということだ。どうして人が連続しているのか分からないままに。

観鈴と空にいるもう一人の自分、
往人とそら、別の時間。
真琴、
祐一、出会い、過去の時間。
異なる時間を生きる自分に対してまでも責任やら関わりやらを感じてしまう彼らは、切断からははるかにとおいところにいる。真っすぐで、素直にうらやましい。この点においては、ゴールにたどり着かせてもらえなかった佐祐理さんのほうがよほど滑稽で悲しい。自分が連続であるためには、過去が必要だ。責任とか感じられるくらいの強い過去が。だから、責任みたいなものを過去の出来事から導いて今に結びつけてみたはいいけど、その責任を完遂できぬままに佐祐理は放置されて終わる。あははーっ。こんなとき笑わなきゃやっとられんし。責任を感じられない人間は、過去をもたない。過去と切断されている。責任を感じようとしてみる。だけど、許されない。あははーっ。いやまて、責任を持つには誰かを好きになるのがいいかもしれない。好きになってみようとする。犬に手を食べさせてる変な少女が目に止まる。好きになってみようとする。犬に手を食べさせる少女を好きになった少年がいる。好きになってみようとする。呼び捨てにできるまで、呼び捨てにできるまで、呼び捨てにできるまで。いや、待ってよ、やっぱ責任ていうのは他の誰かに着地する以前に自分の過去に着地するものだろう。自分の過去が切断されてる以上、弟だろうが舞だろうが祐一だろうが他人に対して感じようとする責任は助平根性でしかなくて、だからやっぱり、あなたは笑う。あははーっ。泣けない。流れるとしたら自分のための涙でしかないから。だけど、今にも泣きそうだよ。私の佐祐理さんに対する離人症的なイメージというのはこんな感じ。佐祐理さんというのは何度も言うように、屋上へ昇る一歩手前の場所、日もささないような暗黒の屋上に棲む妖怪で、迷い込んだイタい子供たちとただ一緒に遊んでいてくれるという座敷童並に人類にとって無害な存在なんですが、人類に無害な存在なんていうのは、人間がそうであってはならない。妖怪に漂う悲しさと同じようなものを、佐祐理さんはまとっている。だけど、佐祐理さん、僕と一緒に遊んでください。あははーっ、て笑ってください。

笑いが、久弥直樹のようにお悔やみを塗り重ねるものであるか、麻枝准のようにお悔やみを言う坊主を叩き出してしまったはいいがだからといってどうすることもできなくてただ笑っているしかできないという類のものか。どっちが好きかはわりと気分次第みたいですが。いずれにしても、笑いの一つでもいれなきゃしょうがない。

過剰に突き詰める行為はえらく滑稽で、だから認識ていうものが忘れてきた滑稽さは笑いとともに思い出され、お悔やみの言葉となり、再び鎮魂する。あるいは、バカ、坊主の言うことなんかいちいち真に受けてんじゃねえよ、とか焔みたいに転倒しお悔やみを蹴散らそうとすることもある。

今面白いものをより面白くする、という方向にはあまり頭が働かなくて、面白いものの中にあってあれはこれよりも面白いとかどうとか区別できないんで、むしろ面白くないものを面白くすることのほうが興味を持てる。好きなものにレベルなんて分かんないじゃない。好きを深める方向には何も増えなくて、好きという気持ちの活動を高めるためには、ただ数を増やすしかない。深さに差なんてないんだから。

サークル活動ではお互いのプレイの感想を言い合うというのが行われてて、私の感想は「良い」というものばかりであてにならんと言われていたんですが、深さって一定以上にはあまり分からないと思う。むしろ、何度言ったかということでこそ語ることができる。良いか駄目か以外にたいしたことは言えない。度合いなんてよく分かんないんで、振り返ってみて良いと言った回数の多いことが、より好きなことだったと事後的に分かる。

