alpha centauri, omega century 2003年11月

幾光年の断絶の果てに.


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 だいたい文章も書かずに夜の2時とか3時とかをどうやって過ごすっていうんだい? (だからまた電話させてね) そう,夜なんて文章書くか好きな人の声を聞くかしてないとやり過ごせない.僕に美しい夜を見せてください.美しい夜を!

書くことに困る,ということはない.むしろ書いていられないことに困っている.

ここで時系列的表現,なんていう回りくどい言い方をしたのは,「青い鳥」(ぱんだはうす)のことも言いたかったのだろう(後で付けた考えですが.)青い鳥の断片的な話をわざわざ並べ替える人はおるまい.ただし,あれはマニュアルがユーザに対して優しい.

画面上に表示される2択選択肢を選択して話をすすめてください.
そのうち絶対クリアできます.

クリアのことは考える必要ないんで,どうかただありのままを見てください,と言ってるようにも聞こえる.青い鳥と娘惨状動物園の一番の違いとはもちろん,青い鳥では話の断片が流れてゆくのだけれど,娘惨状はそれを空間的に並べたことである.娘惨状では流すよりむしろ,マップや☆を丹念に埋めていこう,という気持ちにさせられた.

ところで,「そのうち絶対クリアできます」というのは「どこでゲームを終えてもいい」ということに近い.青い鳥にエンドはあるけれどゲームオーバーはない.男の子としてヘタレな選択をしてもミミズやサナダムシに転生してそのまま続いてゆく.ゲームを終えるためには,エンドを迎えるか,途中でウィンドウを閉じるしかない.つまり,ゲームを終える意思がどうも僕のほうに偏って委ねられているように感じられる.こちら(「じゃあ二百五十枚目で切ってくれ」のあたり)を読んだ時に感じたのはどこまでも続いてゆく断片のイメージだった.永きものであるからこそどこでも終わりを迎えることが出来る.どこでも終わりを迎えることの出来るものは永きを生きる.今思うと,最後が綺麗に落ちる青い鳥よりはなんとなく終わることの出来るlainのほうがよりそんな感じを受けるゲームだった.

(2003/12/11)

 ウィンディから聞いた話. 情報の蓄積について,Hello, Worldのほうから補足しておくと,このへんの話に.思いっきりネタバレだし,我ながらあまり頭のいい文章ではないんですが,また時間が出来たら書き直します.つうかバーチャコールもやります.

あと,イヅタとか美春とかサギーの話.失われてしまった人物と同一視し得る人物が目の前にいるというのに,失われてしまった人物のことを語れない状況っていうのが,やるせない.逆に言えば,語ることさえ出来れば辛くない.というようなことを,御影すばるや深山勇希の記憶が失われてしまった時に思った. サギーについては本人からああ言い出すもんだから,耳の頃が良かった話という話はやりにくい.イヅタのリボンも気まずい感じがする.ただ,純一と美春の関係を考えると,純一はいつか美春の話を美春に出来るような気がしている.

勇希の無かったことになってしまった記憶について,直人が勇希に語りなおすことは自然であった,つまり,直人は勇希の記憶を取り戻そうとしたわけでなく,ただ単に自分の体験を語りたくて,勇希はきっとそれを聞いてくれると信じることが出来る,そんな一方通行が認められる,あの二人の語り合える関係というのは羨ましく思う.

(2003/12/7)

 「閉店操業中」ってちょっといいタイトルだと思った.

(2003/12/7)

 "Happy birthday!"

天野と真琴

天野の誕生日へ.毎日,こんな風に楽しく暮らしてゆけますように.

(Zaurus MI-E21+PrismPocket,2003/12/6)

 やっぱ15年前っていうとガルフォースのキャラクターとイメージかぶっちゃいますね

(2003/12/4)

 僕は,kanonの舞の話やらsense offやらパーフェクトドラマやらで,受け手が自分の見た順序で理解するんじゃなく,わざわざ時間軸順に並べ替えたものを作ってそれを使って理解しなおそうとするのはよく判らない.どうして自分が物語を認知した順序を容易に無視することができるのだろうか.女の子のクリア順が理解に影響を及ぼすことを気にする受け手が多い割には,女の子個別の話となると途端に物事を見た順序をわざわざ解体してしまう.

人は時系列的な表現を認知するとき,曖昧さや順序のちぐはぐさについて保留することを許している.日頃の会話を思い出してほしい.話は背景が欠けたものであったり文法的に前後したりする.しかし,相手の話によく判らないところがあっても,相手が一息つくまではとりあえず質問を待つものである.それどころか会話のノリが良いときは変なところをお互い無視して,おいしいところだけを取り上げて話を続けてゆく.会話の辿り着いた先がはじめの狙いと異なっていることなどしょっちゅうである.映像のカットの繋ぎ方にもそのような保留が利用され,時間や場所や背景の異なるシーンが突然挿入されたとしても僕らはそれをそういうものとして印象に留め,全体の流れに身を任せるということがある.一方で,空間的な表現の認知は念入りな方向へと進む.図や表,文章などは,はじめにざっと全体を一覧し,あとは必要に応じて詳細が検討される.そのとき意味の繋がりや構造のおかしさは看過されにくい.人はある内容について伝えようとする際に,ダイナミックに流れてゆく表現と念入りに検討することのできる表現を状況に応じて上手く使い分けている.しかし,二つの表現は等価ではありえない.これは何度も出す例ではあるが,会話を録音したテープを書き起こすのは大変難しい.会話中は判っていたつもりでも文章にしてみると綻びだらけであり,保留されたり無視された部分は位置を変えたりノイズとして棄てたりしながら整理する作業を行う必要がある.作家の保坂和志が風景を文章で書くことについてこう述べている.『世界をそのまま書こうとする最初の段階として,まず見えるものをそのまま書くというのがすごい大変なことなんです.』また,『目では数秒間しか見えないものを,三〇秒間ぐらい読んでもらう以上の時間を使ってしまったら,それはもう,パッと見たものとは別の印象のものになってしまう.』 僕らは普段,時系列的な表現と空間的な表現を身軽に使い分けているが,作家とは何事も文章で書くものであるから,流れてゆく風景の一瞬を描くためには,例えば同じように流れを持つ映画表現ではなく,読解に一瞬以上を要する文章表現を用いる必要がある.その認知的な齟齬を埋めようとするとき,『でも,数秒間の視覚というのは,「数秒間の視覚」という読者の印象の中でなんとか処理する,というような課題をひとつひとつクリアしていくことが世界を書くことにつながるんだと思う.』 作家の見た数秒間を読者の読む数秒間で再現することは出来ないから,読者の中に数秒間という「印象」を作りだす.あらかじめ空間的な表現として文章を書き表すのではなく,時系列的に認知される体験を文章表現へと変換するならば,そうした課題から目を背けることは出来ないだろう.読者としても,どうやらそういう体験を扱ったものらしい齟齬のある文章を読んだとき,例えば山内さんの言葉を借りると『「そのとき」「そのとき」が並んでいる』時に,それは作家が困難であったのと同様,読者にとっても改めて自分の言葉で語ることは困難である.つい,歴史や因果の順序に構造を変えてから読み直してしまうが,しかしそこはそのまま読んで語ることの手間を惜しむところではないだろう.

