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2005/5/16 LOVELESS #4 #5

手と手を合わせるのが微笑ましい愛とミドリでしたが,原作のほうでは愛が調子の悪い立夏のことを何気に触ってくるのをみると,この愛という人はやたら触りたがる人なんだということが判ります.その代わり彼女はミドリほど喋りません.しかしアニメの愛は触るんじゃなく喋る人になっていて,立夏に触っていいのは草灯だけなのでしょうか,そんな紅優監督のBLシフトを感じました.一方,ユイコの活躍も原作以上で,愛とミドリに引っ張られていった立夏のことをすごい勢いで追いかけてゆきます.以上からは話の落としどころを立夏と草灯とユイコの関係に持ってゆこうとする意図が感じられました.草灯っていうのは結局のところ,夏休みにふらりと男の子の前に現れる変なお兄さんなんだろうなぁ.


2005/5/15 proxemic Kanon

僕は麻枝准のなかに観念的なものへ寄り添う姿勢を認めていません.少なくともKanon以降は地縁的な,大地に立った感覚で描かれているように思います.川澄舞の話はやはり学園ものであって,学園ものというのが学園内で起こる話を指すとすればですが,それはたかだか三階建ての校舎の高さに収まる話です.例えば学校の屋上というのは雫の瑠璃子さんやONEのみさき先輩のような学園内の喧噪とは距離を置いた世界に住む境界的な彼女らとの出会いを果たしてきた場所でしたが,川澄舞の話では屋上は全く封印されています.祐一は彼女が屋上に立つのを目にすることはなく,ただ彼女の飛翔によってその三階分の落差を見るのみです.あるいはCLANNADではあれほど人々が場所と対応づけられているにも関わらず,定番とも言える屋上には誰も住んでいません.渚が見上げるのは空ではなく,せいぜい校舎の上の階です.舞が見上げるのも建設中の校舎です.それは境界の向こう側にあるここではない,ともすると観念的な世界ではなく,地続きの場所です.

MOON. の月やONEの少女と過ごす場所は不連続に立ち現れる場所でしたが,そうした不連続なものを乗り越えるような意識はKanon以降,卑近で接触性のある連続した意識によって置き換えられつつあるように思います.手が届かないことを語るために実際の空間的な断絶を必要とはせず,ものみの丘というのは歩いて行くことのできる場所でした.それ散るはONEとの類似をよく指摘されますが,歩いて辿り着くことのできるあの丘からふもとの街を眺める様子はむしろ沢渡真琴の話を引き継ぐものだと思います.また,MOON.についても花畑に関してはやっぱりこちらに近いと思います.

僕がAIRの読み筋を出来るだけ身近なところに置きたいのはそういうわけです.AIRの空は吹く風によって彼らの立つ堤防と連続しています.CLANNADの空間的把握についてはthen-dさんの文章が詳しいですが,「幻想世界」と生活世界との間が他の作品と比較して非常に近接しているという点については,僕はCLANNADではなくKanonにまで遡りたいと考えています.

裏表の裏,あるいは表についてことさら言い立てているだけかも知れないですが,僕は麻枝准の描く少女たちのお行儀の悪さであるとか粗忽さに惹かれます.観鈴は歩けば片足をドブに突っ込んで靴を苔で汚しますし,あの美人で良家の娘さんであるところの佐祐理さんでさえも食べかけのエビフライの尻尾を口からはみ出させたままにします.それは幼さであるよりは行き過ぎた素面であって,うっかりと観念的な高みのほうを向いて酩酊でもしたかのように思い詰めてしまう少女たちの魂が還る場所として,その天然さは用意されていると思えるからです.


