ana-chronistic ana


index | artists
<- prev | next ->

CLANNAD (4月16日まで)

通学路
(古河渚と通学路上の動物たち.Zaurus SL-C750 + CloverPaint 0.6-4,6月17日,6月13日

あんパンの件にせよ小さな出来事が一両日中にドラマとして回収されてゆくので,日常を過ごすことの出来ない展開だった.たくさん在り過ぎる日々の出来事を背景化しないでいちいちメモしていると,全然時間が進まないことに気付いた.現在,まだ4月16日である.

2004/6/13
西木さんの絵に触発されて描きました.描かずにはいられない,という感じで.

2004/6/8
古河が誰もいない空間に向かって話しかけている.ある程度予想はしていたが変な子であると僕は思う.岡崎君はそれが妄想の中の誰かへの問いかけであると言い切った.だけど物事は関わるにつれ紋切り型で終われなくなってゆく.一緒に居過ぎれば互いのことに良いも悪いも答えを出せなくなる.他人でもそうである,ましてや長い付き合いである自分に対してはどうか.岡崎君は冒頭で,この町は嫌いだ,なんてちょっと語ってしまうが,彼は少し後で「そんなことを言ってた奴がいたな… 女々しい奴だと思ってから,自分だと気づいた.」なんて言葉にまとめてしまう.だけど,まとめたって終われやしないだろう.

岡崎君の語りはその場のひとまずの説明を引き受けている.だから,気持ちが宙を漂うことなく降り積もってゆく.その様子が綺麗だ.そしてもちろん,言葉にしてみたところで終わりなどやってはこないし,そういう日々が綴られてゆくのだろうと思う.

独り言や突飛さというのが人同士の関係を深くすることがある.古河は独りごちていたのだし,『ふたりだけは,出会いの日の中にあった.』とはドラマチックなナレーションであるが,ふたり,と言うわりには古河は何を考えてるかよく判らないのでこれは岡崎君の勝手な言い草に近い.それはふたりの会話によって導かれたものではなく,目の前で展開する光景を彼が一方的にずらして受け止めたもので,これから彼女の世界へ入ってゆくための言葉である.また岡崎君が春原のラジカセへラップを吹き込みたくなったりするように,女の子たちもそういう突飛さや変わった出来事を愛しているように見える.自分のキャラを立てるっていう言い方は自意識が強いようで好きじゃないのだけどそれに近くて,椋がさっとトランプを取り出したところでは,何か面白いことをしてみせよう,それで誰かと可笑しいひとときを過ごそうって考えてた,悪巧みをして見せる日の前の夜みたいな気持ちを思い出した.ことみの突飛さは,床にぺたんと座るとか学校で靴下を脱ぐとか本のページをはさみで切るとかで,彼女と出会ったときの気分は学校のトイレでビー玉遊びをしてる子にどう声を掛けていいのか判らないのに似ている.紋切り型では「…便所で遊んでんじゃないわよ」でいいのだけど,自分では思いもよらない違反に出会ってしまったときの,守ってくれるものがない,丸裸にされてしまったような感じがどうしても残る.関係,というのはなんでもありなので,せめて誰かと付き合ってゆくというくらいの言い方を持ち出すならば,付き合うということは距離を近くすることではなく距離感を測ることだろう.彼らのように相手と過剰に交渉しているとむしろ距離は測ってないので,酷く乱暴に見えるかその正反対にいちゃいちゃして見えるものである.「頭の手は…なんですか?」「いや,別に」「そうですか…」この場合どちらかといえば後者らしい.

あるとき,彼らの会話は噛み合い過ぎている.「今,ご飯中ですので」「そっか」ってあなた,そこは引き下がるところではない.そしてあるときは全く噛み合わない.古河にしても岡崎君にしても椋にしてもことみにしても春原にしても,話の噛み合いが変だったり始めに言ってたことと最後に言ってることが矛盾して聞こえたりしてそれでも会話が回ってゆくのは,この子らずいぶんと頭を使っているように思う.やりとりを為さない馬鹿話に頭を使っている時ほど楽しいことはない.それは距離を測らない無防備な状態で,そのくせ数年来のカップルのようには煮詰まることなしに過ごすことのできる貴重な時間だ.