このように,表現においてじっくりと読まれてしまうことが課題となる場合がある.クリックによって先へ進めるゲームは基本的にじっくりと読まれてしまう表現であり,美少女ゲームのほとんどがそうである.しかし,「NOëL NOT DiGITAL」においてどこか噛みあわない会話シーンが自動的に流れてゆく様子は良くも悪くも時系列的な表現であると言っていい.「北へ。」の会話シーンが自動的に流れてゆくもので,バックログを参照できないのはもちろん仕様であり,好きなときに割り込めるという会話のカジュアルさを狙ったものだったろう.しかし,こちらから可能なアプローチが少ないため,カジュアルに話をしていて相手に誤解されたとき,その訂正が出来ないと思わせる点はただ緊張を強いるのみではあった.「季節を抱きしめて」や「ダブルキャスト」はほとんど映画的な表現であって,気楽に視聴するには向いていた.


あと,この「シナリオ」は説明不足だがどこか納得するところがある,なんて思うときには,個人の趣味とか言って取り繕うんじゃなくて,目から入ってきたものや耳から入ってきたものや口をついて出てきたものや手に触れたものたちなど,ゲームをプレイしている身体のことをきちんと思い出せば,本当はそこに理屈があるのに頭だけで追いかけていたことが判るんじゃないだろうか.

そういえば,Prismaticallizationというのは身体による認知を強く感じさせるものだった.ただ見たまま,触ったままというのがあの世界であって,ボタンを何百回と叩くうちに「そのとき」「そのとき」ばかりが執念深く積み重なっていった.昨日も明日もなく今日しかないということは,ただそのように在るだけの体験を歴史や因果の順序へ解体させないための仕組みであったとも言えるだろう.

(2003/12/1)

 枯堂夏子

1995年の僕は「BOYS BE FREE!」を聞いてもなんら引っかかるところがなかったというのは驚くべきところだ.今だと「魔法使いがあなたを女の子に変身させても」の時点でもう引き込まれてしまうわけで.1995年には俺は存在しなかったのだ,と思える程度には,俺は今,存在するらしい.

1996年の「PERSONA」の時点では,こんな女の子になりたい!とか思ってたわけで,(たぶらかすのが生き方よ 女のロマンよ.) 1995年と1996年の間にいったい何があったんだ俺.しいて言えば,キャラクターに助平なものを感じ始めた時期ではある.あれですよ,ノヴァと光のキス.病室で延々とキャラクターの絵ばかり描いてたとか,そういう時期.テレビは毎週,レイアース2だけが楽しみでさ.ベッドの上で光と一緒に切なくなってた.

天地関係ってほとんど見てた記憶がないのだけれど「銀河で直立歩行」(ラブソングとして)であるとか,枯堂さんの名前は今日まで意識しなかったけど,体になんか染み付いてる気がする.

(2003/11/29)

 会話のはなし.

インタビュアー:(引用者による前略)美春は2ch用語をかなり連呼してますよね?
まり:あれはボク自身は徹底的に外したんですよ.設定としてはあったんですけど,ネット用語を日常会話で使うのは自分的にはアウトだと思ってるから.自分でもときどき使いますけど,熱心に使ってるのはどうかなーと(笑).
(D.C.公式ビジュアルファンブックより引用)

純一や音夢と近い位置にいる人物は当然,言葉の使い方も近いものとなるだろう.互いにしか通用しない符丁というのはどこへ行ってもあるものだ.また,友達が家族と話している様子を聞くと奇妙な感じがするのは,言葉どころか声の調子からしていつもと違うからである.家族へ向けて話すとき意識しなくても自然にそうなってしまう話しぶりというのがある.美春が純一や音夢と話すときに2ch用語を使うというのは確かに考えにくい.上のインタビューを読む限りでは,ライターのまり氏の立場としては純一の位置にプレイヤーを置いていて,プレイヤーにとってネット用語を日常会話で使うような人は側にいないという判断だろう.

しかし,「設定としてはあったんですけど」という部分からは,こんな美春話を想像することも可能である.はじめ2ch用語を熱心に使う美春は純一たちにとって異質であるが,親交を深めるにつれ,美春の話しぶりに純一たちが巻き込まれてゆく.また同時に美春のほうも純一の「かったるい」を連呼する話しぶりに巻き込まれてゆく.そういう様子からはきっと互いの親密さが伝わってくるだろう.

女の子の話しぶりに男の子が巻き込まれてゆく様子を可愛らしく描いた作品は,PS版のシスタープリンセスをおいて他に知らない.兄は四葉と会って間もない頃はチェキを始めとする四葉語(「なるほどチェキほど」とか)に違和感を覚えていたが,二週間も経つと「兄チャマ,チェキチェキ.」「やあ四葉,チェキチェキ.」という具合で四葉語がうつってしまっているのである.その極めつけとして彼は,四葉と喋ってるときに「兄チャマ」と自称するのである.全く,素敵な世界だと思う.

(2003/11/28)

 切り離したものは一周してまた同じところへ戻ってくる.どんどんWebサイトが増えてゆくのを(今は3つだ),また流れに合わせて一つにしなくちゃいけないと思う.いったん一つにしないと新しく分裂することが出来ない.そういうわけで,それぞれで次にどんなことをするか決まってきたので,成果を回収するため一つにする.R.S.T.は末永の予想よりは長く続いたが(ざまあみろ〜),また新しい体制へ移行する(ごめんなさい〜).四葉と一緒に,次の場所へ行く.3月くらいまで徐々に.

そこでは魂に引きずられてはいけない.だけど,お洒落やスマートさとも無縁でなくてはならない.

(2003/11/25)

 むにゃむにゃ.煮詰まっとるなぁ.休日が長いほど不調になる.明日からしっかりしないと.

このほど長野まゆみの「夏帽子」が十年を経て文庫化された.元は1994年の単行本であり,ファンの間では中学の教科書に採録されたことが話題になったものだ.そんな感慨に耽っていたとき,古本屋で一冊だけMOEが置いてあるのを見かけ,それが長野まゆみ特集号(1993年5月)だったので買ってきた.すると夏帽子の連載開始がなんとこの号であった.また長野まゆみの好きな街として紀行写真とともに紹介されているのが谷根千と呼ばれる界隈であり,それは今僕が住んでいる町である.随分と縁の重なるものだ.

長野まゆみと共に青春を過ごした男の子はその頃どんな気持ちで今いったいどうしてるのだろう.1996年から1999年にかけて,おそらくは最初の長野ファン交流サイトであると言っていい「くろねこ屋満月堂」がまだあった時代の話である.同人誌即売会へ行けば長野まゆみサークルは女性ばかりであったが,当然,宮沢賢治も好きで稲垣足穂も好きでということになるので,鉱石や天体,理科的工学的なモノたちへの偏愛が一致する点において受け入れられるところがあった.中には少年愛ものも交ざるわけであるが,はにかみながらも売ってくれた.一方,Webの世界ではまだ女の子が少なく,世の中は長野まゆみを好きな男の子ばかりであるようにも錯覚された.Webでは男も女もなく大変和気あいあいとやっていたのは,少年愛抜きでも話の成り立つ点と,Webにおける男女のバランスと,あとは例えばくろねこ屋さんのような管理人氏の人柄によるものだったろう.しかしその満月堂も閉じられて久しく,長野まゆみの創作活動自体も往年よりゆっくりとしたものとなり,内容も少女が好むような内容というよりは一般に子供時代の郷愁を誘うものが増え,Webの世界も様変わりし,あの頃の男の子たちがどこへ行ってしまったのか判らなくなってしまった.