2005/5/14 proxemic AIR

ゲーム版の観鈴は往人のことを何かとぺたぺた触ってきます.観鈴が往人のこと引っ張ったり叩いたり指で触れたりするシーンは出会いの日から始まって枚挙にいとまありませんが,僕としてはあまりその様子がビジュアルなものとしては記憶されませんでした.実際,観鈴が往人と触れあうような距離にいて,往人がそのことを別段とがめ立てしないという様子は,絵としては例の堤防で観鈴がVサインしてる絵でしか描かれていません.劇場版の往人と観鈴が自転車で二人乗りをすること,観鈴が往人の背中にぴったりとくっついている様子はよく考えてみればゲーム版の接触感をそのまま映像にしたものであるように思えます.

また往人の感覚としては,観鈴が彼の元に現れるときにおよそ彼女と間に埋めるべき距離を見ることはありません.彼女は突然,往人の側に立っているように描かれるか,あるいは往人には見えない後ろから近づいてきます.下にいくつかその例を挙げておきます.

(18日,往人が堤防でおにぎりを食べていると)
声「うーん…」
すぐ隣に立ち,一身に風を受ける少女がいた.
(18日,南極へ行こうとした観鈴が帰ってくる)
声「はぁ…はぁ…」
すぐ近くで荒い息.俺のじゃない.
振り返ると,さっきの少女がいた.
(19日,武田商店の前で人形劇をしていると)
観鈴「往人さん,なにしてるの?」
観鈴がすぐ後ろに立っていた.
(20日,霧島診療所の前からの)
帰り道…
声「あ,いた」
背中で声.
とてとて…
観鈴「往人さん」
前に回り込んできた.観鈴だった.
(21日午後,しのさいかと堤防で)
俺は観鈴の地図を取り出す.
下手くそな絵に,さっと影が落ちた.
声「もう,それ見なくていいよ」
顔を上げると,観鈴が目の前に立っていた.
往人「大変だったぞ」
この時ばかりは,俺は,観鈴の登場をありがたく思った.

登場,という往人の説明が観鈴のいつもの現れ方を上手く言い表しています.観鈴は向こうからやってきたり往人のほうから近づいてゆくのではなく,その場にいきなり登場するという場合がほとんどです.少女が突然現れる,というのはこの種の浮世絵ゲームの本質で,空間が三次元の奥行きではなく背景と立ち絵の重ね合わせの有無によって版画されているため,テキストもそれに引きずられているのでしょうか.あるいは往人が大変クールであるため,観鈴が近づいてきても振り返りすらしないのでしょうか.いろいろ想像できますが,21日,22日にはその解説らしきものが見つかります.

(21日午前,堤防で)
観鈴はいつものように堤防で伸びをしている.
堤防の上は,いつでも風が強く,涼しい.
(中略)
往人「だからバレバレだっての」
観鈴「ん?」
聞こえていないようだった.
風はそれくらい強い.
「往人さん,これから一軒一軒家を訪問して,不要品を集めるんだよね」
観鈴が近くまで寄ってきて訊いた.
(22日,堤防前の校門で学校へ行く観鈴を見送って)
「早くいけっ」
「え? なんて?」
聞こえていない.風が強すぎる.

観鈴との出会いからこのかた穏やかであると思われた堤防の風景が,実はそうでなかったことがここで気付かされます.堤防から校門に至るまで,もちろん武田商店のあたりにも強い風が吹いていて,だから往人は観鈴のことをすぐ側に来るまで気付くことができなくて,またふたりはぴったりと寄り添っていないと声が届かないのです.21日までこのことが話題に上らないのは,観鈴はいつも夏影と呼ばれる静かな音楽を伴うような少女であって,周りに「いつでも」強い風が吹いていることを脇に置いておきたい気持ちにさせるのでしょう.もちろん,観鈴が手を伸ばして風を受けるからにはそれ相応の強い風が吹いているには違いないわけで,少女が風を受けることについて往人はただならぬ関心を抱いてすらいるわけですが,それはそういうものとしてここには夏影のような静かな時間も流れているのです.強い風が吹いているからこそふたりは空に思いを馳せることが出来て,そこは風を切る音だけが支配するようなイメージに満たされているのだけれど,それと同時にふたりが言葉を交わすには寄り添わなくてはならなくて,そのときふたりの間には夏影のような静かな音楽が流れています.この二つの音は同時にそこにあって,ただそのときどちらが注目されるかによって針が傾いています.