それにしてもみなエスケープしがちなのがいい.特に古河はクラスの中でなく校門の前で立ちつくすことが出来るわけで,彼女の口から語られる違和感は,学校に溶け込まなきゃというような明日の飯の心配にも似た俗っぽい心配事とは無縁に見える.頑張った自分へのご褒美もできる.こういう人はほっといても独自路線でやってゆけそうなんだけど,どうも気になるのでちょっかいを出してしまう.いや,岡崎君がどう思おうが,何を心配しているのかとかあれがご褒美なのかとか本当のところ彼女がどう考えてるかは判らなくて,ともかく見ているこちらとしてはあんぱんを食す姿を勝手に可愛く思ってしまうのだし,ただのあんぱんのくせにこんなにも切ない.

2004/6/19
長期入院後の登校というのは確かに違和感のあるものだった.僕の場合,一年間とは言わないが高三の秋に一月半ばかり入院して,久々に登校したその日,かつてのように教室で一番に来てぼーっとしていると,二番目に来たのは普段話をしないグループの,当時の僕の区分けによると僕よりも大人びていて個性の主張が強い(不良っぽいとも言う)人だった.あっ,と驚いた顔をして,久しぶり,退院したん? うん,とかなんとか二三言葉を交わした,それが彼との最初で最後の個人的な会話だったように思う.こんな特別なイベントでもなければきっと彼のような男の子に話しかけられることはなかっただろう.そんな朝の出来事に始まって普段は付き合いのない人からの注目を浴び続け,仲のいい友人たちとは別れてしまった高三のクラスで,それは妙な居心地のする一日だった.

自分の居なかった時間を感じさせる出来事がもう一つあった.昼ごはんのときにそのクラスの別れた友人から技術科準備室へ誘われた.僕の居ない間に彼らはそこで昼食をとる慣わしになっていたのだった.そのときには自分が置いていかれたような気持ちになったが,結局,卒業するまで始業前や昼休みの時間はそこに皆と居座り続け,今でも同窓会で集まるのはこの部屋で過ごした十人程度の連中である.入院のため受験という点では僕はかなりぎりぎりのところに立たされていたはずなのだけれど,それは六年間の学校生活の中で一番楽しい時間だった.卒業後に「耳をすませば」を見に行って,あの保健室みたいなところだったと一人が言った.そんな風に言われるとずいぶん恥ずかしい代物である.保健の先生ではないがやはりそこにはいつも技術の先生がおられて,別に話をするでもなかったのだけれど朝に昼に十人もの男子生徒が押しかけてくるのを単に認めてくれていた,ただそれだけで有り難かった.

退院からしばらく,好きな時間に来てよし,とのお墨付きを担任の先生から貰って以来,僕の頭の中から時間割というものが無くなった.人のいない通学路を登校するのはとても開放的だった.病は気からと言うが,このお墨付きと技術科準備室がなければまた早々に倒れていたに違いない.大学に入ってからはその両方を失ってなんか道に迷ってまた入院することになるのだが,その次からは当時の気持ちをうまく思い出しながらなんとかやっていっている.

どちらかといえば声を掛けられる側に居た僕が,6/8の文章を見ると突き放すような言い方をしている.さて,今になってみると退院するまでの僕は寂しかったり間違っていたりしたように思うのだけど,当時はそういうことを知らずに我が道を歩んでいたし,体育の時間が嫌だとかもっと切実な悩みがあった.だから単に古河の顔が好きだとか話し方が好きだとか,ちょっかいをかける理由付けはその程度のものであるほうが変な力がかからなくていいと思うのだ.

2004/6/15
絵のほうに描いたので観鈴について,とある同人誌の話.二人の日々が淡々と綴られていて,その中の何も特別なことはない触れ合いの中で観鈴が,往人さんのチカン,と言う所がある.えっちでも助平でも変態でもなく,チカン,と言うのがらしいと思った.アクセントは関西弁で聞こえた,と少なくとも今はそう思う.

2004/6/17
13日に描いた書割くさい絵も気に入っているが見映えが悪いため仕上げた.ようやく入手したZUN氏の蓬莱人形と蓮台野夜行を聴きながらである.流麗.東方妖々夢におけるZUN氏のテキストは断片的で,深いところにある会話の背景を言語化する気がないように見える.この投げやり感がさばさばとしていて気持ちいいのであるが,もしもあそこにあるのが断片だけであれば無茶苦茶であるとしか思えなかっただろう.あの断片からそれでも話の流れを感じ取ることが出来るから,投げやりな感じがいいほうへ働いている.それが背景の音楽から手がかりを引き出しているためであることを今日はっきりと認識した.盛り上がってるのだなとか,もの哀しいのだなとか,無理に言葉にするならそういうこと.テキストと音楽については麻枝准のそれにも同じような関係を感じることがある.