あともう一つの郷愁について.zabadakが好きで遊佐未森が好きで須藤真澄が好きで岡野史佳が好きで.彼ら彼女らを愛した「そういう人たち」はかつていて,だけど名付けられることのないままにもうどこかへ行ってしまったような気がしている.だから,今となっては名付けようがないのだけれど,ただ郷愁としてあられもなく話をしたい.なんとなれば,僕らの愛してきた彼ら彼女らこそまさに郷愁をうたってきた人々であるからだ.

夏町銅貨の銅貨というのはもちろん「天体議会」の銅貨からもらってきた名前であって(銅貨だなんて人の名前につけるのは長野まゆみくらいである),僕がこの名前をやめたときから夏町さんという人もどうも行方知れずである.そして曽我さんという人はいつの間にやら夏町さんがここに居た時間よりも長い時間をここで過ごしている.そうするうちに四葉という人が肩を貸してくれて,夏町さんの見ることの出来なかった方向からそのやろうとしていたことを見せてくれて,それで僕とか曽我さんとかは郷愁めいた気持ちのなかからまたぽつぽつとかつて夏町さんの言えなかったことを語り始めている.


ところで,坂本真綾の次のアルバムは「少年アリス」である.長野まゆみのデビュー作と同タイトルであるが,ここから別段何も喚起されるところのない男の子たちの大きさを想像して,僕は少し恐れを感じてしまった.その大きさと,自分の小ささに.

姉からのメールで昨日の「末っ子長男姉三人」(TBS 21:00)に真綾さんが出演することを知って録画しておいた.するとまた深津絵里が琴線に触れてくる.今では一流の女優さんという年齢であるが,深津絵里といえば「1999年の夏休み」を思い出さずにはいられない.ここでは少年話をするつもりがないのでドラマの話に戻るが,深津絵里と岡田くんの新婚さんカップルのいちゃつきぶりが幸せである.あああぺたぺたしてやがる.可愛い.お姉ちゃんズが敵とか味方とかでなく結局はただ下世話好きなのもいい.あのカップルにはツッコミ役が必要だろう.真綾さんはというと,岡田くんのモトカノで嫌な女っぷりを見せてくれる.今週は顔見せだけで来週が修羅場本番のようだ.

末っ子長男姉一人といえばこの私である.お姉ちゃんがメールで教えてくれてん,ということを周りに嬉々として話してしまって後でまた失敗したなと思った.ロリコンというのはどこか遠い世界の存在としてネタで済むところがあるが,シスコンは比較的理解しやすい存在であるからかどうにも引かれてしまう.もはやシスコンとして認知されてしまってはいるが,今からでも遅くはない.姉のことなど周りには嬉しそうに話さぬに限る.

(2003/11/24)

 雑で申し訳ないけれど黙ってられなくて,今すぐ書けるのはこれくらい.

Legend編のうそ臭さはライティングのうそ臭さではなく,むしろあの兄妹の神職としてのうそ臭さとしてあったと思う.場当たり的な祭祀で龍神たちが降りてくる点が最大のトリックで,幼い頃の記憶や菊花の笑顔にほだされているうちに,神職として十分な修行を積んでいないことも幼くして親を失った故と許したくなってしまえる.兄妹と龍神たちの暮らしぶりを受け入れることと彼らのいい加減さを受け入れることは一蓮托生であり都合よく区別できない.そこで菊花という人は幸せを生み出す少女でいて,だがしかし,同時に別の箇所を決定的にわやにしている.僕らがどう思おうが,彼らは盲目かもしれないが,決してふざけているようには見えなくて,それをそういうものとして認められる程度にはSNOWの人々は人間くさいことが多いのである.だから,そこは笑うところじゃなくてあほやなぁと言ってあげるところではないか.キャラクターに感情移入出来ないとすればそれは全くの他人であり,しかし,他人ならば他人なりのもてなしようがあろうというものである.

これまた雑な言い方になるのだけど,僕はフィクションのキャラクターを数える時,必ず2を足しておきたい.追加する一人は僕であり,またもう一人は作者であって,そのときキャラクターである僕らの主従関係は自明でない.キャラクターを見るということはそういうものの見方だと思う.

(追記 2003/11/20)
ご挨拶が遅れましたが,こんにちは
白桜の行為は非常に困ったちゃんであるという判断に対する理由が充分に示されているように思えません.白桜のおかれた状況を追いかけると,まず,神社に帰還したその夜に菊花のことを自分を助けてくれたあたたかい女性として思い出します.次に,龍神降臨の夜,かしこまった兄妹に対して,降りてきた菊花の方がさっそく感極まって白桜に抱きついてきて,子供みたいに引き剥がされてしまいます.その後の宴でも食い気に泥酔,神々しくない様子はむしろ彼女のほうからアピールされてきます.物語の早期で提示されるこの二つの出来事は,白桜が菊花と一線を越えてしまったことについて,僕らが彼の事情を判断する材料として足るものであると思います.そして,判断は事情が出揃った後の話です.白桜に嫌悪を示すためなら彼の側の事情はひとまず恣意的に省略されてもいいと思うのですが,続いてLegend全体が嘘くさい空気に満ちているという判断へ持っていっておられるので,そうすると作品として彼の側の事情が全く描かれていないように思わせる松波さんの書き方は,Legendに対してかなり強い判断を下しておられる割には不公平であると思います.

(2003/11/19)

 ガンスリ話.

古いけど,ここ.以降,この調子で続きを書けなくなった理由も含めて,宿題にしておきたい.

(2003/11/14)

 某所よりガンスリOP話を読んで.

僕とは背景を共有していないようなので,甲は乙の象徴だから,という理屈は身近な例題なしに理解できないけど,それでもなお,フィクションの人々のことを何かを表現するための道具として議論を始める態度よりは余程,ここで彼女らをなんとか救い出そうとしている態度は僕にとって好ましいです.

(2003/11/13)

 宮崎あおい(ていうかチキチキ秋田)見逃してしまいましたわ.

(2003/11/13)

 うえお久光「悪魔のミカタ2 インヴィジブルエア」

人の内面らしきものは,本人の自意識としてカギカッコなしで語られる部分と,他人からの指摘による両面から語られる.みークルの人々も知恵の実を使った人々にしても人間くさく感じられるのは,この本人の自意識の部分が僕らに見えるようになってるからだ.この内面?の評価は本人や他人の手によってくどいほどされていて,証拠に満ちていて,そこんところが僕が彼らを信じるに足る理由だろう.その対照として舞原姉とアトリの自意識だけは描かれず他人から指摘されるものでしかないのは人間でないような怖さがある.そうだとしても,舞原妹は舞原姉のことを愛しているし,コウはアトリのことを可愛くも思う.舞原姉やアトリを引き合いに出せば瞭然,コウたちは非常に人間くさいのだけど,人間くささでは割り切れないところがあるから彼らは悪魔のミカタというややこしいものを持ち出さずにいられない.