ようは回数だ。

僕がギャルゲーに気持ちよさを感じるのは、好意が回数で測られるところもあるだろう。何度会ったかということが、好きだということなのだ。好意の深さって滅多に言われない。廊下でぶつかったとして、瞬間惚れることを許されるのは相手のほうだけで、自分が相手を惚れるようになるには、それから何度も会わなければならない。いわゆる深さって回数と関係ないはずじゃない? でも一度の出会いに何かきらめきや感謝があったとして、その深さを理由に惚れていいのは女の子の側で、主人公は回数重ねないと好きになることができない。いやむしろ、プレイヤーは女の子に一目惚れしてもいいんだけど、あとは、それがほんとに好きなのかどうか確かめるための確認作業で、一番会った回数の多い子がやっぱ好きだったってことになる。うん、やっぱ回数こなさないと分からないよね。

SUMMER編がAIRという量的過剰さの中に置かれたものであることも前に書きましたが、1000 years after,1000年後の夏、じゃなくて、1000th summer,1000度目の夏だという指摘でここはひとまず代表させておく。

で、過剰さというと暴走めいたイメージで、ふつうはMOON.みたいなのが制御の効いた話で、AIRみたいなのをそうでないと言うのではないか。

AIRの力まかせな爆走っぷりよりむしろMOON.のほうが制御効いてて、メタファとして読み解く分には容易に何とでも読める。ちょっと探せば心理学やら神話学で読み解いたものとか見つかると思う。いや、たぶん。制御と呼ばれるような物語構成の順当性は作品外からの引用で保証される、ということが少なからず行われていて、たとえば、ドッペル郁未と郁未との関係においてユングの影とかいう話を持ち出せば綺麗に対応づけが可能であるとい点で、制御された作品であることを支持することもあり得るんじゃないかな。誤解を恐れずに言い換えると、型にはめやすい作品に制御されたものを感じる、ということは多いんじゃないですか。あるいは作品外からの引用を受け手に促す要素という意味でのケレン味を持つ作品に。ああ、そういえば、AIRについては涼元悠一が参考文献をあげてくれてるんで、みんなで引用しましょー。マジックなんとかいうジャンルの本とか。かくいうわたしも、BT買いましたよ。もう、ミーハーなんだから。ここでジャンルの話になっちゃってるけど、ジャンルからの引用って、形而上学的な引用に比べ、緩い制御にしかならない。ジャンルなんていうのは読まなきゃわからんものだ。例えばファンタジーというジャンルについて400字以内で述べよというのはとてもつまらない質問だけど、ファンタジーというジャンルについて50年以内に述べよ、というのはあっていい。というのは前にも言いましたが。ジャンルというのは博物学的にしか言えないんだけど、形而上学のほうは体験とすり替えて語れる部分があるから話が早い。本当かどうかは知らないけど、例えばドッペル郁未のくだりは、自分の中には否定したいような影の部分があるもんだよね、光と闇、みたいな、で、それはやっぱ否定するんではなくて受け入れなくちゃだめなんだという話だよ、とか短絡しても、なんとなく通じてしまうのではないか。その正誤はどうでもよくて、引用のパフォーマンスとして、MOON,てのはファンタジーだ、と教えられるよりもよほど説明してもらった気になれる。MOON.以降、麻枝准の話は後になるにつれ、これはファンタジーである、みたいなジャンルとしての捉えられかたがどんどん増してやいませんか。ジャンルを考えちゃうってことは、他の形での引用が難しいってことだ。MOON.よりもONEに、ONEよりも舞の話について、少なくともどっかからの引用で説明できない困難さを感じる人は増えてるんじゃないかと思う。そして、AIRにマジックなんたらの話を持ち出されるのも、ジャンルに言及しない場合の引用の困難さと繋がってる。

SUMMER編がDREAMやAIR編で起こる事態の原因を描いている、というのは全く感じとれない。事態に類似性は感じられるけど、その間に因果関係を認める理由がない。というのは、sense offにおいて透子の話が他の話との間に類似する部分を持ってることを認めつつも、両者の間に一方が一方の説明であるというような因果を感じられないとさんざん言ってたのと一緒なんですが。むしろ、AIRの物語性が、SUMMER編という物語を入れ子にして持つことによって、事態よりむしろメタな部分において強化されてたという読みくらいしか、AIRに対してどっかから引用できることはないんで、そっちに目がゆく。その場合、SUMMER編で起こる事態なんていうのはどうだっていい。

