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2005/4/30 結婚式の一日

今日はK君の結婚式でした.するってえと修士時代の同窓会みたいなもので,とっても賑やか.式場の演出が良くて,途中カーテンを開けば東山を脇に据え黒門さんの大屋根を望む見事な眺望.都ホテルは伊達に高い場所にあるのではないことを知りました.

その後,二次会までの間,T先生や仏像マニアのTさんたちと一緒に疏水巡りをしました.僕の得意な南禅寺界隈なんで案内は任せてといいつつ,調子に乗って途中で道を間違えたのが恥ずかしい.NHKスペシャルで琵琶湖疏水の話をやっていたらしく,田辺朔朗の話にも詳しかったTさんと延々琵琶湖疏水について話しながら歩きました.この前の総合博物館の展示にも関わっておられたということでなおさら.

南禅寺三門が公開されていたので登りました.下からではさすがに判らなかったことは,実はあの上には仏さまが祀られていたのでした.景色は東山から西へ広がる眺望,「絶景かな,絶景かな」とは歌舞伎の石川五右衛門の大見得であるらしく.いや,知ってるけど観劇したことはないから.それで,平安神宮,京都ホテル,黒門さんなどが見えるのを案内していたら,芳乃さくらの真似して「絶景かなー,絶景かなー」とやるのをうっかり忘れていました.(ここで中将君から電話.いま某先生たちと寺町のミリタリーメイド喫茶に居るとのこと.それはいったいどういう状況だ・・・.)その後,水路閣から裏道を通って再び蹴上へ戻りました.嬉しくてずっと喋っていた気がします.

二次会でもT先生やTさんとざっくばらんにお話を.もう先のないわたくしですが,おかげさまで来年度以降のことがようやく見えてきた感じです.

最後に双子トリビア.双子の娘さんを持つT先生によると,東京大学教育学部附属中学・高校の生徒は1/3ほど双子であるとのこと.実験のため双子を意図的に集めてるんです.「東大附属 双子」でググルと幾らでも出てくるのでそれなりに有名な話.双子魂川学園と名前を変えてはどうかしら.


2005/4/29 うた∽かた #6 & 「牲贄の試練」

こちらの続きの話.

変な宿題っていうのはちょっと違いますね.宿題そのものはあまり変じゃなくて,それを真面目にやる子がいるとそこに変なものがぬっと現れ出てくる.宿題なんてのは普通はいい加減にされるものなので,真面目にやる子のほうが変,というか変であるらしいです.僕は真面目にやるほうでしたので直接的に判るわけではないですが,一夏の作中での扱いを見てると自分の昔の出来事も客観的に見るとそうだったのかと想像されます.一夏の夏休みの宿題は転校のため提出する必要がないのにそれでもやろうとするわけで,宿題が宿題であることを額面通りに受け止めちゃうのがここで言う真面目な人.あの気持ちは真面目というよりも単に自明さの中にどっぷり浸かった感じでした.

適当にやると適当なものが出てきて,真面目にやると変なものが出てくるってことがわりとあるんじゃないかと思います.真面目な人ってよく変なことをするじゃない,なんて指摘する不真面目の側に半身を置いていることについては恥じ入る思いがあるのですが,まあ,それはそうとして真面目さっていうのは極端なところがあってさ,ひとつ引っかかることがあるとどこまでもそれを追いかけてしまいます.一夏が引き返せないというのはそういうことで,繪委が神精霊の条件として誓唯の部活動存続の件を持ち出したことを考えると,舞夏が一夏に宿題の話を持ち出したこともずいぶん一夏のことを判っています.

変なものっていうのは劇場版AIRでは往人と神奈姫の伝説であって,あんたはあほか.伝説の悲しいエンディングなんて無視しといたらええやん,ええとこ取りでええやん.だから,観鈴は真面目すぎるというに.だけど,真面目であるということは責められるような何かではなくて,もう少し不真面目になれというのも違ってて,なんだろ,真面目な人というのはやはり自らの真面目さによって自らを助けるものであって,その線を無理に外すと消えがたい傷が残るように思います.だから僕らはそういう人がいるのだと,あるいはいたのだと,語ることくらいしか.

真面目云々は抜きにしても,一夏や観鈴のような人のことはそこにそういう風にいたとしか語りたくないです.内的な変化を指した成長という言葉や外的な変調を指した運命という言葉を使わずに,ただそこにそうしていたという存在のことを強く感じたくて.

最近フィクションのことを書くとき,昔ほど前が見えません.常にもやがかった感じがします.たぶん,僕の言葉と僕の他の部分とがずれてる.


2005/4/29 交響詩篇エウレカセブン #1 #2

おねえちゃんの人その1に前から抱きしめられたり,おねえちゃんの人その2に後ろから抱きしめられたりする幸せな日々がそこにありました.

男の子が虹の力で敵を殲滅,っていうのはちょっぴりメルヘンですね.


2005/4/28 それは舞い散る桜のように・雪村

大変なことになりました.なにか自己完結したらしい舞人と,なにが起こったか判らない僕と,それを客観的に見ててくれてる友達たちがそこにいました.舞人からは判る言葉を引き出せないから,僕はずっと舞人や雪村と仲良くしていてくれた麦兵衛くんや青葉ちゃんの言葉を信じるしかないです.青葉ちゃんにしてみれば雪村はあいかわらず舞人のことが好きで,だけど今はちょっとケンカでもしてるようにしか見えなくて,麦兵衛くんに至っては雪村の心変わりよりも舞人の打たれ弱さのほうが気になるわけで,つまり雪村の態度の変化というのは周りから見るとたぶんその程度のものであってさ.自分の中には答えが見つからない,迷い子みたいな気持ちになったとき,周りの人たちの言うことを信じてみるっていうことは,あるんじゃないかと思いますよ.