悪い流れを変えようとするときに切り札として肌の触れ合いを利用する人間の多いところが好みだ.小鳥遊恕宇は自分の恋人を最後なし崩し的に丸め込むのに利用する.舞原妹は舞原姉を落ち着かせるため最初にそれを利用する.コウは言葉で相手の虚を突いて,その落としどころとして使う(例えば真嶋綾の膝枕のとき.しかしこれは身を張った下ネタで代用する場合がほとんど.)それぞれ技があってよろしい.あと,みんな何かにつけて撫でたり抱きついたりキスしたりしがち.

なお一番面白いのはそんなところではなくインヴィジブルエアという悪魔の力の使い方であるが,そこを僕が書いたって仕方がない.

ぜひとも読んで頂きたい本.

(11巻売ってないです,お兄ちゃん.2003/11/12)

 うえお久光「悪魔のミカタ 魔法カメラ」

堂島コウに好意を向けてくる女の子たちに対する正しいあしらい方(もてなし方)が,ひとまず確定しているところは安心できる.あしらう,もしくは,もてなす,といった言い方になるのはコウがいつかかけがえのない人の元へ辿り着くからで,彼女たちはコウの「恋人」くらいにはなれても恋人にはなれない.で,女の子たちのほうも姫以外はそれを承知していそうだ.形だけを見れば全員,コウの妹みたいなものである.

正しい,っていうのは堂島コウによって彼以外の悲しみは回避される方向に力が働くからで,コウ本人が自分のことを悪く思おうが,女の子のほうではそのように理解しない.屋上で真嶋が,葬式で日奈の母が,コウのことを言葉通り見た目通りには受け取らない.泣かないために悶え苦しみ,笑ってないと死んじゃう彼は,誰がどう見たって損な性分であるとしか理解されないだろう.え,悪魔のミカタだって? 神様みたいないい子じゃないの.

堂島コウの場合,彼の抱え込んでいる理解してもらえなさすら「妹を宇宙人にさらわれた《お兄ちゃん》」というキャラクターとして理解されている節がある.信念はキャラクターとして理解され,追えば形を変えどんどん遠くへ逃げてゆく.だから三束元生がキャラクターを捕らえて,「みークル」へ誘う天然さは彼らに愛されている.とりあえず,冒頭カラーの他己紹介が非常にサークルの名簿らしい内輪感覚だ.山崎や高久が信念を真っ直ぐに突き詰めた挙句命を落とすのは,二人が三束元生に誘われなかったためである.信念に殺されるくらいなら信念は担保に入れてもいい.その後ようやく人間が始まって,信念を取り戻すために生きる.回りくどいけれどそういうやり方しかなくて,悪魔という考え方が持ち出されるのはこの迂回路を作り上げるためである.

ガラスケースの姫君を拝むことすら許されず,「……こんな状況で,日奈のおっぱい見たいといったら,俺は変態かなぁ.てゆーか俺,見たいのかなぁ」思っていなくても,あほな言葉が口をついて出てくる.事情はストレートではなく,茶化さずにはいられない.

それではじめの話に戻るのだけど,長い,遠回りの荒野を行くときに,信念には未だ手が届かずともせめて,こうすれば嬉しい,っていうのがお互い判ってるのは幸せじゃない.もてなすほうにとっても,もてなされるほうにとってもさ.だからコウは舞原妹にわざわざ自分のこと好きかって尋ねるわけで.

(2003/11/11)

 リピュア第5話・第13話の話こちらからなんども参照して頂いているので,「物語の自律性」についてお茶を濁した部分を補足しておきたい.

第5話においてあの小さい頃の千影に似た少女を見るとき私たちが受けた印象は,千影から分離した千影,というものだったのではないかと思う.少女が千影とは離れた存在であることは,少女の姿が今の千影から時間をはるかに遡ったものであることと,千影が兄に対して素直にはなれない一方で,少女のほうは積極的に兄と千影を結ぼうとするところから感じられる.これと同時に,少女が他でもない千影を出自とすることは,プラネタリウムの記憶を持っているらしいことから感じられる.しかし,千影という人物や時間の流れの一貫性を疑わないとすると,少女は千影であるが千影ではない,としか言いようのない矛盾を抱えている.

そうした不思議な出来事をそのままに受け入れてしまった時,私は自分を納得させたトリックがどこにあるのか探すことにしている.だからこれは結果からさかのぼった仮説になるが,千影から分離した千影,というのは第5話にあと3つ登場するように思われる.1つ目は兄とプラネタリウムへ行った幼い頃の千影である.小さい頃の自分のことを大きくなってから想像するのは難しい.思い出はきっかけがないと鮮明に甦らない.兄からチケットを見せてもらうまで千影はプラネタリウムへ行った幼い日の自分をはっきりと思い出すことはなかったのではないだろうか.幼い日の自分はどこへいった,とはよく耳にする言い草であって,それは自分であるはずなのにまるで別人のような,時間によって分離した存在である.次に,千影が一人の時の行動と兄の前で見せる行動は分離している.これは,兄に対しては作り物の星に興味はないと言いつつも一人の時は部屋で投影機を回している行動に代表されている.時を隔てなくとも今の自分すら真っ二つに別れてしまっているのである.最後の1つは千影の創作した物語である.言葉が独り歩きするとはよく言ったもので,言葉は発した先から自分とは別の生き物になる.悪いことばかりではなく,言葉にしてみてはじめて気付くということもある.物語とは言葉の化け物みたいなものであって,書き手と作品とは似ない,なんてこともよく言われる.

さて,あの千影に似た少女は矛盾を抱えているが,その分離した具合は幼い頃の千影や千影の乖離した行動や千影の物語のそれと類似している.一つしかないことを信じるのは難しいが,二つ三つ重なっていることはあってもいいと思うことが出来る.千影から分離した千影,というのが沢山あるなら,あの千影に似た少女もその一つとして受け入れることが出来る.ここで私はまだ千影に似た少女の正体について意味を与えていないが,不思議というものは順序としてまずそこに深い意味があることを理由にして信じられるというものではなく,素朴な常識たちに支えられた上で,作品中の言葉の意味に深入りしない表層(形式とか回数とか)から信がもたらされるものであると思う.意味はその後だ.

