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裏庭
(四葉と四葉の裏庭,Zaurus SL-C750 + CloverPaint 0.6-6, 2004/9/2)

2004年8月20日 CLANNAD (8) 風子

春原だけかと思ってたら,岡崎よ,おまえもか! 男子便所というあたりで麻枝准判定が出ます.CLANNADは男子便所の話だったと言っても過言ではないと思う.居場所っていうのはどちらかというと居てはいけない場所を言うのだ.(佐祐理さんと舞みたいにね.)例えば男子便所に秘密基地があったとしてさ,麻枝准が描くところの藤林杏というのはきっとそこにちょくちょく顔を出してくれる娘さんなのだと思う.

あと麻枝准の上下感覚について補足しておくと,階段の踊り場に住んでる佐祐理さんは中庭や夜の廊下へ降りてゆくと暴力的な目に遭いがちであるし,逆に夜の廊下に住んでる舞は独りで屋上へ昇るときに決死の覚悟が必要です.古河たちは中庭から校舎を見上げます.郁未はどこまでも深く降りてゆきます.空の高いところには女の子が居るんです.彼らのうまくゆかなさは上下の幅として描かれて,それはつまり,どれだけ手を伸ばしても届かないっていうときの気持ちです.

2004年8月23日 週末は野暮用で東京へ.用事が終わって秋葉原を一周するも,入りたくなるようなお店が無くなってしまった.欲しいものがあまりなくて,欲しいとしても京都で手に入るのである.相田裕さんと高橋むぎさんの同人誌だけをここで購入した.中学高校の友人に誘われて京都まで車に乗せてもらった.東海道を車で行くのは初めてで,由比ガ浜がとても綺麗だった.身を投げ出したくなるような深い青に,緑の帯がかかっていた.道が混んでいたため京都で行われる同窓会には間に合わなかった.二次会から深夜まで飲んだ.僕はあいかわらずの味噌っかすぶりを発揮していた.彼らにはまだ追いつくことが出来ない.高校の友達は大学の友達と比べてやっぱ特別やわ,とか言う彼に,単に高校の友達は大学の友達よりも昔やからちゃうん,40になったら大学の友達も高校の友達みたいに思うようになるで,と相変わらずの思い出論をぶった.冷たい.しかし,酒の席でなにを話したかよくよく思い出してみると,6年間同じ教師の言葉を聞いて育った子供であるがために同じバイアスを持っているようには感じられた.翌日は水姫とDALさんと一緒に神戸市立博物館のフランドル絵画展へ出かけた.オランダでフェルメールを見ることが出来なかった仇討ちである.こういう自分語りは格好悪いが好きなのであえて言うと,都築和彦の次に影響を受けた画家であると言えよう.つまり,その光である.高校の頃に模写をして,フランドル絵画展で「画家のアトリエ」を見たときもどうやったら模写出来るかを考えた.出来ることならば壁一杯の絵をそのままの大きさで書き写したいと思ったが方法がない.世の中まだまだ不自由なものである.深夜,今木さんから電話があったので部屋へお迎えした.無理矢理シスプリをさせたりとかそんな感じ.たいしたおもてなしも出来なくてごめんね.

2004年8月25日 CLANNAD (9) 坂上智代
もう十年近く前のことである.先日の同窓会でも会った彼とたまたま道で会って,それは久しぶりのことで少し話をして,そして彼は僕にそろそろちゃんとせいやというようなことを言った.僕について何を聞いていて話してどう思ったか知らないが,彼から見て僕はちゃんとしてなかったらしい.前もどこかで書いたねこれ.僕がそのときちゃんとしていたかどうかはともかく,彼が僕のことを昔とは全く違う場所に居ると感じてるのだということは判った.兄のように思っていた人に言われたので悲しかった.少なからず,そのとき居た場所に居ることが悪いことであるような気持ちにさせられた.自分が居るべき場所というのは他の人間から断定されることがあって,それが品が良い場所だったり格の高い場所だったりするとその意見に乗りがちで,その逆だと反発して,なんにしても言われたほうは操作されやすいものである.そうすると上手くゆかないことがあった時にそこで操作されたせいにしてしまって,愚痴を吐くのに無駄な時間を費やしてしまう.「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」では主人公のヴィルヘルムが役者仲間と別れて以来最後の一ページまで彼らと過ごした時間について納得の行く答えを出せずにいた.彼を結社に誘った神父とヤルノの答えは明確だ.神父曰く「われわれの出合うことはすべて跡を残します.すべてが気づかぬうちに,われわれの形成に役立っているのです.」これはヴィルヘルムの言うよう紋切り型の答えであるが,ヤルノのほうはもう少し言い聞かせるような話し振りである.「ジプシーどもと一緒になって一花咲かせようという君の気まぐれはどうなったね」「人間のあらゆる欠点を,ぼくは,役者には許す.」「いろんなすぐれた素質をそなえた若い者が,誤った道を進もうとしているのに,手加減する必要はないからね」ヤルノはそんな風にして役者に特別の地位を与えつつ,それでもやはり彼らはジプシーみたいなもので君とは格が違うからこっち来なさいとなだめすかす.ヴィルヘルムが神父やヤルノの言うことを鵜呑みに出来ず最後まで自分の過去(悪くは言っているがおそらくは愛すべき過去)に悩まされ続けるのは,自分から神父たちの結社に入りたかったわけではなく,誘われる形だったからだろう.一方で智代からはさっぱりした印象しか受けないのは,彼女が口より先に手が出る品の悪い場所から生徒会なんて場所へ移動することには初めから目標があったからだ.彼女は請われて生徒会長になったわけではない.朋也に言われて初めてその気になったわけでもない.だから,自分の愛する場所と聖なる場所の二つに引っ張られてぐるぐるするということはなく,8ヶ月の時間を消費して桜並木を手に入れたという収支を答えとすることが出来るのだろう.その反対に,品格の釣り合いを人に指摘されて自分を許せなくなってゆく朋也は逆の居場所に立つヴィルヘルムである.そこで神父たちから天下る修業証書と比べると,就職部で自分から「お世話になりました」と言うことの出来るラストが優しい.卒業式が描かれないこと,つまり卒業証書の授与されないところがこの話の美点である.

