枯葉言葉

(c) 1996-2184 曽我 十郎

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AIR

大掛かりな構成とは裏腹に話の筋自体はケレン味なく,ただ世の中ままならぬということが素直な声で語られている.例えば,人の思いのすれ違いは回復したり,やっぱりそのままだったりする.そのどうしようもなさが恨みがましい声でなく、語り継ぐことによって支えられているところが私はとても好きである.語ること、語られることに対する深い愛情を感じたのは,誰かが誰かへ語ることが直截に描かれた部分はもちろんのこと、過剰なテキストの量や魔術的な繰り返しも、語ることそれ自体の中へ入ってゆけと誘うからだ.話が語られるにつれてやるせない気持ちで一杯になってくるが,このやるせなさこそ、私自身が語ることによってどうにかするしかない.こうして,語られる私がいつしか語る私へと変わってゆく.

往人が,晴子が,観鈴の話を誠実に受け止め過ぎたこと,また信じこんでしまったことによって,大切なものがたくさん失われてしまった.そのとき思うことは,真面目すぎる人が真面目さゆえに酷い目に遭ったり失われたりするのを見たときに「あいつは真面目すぎたんや,」と誰にともなく吐き捨てるときの気持ちに似ている.当事者でない私がこの先を言うのは難しいのだけど,私はそんなときにはいつもこう付け加えることにしている.「だけど,あいつは幸せだった.」と.

「ここが神様のお家だからね、返してあげましょうね」 という劇中の台詞についてはほとんどの人が文脈を覚えてないだろうから補足すると,「いたよ、おかあさん!」「なにが?」「かみさま」「今、この中にいるよ」「ほんとう?」「だって、ぬいぐるみだと思って見てたら、かくれようとするんだよ」という流れに続くものである.子供のフィクションを母親が受け止めて返すというただそれだけのシーンであるが,神社の前で母子が神様の在り処を語り,神奈は母親から受け継がれるべき因果があって,裏葉たちが子孫に語り継ぐべきことがあって,いずれにせよ確かな意味を求めることなど出来ない語りきかせである.神奈はなぜ死ななくてはならなかったのか,神様はどこにいるのか,そして観鈴は.ままならぬことは,フィクションを語り積み重ねることによって支え続けるしかないと思われる.

観鈴についてはさみしさというよりむしろ悲しみを.さみしさは独りに由来する.自分独りなのにさみしい,とは普通言わない.一方で悲しいことはいつも外からやってきて,それは自分ではどうすることもできない他者(外部)を認めることだ.私はAIRで観鈴がなにを考えていたかということはまるで分からなかったけれど,そんな風に自分以外の存在を強固に認める彼女のことは,彼女の悲しみについて彼女をも含む誰もが理解できなかったということくらいは分かってあげたい.静止した時に色づく最後の実感は訳も分からぬ悲しさで,この世にいとおしみ育てるべきものがあるとすれば,そういう気持ちではないか.(2002/4/19)

sense off

主人公は認識力学研究所なる場所で擬似的な学園生活を送ることになり、人の認識に関するゲームが始まる.登場する少女たちの言葉は信じ難いほど突飛であり,もうすぐ世界が終わる,あるいは自分は世界を変えることができると少女は言う.もしも彼女らの言葉を信じるならばそのままに事態は進み,言葉通りの悲劇が訪れる.信じなければ何も起こらずに,女の子は幸せでいられる.美少女ゲームというものはフィクションの女の子に対する信頼を我々に促すものであり,他のことはおまけだったのかもしれない.世の中は筋の通らない出来事で一杯であるが,それをそういうものとして我々が生きてゆけるのは恒常性を支える信念があるからであって,彼女らと共に過ごした文脈の破壊された時間に対しても同種のものが認められるのだとすれば,sense offの中に物語は一片たりともなかった.筋道などなく,あまつさえ不幸をもたらすというのに我々が彼女らに対して信を抱くとすれば,その理由は彼女らがただ存在するということに他ならず,美少女ゲームとは物語というよりは画面の向こう側の女の子とわたしとを繋ぐ通信機であるという視点が,sense offの中に内包されているという気がしてならない. (2002/4/26)