信じられたところでようやく意味の評価を始めると,不思議な少女は,彼女と分離具合の似ている他のもの全ての存在を指し示してくれているように思われる.私がここで少女の正体を千影の書いた物語に限定したのは,この物語の綴られる様子に千影から分離した者の影響を強く感じたからだ.はじめ,千影の物語は明確な結末を持たない(「王女は・・・」で終わる).千影が兄と取り結ぶ関係について迷いを持っている以上,兄と自分との関係を投影した物語にも結論は出せない.この続きはほとんど千影本人の手によって直接綴られることはない.続く二文は少女がプラネタリウムのチケットを兄に手渡した行動をそのまま取り入れたものであり(「ここに星空を詰め込んだ小箱があります.」「これを手渡せばきっと伝わるでしょう.」),最後の三文は兄によって語られる(「だけど,たった一つだけ星が残った.」「星は今も待っている.」「一緒に小箱の星座になるはずだった三つの星をね.」 ).ここで千影と兄の物語が一致することは全くの偶然であるとするよりも,内に迷いを抱え外からの示唆に敏感となった千影を見るにつけ,兄の物語を聞いて遡及的に自分の物語がかくありたかった気持ちに気付いたと考えるほうが妥当である.この瞬間,兄は千影から分離した言葉である.一方,兄にとっては以前に書いたような兄の事情において,これを偶然に満ちた機運として捉えていると見るべきだろう.ついでに言うと,兄も時計塔の中では遠い昔の自分から思いがけない手がかりを得ることになる.

自分ではままならない分離した自分,ほとんどそれは他人と呼んでいいと思う.第5話第13話での千影は私にとってそうした形での他人を強く意識させてくれる人たちだった.なお,私の関心はここで出会ったある女の子の創作神話が綴られる様に向けられているため,千影あるいは兄というキャラクターへの視線には欠けている.シスタープリンセスという背景を考えると千影と兄の間にはくるぶしあんよ氏の考察に見られるよう,特別の存在としての気持ちのやりとりがもっとあるはずである.私の第5話に関する文章は,作品中では語られない星座に関する知識を大幅に取り入れたものであり,シスタープリンセスの解説というよりはロマンの産物である.


- ちなみに,12月24日午後7時40分の東京の夜空はこのようになる.Stella Theater Pro使用.)三角座は仰角およそ80度から90度に位置する.クリスマスイブには空気の澄んだ場所でぜひ.

(2003/11/10)

 おねがい☆ツインズにおける血縁関係の決定.

女の子が男の子の血縁者であるかどうか最後まで判らないと言えばシスタープリンセスのゲーム版を思い出す.シスプリではそれは選択肢による血縁度の積み重ねによって決まったわけであるが,おねツイはどうだったか.選択肢ともいうべき岐路はない.その代わり,彼らのことを振り返ってみると,麻郁が助けたり駆けつけたり追いかけたり探したりした回数は結果的に血縁者ではなかったA子(匿名にしておく)のほうに偏っていた.息を切らして駆けつけるなどの行動は麻郁がAに好意を持っていることの手がかりとしていいと思うが,麻郁はその行動をAとBへの好意を比較した上で起こしたわけではなく,たまたまそういう状況だったというだけだ.例えば麻郁がAの元へ駆けつけなくてはならないとき,代わりにBを裏切らなければならない,という状況に彼らは陥らない.決定的な選択肢がなかったにもかかわらず,どうもAのほうが恋人たる資格を得ていると感じられるのはこの回数のトリックだろう.

それは三人で暮らすという答えの前では些細な話であって,一緒に暮らしたいという麻郁の覆らない意思を前提として,他のことは回数くらいでしか測れないような暗黙的な了解で良くて,そのまま長々と10話続いた末に,写真の謎が判明するアクシデントによって最後2話分の明示的な言葉となる.それは,浮気の証拠が出てきてしまった夫婦のようであって,お互いそのこと知ってて結論は出ていたんだけど言葉にする必要に迫られなかったことが,外からやってきた物品によってようやく確定しなくちゃならなくなる.どうもこういうのは否定的な例しか思いつかないのだけど,彼らの高校生っていう若さによってそこは上手く見せられているのかもしれない.沢山の人に守られながらだけど同い年の彼らが彼らだけの家で自活する姿は,彼らの年頃を生きてく暮らし方としては最上のものであると思う.それは僕にとってはもはや叶わぬ憧れだ.あの生徒会長みたいに,彼らのことを写真に撮るみたいに,このアニメを見た.

(2003/11/9)

 おねがい☆ツインズ #12

それはマリッジブルーだよ,深衣奈ちゃん.

つつがなく終了.大満足である.自分の居場所に関する深衣奈の答えは第10話,樺恋の答えは第11話で明らかになる.一方,麻郁が彼女らをどう扱うかという答えは既に第2話で出ている.「俺は見捨てねぇぞ,絶対に」である.作中の言葉を借りるならば「答え出てるでしょ.」「でも悩むな.」(第11話)ということで,答えが出ていながらも悩むっていう話の繰り返しで,そのとき悩んでる内容は答えは既にあるわけだから些細な内容であって.写真の謎や肉親か否かとかいうこだわりが傍から見てしょーもなく思えるのはもちろんそのせいで,だけどまあ,「これからもいろいろあると思います」「でも,今わたしたちはあの家に戻る.」「三人で暮らす,それを繰り返して.」(第12話)三人で暮らすという答えは彼らには見えてたと思うんだけど,それでも12話分些細な話があるわけで,これからも彼らがそういうことを繰り返すっていうのはよく判る話だ.

お風呂トークが秘密会議? あほやなあ.あんたらのカン高い声なんか居間まで筒抜けに決まっとるやん.これまでどんな家住んでてん.ただ,聞こえへんことになってるだけやしそれ.

僕の想像盛りだくさんではあるけれど,相手が麻郁だからこうも無警戒な発言が出てくるんじゃないかと.

双子であるという以外の前提はないのに自然と弟ではなく兄だったところはすかさず拾い上げておきたい.第9話でちょこまかしてるうちにはぐれた彼女らの名前を麻郁が大声で呼ぶところ,ボリュームめいっぱい引き上げて聞き惚れた.「妹の力」でもなく「姉の力」でもなく,「兄の力」という言葉を捧げたい.それはまだよく判んないんだけど,どうして僕がお兄ちゃんなるものを好きなのかっていうのを言葉にしてゆきたいのだ.それは僕が姉に向ける気持ちとは明らかに違っていて.あと負の側面というのを感じさせなくて,僕にとって都合の良すぎるものであるのも間違いないと思う.

今,言葉にするとしたらそれは,女の子による蹂躙を正しくもてなすことの出来る力だ.おねツイでは四道跨の兄としての不適切さが強調されていた.妹である晴子の直情と好意は兄にも向けられそうなものであるが,跨が妹に向ける愛情に対してどんどんそれてゆく.しまいにゃ跨は変態とか本物のダメ男扱いされる.一方で麻郁と押しかけ妹との気持ちはかみ合っている.兄の力たるためには何らかの方法によって正誤の判断が伴うように思える.

兄でなく姉だとしたらどうか.「姉」と「正しさ」という言葉の間にはすれ違いがあるように感じるが,それはkanonにおける佐祐理さんの正しい姉っていうやつが取り返しのつかない結果をもたらしたことを思い出すからだ.

(2003/11/9)

 目覚め

いってきます.

朝日が昇ると,夜の者共は四葉とお別れをします.
日の光を浴びても体がとけてしまわないのは,ぬいぐるみの体を持つロビンだけです.