僕と僕の大切な誰かのことを人は親友と呼ぶことがあるけれど,第三者からそう言われるとどうも納得がゆかない.第三者の指摘する間柄はたいてい気にくわない.あんたのものだと言われたら俺のものじゃないって言いたくなる.そのくせ自分だけで考えていると自分たちの間柄をなんと呼べばいいか判んなくなることがあって,他人が自分たちのことどう見てるか知りたくなっちゃう.いったいどっちやねん,と.そんな風に,たいがい難儀なものなんじゃないかと思います.


2005/4/28 風雨来記2

今回の舞台は沖縄.やったー.

北海道同様ぐるりと半周したことのある土地で,好きで,また懐かしい風景に出会えるのを嬉しく思います.


2005/4/27 LOVELESS #3

キオって男の人だったのかしら.スレンダーで格好いい女の人だとずっと思ってました.あわてて全部読み直したらどちらもありな感じで,だけど僕は草灯に男の友達がいるとは思えなくて.キオの印象は変わらないんですが,むしろキオが男の人だとしたら草灯のほうの印象が変わりそうです.

草灯がごはん作ってくれる話はこちらへ持ち越されていました.内容はかなり手が入ってて,立夏と唯子のコンビニ・マクド中心の子供っぽい食の趣味には触れられていません.立夏は小6にして「忘却」なんて言葉を平気で使っちゃう文語的な思考の持ち主なんだけど,文字を読まない子供のようなところがある,原作ではその落差がひょいと出てくるシーンです.読んでるほうとしてはリズムが変わって面白い,肩の力を抜ける箇所なんですが,アニメのほうでは立夏のテンションは落としっぱなしで緊張を強いてきます.このテンションの違いについては廊下での東雲先生との立ち話でも変更が加えられています.原作の東雲先生は草灯のことを語る立夏のかわいい顔を目撃しますが,アニメでは父兄参観のことを語るときのさみしい顔を目撃します.

あるいは,思い出作りという言葉にやたら可愛く反応してしまうのが原作の立夏でこれには弥生さんもびっくりなのだけど,アニメでは弥生さんに対してそういう顔は見せませんでしたね.

唯子の家から帰るとき雨が降ってるのは原作付録同人誌のコラブレスから取ってきた情景だと思われます.(なんとこちらでも草灯がもりもりご飯を作ってくれる! あと上のマクドの話はこちら.) だけど,雨の使われ方が違ってて,コラブレスでは大人っぽいスマートさを見せて唯子から傘を借りない方法がとられるのですが,アニメのほうでは立夏を草灯の傘からざあざあ降る雨の中へ逃げ出させちゃうために降ってるようなもので.

そんな風に立夏が余裕のない緊張感のなかで草灯のことを求めてゆく,というのがアニメにおける二人の描き方であるようです.

求めてゆく,って書くとなんだかボーイズラブっぽいですが,原作は1巻では頑張ってそれっぽくしようとしてたのがその後どんどんそんな形はどうでもよくなっていって,いつもみたいに高河ゆんが高河ゆんの恋愛論を描いてるってのは,アニメではどうなるのかな,と思います.

あや「影艶のことは愛してるけど あたしのことを幸せにしてくれる男はたぶんあなただからよ」(アーシアン)
じゅりあ「一番好きな人にはならなかったけど よーくわかる人にはなったなあ」(妖精事件)

そういうのを思い出します.たぶん,ゆんさんは「嵐が丘」好きなんじゃないかなあ.昔,作品名に使ってたしね.立夏は唯子と結婚するんじゃないかと思う.それでアニメでもけして唯子はぞんざいに扱われてないので,おおむね原作に沿った展開を見せるんじゃないかと予想しています.

立夏のテンションが低い分,弥生さんが高くなってますね.立夏と草灯が唯子の家へ行くのを弥生さんが見てるっていうのは原作では順序的にありえなかったわけですが,そこで一つ,弥生さんの面白い様子を見ることができるようになっています.あと,「あの唯子さんが本を読むなんてー!」がいい.たぶん,唯子に対して確固たるイメージを抱いてなければ普通はわざわざ言わない.さすがは弥生さん,唯子のことをよく見ていますよね.原作ではスルーされたところへの,いいツッコミだと思いました.


2005/4/26 フタコイ オルタナティブ #3

この独話の並べっぷりは「ジサツのための101の方法」を思い出さずにいられないです.もちろんシナリオは金月龍之介(山田おろち).本当,そこでは過ぎ去ってしまったことが語られるばかりで.今にもドルチェが出てきそうなので切ない.

地上的な悲しみは徹底的に打ちのめされなければならないニャ.

おやすみ.

参考


213/8/7

De'cade II Septidi Flore'al 213

実家へ電話をかけたとき,近所の川で祖父母と一緒に桜を見たのだと聞いた.佐保川の土手の桜はそりゃあ見事なものだ.だけど,これでもうおじいちゃんと一緒に見れるのも最後かもしれない,なんていう言葉がすっと落ちてきた.

三十になって驚いたのは自分が年をとったことよりも,僕よりも年長の人たちが急速にこの世を立ち去ったり,立ち去るような気配を見せていることです.僕のまわりがにわかに黄昏れたように思います.

働き盛りの人がいうことじゃないかもしれない.こんなこと思っちゃうのは,同い年の友達,少ないからかもしれない.


213/8/6

De'cade II Sextidi Flore'al 213
やあ,今はもうフロレアルだったのです!晴れの似合う少女にこそ幸あれ!おやすみ!


2005/4/24 (日) うた∽かた 「牲贄の試練」(BOX2付録小説その2)

ちっちゃい頃の誓唯が「兄弟が,欲しかった……」なんて言うもんだから,ほんとにもう繪委と会えて良かったねえと.話の流れからするとこれやっぱり弟じゃなくてお兄ちゃんの方を言ってるんだろうしね.

あと誓唯がずっと昔に一夏と出会っていてそもそも気になってたというあたりは運命くさくはあるんですが,試しの件を通じて誓唯と一夏の縁を導き出しちゃうような理屈くささのほうを緩めてくれるのでこれは好きです.