距離についての話を続けます.22日のこと,観鈴がトランプで大泣きした後,堤防にいる往人の元を訪れるのですが,このとき往人は観鈴が遠くから自分のほうを見ていることを強く意識します.

(22日夕方)
そこに人がたっていた.
少女だ.
その少女はじっとこっちを見ている.
俺はどうしていいものか,わからなかった.
数十メートルの距離を置いて,俺たちは向かい合っていた.

ふたりが言葉を交わして以降,そういう対面の距離がとられたことはないため,ここでの描写は非常に持って回ったものとなっています.わざわざ観鈴のことを少女だと表現するあたり,往人の視界の中で距離の置かれた彼女というのはまるで別人と思えるほど違和感のあるものであったのでした.だから23日には改めてこう言及されます.

(23日,堤防にて)
声「往人さんっ」
目の前に観鈴がいた.
今度は遠くなく,すぐ近くに.

往人が遠くでこちらを向いて立つ観鈴の姿を見ることは,それくらいに異常事態であるのでした.だけど,強い風を受けて立つふたりの空のイメージというのも,はたして,隣に誰かが居たとしても風の音で声が届かないような,互いの距離を意識させるようなものではなかったでしょうか.

AIRの堤防空間は空と地上との境界であると同時に風の音と観鈴の音の境界であって,それは観鈴と往人との不連続な距離の境界でもあって,そこで風が意識されるとき二人は遠くあって,観鈴が意識されるときふたりは近くにあるのでした.AIRにおける空は観念的であるかもしれませんが,それはふたりの間の音を聴いて,ふたりの距離の揺れ動く様を想像するとき,卑近なものとして僕の中に落ちてくるように感じられます.


2005/5/7 疏水太郎の旅

京阪沿線ならば駅名で馴染みの墨染という土地がある.幾度も通過しながら降りることのなかったこの地へ行こうと思ったのは,僕の周りがにわかに黄昏れたこと,つまり,亡くなった方の話やもう老い先短いというような話を当たり前のように聞くようになって,思い出されたのが墨染の桜だったためである.

深草の野辺の桜し心あらば 今年ばかりは墨染に咲け

平安の世に死を悼んで詠まれた歌,そのやるせなさは人より桜に託してみたくなるという.四月に訪れるつもりが大変忙しく,花見は海外で済ますことになったほど.イギリスに咲く山桜も薄い墨染の衣を被るかに見えたとか.

長い連休もほとんど終わりの土曜の午後から家を出て,出町柳から墨染へ.目指す桜のある墨染寺は墨染駅から歩いて数分のところにある.途中,橋を渡る.地図によると琵琶湖疏水とあった.そういえばこちらにも流れていたのである.前の週末には皆で南禅寺界隈を回ったところで,どうやら縁づいている.鴨川であれ桂川であれ市内の川は普通北から南へと流れる.南禅寺から東山に沿った疏水の流れだけは南から北へ向かうエッシャーの不思議水路であるが,この墨染の地ではやはり北から南へと流れる.そうでなければ反魂のようで恐ろしい.桜と死とを縁づけるのは何かと梶井基次郎や坂口安吾ばかり取り上げられるが,東方妖々夢の幽々子と墨染桜の縁は上に挙げた歌に支えられたものであろう.

墨染寺

墨染寺の門扉をくぐって右手に今や三代目となる墨染の桜の木がある.五月とは思えぬほど狂い咲いていた,などということはもちろんない.新緑にあふれたこの季節に来ればなんのこともない静かなお寺である.この季節に来なくともきっとそうである.境内を掃き清める和尚さんが一人と,あとは石碑ばかりが桜の守.