そもそもスクロールシューティングというのはその名が示すように絵巻物なので,そこから物語を読み取らずにいられないものではある.どこまで遡ればいいんだっけ.ゼビウス(ナムコ,1983)か? 余談であるが話の流れを絵にする形式としては他にもすごろくというのがあって,ギャルゲーだと「クイズなないろドリームズ・虹色町の奇跡」(カプコン,1996)が採用していた.(以下2004/6/20追加分)ファミコンの話に限って思い出してゆくと,スクロールロールプレイングゲームといえば「頭脳戦艦ガル」(デービーソフト,1985)である.発売されたのはドラゴンクエスト(エニックス,1986)よりもハイドライドスペシャル(東芝EMI,1986)よりも前で,ドルアーガの塔(ナムコ,1985)よりは後になるという時期で,RPGというジャンルに新奇性があったのでRPGらしい要素を持つゲームには何であれRPGと名付けたほうがウリになる頃だったと思う.頭脳戦艦ガルは基本的に縦スクロールシューティングであるが,敵を何百と倒したその数によって自機がパワーアップするのを特徴としていたため,この時間をかけて成長するところがRPGなのだと当時の僕は納得していた.今,このゲームをRPGと呼ぶのは難しいかもしれないが,RPGの発明は「フィクションへ捧げたプレイヤーの生活時間をフィクション内の数字として刻んでゆく」ことであると思う僕は,頭脳戦艦ガルをRPGと名付けた人の感覚が判るつもりでいる.逆に,キングスナイト(スクウェア,1986)は確か箱の裏にRPGと書いてあったはずであるが,こちらはどうにもただの縦スクロールシューティングゲームに見えてしまった.時間とともに増えてゆく要素がなかったためである.RPGを特徴づけるものは何かという議論はさておき,人はこのような時間をかけて線形に増加する数字や一方向へスクロールする画面の中に,話の流れを見つけ出してしまうものである.そうしてみると,特定のスクロール方向を持たないフィールドと会話で構成されるようなRPGの形式は,お話に適した形式であるというよりは言語情報で補わないとお話にならない形式であると言い換えることが出来る.さらにもう一度ポジティブに言い換えるなら,それは強制的にスクロールさせられるのではなく,言語情報に基づいて自分の手でスクロールさせる形式である.強制であれ自力であれ,電子的メディアの良いところは物語る上でスクロールを活用できる点であると思う.紙メディアでは四方向スクロールとかありえない.そんなスクロールは巻けない.

CLANNADの話からは離れてしまったけれど,こういう話を書いておくときっとどこかで繋がってくるだろうと思う.

2004/6/21
少しはCLANNADとも関係するように話を続ける.何かの拍子に,物語を電子ゲームで表現するのと書籍で表現するのとどちらがいいかということで喧嘩になったとする.ナンセンスだし喧嘩はよくないが,喧嘩と花火は人の興味を引くものなので例題として双方の言い分やコンプレックスを示すにはいい.電子ゲームは「悔しかったらスクロールしてみやがれ」と書籍に言えばいいと思う.書籍は「悔しかったらパラパラしてみやがれ」と言えばいいと思う.書籍はパラパラとめくって読むので読んだ記憶が物質化される.どのへんにどういうことが書いてあったかを目や指先で覚えているため,字句がうろ覚えだったらパラパラめくって探すほうが電子的な検索よりも速い.あと読んだ本,未読の本を本棚に並べることによって,これまでの読書体験やこれからの展望を空間的にデザインできる.興味を失った本は横に倒して積んでおくと背表紙が読みにくいもんだからその他大勢として背景化する.立ててある本や手前にある本は好きな本だったり,これから読もうとしている本だったりする.そんな背表紙の列を地層として読むことによって個々の物語を大きな自分史の中で位置づけることができる,とかなんとか.後半についてはDVDケースの話を持ち出すとそう大きな差は無いんだけど.

スクロールしない電子ゲームの物語については僕はギャルゲーを除いて擁護の言葉を持たないので誰か考えてください.ギャルゲーについてはこれまでつらつら書いてきたことや,それこそこれからCLANNADについて書く中で浮かび上がってくる話だと思う.


index

chronicle(1996 - 2004)


index
(c)2004 曽我十郎