2005/4/24 (日) それは舞い散る桜のように

それ散るでは目当ての女の子以外につれなくするのがひどく辛いです.これは久々の感覚で,しばらくは場所と女の子とがくくりつけられてるゲームばかりやっていたからだと思います.そこではある女の子と一緒に進むお話を保留するために言葉ではっきりさせる必要はなくて,彼女の居る場所へは行かないっていうだけで良かったのです.こうした設計はユーザの快を追求した結果というよりも素朴に人としての当たり前のやりかたに従っただけで,僕らはある場所へ行かないことによってそこに居るある人に対する態度を保留することがよくあると思います.距離とか頻度のない世界を僕は堅苦しく思います.距離を空けて立つこと,一歩近づくこと,足が遠のくこと,足繁く通うこと,言葉だけでは性急すぎるから,緩慢として自分の気持ちに添った場所へ移動し続けたいと思うのです.


2005/4/23 (土) うた∽かた #13 沙耶さん

仮に,沙耶さん自身が「わたしの言っていることを真に受けては駄目よ」とか言い始めると,話はより残酷なものとなるように思いました.この人が人間くさいというのはそのへんも踏まえてのことで,13話で沙耶さんと舞夏が話す中で大人はずるいとかいう話が出てくるんだけどさ,これはそういう深刻なものじゃなくて,嘘も方便なんていうもっとありふれた感じの話であるのでした.


2005/4/23 (土) うた∽かた #10 および「魔女の血脈」(BOX2付録小説その1)

「死生の再会」(10話)は好きなので何度も見てます.舞夏がどういう子なのかについてはあんまし具体的に読み解いちゃうと下品になるので僕としてはこことかここくらいにしておきたいです.小説では一夏の家の仏壇には一夏の会ったことのない姉が祀られてる(あえて遠回しに言いますが)とか病を引き受ける写し身のことであるとか言わずもがなのことがちょっと具体的にされちゃいましたけど,え,具体的? いやいや別にそれで何を説明したわけでもないのでそないに下品ではなく.僕は10話のバランス感覚のほうが好きだけど,小説のほうがいろいろ受け止めやすくなっているとは思います.あと素朴におばあちゃんのお話が読めて良かった.

10話は一夏が祖霊や亡き同輩たちと対面するんじゃなくて彼らと同じ方を向いてるのが何度見てもよいです.両親の夢の中で幽冥の側に立っていたのは舞夏のほうで,彼女は一夏と過ごす未来を予見するわけだけど,今度は一夏がそこに立って,祖母の逝った道,母の行く道,自分が生きてく道,自分が娘に残す道を少し距離を置いて見てるんじゃないかと.例えばお盆で里帰りした時にはそんな風に不可思議で神妙な気分になることがあると思います.


2005/4/23 (土) うた∽かた #13

一夏が舞夏と出会ったあの年のクリスマス(誕生日)を待つ一週間のおはなし.僕らがわざわざクリスマス前に鎌倉へ行ってきたのはこのときのためだったとしか思えません.うーみー,ってしてくれば良かった.

成長という言葉はある人の内面の変化よりも成長したねといってくれる誰かが側にいることに対して宛てたいと思うのです.本話のように一夏の側に立つ舞夏や沙耶さんが一夏のことをそう扱うことによって,彼女には成長という言葉が相応するように見えました.成長というのはどうも好むと好まざるとしてしまうものですが,彼女らが一夏にそう言ってくれる背景の気持ちを汲めばそれは喜ばしいことだと思うのです.しかし,自分で称するときにはわたしの成長を見てくださいというよりはわたしの修行の成果を見てくださいって言いたいと思う.

それにしてもまあ沙耶さんは大人なのでおいしいとこ持ってゆきますね.僕が言うところの沙耶さんの(つまり鏡の諸相としての)人間くささについては沙耶さんのキャストの川村万梨阿先生がもっといい言葉で語ってくださってるので引用しちゃいます.

(沙耶はどんなキャラクターでしょうか?との問いに答えて)
”神精霊なので,人間とは感情の流れが違うはずなんです.でも「鏡」という性格上,どうしても全てを映す存在なんだと思うんです.すると本来の神精霊としての沙耶と,人の感情を映し取ってしまって芽生えた沙耶の人格というか感情もあると思うんですね.一言で言うと,沙耶は限りなく人に近い神精霊なんじゃないでしょうか.”(DVD-BOX2特典より)

彼女が公平な審判には見えないことについて,これ以上,付け加える言葉はないと思われます.

これで本当にお別れには違いないんだけど,うたかたラジオとか映像特典の鎌倉・江ノ島探訪記は彼女らが大人になってから同窓会してるようにしか見えなくてさ,そういうことが嬉しかったりします.


2005/4/22 (金) それは舞い散る桜のように (〜6/24)

桜の季節から始まって,6/24の手前でようやくオープニングムービーが流れました.タイミングとしては舞人の抑えきれない恋心の芽生えと「オープニング」とを掛けてるのね,なんて書いてて恥ずかしくなっちゃいますが.

オープニングについて.テレビドラマにオープニング映像があるのは他の番組やら浮き世から気持ちを切り替えて,これから始まるお話の中に入ってく上で都合がいいからじゃないかと思ってます.キャストの紹介だけだったら映画みたいに最後に流しても良さそうだしね.それじゃあ多くの場合セーブデータを使って途中から始めちゃうゲームでは冒頭でしか見ることのできないオープニングムービーにどれほど意味があるのかしら.そりゃはじめにぐっと引き込むのは重要だけど,普通はテレビドラマほど毎回見るものでもない.うん,kanonのオープニングなんかはわざわざ毎回再生して気分を盛り上げてましたけど,いつもそうするわけじゃない.それで冒頭に一度だけ流れる,という意味を考えると,それは恋愛ゲームなら女の子のショーウィンドウかカタログだろう,どの子にしようかななんてはじめに選ぶの,ロマンチックに言い換えるならそれは一目惚れだ,なんて僕は思ってた.