疏水路

暑い日で,少しばかり気の早い夏街道を疏水は流れてゆく.

地図

疏水の南端がダムであることをご存じだったろうか.町の地図には「墨染ダム」とある.

墨染ダム

水門

水は水門の中へ吸い込まれてゆく.この先はない.

国道二十四号線

東西に横切る二十四号線を越えるともう水の流れはない.ここで終わりだ.春ならば水は桜の花弁を集め,そしてざあざあと根の国まで落ちてゆく.

根の国

ほらね.

僕の長い疏水の旅もこれで終わりである.川に終わりがあるのかと問うなかれ.終わりと言えばこれで終わりだ.終わりの先はない.そのような際限のない問いに心を縛られておるようでは死して後も貴公の魂は宇宙の暗黒をさ迷い続けることになるぞ,とトルクの大抵の坊主ならばそう言うところであるが,貴公が三十八番目のスカイウォーカーであるならばGoogleで濠川と引くのもまたいいだろう.

帰りに立ち寄った旭屋書店で「家守奇譚」という梨木香歩の小説をふと手に取った.するとこれが京都の疏水界隈の物語であって,縁というのはよく出来たものである.

そんな風に僕が水に惹かれ過ぎていたからかもしれない.祖母の体調が思わしくない.九日の夜更けに電話があって,そのまま下鴨神社を詣でた.医者はああいうが持ち直してほしいと思う.深夜でも神社には灯りが点されて手水鉢の水が清涼に流れていた.雁の童子の「水は夜でも流れるのですか.」という問いを思い出した.そういう水もある.そういう水に祈った.


2005/5/10 少女光学

まぶしい,といえばキャラクターに関するもっと直接的な光の話があります.もう古い話ですので僕の記憶違いかも知れませんが,CGが16色からフルカラーへ移行した直後には今ではあまり見ることの出来ないきらきら・ぎらぎらとした少女のCGが数多く描かれたように思います.当時のPhotoshopでも基本機能は今と大差ないのでアナログ風の塗りは充分可能でした.つまりこれはツールの制約ではなく,透過光やメタリックな反射を伴った少女が非常に新鮮だったからではないかと思われます.それらは漫画やセル画が苦手としたところです.きらきらとしたCGを描く画家の代表が都築和彦氏で,氏は発光少女のCGにIllusion Artという名を与え,多数のフルカラーCG画集をリリースしました.メインメモリが16MBあれば御の字でフルカラー環境も普及していない時代の話でした.CD-ROMに収録された高解像度の絵は開くだけでも大変で,当時のハイエンドを見たように思いました.

透過光表現が珍しくなくなった今でもゲームの少女たちは発光しています.試しに何かゲームのイベントスチルで夜の少女を描いたものを開いてみてください.何だっていいと思いますがここでは遠野美凪さんを取り上げることにします.皆さんもよろしければお手持ちのAIRを起動してください.美凪さんは夜にはたいてい発光しています.これは発光していないスチルと比べれば肌の明るさの違いでよく判ります.田んぼのあぜ道を皆で歩いている絵では彼女の身体にはしっかりと影が落ちており,月からの光の具合を比較的反映しています.しかし,動画はともかくスチルにおいて少女の様子に注目させるには,夜に夜らしい影や暗い肌の色を使うとぱっとしないわけで,いっそ発光させるくらいの気持ちで塗られたスチルのほうが魅力的に映るということなのでしょう.

ここで,CGの少女たちが光を伴うことに的を絞った上で,モニタの前の僕らが彼女らのことをどのように受け止めているのか探ってみたいと思います.これは僕らにとって少女たちが自ら発光する妖精のような存在だということでしょうか.あるいは後光を持つ神々しい存在だということでしょうか.PCのモニタで長らくCGの少女を見てきた人というのは,少女のまとう光に対して少なくとも表現のレベルにおいて感化されていて,例えばそれは目新しさであったり少女を鮮やかに浮上させるものであったり神聖さを感じさせるものとして受け止めてきたのではないかと思います.