今日もロビンは人形のふりをして四葉についてゆきます.
しかし,ぬいぐるみもいいことばかりではありません.
この前はお腹の綿をぜんぶ取り出されて,体の表と裏をさかさまにされてしまいました.
洗濯桶の中でロビンは虹色のシャボン玉になる夢を見ました.
シャボン玉は見ている分には結構なものですが,
自分がシャボン玉になるのは気持ちのいいものではありません.
体は無数のこわれやすい球でできていました.
その色は交じり合う全ての色で,確かな形を失った,それは悪い夢でした.
まあそういうわけで,ぬいぐるみ生活も大変なものでしたが,
そのおかげでロビンは他の夜の者共が知らない「怖れ」を知っていました.

だからこそロビンは,昼間の四葉に襲いかかる敵を退ける自信がありました.

「いってきまーす」

「いってらっしゃーい」

夜の者共に見送られて,四葉は自分の部屋から出てゆきます.
そのときもう,ロビンは口をききません.
糸の端から電波を出して,外敵の探知,準備オッケーです.

(Zaurus MI-E21+PrismPocket,2003/11/8)



 『あなた意地悪〜』

> 「出町柳から」を唱っていた中之島ゆきは三浦理恵子さんだったそうです。ちょうビックリ。

なんですと? 一生の不覚.どうして俺はあの日,日比谷公園へ行くのを止めたのだ! つうか声聞いて気付かなかったのがそもそもの不覚.

ところで「水平線でつかまえて」は今でもやはり魂の一曲です.クロール,クロールするですよ?

(2003/11/8)

 リベリオンご覧になられましたか. 格好良いけどマニアックでないというのはよく判ります.彼ら自身はガン=カタの設定とかあまり語らない方向であって.

イェーツの詩の意味を信者さんのところを読んでようやく理解.これは確かに切ない.

(2003/11/8)

 テレビっ娘 '75

「dear」(藤原ここあ)で散葉がテレビしかない部屋でひとりテレビばっか見て過ごしてるのは身につまされるものがある.僕ら鍵っ子世代じゃないですか.あの,親が家にいないほうの.五時ごろ外から帰ってきたら,とりあえずテレビをつけて母親の帰りを待つ.VHFで子供が見るようなのなんもやってないときもKBS京都ではわけわかんない洋物アニメをやっていた.これが全然面白くないのだけれど見ていた.日本のアニメは面白いにしても再放送ばかりで,ウラシマンとかパタリロとか何度見たよ? それでも見ていた.五時を過ぎたら他にやることもない.姉が帰ってくれば姉と二人でただそうして見ていた.子供同士なんて,しゃべる内容を持たないのだ.姉弟が今日あったことなんかを話すようになるのは余程大きくなってからのことだろう.そんな感じで7時だか7時半だかまで.あの頃,何も思考することのないどんよりとした夕方が過ぎてゆくばかりだったように思う.

(2003/11/8)

 どうも10代というのは恥ずかしい代物であるらしい.だけど僕にとってその時その場でしかありえなかったことは人に見せびらかしたいものだ.だいいち僕は過去くらいしか持ち合わせがない.怪我のあととか人に見せたがる.そもそも趣味は悪いほうであるが単によく覚えてる思い出のほとんどが怪我したことや泣いたことだってのもある.何もない場所で転ぶのが特技だった.あれは漫画の中だけの話ではない.

ただ僕にとって都合の良いことにわりと人は他人のそういう話を聞きたがってくれる.人の話ってのはあとは昨日とかさっきとかのことで,最後の10%は未来の話.そしてこの10%が僕にとっては非常に都合が悪い.

そういうわけで今日も僕は機嫌よく過去の話をする.10代前半に買っていた雑誌のことだ.

・アニメディア(学研)
 小学生の頃から姉と割り勘で買っていたという例のやつである.絵が多くて子供に易しい.読者ページだけは文字が多かったがそのうち読めるようになった.付録のカセットレーベルなど喜んで使っていたものだ.

アニパロコミックス,JUNIOR,PALLE(みのり書房)
 これも割り勘.当時なんにしても開拓者であった姉に引っぱられるようにして未知のものに手を出し,いつのまにか共同出資者になっていたという感じがする.まんレポを読んで星見ちゃんが今いくつになったのかを知るのがこの雑誌を懐しむための鍵である.

・ウォーロック(社会思想社)
 中学へ入ったら読む雑誌である.RPG幻想事典を読んでRPGに対する想像をたくましくしていた小学生にとって,しかし新和から発売されていた4800円のD&Dは暴力的な価格設定だった.だいいち1500円の幻想事典でさえ本屋で何度も立ち読みしたもので,買ったのはずいぶん後になってからのことである.そんな状況でT&Tがなんとか手の届く範囲の文庫で発売されたとき僕は興奮しまくった.流れとしてサポート記事のあったウォーロックも買うことになる.高くて薄い本だった.表紙の米田仁士の絵に裸が多くて母親に嫌な顔をされたものであるが,私のほうにはまだ裸が恥ずかしいものだという実感がなかった.

・ドラゴンマガジン(富士見書房)
 何か新しい雑誌を開拓したくなって,最も勉強になりそうな雑誌,つまり自分の全く知らないことが載ってそうな雑誌を捜していたとき,コスプレアイドルの表紙が目についた.アイドル・特撮・ファンタジー・ミリタリー・そして赤川次郎が支離滅裂に並べられた内容は異彩を放っていた.

 昔読んだ雑誌は何であれ混沌としたものだったように思える.今もそれはどこかにあるのだろうけどきっと頭が混沌を見過ごしてしまうようになっている.

(2003/11/6)

 ふたつのスピカ #1

単行本五冊分を圧縮したOP映像には厚みがある.アスミとマリカの話が出揃ったのを利用して,二人のスピカがクローズアップされたものとなっている.(それはもうアスミはぺったんでマリカがでっかいという差異まで余すことなく.)

マリカの見上げるあの空を走る人工衛星の動きをそのまんま見せれるってだけでもアニメは素晴らしい.五巻ではマリカではなくアスミが見ている人工衛星について,流星と比べたときの動きの違いを言葉では説明しなかったわけだけど,人工衛星は明け方ならあんな風に見える.ただし見るにあたって登校前の時刻では遅すぎる気もするが.あと,ちびアスミのよちよちした動きが上手い.

漫画では読み落としていたことを映像化によって気付かされた.アスミは左利きだ.左手で石投げてる.リハビリも兼ねて左手を鍛えてる話は明示的にあったけど,もう一度読み直したら鉛筆も左で握っている.あと,ライオンさんの声が若い.挙動がおっさん臭いのでバイアスが掛かっていたが,この人はずいぶん若くして命を落としていたのだった.子安お兄ちゃんのスマートな声に聞き惚れた.

(2003/11/5)

 今度はラーメンが食べたくなって,午前三時に白山ラーメンという近所の国道沿いのラーメン屋へ行った.店舗はあるのだが食べる場所はなく,道端のベンチで器を抱え,顔をひっつけるようにして食うようになっている.Sledgehammer Romance を聞きながら,ああそうだ,枝絵留と二人落ちのびた先のどこか,六畳間で暮らして,毎日の楽しみは銭湯帰りに二人ですする屋台のラーメンといった風情である.ここは深夜営業でこの時間でもたいてい客がいる.僕と枝絵留を含めて六人.もしかすると,もっといたのかも知れない.