およそゲームの途中に挿入される動画なんてのは画面をかえって貧相なものにしてしまいます.前後に依存した1分にも満たない映像のかけら,つまりそれ単体で完結してないビデオクリップなんて見れたもんじゃないですから.それでもなんだろ,重要なシーンで見てる人の注意を喚起させるために,単に異質なメディアとして動画は挿入されてきたように見えます.一方でオープニングムービーは完結したビデオクリップとして作られています.そうすると,重要な転換期,それはもちろん新たな何かの幕開けで,僕らの注意を喚起して,なおかつ完結したものを見せたいとすれば自然,オープニングムービーなのに話の途中で流すということになります.こうした使われ方はたとえばCLANNADにも見られましたね.

それにしたってこの恥ずかしさはないです.kanonちっくに女の子がひとことずつ喋ってくれるオープニングなんですけど,雪村「恋なんてするもんじゃないですね.どうしてくれるんですか」里見「恋をするとね,何気ない一言が宝石みたいに光り輝くんだよ」八重樫「誰だって最初はそう言うよ.それが恋ってやつの怖さだけど」青葉「おにいちゃんを待ってるこの明かりが,きっと恋のしるしなんだね」星崎「この,ぎゅーってされたい気持ちが恋ってこと?」ああ全部恋だ.恋まみれ.どうかしています.


2004/16/21 (木) 雪村のいない16月

第五日曜.

染井吉野が終わって,ぽっちゃりとした八重桜がたわわに,重く,甘く咲き誇る昨今,いかがお過ごしでしょうか.僕のほうは,ええ,さよならです.サンタマリア.京都には雪村がいないから.

雪村の舞人に対する態度は彼女のキャラ立てというよりはそれを可能にしている彼女の頭のよさに目がゆきます.舞人という人のつれなさはその隙間をおよそ会話で埋めることのできる周りの人たちの頭の良さによって成り立っているように見えます.舞人のような奇矯な切り口の話し方はそれを受ける周りのほうによりセンスが必要だと思います.

雪村の話しぶりはどこかで経験した気がしていましたが,益田西守歌ですね.関係を持ち続けるためにはむちゃくちゃでも喋り続けなきゃならないっていうの.せつない.

あと年の順が舞人>雪村>青葉なので青葉が雪村のことおねえちゃんと呼ぶわけですが,雪村のことを年下の幼馴染みだと思っている舞人はそのことに慣れません.

「おねえちゃん…….
 どうも雪村に対するその呼称は,何度口にされても耳なじみが悪い.」

こういう違和が自然と出てくる話は好きです.こちらからはよく見えてない彼女たち独自の世界のあることが安心できるっていうのと,あとそこでそういう長幼の関係が持ち出されるっていうのが素朴に好みだから.

眠れないけど寝なくちゃね.おやすみっ.


2005/4/20 (水) 日課.

雪村の一生懸命な声を聴く切ない幸福.おやすみなさい.


2005/4/20 (水) LOVELESS #2

草灯タバコくさい.

立夏が草灯のこと自分らとかけはなれた大人として見てるのは,耳がないことへの警戒や簡単に好きなんて言ってくることキスしてくることへのとまどいなんかに現れてますが,漫画版では草灯が立夏と唯子にご飯を作ってくれるなんてのがあって,このとき立夏は気付いてないみたいだけど端から見てる分には草灯が大人で立夏と唯子が子供にしか見えないっていうのがあります.アニメでは客観よりも立夏の主観寄りで,あるいは第二話でもう一度戦闘を入れるための尺の都合かこのご飯のシーンは省略されちゃってるんですが,その代わり立夏の主観として草灯はタバコくさいということがよく判るようになってます.そりゃあんなんにキスされたらタバコくさいわ! 漫画読んだときは僕は草灯のタバコくささって気付かなくて,アニメで立夏のセリフが追加されてるっていうのもあるんですが,草灯の指先で煙がくゆってるのを見てそういう気持ちが起こるのはアニメならではだと思いました.父親の肌に染みたタバコのにおいってすごい不味かったことを思い出しました.

尺が短いことについては原作よりも速い展開なのをいろんな人に好きという言葉を言わせることできれいに筋をとおしてます.特に精神科医の先生からの好きを最後に回すことで,人から好きと言われることについてのしまりのある話になってます.もともとは特に脈略がなかったですから.

これは第一話からですが,蝶は草灯のお気に入り(≒嫌い)なので戦闘の映像化に当たっては積極的に使われてますね.そこで学校での戦闘を理科実験室に設定したのは美しいと思いました.

唯子はもう前回の溜めが決壊していつもどおりという感じです.頑張れー.立夏は君のものだー.今回特に思ったのは,アニメは登場人物の背の高さの違いがよく判りますので,唯子が立夏に対して前屈みになりがちなあたりが,漫画から入った身としてははっとさせられるところです.

あと草灯と立夏の口づけを見て愛とミドリが衝撃を受けるさまが長めにとってあって楽しいです.そりゃあショックだろうなあ.愛とミドリのキャストが双恋に出演してるっぽいことを薫さんが教えてくださったけど,調べてみるとオルタじゃなくて前のほうの双恋のキャストだったので残念でした.


2005/4/19 (火) それ散る

しばらく間をあけたら雪村の名前だけ覚えていました.もちろん名字のほうで.妙にこの人の顔のことが好きなのは,そうか.水原明鐘と四葉を足して二で割ったような髪型のせいだと思います.

10分だけ雪村の楽しいトークを聴いてから眠るのを日課にしたいと思います.おやすみなさい.


2005/4/19 (火) 

リーディングストーリー!!!


2005/4/19 (火) フタコイ オルタナティブ #1 #2

意外かもしれませんが僕は一緒にテレビを見るときにはどちらかといえばぺちゃくちゃとやかましい人です.怒られるので相手は選んでますが.

