ana-chronistic ana 拾遺

とりとめなく,愛をそそぐページ.


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2004年8月30日 CLANNAD 拾遺・海星夜話
海星夜話
ようやく風太郎マスターになった.「そんなけったいなのと,ヒトデをドッキングしないでくださいっ」とは,ですます調なので気付かなかったけど,きっとイントネーションは関西弁なのね.けったいな≒変な.

何年前だったか忘れたのだけど,新幹線で東京へ向かう途中のこと.目を瞑りながら隣の母子が喋る様子をなんとなく聞いていた.男の子は座席のどこかに仮面ライダーの人形を立たせようとしていて,何度も失敗しているようだった.そのうち飽きて今度は母親にクイズを出していた.「仮面ライダー龍騎はあかいのくろいのどっち?」「あか」「おかあさんえらいんだから当てちゃだめー,もう一度ね.仮面ライダー龍騎はあかいのくろいのどっち?」「あお」「残念でした,あかでしたー」子供っていうのは判ってて自ら騙されたいときがあってさ.エピローグの風子と公子さんとの会話はまんまそういう遊び上手で,だからこそ「楽しいことは……これから始まりますよ」っていう言葉が真実,楽しそうに聞こえてくるのだ.After Story の風子は始終そんな感じで,ほんと好きだ.

2004年9月3日 CLANNAD 拾遺(2)
学科の屋上からの眺望が昔入院していた病院の屋上と似ていることに今日ようやく気が付いた.道理で落ち着くわけである.4階建てだから木のてっぺんくらいまでの高さで,近くまで山が迫っており,お寺の大きな屋根が見える.病院から見えるのは東大寺だったがこちらは黒谷さんである.病院の屋上というのは危ないから閉じられていたっておかしくないのだが,その病院では僕が見たところによると洗濯物を干すとか入院患者の息抜きとかあるいは看護婦さんのひそひそ話とかをするために開放されているようだった.屋上というのは扉があって四方に縁があるため境界の区切りがはっきりした空間である割にはあんまり人が来ないので,ここは自分だけの場所であるという錯覚を持ちやすい.それが錯覚である証拠には先客が居たときの気まずさを思い出せばいい.とくに相手が女性ともなればギャルゲーのように気安くはいかないものである.そんな裏切りもまた屋上に対する印象を強くする.特別な思い入れのある場所では何でも特別なことになりがちである.だから怪異も起こりやすくて「忘レナ草」では入院病棟の屋上に死神が出たりする.僕も先日学科の屋上に昇ったとき二羽のカラスがなにやら話をしているのに出くわした.彼らはすぐに逃げてしまったので短い間であったが,雀やらはともかくカラスは集って話をする鳥でないと思っていたのでこれには驚いた.

記録 (文学部の木の記憶.2004/8/31撮影)

場所に関する記憶のなかでも特にCLANNADにちなんで木と建物に関する話をしたい.1993年から1994年にかけてのことであったと思うが,文学部の古い建物が取り壊され,その中庭にあった大木も伐られることになった.僕は1993年入学なので中庭のことをぎりぎり覚えていて,ささやかな庭に不釣合いな大木があって,そこが大学で一番鬱蒼とした場所であると思っていた.あとの話は文学部控え室に出入りしていたミッキーさんから聞いた話でもう記憶が曖昧となっているのだが,あの立派な木を伐ってしまうのはひどい,しかし移植するなどの交渉も上手く行かず,じゃあせめて自分達で活用しようと伐った後の木を彼らは貰ったのだという.テーブルにするんだとか椅子にするんだとか聞いていたが,結局どうしたのかはよく知らない.ただ,ついこの前その話を思い出して木の保管されていた場所を訪れたら,まだそのときの木が一部残っていた.写真の真ん中で横たわっているのがそれだ.かれこれもう10年も眠り続けていることになる.

記録 (文学部の新しい木.2004/8/31撮影)

上の写真は建物の壊された後に作られた新しい庭を撮ったものである.昔の木が保管されているのはこの正面に写っている建物の中庭である.新しい庭の真ん中には花壇があり,小さな木が植えられている.昔,同じ場所に大木があったことを知る人は少なくなっただろうが,そこに目印があって僕がこんな風に語るとき,想像とともに僕の時間は巻き戻される.

時代に遅れてゆくものたちのことを思うとき,遠く,時を越えて見えないはずの場所が目の前に現れる.CLANNADにおけるありえない場所の話をどこか納得のゆくものにさせるのはそういう感覚であって,町に人と同じような意思や心があるはずはないが,僕は渚が唄う時代遅れのだんごの歌をずっと聞き続けていたからこそ,別の世界で同じ歌が聞こえてきたときに時空を越えたような気持ちになってその世界の存在を感じることが出来る.また,新しい病院が建設されて昔からそこにあった木はわずかしか残らなかったその上で,木の根元に見知らぬ少女が眠っているのを見たとき,僕は秋生がこの木の思い出にこだわる姿をずっと見ていたからこそ彼女のことを時空を越えてきた存在として感じるのである.「町を大好きな人が,町に住み…」「人を好きな町が,人を愛する…」町と人とが交感することによって幸せを生み出すという渚の言葉は彼らの暮らしぶりを想像力豊かに表現したものであって,世界の仕組みを説明するようなものではない.ありえない場所と人とが関係することについては彼らの生活史として既に語られており,それは,人がごく一般的な懐旧の念を丁寧に綴ることによって連想される場所である.



2004年9月5日 忘却の旋律 #1 - #14
鳴り響け,僕のメロス!である.広告の書き文字から想像していた以上に声が突き抜けている.これを聞くために見ることにしたと言ってもいい.変声願望っていうの? 僕も桑島法子の声でこんな風に叫んでみたいものである.

毎回キメのところでボッカの袖の破けるのが良くて,刺青も合わせてまるで遠山の金さんみたいなえっちさである.もちろん杉良太郎のほうである.そんなことを考えていて,さっき忘却の漫画版を買ってきて読んだら暴れん坊将軍の話があったので驚いた.偶然に意味などないが,ただそういうことがあると素朴に愛着が湧く.ちなみに漫画版のボッカは僕じゃなくて俺.これはこれでまたいい.

現実とも妄想ともつかぬ目的について勝負してくれる人間が居るってことが有り難い話である.あと,メロスの人と十二支やモンスターの人との勝負はこれから行われるものだったりもう勝負がついた後である時間がほとんどで,互いを知らないわけでなくただ知ってるけど勝負してないという時間が積極的に設けられている.町でメロスの戦士ですと名乗ってもいきなり捕縛されることはないし,山猫さんみたいにふやけた敗走を許す余裕もある.出会い頭にばっさりちょんではなく,人間が生活するペースで勝負が設定されてゆくから受け入れやすい.白夜岬でのボッカとメデューサとの出会いや迷宮島での黒船とミノさんとの勝負にしてもそう.画面もモンスターもほんと薄気味悪いのだけど,僕はこれがあるから見ていられる.

十二支の人たちのネーミングセンスは小夜子やキューちゃんに笑われちゃうのだけど,僕は遠音やココがメロスの矢を撃つのを見てメロスの人たちもたいがい恥ずかしい奴らであるということに気付いた.そのうち小夜子がツッコんでくれることだろう.

薄気味悪いとは言ったが,第14話の迷宮にだけは異世界的な美しさを感じた.人に見せて回りたい気分である.


2004年9月6日 CLANNAD 拾遺(3) 草野球編
幸せ.


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