しかし,僕らがモニタを通して見るCGの少女に惹きつけられる理由というのはこんな風にぐだぐだとした思考を経た表現レベルのものではなく,もはや衝動として刻まれたものであるとさえ思えます.例えば漫画や挿絵の少女とゲームの少女との本質的な違いは,ゲームでは画面上の少女が文字通り発光しているという点ではないでしょうか.その光はブラウン管の奥や液晶の裏側からやってきます.ここで光の表現はその表現を運ぶ光を伴っているのです.そうすると僕らがモニタ上の少女に正対するとき,何が起こっているでしょう.

僕らが人との距離を認知する手段は両目を用いた立体視のみではなく,数歩程度の距離であれば匂いが,もっと近づくならば放射される体温が,顔と顔とを近づけるなら寄り目になる眼筋の動きが,近づくほどにざらざらに見える皮膚の変化が,次第に大きくなる毛穴が,吹きかかる息が,つまり五感や手足の働きの総合的なものとしてそれは認知されます.では,モニタというのは人でない無味無臭のクールな存在で距離の体感しづらいものでしょうか.いいえ,もちろんモニタは強く発光することができます.これは人には出来ないことです.僕の目はモニタからやってくる光を受け続けています.モニタ上の少女に近づけば近づくほど光は強く僕の目を撃ちます.この緊張と痛みこそが,光を伴う少女を見続け感化され彼女に近づきたいと思う僕をそうするように訓練づけ,強化してきたものであり,もしも僕らが紙媒体ではなくモニタ上の少女の絵であるからこそ特別に愛するのだとすれば,それは彼女たちが二重の意味で発光しているためではないかと思われます.


2005/5/10

イギリスへ行ったとき,僕の描くキャラクターの目がどうして小さいのか,ということを尋ねられました.僕の絵は多くの場合さし絵として描いてきたのでストーリーがおよそテキストのほうにあります.だから,キャラクターは目が小さくて黒目がちなほうが控えめでちょうど良かったのではないかと思います.黒目がちというのは馬とかぬいぐるみとかの目がそうですけど,彼らは人間と同じような白目を持たないので僕らは彼らの目からは人間に対するのと同じやり方では意味をくみ取ることが出来ません.つまり(少なくとも慣れていない場合は)見る人に意味をゆだねる部分が大きくて,例えばテキストとあわせて見たときにちょうどいい具合に収まるように思います.黒目がちな絵というのは文脈に依存させたいときに描くもので,一方,もっと人間らしい白目を持つキャラクターというのはテキストに添えても積極的な主張を持ちます.

試しに目が大きくて白目のはっきりとしたキャラクターを描いてみました.たまに描くことがあります.だけど,他人の絵ならば好きなのですが,自分が描く分にはどうにもまぶしすぎる気がしています.

四葉
(CloverPaint 1.01b + SL-C3000, 6 hours)


2005/5/9 劇場版AIR 5th vision

5回目は結局都合で行けず,手元に前売り券を一枚残しました.記念にしたいと思います.

ところで,観鈴と往人の二人の間柄が声の転調とともにぽろっと出てくるところが好きです.

観鈴が「もっと彼氏みたいにしてもいいのだよ」と大きな声で往人を呼ばうのはぎょっとするところで,彼氏という言葉はゲーム版の観鈴の口にしそうにない言葉です.もちろん劇場版で観鈴が彼氏という言葉を持ち出すのは前日すれ違った同級生たちの視線を意識してのことで(「さっきね,クラスの人にね,彼氏と思われちゃったかな?」)ここでは自然な流れですが,それにしてももう一度改めて言葉にされることによって観鈴が彼氏彼女の甘い関係を志向したことがよく理解できます.神奈姫の伝説を読んだ影響で口調が昔話みたいになっているのもこのことを印象深いものとしています.