そんなこんなで水姫とフタコイ,って書くとなんだか助平な響きですね.白鐘姉妹の人が男の子とぺたぺたいちゃいちゃとしている様子がとても幸せそうなので見ているこちらも幸せになれます.三人がいつまでもそうやってくっついていられますように.


2005/4/18 (月) LOVELESSの話の補足資料とか.

"ズバリ描いたらエロかと言えばそりゃまあ,「ヤバイ」のかも知れないが必ず「エロ」とは限るまい."
"わたし的には「ズバリには慣れてしまう」としか言い様がなくて,不意打ちみたいにグッとくるエロスとゆうのは.
なんだろ.
描きたいですね.そういうのを."
("S D R" あとがきより.)

"15 ミミナシの人を見てどう思いますか?
草灯 ああ,ヤったんだなあと思います,あえて言うなら.
立夏 大人だなぁと思う・・・."
(LOVELESS第3巻限定版特別付録「草灯と立夏に一問一答」より)


2005/4/18 (月) ココロ図書館 #1-#13(アニメ)

「それを作れば,彼らはやってくる.」という言葉を思い出してください.それはフィールド・オブ・ドリームスに登場する言葉で,場所があって,その場所に夢を見る人がいて,いっぱい判ってもらいたくて,届かなくて.だけどそれは最後に奇跡と呼びたくなるような映像として,その場所へ向かうたくさんの車の列として描かれます.そこで僕らは奇跡をただ絵として見ることになります.絵は僕らの気持ちをどこか高いところへ連れて行ってくれるけど,その先はありません.あるのはスタッフロールだけです.よかった,よかったね.さあ,おうちへ帰ろう.夢かもしれない,明日から誰も来ないかもしれない,よくよく考えてみるとありえない,とか,そんなこと考えないで眠ろう.

ココロ図書館の第2話で奇跡という言葉が出てきたときにはもう,同じ光景を僕は想像していました.最後には待っていたかのようにココロ図書館へ向かう車の列.待っていたかのように僕の気持ちはどこか高いところへ.だけどココロ図書館はまだ第2話で,お話はこの先も続いてゆくのでした.え,最終回じゃないの?

奇跡としてかかげた絵は一度降ろして,ココロ図書館には今日もやっぱりお客さんが来ませんでした.そして,第10話から第12話までの騒動でもう一度,第2話のお話が繰り返されます.つまり,第3話から第9話にかけてがそうだったように,ココロ図書館の存続が決まったところでこれからもやっぱり人は来ないだろうと予想できるわけなんですが,そういう日常を想像させるところが嬉しくてですね.つまり,第12話の最後の群衆の絵は第2話の最後の車の列と入れ替え可能で,だから第3話から第9話までの話は順序関係のある複線を除いて第12話の後にあっても不自然でない感じがするのです.奇跡の絵をシリーズのはじめと最後に見せることで奇跡に続く日々が上手いこと綴られていると思いました.

AT-Xでぼちぼち見てたんですが,ああ,終わっちゃったねぇ.この二ヶ月のヘビーローテーションは「ビーグル」と「月はみてる」.久々に岩里祐穂の詞に応援されていました.まだまだ若い.あと本編音楽がKarakの保刈久明.

ココロ図書館に関する素敵な文章を読みたくても作品が古すぎてもうここここしか判らない.


2005/4/18 (月) 

ミドリと愛とが手をつなぐとこばかり繰り返し再生する,そんな毎日です.


2005/4/17 (日) 

するどい.そんなこと書かれると高河ゆん語録を紹介したくなっちゃいます.エロだけど18禁ではない漫画について.

「エロ〜なまんがは,若いコの読むもんだというのが持論ですので,極力18禁は避けてます.
18才以下がエロ本読まなかったら,誰が読むというんだ.
大人はなんでも知ってるから,もういいんだよ.フッ.」(同人誌 "S D R" あとがきより.)

男女関係だと暗闇坂とか妖精事件とかもあったけど,男子にも効いてくるようなエロさが出てきたのは2001年のこの同人誌以降のことだと思います.ここの36番とかも見て頂けると嬉しいです.とか,あいかわらず的外れのコメントだったら失礼.


2005/4/17 (日) 灯穂奇譚 体験版
いろんな語尾が交ざる理由についてわざわざ説明がついてくるのがよいです.

「キリ兄に会ったときに恥ずかしくないように,標準語で喋ろうと努力してたら,いろいろな方言が混じるようになってしまいました・・・」

律儀だし,無意味なものと思っていてあとになってからひっくり返されない分,安心できるというか.

もとよん氏の絵なので二重影が自動的に思い出されます.案の定,怖い内容.


2005/4/17 (日) こみパ REVOLUTION #2
海に行くんじゃなくて海に連れてってというところが大変かわいい.お子様です.