2004年8月25日 CLANNAD (10)
智代編でも例によって男子便所が登場.全く大活躍である.女子を引っ張り込む,って昔やったよね.んで,逆襲されて逆にこっちが女子便所へ引っ張り込まれそうになったり.といってもそれは小学校の頃の話であって,僕は以後男子校なので知らないけどきっと高校生はそんな遊びをしない.杏はそう判ってて彼らと一緒にいるのだろうし,智代も彼らのことをそんな風に見ていて,智代については多分自分がまだ遊び足りないから彼らに気安さを感じるのだろう.
続いて,町の人々の話をもう一度おさらいしてゆく.幸村,そして勝平.とくに勝平のほうは何度やっても駄目だっただけにようやくなんとかすることが出来てよかった,よかった.

2004年8月26日 CLANNAD (11)
宮沢の話も美佐枝さんの話も部屋に入り浸る話であって,二人同時に会い続けると次のように自覚的な言葉が出てきて笑いを誘う.
 (昼は宮沢で,夜は美佐枝さんか…)
 (なんか俺…女のいる部屋を渡り歩いてるみたいじゃん…)
マニュアルのヒントコーナーにある通り解いたつもりが隠しシナリオが出ない.創立者祭の美佐枝さんが怪しかったが,4時間やっても判らない.攻略を見てそもそも3×3択を抜けれてなかったことが判りがっくり.そしてようやく美佐枝さんの長い夢を見た.
進め方によっては早苗さんが春原の彼女のふりをしてる間に美佐枝さんと出会うことがあって,美佐枝さんが生徒以外と話をしているのを見てとても安心した.小さい頃,自分の母親だって近所のおばちゃんと話をしているとその大人の話ぶりが別人みたいに思えたことがある.それが嫌ってわけじゃなくて,そういう距離を飛び越えてきて自分を見てくれることを一層嬉しく思っていたような気がする.それか,単に人はある程度多様な繋がりを持ってるほうが安定して見えるというだけか.美佐枝さんが早苗さんと話してるっていうのはそんな感じ.


2004年8月27日 CLANNAD (長い長い古河の話)

僕が好きなのは想像力が道を開いてゆくというところでさ,前に藤林椋の占いの話でも書いたみたいに,自分が何気なく発した言葉が良い連想を生み出してまた還ってくる,そんな時には神聖な気持ちになることが出来る.古河の元に在った幻想物語の断片が想像の世界を紡いでゆく.「あなたを,お連れしましょうか」冒頭の夜の演劇練習の台詞はその断片だっただろう,それは朋也のものとして受け継がれ,彼を光の中へいざなう.古河は舞台でだんごの歌を唄い,後になってから幻想物語の続きにもそういう場面があったと思い出す.だから幻想物語が先にあったか古河の歌が先にあったかはよく判らない.長い旅の先で聞こえてくる時代遅れの歌はそうした何気なさから始まったもので,それがついには信じられないような回帰を生み出している.幻想世界が誰の見たものであるかは確実なことは言えなくて,最後は朋也であろう,しかし他はよく判らなくて,もしかすると町のみんなが古河や朋也のようにどこから来たのかいつ生まれたか判らない物語の断片を抱え,ときにそれが繋がり合う.

語ることは内容よりもその機会を掴むことのほうが難しくて.むしろ機会が内容を決めていると言ってもいい.After Story として語られる一人一人の話を聞いていると,CLANNAD を終えるのにかかる時間の長さと複雑さは,町の人々が語ったり語られたりするその機会を得るために用意されたものだと判る.条件が揃わないと話せそうにないことってあるじゃない.芳野祐介みたいに波乱万丈の人生語っちゃうのでなくても,ただ父親に娘さんくださいって言い出すのだって大変だったわけで.娘に母親のことを語るまでに費やした時間.もう一人の父の話を祖母から聞くまでに費やした時間.早苗さんが我侭を言うために.そして必要だった機会.交錯するそれぞれの思いをすくい上げることが出来るように時間はゆっくりと流れ,あるいは飛躍し,また分岐してゆく.たくさんの人が語りたいとき,時の流れにはデザインが必要である.僕の一日と他の誰かの一日が同じ長さであるはずがない.同じ順序であるはずだってない.そういう人たちが同じ一つの町に住んでるのだ.そして,そういうありえない時間感覚はアナクロな幻想物語と隣り合わせの暮らしが描かれる中でこそようやく得られるものなのだろう.

美少女ゲームが,フィクションのなかの人たちが語るための場を提供してきたことの,これは到達点だと思う.

気持ちの盛り上がってきたところではあるが,あんまり神聖でいると神聖であることに疲れてしまう.あんパンの話はあんパンに戻したほうがいい.全てが善き方へ連想されるばかりでは大変で,あんパン,フランスパンとか意味を為さない会話を繰り返していたあの頃の方が,いつもの暮らしとするにはいい.最後に女の子を召喚する手続きにおいて風子と公子さんとのやりとりは支離滅裂だったが,話はそのあたりから始まるのがいい.特に風子が訳もなく楽しげであるのが良くて,彼女が目覚めたとき側に居るのがそういう娘さんであるのはとても幸せなことであると思った.


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