日付順に読むといいと思う。

kanon

UFOを見た,と言って誰が信じてくれるだろう.つくならもっとマシな嘘をつけ,と笑われさえするだろうか.だけど笑えないUFOもあって,相手を驚かせたり騙したり誤魔化したりしようとしないときの子供の顔に,ときどきそんな嘘が書かれている.舞と真琴の子供っぽさ,嘘の下手さあるいは本気さ加減を見るにつけ,そんな因果は分からねぇ,と後半の展開に困惑を覚える私にも,本気の態度が伝わってくる.一緒に裏山へ行ってみれば確かにUFOの降り立ったような黒い地面があるし,二人で探すなら他にもたくさん証拠を見つけるだろう.信じるか信じないかのどちらかしかないというよりは,場合によってそのどちらでもいい,むしろ暮らしの中に何を望むのか迷ってばかりであることの一つ一つを漏らすことなく書き留めてゆく様が,誠実で魅力あるように思う.

Healing Planet (桜野みねね)

ここで想像してもらいたいのは,土管の上に座る海老のキーホルダーとブラウン管と女の子とを見て,彼らが話をしているように見えるかどうかということである.

ここでは,座る,という言葉が多少トリックではあるが,漫画のほうにもそういう仕掛けがある.普通,テレビは部屋にあるものだ.それはもちろん人が会話をする対象ではない.彼女,さとりの部屋にあるテレビは異次元との通信機であるという説明が与えられて会話対象となる.しかし,それをわざわざ空き地まで担いで持ってゆくのはやりすぎだ.テレビが空き地の土管の上にあることは自明でなく違和感ばりばりの事態である.それでも過去に会話対象と感じられたものは相変わらず会話対象であると感じられる.

相互理解が壊れた先には相互作用しかないのかもしれないが,それは常に作用できるわけではない.人の話を聞かない,つまり人の言葉に呼応した言葉を返さない子が,不意に人の好みとかを覚えていなくちゃ出てこないようなことを言う.そんな,言った本人すら意識しないような小さな仕掛けが,嘘みたいな事態の中でも相互作用を感じさせてゆく.(2002/4/19)

ねがぽじ (アクティブ)

私たちは誰かを分けて隔てるような状況によく出会うから、そういう話には敏感になる。だから、嘘が書いてあるとすぐに分かる。あるいは、まひるという子がいて、百の態度と千の言葉でもって愛や理解を伝えても、その子はますます不幸な状況に陥ってゆく。逆に、美奈萌という子は勘違いばかりでまひるのこと全然わかってない様子なんだけど、美奈萌とまひるの最後が一番しあわせそうに見えた。そんなさかさまにも私たちは慣れっこで、だから本当か嘘かよく分かるのだ。この話には、分け隔てや転倒の中に嘘がなかった。だったらどうして、美奈萌とまひるはしあわせになれるのか? 正統な理由はどうにも見つからないのだけど、だからこそ私は美奈萌という子が好きなのだと思う。

ONE

終ノ空

ケロQというメーカーは、恐怖、狂気描写に長けている。ゲームを終え、脳内麻薬を出し尽くした後に振り返えってみると、それらが話の枠からはみ出ることなく、とても健康的なバランスで描かれていることが分かる。また、サービス精神というものに妙なこだわりを持ち、時代劇なのに女の子はコスプレ美少女、というようなことをやたらと意識的にかつ真顔でやるところが面白い。哲学に触れる話が少なくないが、自己の内面を開示する方向ではなく、むしろ民俗学や魔術と同列に陳列するコレクター趣味が感じられる。その点で古風なオタクであり、私のセンスにもっとも合うメーカーでもある。

終ノ空では、一人の少女の飛び降り自殺をきっかけに、教室の皆が狂ってゆく。その様は精緻でかけはなれた描写がないため、筆舌しがたい狂気描写を堪能した後には、もう一度ゆっくりと読み直すのがいいだろう。形而上の問題についていつも、分かりようのない場所まで飛躍することなく、その手前ぎりぎりのところまで迫り、あと一歩先だけを指し示すという姿勢は誠実で好感がもてる。





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"summer light, star grass" brought to you by Soga Juroh