2005/4/17 (日) LOVELESS #1
原作漫画との違いは彼ら彼女らの甘酸っぱい関係に焦点を置くところ.まずはユイコが立夏のこと恋い慕う様子が乙女のようで,ぺたぺたしてくる漫画版とは違ってユイコは立夏のこと遠くから見てしまいます.給食のときも下校のときも.かわいいですね.あとアニメ化にあたってどの台詞を選んでどの台詞を省略するかというところで細工がかなりある.漫画版の立夏は小さな吹き出しでいちいちツッコミを入れるので周りの人と距離をおいた感じがするのだけど,アニメのほうはそれがないので深く入りこんじゃってるように見えます.逆に草灯の「立夏をおとす」というのは漫画版では声に出されてないのにアニメでは声になってます.そんなわけで彼ら彼女の間にさばさばとした距離をつくってる原作と比べて,なんだか甘い空気が漂っていると思いました.ぱふの高河ゆんインタビューを読んだところ,アニメのほうは全く漫画の序盤の内容で終わってしまうということなので,清明にまつわるミステリアスな話ははしょってしまって,だから客観性がいるところよりもたくさん出てくる二人たちを見てゆこうということなんじゃないかしら.LOVELESSという話は清明のことを省くならばつまり,たくさんのいちゃいちゃカップルな子供たちがやってきては立夏たちとけんかするという話だから.愛とミドリのカップルがまず立夏と同じ小学生6年程度でしょ(ユイコが「何組の人?」と尋ねている).愛はかわいいですね.対する草灯は大人なのでけんかするとやっぱ悪人に見えます.金華と銀華は珍しく大人で大学生くらいな感じ.瑶二と奈津生がやっぱり小学6年生,江夜と倭が高校生(LOVELESSの定義によると耳がないので大人だけど).三室とメイについては三室が清明より年上で高三から大学生,メイのほうは立夏と同い年くらいということで小6前後.メイもかわいいですね.戦闘機とサクリファイスの名前は基本的に対称の位置についていて,愛が左の手のひら,ミドリは右の手のひらできゅっと合わさるようになってるのが気がきいています.三室とメイの場合はこれが手の甲で,三室がメイのちっちゃな手を包み込むようになってます.(ついでに言うと清明は怪しくて,草灯の例に従うなら首のところに名前が刻まれているはずだけど,彼の首もとはいつも隠れています.) アニメは名前の口上がいいです.愛とミドリは自分たちの名前ブレスレスを「息もできないほどの激しさ」だとか手を繋ぎながら述べるわけで,漫画だとそれほどでもないんだけど,動きと声がつくととても恥ずかしいですねこれ.

僕の大好きなユイコの話に戻しますが,アニメオリジナルの台詞があってこれが上手いです.「ユイコね,羽渡唯子っていうの,ユイコって呼んでね.」ユイコって三回言ってるあたり,立夏と出会ったばかりの彼女のことをよく表してます.このあと立夏に言われて一人称わたしに変わるからね.

あと色彩設計について.このハレーションがきついのは,高河ゆんの振り切れた色の世界をよく表したもんだと思います.声については草灯が格好良いです.なんてったってボルフォッグだ.とか,なにからなにまでともかくよくアニメにしたもんだと思います.


2005/4/16 (土) ようやくゆっくりと眠った.起きて大学で用事を済ました頃,結婚式の準備で彼女さんと京都へ帰って来ていたIから電話があって,もう一人のIとあわせて京都勢の飲み会.木屋町御池下る「楽坐」から,Hill of Tara へ.はい,アイルランドのタラの丘といえばダンセイニのお城があるところですよ,ということでお気に入りの場所である.


2005/4/15 (金) 11:00京都着.帰ってきたはいいが仕事がたまりすぎで,眠い目をこすりながら書類をつくる.


2005/4/14 (木) ヒースロー10:20発の飛行機なので全然時間がなかったが,無理矢理ロンドンの街を散策した.朝の7時である.

King's cross
ついに念願のキングスクロスへ.
King's cross
サービス前の列車.四葉はこれに乗っていました.

キングスクロスで偶然Xさんと出会う.ロンドン狭い.その後,一緒にビッグベンへ.

Big Ben
ここに来ないとイギリスへ来たって気がしないですよ.ビッグベンは国会議事堂の中にあるので,一番近寄れるのはこの地下鉄の出口沿いの見上げるような場所.7時45分の鐘の音を聞いて,あわててヒースローへ向かう我々でした.


2005/4/13 (水) 博士課程一年のとき初めての海外発表でスペインへ行った.先生と一緒ではなく独りで海外にほっぽり出されたのであるがアドヴァイスを一つ頂いた.曰く,英語が駄目でも研究内容がよければみんな聞いてくれる,ということであった.このアドヴァイスは時を経てようやく今日,実証された.研究内容がよければという案件をようやく満たしたわけである.英語が上手ならなお良いわけであるが日本語にも人付き合いにも不自由しているのに英語が上手になるわけもない.英語の善し悪しというのは概ね日本語の問題であるかソーシャルな問題である.未だに先生に発表をほめられて嬉しいというのもなんだか子供っぽいとは思うが,七年間で二度目というレアリティであるから仕方ないことであるとも思う.一度目は一年前の博士審査の時であるからほんとうに徐々にではあるがマシにはなっているのだろう.

それはそうと,ホテルに帰って落ち着いてみると,夕食のときにお話しすべきだったことがたくさん思いつかれます.読んでおられるかどうか判んないですが,またご一緒しましょう,ということで.

明日の朝の便でとうとうイギリスを発ちます.嗚呼.


2005/4/12 (火)

Hertfordshire大学の桜.ロンドンのテムズ川沿いにもたくさんあるそうですが,今回はロンドンの街へ立ち寄る時間がありません.

見ての通りカレッジの中庭.

同じ中庭でヒース発見.うれしくて写真撮りまくり.

これがほんとにヒースなのかしら.念のため拡大写真を.


クーフーリンによると,じゅりあはヒースの花のにおいがするそうです.
これがそうか!


2005/4/11 (月)

四葉とロンドンの空の下

今年は桜が遅くてご近所のお庭は3分咲き,ところにより5分咲き7分咲き.わたしはふくらみかけた春のつぼみを遠い西の空へと連れてゆきます.東京からロンドンへ,お兄ちゃんと一緒に帰るのです.期待に胸は高鳴って,あたためられたつぼみたちの12時間後の開花予報は晴れ.お空は満開の桜.

ロンドンの空が好きです.テムズ川の向こうから見る街並みは少しだけ遠くて,おはなしの中の街を見るようで,ビッグベンの鐘の音が広がってゆくのをわたしは異国の音楽を聴くみたいにして,天気のいい日には何時間もそこで過ごしました.異国の空は離れ離れになったお兄ちゃんの住む国へ通じていると思えたのです.だけどいまわたしの隣にはお兄ちゃんがいます.飛行機のシートで眠っています.わたしもお兄ちゃんの肩にもたれて眠っています.だからこれはわたしの見た夢のおはなしです.