ちょうど曲が終わる頃に一杯食べ終わる.良く出来ているものだ.

毎日死にそうな気分ですが,二人きりの夜だけは元気です.

(2003/11/5)

 史学的時間・地学的時間・天文学的時間

アルファ・ケンタウリみたいに「最も近い」けれど「遥かに遠い」ものなんてのは,恋の真っ只中にある連想能力の極めて高まってしまった人間にとってそりゃもう好物に違いない.人に語られてゆく時間と地上に堆積する時間と宇宙の断絶を越えてきた時間と.彼女と僕の立つ位置がたとえばそんな風にぎらぎらと大げさなコントラストを放つ特別な光景の中にあることを感じ,その明暗の彫り出すエッジから隠された世界の構造すら見出してしまうのが恋だっていう,恥ずかしいったらありゃしない有り様だけを僕は sense off の思惟生命うんちゃらから受け取りたかったわけだと思う.

(2003/11/4)

 Sledgehammer Romance の「天文学的」という言葉は未スをの椎奈の口癖でもある.別れ際に椎奈は天文学的な時間を康介に抱きついたまま過ごしたいと言う.ハワイの場所を知らないのにプロキシマを知っている彼女にとっては,史学的な時間よりも地学的な時間のほうが愛すべき代物だった.

(2003/11/4)

 Decade Run 拾遺  未来にキスを(3)

朝の椎奈と霞とのやりとりは箸休めの地の文なしにずっと会話が続いてゆく.他の部分や元長氏の他の作品と比べるにつけやりすぎである.聞いてて頭がキンキンしてはくるのだけど,地の文が参照されないことによって,彼女らの言葉は対応するべき気持ちと綺麗には結びつかない.てか,なに考えてるのかいまいち不明.なんでそれで会話が成立すんねんと康介にツッコミ入れられながらそれすらも日常のじゃれあいであって彼らは楽しそうだ.それは意味なんかなくてただ単に会話的である部分だけが残ったものだ.で,式子の場合は反対に書き言葉くさい話しっぷりを康介にツッコまれる.『『過剰』なんて言葉,日常会話に普段使わんだろ』.毎度,大きく取り扱われることはないのだけれど,会話を可能としているものに対して敏感だと思う.そういうとこ好き.

成瀬 「直弥が透子と話せるのって、きっと直弥が脈略なく喋るからだよ」

ああ,もうっ! 抱きしめちゃってもいいですか.

(2003/11/3)

 Decade Run 拾遺  未来にキスを(2)

あと椎奈の話をもう少し.彼女が康介に連れ出された新しい世界が単なる夜の街だっていうのがいい.田舎だからどこの店も空いてない所在無さであるとか,それさえもやっちゃいけないことをやっちゃってるっていうどきどきの内で,川原で朝を迎えるとこなんか恥ずかしいくらいに若い.

僕は人の家で徹夜して明け方まで話すっていうのを大学2年になるまでしたことがなくて,朝日が昇る頃には僕は一緒にいた先輩達のことを新しい世界に連れ出してくれた人であるように思った.泊まってくって家に電話したときの緊張感,もう僕は必ずしも家に帰らなくてもいいんだって思ったときのこと,そういうことを思い出した.


江州さんがかつて椎奈の名を何度も呼んでおられたのも思い出されます.もう2年も前のことになりますが,ようやく僕も椎奈に追いつくことが出来ました.

それじゃ,ハンバーグ食べに行ってきます.

(2003/11/3)

 Decade Run 拾遺  未来にキスを(1)

GENESISが酷くて霞ちゃん変なこと考え過ぎって思うのだけど,それはそれとして,霞が囚われた問題を解くためには慧子や式子や悠歌さんの言葉は全く正攻法の答えだった.大好きなお兄ちゃんを完全に理解し支配することができないという悲しみを抱えた霞に対して慧子は言う.『霞ちゃんが好きなのは,お兄ちゃんそのものじゃなくて,霞ちゃんの心の中の『お兄ちゃん』なんだよ』だから支配できるよと言う. だけど椎奈は賢い子だからこの件に噛んでこない.そもそも「支配」という言葉から対象の理解に関する問題が生まれてしまうとでもいいたそうだ.ししおどしの横で椎奈がええこと言ってるのに霞は寝てるしさ.『ただ単に一緒にいたいっていう気持ちがあって,それを相手に届けるための形にしたのが,好きって言葉です』『だから,世の中に好きって感情はないんです』『簡単に好きって言葉を使っちゃうと……それは,すぐに固まって……檻みたいなものを作っちゃうです』『本当にはないものが,あるように見えてきて,上のほうから人を支配しちゃうです』ええことっていうのは僕が霞に聞いてほしいということで,好きっていうのは一緒にいたい気持ちの後にゆっくりとやって来るもので,その言葉にしないことの穏やかさは霞の中に先立つ「支配」とは違っていて慧子が言うような相手と情報交換の動きがない「静かなもの」とも違う.椎奈の言う「好き」と霞の言う「支配」は椎奈としては置き換え可能だろう.ここで僕が遠回しに式子らのことをあほだと言ってるのは良い態度ではなくて,康介とは正反対の態度ということになる.康介の極端な誠実さが周りの女の子からの好意に繋がっていて,それは,女の子の囚われた問題についてその問題自体の是非を問わず自分の問題として取り組むというところだ.問題とは霞が言うところの支配であり,椎奈の永久機関であり,式子のポエムであり,また最も顕著なのは悠歌さんの絶望である.悠歌さんの絶望については悠歌さん自身その問題が康介の中にあってはならないものだって否定するのだけど,それでも康介はえらい苦労して自分のものにした.康介にとっては問題も含めて女の子そのものであって,下手するとそこにある問題こそが女の子の固有さであって,康介はその是非を問わず受け入れようとする.僕から見ると他人事であるから問題は必ずしもリアルに見えないわけだけど,問題解決へ至る道はそれぞれに誠実で幸福で謎解きで素朴で,ただ彼ら彼女らの恋愛の記録として見ていることができる.GENESISの慧子や式子や悠歌さんが霞の囚われた問題のあり方それ自体を問題とせず解決に取り組むのは,康介が彼女らに臨んだ態度と全く同じで,それらは LAST EPILOGUE の康介の言葉に代表される現場的な態度だ.『俺たちのことなんだ』『俺たちはもう,そういう風になってるんだ』『いいとか悪いとか言ってる場合じゃないだろ?』 物事は綺麗に片付かず,混乱したままであることが当たり前,自転車操業の彼らが前に進むための,それは呪文である.


そのとき僕は椎奈の隣にいたのでちょっぴり蚊帳の外だった.言葉が先行しがちな僕は椎奈と一緒にいたいから僕はそれでいい.

EPILOGUE3より

椎奈 『ちょっと思うんですけど,この『おにーちゃん』って呼び方もどーなんでしょうか』
康介 『どーなんでしょうかって言われても,俺がそう呼んでくれって言った訳じゃない』
康介 『そもそも,俺は椎奈のおにーちゃんじゃないしな』
椎奈 『うん,だから新しい呼び方を考えないといけないです』
康介 『……好きにしてくれ』
(中略)
康介 『まあ,新しい呼び方は,自然に出てくるのを待とう」
椎奈 『はいですっ』

彼らはもう,言葉が気持ちに先行しない.