ええと、のっけから旅芸人なんて言われると、物語を語り継ぐ存在であるとしか引用してこれないし、晴子と観鈴の間に伝わる裏庭のぬしの話、あるいは八百比丘尼の伝承を引用しなければならないのは言うに及ばず、直接的に語り継がれの行われる神奈と母との出会い、「ここが神様のお家だからね、返してあげましょうね」なんていう、親子の間に伝わるかみさまの話。例えば、物語の語り継がれという縦糸を見つけるのは容易で、AIRのケレン味というのはそれくらいしか思いつかないから、SUMMER編と他の話との因果とかいうものは、つまらなくて読み飛ばしてしまう。観鈴の言う、空の上にいるもう一人のわたしが神奈のことを指しているようには思えないし、思えないことで、なんら不足とか感じない。これもまた、古い日記を読み返すだに、やはり影という心理学からの引用が先立っているわけですが。

日記だから、つまんない、って書けるけれども、相手の意見が間違ってるんじゃなくて、そもそも面白くないんだというとき、面白くないってはっきりいっちまうと、まぁいろいろ問題のある場合もあるわけで、そんなときはなんとか話を合わそうとするんですが、そうすると、お前の言ってることはわけがわからない、とか怒られてしまったりする。それでもやはり、話は合わせるほうがいいと思うわけです。相手の土俵で話すのがいい。自分の土俵に相手は連れ込まない。連れ込むっていうのは連れ込んだ時点ですでに議論は終了している。私も人間なんで、人を自分の土俵に連れ込んでから話をしようとすることがあるんですが、これはまあ破廉恥で、相手に失礼だ。反省しなさい。土俵に連れ込んだ後なんて、議論はないわけで。議論っていうのは、互いの土俵に連れ込むまでのことで、一度連れ込んでしまった後は、ご休憩かお泊まりして帰るような感じ、いやまさに相撲をとるわけで、格好のいい話ではない。土俵に上がったあとは、もうパフォーマンスしかなくて、そこで格好つけられる人というのはそれはそれで上手。そういう勝負ができたらいろいろ楽で面白いかと思うから、回避不能に問題を起こすよりは、まずは話を合わせるほうがいいと思うわけです。寝技を極めるというか。あ、相撲にそんな技はなかったか。

よく雑誌で麻枝准と涼元悠一が、ぼくがアクセル、きみがブレーキ、とかじゃれあってますが、わたしブレーキなんであなたアクセル全開でいいっす、ってけしかけといて、涼元氏のSUMMER編もたいがい趣味的にやりすぎてるわけで、つまりは、きみが車掌でぼく運転手とか仲良くたわむれながら、二人で爆走してるようにしか見えない。

MOON.やONEの絵が集められてるタクティクス画集というのが出ていて、巻末にMOON.とONEの企画書が載せられてるんですが、これがまあ、抱腹絶倒の代物でして。MOON.とONEの企画はご存じの通り麻枝准によるものですが、いやまぁこの話はいまさらですか。以下引用。

『ようは一定時間内に誰を落とせるか、という王道パターン。
それに、避けられない「別れ」を付加したもの(その後にはトゥルーとしての再会もある。)それによりこの作品のテーマである「せつなさ」を表現したい。』
『誰かを求める、恋愛の必要性も明確だ。
主人公が、先に書いたとおり、この世界に自分という存在を残してゆくため。
しかし、記憶すらからも、その存在自体が希薄となってゆくせつなさがある。』
『しかし、作風としてもの悲しい暗いものではなく、全体的にはなんの影も漂わせない一般的な恋愛モノの雰囲気とする(主人公は前向きな奴なのだ)。そしてエンディング付近から一気に色濃く”せつなさ”を描きたい。それにより心に残る何かをひとつでもユーザーに残せたら、と考える。
いわゆる従来のお涙頂戴系の話を、避けられない「別れ」を取り入れることにより、恋愛対象となる全員に対して描けるという、シナリオライター的エゴを取り入れた企画でもある。
日常が日常でなくなるせつなさ。
これは「MOON.」から引き継ぐものである。
つまりこの作品は、”心に届くAVG第二弾”ということになる。
MOON.では「痛み」を描いたが、今作は「せつなさ」だ。』