劇場版と同じく中村誠が脚本を書いたONEのドラマCD, Vol.1「あなたのこころを わたしのなかへ」(1999,ムービック.松永孝之と共著)を思い出してほしいのですが,浩平が猫の代弁をしながら長森と会話をするシーンでも同様の転調がありました.猫語を話す浩平とそこに織り交ぜられたシリアスな愛情はゲーム版にはない二人の魅力を伝えてくれました.

もちろんこれらは中村誠がアニメ作家でありドラマCD作家であるからこそ出てくる手法で,そうしてみると麻枝准が言葉のやりとりではなくモノローグによって「ふたり」を描くのは,単にそれが声のないゲームだったからかもしれない,とさえ思えます.

あと,中村氏と松永氏がプロデューサーあるいは脚本家として支えてきたムービックのゲーム関連アニメやドラマCDを視聴するにつけ(多すぎて全ては無理ですが,例えば,みずいろのOVA版もその一つです),原作の二人あるいはふたりに優しい方向づけをする傾向があって,それが元のゲームにはない会話のリズムの中に出てくるのをいつも好ましく思います.あえて分けるとすればですが,劇場版AIRの二人がまぶしい夏を過ごすことが出来たのは中村氏の介助によるもので,そこへ荒波に揉まれ太鼓を叩きながら影を描き加えたのが監督の出崎氏であったように思います.


2005/5/4 風雨来記2

写真の場所は首里城の駐車場のあたりだったような(うろ覚え).あと石垣島も舞台らしいです.こちらは行ったことはないけど「バガージマヌパナス」の舞台として記憶している場所です.先日のスタンフォード途上では「あたしのマブイ見ませんでしたか」を読みました.っていうのは機内で書いてた文章からして丸わかりでしたか.

近所の定食屋が一時期ゴーヤーチャンプルーを出してくれてておいしく頂いていたのですが,もうやめてしまったようです.他にどこかで食べられないかしら.


2005/5/3 エウレカセブン #3

社会人サークル「ゲッコーステイト」に入会した中学生のレントンはわりと大変,とかそういう話.君たち大人げないですよ.

頼りにしてたホランドは僕だけのホランドじゃなくてきっとみんなのホランドであるわけだし,エウレカにしても僕だけのエウレカじゃなくてみんなのママであるわけで.仕事をくれたり居場所をくれたり最低限のことをしてくれるだけいいお兄ちゃんお姉ちゃんですが,頼りにしてた人が自分の知らない気易い仲間と一緒にいるというのは,はじめは結構ストレスであります.

ニルヴァーシュtypeZERO の通信インタフェースがかなりお気に入り.左右副座でレーサーモードの時は透明なキャノピー越しに互いの顔が見えていて顔を見ながら話が出来ますが,ロボットモードではキャノピーに不透明のカバーが掛かります.このとき本来のキャノピー越しの景色はカバー裏面の没入型スクリーンにそのまま表示されているようなのですが,向かいの座席の中まではやはり見えません.それで,話をするときはビデオ会議システムを使うわけで,素朴に作れば画面は正面に置かれるわけですが,ここでは本来相手の顔が見えるはずの側面方向に置かれてるんですね.だからいつものように相手のいる方を見れば,そこに相手の顔があるようになってます.この仕組みに基づいた芝居として,レントンはエウレカのほうを向いて喋るんですが,エウレカはニルヴァーシュに乗ってる間はほとんどレントンを見ずに前を向いてるということが判ります.まあ,そもそもレントンはエウレカと違って操縦してないからわき見できるのだけど,エウレカって前見てなくても操縦出来そうじゃない.そう思うと,ね.

はやく二人して仲良くわき見運転できるようになるといいですね.





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