わたしはビッグベンの鐘の音になってロンドンの空をどこまでも高く昇ってゆくのでした.昇るにつれてわたしの体は透き通った水へと変わってゆきました.体がぜんたい小さくなっていつしかただの水の粒になったとき,それはきらりと輝きました.するとわたしは急に重くなって,空は遠くなって,わたしは雨になってロンドンの街へと降りそそぎました.テムズ川のほとりには幸せそうな兄妹がいて,突然の雨に驚いていました.お兄ちゃんはさっと上着を広げて小さな妹を包み込みました.川辺に再び光が差して,わたしは虹になりました.

そしていつしかわたしはロンドンをゆくバスの2階に乗っていました.高いところから見る街はどこか地図を見ているみたいでした.お兄ちゃんとスコットランドヤードごっこができるかしら.そんなことを考えているとわたしはもう怪盗で,お兄ちゃんは優秀な警官でした.街のあらゆる十字路でわたしはお兄ちゃんと出会いました.お兄ちゃんはいったい何人いるのかしら.いつでもどこにいても気がつけば側にいてくれるのでした.

お兄ちゃんのことを考えていると,時の向こう側から呼ぶ声がしました.声のする方へ小さなトンネルをくぐり抜けるとわたしはストーンヘンジの真ん中に立っていました.そこでは太陽がぐるぐるとまわり,何度も季節の区切りを迎えました.その中にわたしは10年後のふたりを見ました.ふたりはとても仲のよい兄妹でした.20年後も30年後も,悲しかったり嬉しかったりする違う色の空の下でふたりは仲のよい兄妹でした.

ロンドンのチェリーブロッサムに春を届けたいと思うのです.イギリスの学校は秋からだけど,ふたりきりの入学式を挙げたいのです.雨の日も風の日も,汝,お兄ちゃんは生涯わたしのお兄ちゃんであることを誓いますか.大きな桜の樹の下でふたりは誓い合うの.わたし,真っ白いセーラー服を着るのよ.花びらの舞う通学路をふたり手を繋いで歩いてく,桜色のヴァージンロード.

ひとねむりして目が覚めたなら,そこは懐かしい場所.お兄ちゃんと暮らす,新しい場所.わたしの夢はこれにておしまい.明日からは毎日がそんな夢のような日々.

(11/04/2005, 関空⇒ヘルシンキ AY0078便 機内にて.)


ひとつおはなしを書き終えてもまだ飛行機がロンドンに着きません.ロンドンはほんとに遠い街ですね.そういうわけで今回はもう一つおはなしをすることにします.時間をまた巻き戻して,これは四葉がまだ小さくてイギリスにいた頃のおはなしです.


四葉とねずみ一家のおはなし

いつからか四葉のおうちの屋根うらにねずみの一家が住みはじめました.夜になるとトタトタトンと彼らの足音が聞こえます.きしむようなのはお父さんねずみ,指でたたくようなのはきっとこどもねずみたちの音でしょう.四葉もまねして壁をたたくと,天井からトタトタトンと返事がありました.

「トタトタトンはねずみのあいさつの言葉だったのね!」

おはようはトタトタトン,おやすみなさいもトタトタトン.うれしい時は五本の指で,かなしい時は二本の指で.ねずみの一家は四葉のひみつの友達になりました.

そんなある日のことです.その日をさかいにして天井からあの重たいお父さんねずみのあいさつが聞こえなくなりました.こどもねずみたちのあいさつもどこかしら元気がありません.

「きっとお父さんねずみが病気になったんだわ」

四葉はお父さんねずみを元気づけるため,夜ねむる前,部屋のすみにチーズのかけらをおきました.よくあさ四葉が目をさますとそのチーズはきれいになくなっていて,またいつものようなにぎやかな天井が戻ってきました.

そうしたことが何年か続きました.ねずみの一家はいくつも代がわりをしたことでしょう.だけど彼らの言葉はいつもおんなじトタトタトンでした.

これは四葉がおとなになってから知ったことですが,じつは四葉のおうちにはねずみたちが走り回れるような屋根うらはなかったのでした.そして,イギリスの古いおうちにはときどき,このような不思議な小さなものたちが住んでいるのだということでした.

(11/04/2005, ひきつづき 関空⇒ヘルシンキ AY0078便 機内にて.)


ヘルシンキ国際空港

ヘルシンキ着.ロンドン行きへ乗り換えるまで3時間,同行しているXさんと話をした.こんなに長く話したのは初めてだったように思う.僕は研究員で彼は博士の学生だけど,年は僕よりも4つ上.昨日の言い方を適用するならばお兄ちゃん後輩という感じである.

フィンランドの公用語を調べるため広辞苑を引いてようやくスオミ("フィンランド"のフィンランド語名)のことを思い出した.北へ。DDに関してはあれだけ大騒ぎしておきながらちゃんとやっていないのであった.ごめんね.

あとフィンランドといえば「こなたよりかなたまで」と「雪の女王」だ.

ヒースロー国際空港

ヒースの道,ヒースロー.ようやくロンドンへ帰ってきました.背景は山ではなく厚い雲.不思議な光景だったので写真におさめました.

くーまーくーまー,くーまくま.

Heathrow Express はやっぱり快適.何の問題もなくPaddington駅へ到着.なんだか懐かしい.くま.地下鉄でKing's Cross,St.Pancrasまで徒歩,ナショナルレイル(Thameslink)でSt. Albansへ.22時間の旅はこれでひとまずおしまいです.毎回恒例のおはなしもアップ完了.それではおやすみなさい.


2005/4/10 (日)

今日の昼食でハチクロは5巻まで.5人のお兄ちゃんに同時求婚された山田さんのことを羨ましく思った.繊細に見えてこういうやりすぎ感のある小話の交じってるところが好きだ.5人ってあんた.