こんなやたら正確な企画書をトラウマ持ちでえいえんのせかいに住む制御効かない麻枝准が書けるわけありません。きっと涼元悠一が書いた偽書でしょう。え、そのころ彼はいなかっただろって?いや、いてたけど秘密にしてただけなんですよ。なにせこれは奴らの陰謀ですから。んにゃっ、奴らって誰?いまちょっと電波とか受信してたみたいですが。

麻枝准の企画屋としての計算については、あとこんなおもしろインタヴューがある。ちょっと前に泉鏡花の特集をやったユリイカの、そこでの平野啓一郎の言葉から引用しまくり。それでも足りないくらいなので、わりと必読かと思う。2000年10月号だ。

『柳田国男なんかの影響を考慮してみても、女とか水だとか洪水とかを鏡花は結局自分の好みで書いているに過ぎないんですが、その個人的な好き嫌いが普遍的なシンボルというものと正確に合致していて、宗教学や文化人類学、民俗学的な分析をほどこしたときに、きれいに分析されうるんですね。・・・』
『鏡花自身が柳田を読んでいたのは事実ですし、実際やりとりもしているんですけど、要するに、僕なんかが『一月物語』を書こうとする際にはすでに十分に「女」であるとか「森」とか「夜」が、何を象徴しているのかということがわかっているわけですよね。わかったあとで、書いているわけですけど、鏡花はまったく自分の好みだけで書いているわけです。それが普遍性に直結しているというのが、彼の天才なわけですね。』
(鏡花の作品において自分の少年時代への憧憬が繰り返されるのはなぜか、という問いに応えて)『(・・・前略・・・)鏡花自身のものを書くという行為自体も基本的に好き嫌いで書いているのだとすれば、そこから先に進むのはかなり困難なのではないかという気がするんですね。少年時代のものを書くということに関しても、なにか説明をすることはできるでしょうが、そのことに意味があるとはそんなに思えないんですね。ロマン主義を云々したり、精神分析的に読んだりといったことはできるでしょうけど、その論考自体には僕自身は魅力は感じない。』
『鏡花が議論しにくい作家だと思うのは、さっきも言いましたが、宗教学だとか、民俗学だとかあるアプローチを取れば、簡単に論じてしまえるんですね。ただ、そうした議論を通じて理解されるものというのは、鏡花の本質的な魅力とはちょっと違う気がするんですね。だから、そうして論じることにどうも意味があるように思えない。そこのところの構造まで含めて、鏡花については語るべきだと思いますね。』
『『高野聖』なんかも物語として解体すれば、きれいに解体できてしまうんでしょうけど、それはでももうみんなわかっていることで、そういう分析の仕方にどれだけ果たして意味があるのか。むしろ、そういう語り方を無効にしてしまうなにかがあって、単純に美といえばいいのかもしれませんが、それこそが鏡花なのであって、しかしそれを語ろうとするとやはり踏みとどまらざるを得ないんですね。鏡花文学は、そういう構造的に理解可能な部分が完全に汲み尽くされたあとに、初めて始まるものであるような気がしますね。これは小説というものの本質的な話だと思いますが。』
『だから、再三いうように、あらゆるアプローチで、かなり詳細に鏡花を分析することはできるんです。たとえば、全作品を宗教学的に、人身供養とか水や洪水による死と再生のモティーフだとかで分析すれば、かなりのところまで解体することは可能だと思います。ただ、そういういまではみんな知ってるモティーフの組み合わせ方、そしてその語り方が絶妙であるというところに、鏡花の鏡花たる所以があって、そこは議論を拒んでいる部分じゃないですかね。・・・』