感じていることが強く先にあってなんとかそれを相手に伝えるために「奴隷」という言葉を絞り出した霞が,GENESISではなんであんな言葉が先にある子になっちゃうんだろう.極端な違いを感じるのはライターの違いもあるだろうけど(本編の霞はシュート彦氏で,GENESISは元長氏)両親の帰って来る前日の霞の言葉によると『ボクね……いいことかどうかは判らないけど……ちょっとお利口さんになったような気がするよ』ということで,僕はそれが回り道に見えて,霞はいつかぐるっと一周してきて椎奈の立つ場所へ辿り着いて,そこが昔の自分を別の角度から見た位置だって気付くのだろうけど,それは式子たちのような難儀な子達と一緒に暮らす上では仕方なく受けてしまう影響だった.ただ,それに伴って彼女に生活能力がついたのはちょっといい話だと思う.

一緒にいたい.だから「好き」.あと今から寝て起きたらハンバーグをたらふく食べたい.

(2003/11/3)

 シスタープリンセス同人サークル みかんねこ(巫カンナ+都路ミハル)さんとこの話.採り上げる作品は再録集であるCAT LOGICALで読むことが出来る.

レトリカルラブという言葉は改めて別の人の口から言われると赤面ものだ.とても恥ずかしかった.僕の言うレトリカルというのがどういうことだったかというと,先に表現したい気持ちの操作があってそれを言葉にするのではなく,言葉を操作することによって後から気持ちが詩的に生まれ出てくる様子のことを指している.例えば呼称を変えてみれば関係が変わるなんてのはレトリカルな関係であると言える.言葉を気持ちから切り離して操作するというのは,「言葉そのもの」(ここでは,国語辞典的な解説・類語辞典的な関係であるとしておこう)を高々,音や意味や用法が類似しているという理由で対照させることである.おそらく活字の読み書きをよくする人ほどそうした操作を行いがちで,そこから発見できる気持ちがある.逆に言葉の上で生まれた問題に気持ちが翻弄されてしまうこともある.

シスタープリンセスにおいて公野櫻子は,12人の女の子に対して彼女らの好きな「もの」や言葉の癖などレトリカルな手がかりを豊富に与えながらも,女の子たちの気持ちを先行させた語り口を好む.ものや言葉そのものは兄からのものであったり,あるいはただそのものとして彼女らにとって意味を持ち,それらを操作して気持ちを回収しないところが僕にしてみれば彼女らの神秘である.

僕の世代の人なら知ってるだろうけど,ジッタリンジンのプレゼントという歌があった.今まさにさよならしようとしてる男からもらったプレゼントを羅列してゆくのだけれど,その数え上げ方が尋常ではなかった.恨み節というよりもその奇妙に具体的なプレゼントの量に眩惑されてただ「もの」しか残らない.あれに近い.忘れてる人のために一部だけ.

・・・
あなたがわたしにくれたもの ヒステリックなイヤリング
あなたがわたしにくれたもの ポートネックの縞のシャツ
あなたがわたしにくれたもの 道で売ってるカレッジリング
あなたがわたしにくれたもの マーブル模様のボールペン
あなたがわたしにくれたもの アメリカ生まれのピーコート
あなたがわたしにくれたもの 中国生まれの黒い靴
あなたがわたしにくれたもの フランス生まれのセルロイド
あなたがわたしにくれたもの あの日生まれた恋心
・・・・

最も物語本を読んでそうな鞠絵にしても本の虫ではなく,キャラクターコレクションを読むと彼女のサナトリウム生活は読書以外の時間や思索に満ちている.しかし,都路氏は彼女たちの気持ちをレトリカルに回収してゆく.PINK ROSE 収録の一編において,鞠絵は外で雨が降っているのを見て,自分の心の中が元気な姉妹たちへの嫉妬で土砂降りであることを思う.この土砂降りは咲耶たちによって解消され,鞠絵は最後に『心の雨が晴れ』,『私の心に降り注いだのは 雨ではなくやさしさだったのだ』と締める.ここで鞠絵は自分の気持ちを「雨」「晴れ」といった対照や「降り注ぐ」の用法から連想することによってレトリカルに捉えてゆく.

とくに鞠絵に限る話ではない.銀色夜想曲収録の咲耶編はより判り易い.

咲耶 『ねぇお兄様』『私を含めて妹達全員を「可愛い」と「美しい」に分けてみて』
兄  『は?』『何故?』
咲耶 『なんとなく』

なんとなくで兄に分類させてみた結果から,咲耶は自分の気持ちを引き出してゆく.また PRIM ROSE 収録の花穂話を読むと,公野櫻子の描く花穂は花言葉すら必要としなかったことに改めて気付かされる.

さて,本題とも言える鈴凛と四葉の話は PRIM ROSE と ROYAL PRINCESS に収録されている.レトリカルラブの「ラブ」の部分は四葉と鈴凛が好意を交わす様を可愛く表現してみたものだ.四葉の母国語をクィーンズイングリッシュとすることによって彼女らのやりとりはリリカルなものとなる.四葉が言葉の謎に立ち向かい,鈴凛が言葉に気持ちを与えてゆく様はレトリカルな人間にとっては助平とすら感じられる.

巫氏共々,絵でも魅せてくれる方々だった.つくづく惜しいサークルさんがシスプリでの活動を終えてしまわれたと思う.

こちらへのお返事がようやく出来たってことで.あと,呼称といえばこちらが.

(2003/11/2)

 衝動的に栗山千明分を補充したくなったため Kill Bill.ゴーゴーボールよりは鞘にちゃらちゃらとストラップのついたドスが気に入っている.悪玉ガンマンが善玉ガンマンに勝てないのと同じ理屈で鎖使いは刀使いに勝てない.全く鎖使いらしい無様な死に様だった.天晴れ.

初め,オーレン・イシイがザ・ブライドを揶揄したのは自分の複雑な生まれのこともあるだろうが,たしかに千葉真一が打った刀というとやたら強そうだ.ザ・ブライドが最強のエージェントというのはオーレンを倒した後にようやくそんな気がしてきた.あと僕にとって大葉健二はいまだにギャバンの人だった.

システリック深海を通しで読んだ後だったためか,プリンセス・ザ・ブライドとか一瞬想像してしまって聖ちゃんには大変申し訳ない.本城家を血の海にしてしまって理人くんにも申し訳ない.

システリック深海は書き手の脳外で彼女らが生きていてとても好きだ.脳内じゃないよ.脳の中の人なんかいません.

(2003/11/2)

 なるほど.枝絵留が二人きりにこだわっていたのはそういうことか.

(2003/11/2)

 わーい.やっぱそういうソフトが出てたか. おそらく意思が引き継がれるというよりは,それを知らない新しい誰かによる同じ思いつきが実を結んで,その後になってようやく思い出される類のものなんだろうけど.ただ,その新しい誰か以外にとってかすかに夢を残してくれるものやね.

(2003/11/2)


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