僕は縦の繋がりが好きなもんで,夏音の彼らが先輩後輩関係を残したまま6月までたどり着いてくれて嬉しい.高校三年生の三雲響は一年生の鈴菜にとって響ではなく三雲先輩のままである.お互い「がるるるる」と吠えあう仲ではあるが(小学生か!)なんやかんや気にかけてくれたりいたずらを大目に見てくれるあたりお兄さんである.その三雲先輩にも彼を導いてくれたお兄さんみたいな先輩がいて,言ってみればお兄ちゃんのお兄ちゃん.前にも書いたけどお姉ちゃんのお兄ちゃんというくらいには変な言葉.だけど,そんな風にしてどこまでも上に向かって繋がってゆく.お兄ちゃんのお兄ちゃんのお兄ちゃんのお兄ちゃん,マイ・グランド・ブラザー.あるいは,鈴菜は詩子の保護者みたいな気持ちでいる.鈴菜の姉のなずなはきっと鈴菜の保護者みたいな気持ちでいる.そんな三人が朝一緒に登校している.じゃあ,詩子にとってなずなのことはどう見えるのか,保護者の保護者? そして鈴菜のことはどう見えるのか,詩子は鈴菜のことお姉ちゃんみたいに思っているかもしれないけど,鈴菜はなずなの前では妹で,お姉ちゃん妹? よく判んないけどそこんとこはその時々で読み替えられるものであってさ.鈴菜は自分が泳げないことを詩子に知られるのを嫌がるのだけど,詩子はたぶん鈴菜の子供っぽいとこなんかとっくにいろいろ知ってて,いまさら嫌いになったりはしないと思った.だってやっぱ,姉・妹・友達の三人で登校なんかしてたらいやでも鈴菜の妹みたいなとこ判るんで,知らぬは本人ばかりなり.だから嫌いになるというのは短絡で,妹みたいにたよんない鈴菜のことも気に入っているか,あるいは都合良く無視しているのだろう.お姉ちゃんであるなずなが中学三年生なのもまだ事情はよく判んないけど,きっとそういうわやな読み替えが日常的にあるってことが目に見える形で出てきてる.読み替えっていうのは関係がなくなる訳じゃなくて,例えば先輩後輩が恋人関係に変わっちゃうんじゃなくて,その時ごとに入れ替わったりすり替わったりする.ごくあたりまえの,そんな夏を待つ日々のお話でした.

まだ6月に入ったばかりで途中だよ.続きは帰国してから.


2005/4/9 (土)

夏音はさる筋から手助けして頂いて入手することができました.たいへん有り難うございました.なお,発売中にも関わらずとらの通販ページでは「予約」ボタンになってますが,このボタンで普通に買うことが出来ます.


体験版収録済み分くらいまでしか進んでないけれど,イギリス出張等でしばらく間が空くので少し書き残しておきたい.新しい季節,新しい学校で鈴菜は新しい出会いを妄想する.王子様みたいな男の子とぶつかって,恋に落ちるような.そんな彼女が実際にぶつかったのは天使様みたいな女の子なんだけど,ためらわず恋に落ちちゃう.あれ,男の子じゃなかった!とか,彼女はさっきまで男の子のこと考えてたっていうのを振り返らない.そんな風に男の子と女の子が置き換わることに言い訳のいらないところが小気味よいのです.

フラワーズのななせさんは,あなた女の子同士でもあまり気にしない人でしょ,てな感じで海君に一言断るのだけど,この決めつけ口調なあたりが素敵で.あるいはみりんに猫耳しっぽが生えたことの変さが周りの人たちにスルーされちゃうっていうのも,好意とか友達関係は説明抜きでそこにあっていいんだと青く高らかに宣言しているように思える.とらハ2で美緒の耳しっぽが普通に愛でられていたことを思い出してもいいです.とらハとフラワーズの比較については,こちらとか.

以下に書いてた背景絵の話はあまりの嘘っぷりにばっさり削除.元資料を確かめずに勢いだけで書いてしまった.ごめんね.


2005/4/8 (金)

ラジオシステムを構築中.ここ一週間は朝から晩まで自分の時間はそれにかかりきり.思ったよりも発想が広がったので公開にはしばらくかかりそうだ.ちょうど去年の今時分から開発を始めたシステムのほうも停滞気味だったけれどこれに触発されてやる気が出てきている.あとCloverPaintの新版については不良債権となりかけている.早く回収したいが同時に三本では辛い.ドルアーガの手を借りたい昨今である.


2005/4/5 (火)

忙し楽しい日々.学科前のお店(Gu-)がミーハーなおかげで夕食時にハチミツとクローバーを読むことが出来る.一日一巻ずつの物語タイム,三巻まで読んだ,そしてあとは忙し楽しい日々,学園祭までの夜をひとり思い出している.ろくに眠りもせずシナリオを作り続けることのできた数日間のこと.今だったらたとえでなくほんとに死んでしまうだろうけど,気持ちだけは忘れないようにしたい.

吉田山のてっぺんにカフェがあるのを教えてもらってみなで登った.ありえないことに三日間筋肉痛に悩まされている.こういう年寄りにとってハチクロは,最近の僕の定型句ではあるけれど,読みやすい.ナレーションであるとか顔のくずしかたであるとか,彼ら彼女らとの距離がすんごい遠く描かれてる.月曜日,4回生の人たちに研究室を紹介したときのこと,最終学年を迎えた彼らとの間に感じた距離はそのまま僕がハチクロの修ちゃん部屋に集まる面々に感じた距離である.なんてね,僕より10歳上の人も僕のことそんな風に見てる.

僕らはいつも技術科準備室に居座っていたので,木屑のにおいがしそうなこの部屋は懐かしい感じがする.そんな,むかしの,むかしの.

今,すのこを敷いたり木の粉を撒いたりしたら,どんな素敵な部屋になるだろう.

追いつけない人たちがいたり,頼ってくれる人たちがいたり,哀しかったり嬉しかったり.

そして,忙し楽しい日々.




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