なんでこうもがっぽり引用したかっていうと、どうやらこの平野啓一郎という人は、余程普段から溜めた思いがあったのだろうかというくらい、何度も鏡花の天然さとそれに反する読まれ方について何度も繰り返していうところが、おかしさにあふれてて、それがパフォーマンスの高い語りたらしめているところをなんとか言いたかった。なにがそこまで彼に、泉鏡花のシンボルに対する計算を否定させているのか。過剰なまでにさ。こういうおかしさがなかったら、とても読めた文ではない。ようするに、鏡花好きじゃー、としか言ってないのだ。むしろ、このインタヴューの半分は、愛の告白とか鏡花という幽霊の存在を信じていることの表明で、『これは小説というものの本質的な話だと思いますが。』とか守備的な発言を伴ってることから、平野氏自身、そこんとこ意識的であるとは思います。ここでは、好きな人を前にするとついあほなことを熱く語ってしまう、あほ化現象とでも言うべきものが起こっています。あほの話すことは、パフォーマンスがないととてもいたたまれないものだ。芸があってこそ、ようやく耳に入ってきて、さて、笑うか怒るかという段になる。そこまで至らぬものたちは、「面白くもなんともない」。トップランナーでちょろっと姿を見て以来、別に氏の著作を読んだことはないですが、私の中の、平野啓一郎=おもしろにーちゃん、説は支持される一方です。

MOON.は解析されつくしてなお、すのこの話なんかは残って、そこからようやく始まるわけですが、AIRは解析される場所なんてたいして用意されてなくて、だたっぴろい、すのこ野原ばかり広がっていて、いきなりそこから始めるしかない。佳乃とかSUMMERとか何か読み解こうという気を起こさせないような話が大半を占めてるわけで。すのこはハジの角をはめるくらいにしか使い道がないだろう。そこから何を読みとるというのか。たのしい、たのしい、うれしいうれしい。AIR編をなんか解析してみた先に残る佳乃やSUMMERやらは、そういうすのこフェアとかで買えるような代物だ。テレビを見て、類似品を掴まされたと言ってへし折り、それでまた買いにゆく。しまいには、ドッペル郁未が出てくるだろう。

麻枝氏は計算高い企画者なんかじゃないやい。彼の筆は、シャーマニックに、自動筆記でもうひとつの世界を描きだすのです。麻枝准、好きじゃー。えいえん万歳。

麻枝准、という幽霊を信じますか。

まぁ、計算があるとしても、麻枝准の上には、批評精神よりむしろ過剰さに見られるあほ化現象が起こっている。批評なんてもんは元長柾木にまかせておけばいい。ああ、この元長という人も、あほ化現象にのっとって麻枝准を過剰に批評してしまう人ですが。あほ化した人はすべての知力がわりとどうでもいい方向に向かってしまう。そしてその語り口は、いつだって過剰だ。

愛を語るに足る文面って、どれほどの量でしょうか。量でしかはかれない。僕はどこまでこの文章を書き続ければ、麻枝准とか元長柾木とか、数多くの物語に対して、愛を語り得るのでしょうか。たとえば、図書館一個分。あるいは、世界中の本を集めても、君に届けたい思いに足りない。ああ、そもそも愛なんて数ではかれないんでしょうか。やっぱり、好き、という言葉には程度があるんでしょうか。何かについて、深く、好きだ、っていうことが、絶対的な基準と相対性のどちらにも、そしてバラバラな精神によっても覆されないのならば。きりんさんはすき。でもぞうさんはもっとすき。そもそも、どうしてきりんさんのことが好きなのか。きりんさんのことはうさぎさんよりも好き。じゃあ、どうしてうさぎさんのことが好きなのか。うさぎさんのことはみじんこさんよりも好き。無限退行の先に絶対的なものがあるなんて、想像できない。一番好きなものはなに。ぞうさんはすき。でもいるかさんはもっとすき。でもくじらさんはもっとすき。でもししゃもさんはもっとすき。いやだからなんで、もっとすき、なんて言えるのか。

もう眠いので適当に書いてますが、私の愛なんて所詮これくらいの分量でしかないわけですか。ためしてみたけど、がっかりです。んじゃ、おやすみなさい。


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