contextless red
(c)曽我 十郎 since2001
脈のない日記。
[index ][firewire] antenna[sunoko][tenohira]冗談のような日付であるが、今日からまたちょっと書き始めようと思う。わっふるwonderlandが大晦日にスタートしたことを思うと、そう変なことではない。
アクセスログはとらない。内容のほうは、PDAとかよそゆきの話はないので、あまり面白くないと思う。ザウラーには申し訳ないです。掲示板もしばらくお休み。また余裕ができたら、そういう話もすると思う。
本当は新コンテンツを作ってから公開、としたかったけれど、うじうじ一人で悩んでいても仕方がないし、ほんの少しだけ前向きになれそうなことを思いついたので、とりあえずは始めてみた。
夏町や寿琅のことも、忘れないことにした。Gガンダムだって、ガンダムなのである。まるでターンAな気分。
sense off以来の怒涛の更新に歯止めをかけるため、悪魔のTeliosを封印する。どこにいてもweb更新ができてしまう状況というのは、かなりまずかったと思う。便利すぎるものには、ときに振り回される。更新は主に新PCであるAFiNA AVで行う。可愛さでは他の追随を許さないPCであるが、これがよく止まってくださる。それはそれで可愛げがあるのだが。
あと、その怒涛の更新分は書きっぱなしもいいところだったので、このへんに少々まとめておく。自分の文章探すために今木さんのページを見にゆくという状況はどうかと。いやだって、そっちのほうがまとまってるしさ、とか。
珠季とグランマの話はこの話に絡めてちょっと書いてたけど、もう消しちゃったと思うので、また整理しながら書き直す。
僕は誰なんだ、なんてことは、記憶喪失でなくたってときどき考えるんじゃないかと思う。答えはいろいろあって、自分の意思なんてない無色透明な存在(はやり言葉?)だとか、どこまで覗き込んでもまっくら闇で何も見えない深い穴のようであるとか、それとも「俺は俺だ」とか何かを確信したつもりになってそんな困った疑念は蹴り飛ばしてしまったり。
まぁ、「俺は俺だ」なんて言い方が一番正当に聞こえるくらい、そもそもの問いが禅問答に近い。俺、なんていうものに一般解はないからどう定義しようが勝手じゃないか、という身も蓋もない答えを予想させるのがつまらない。だからここでは、僕は誰だ、と考えるよりむしろ、誰が僕なのか、と考えると、ちょっとお話になるかと思う。多重人格者の話を持ち出す必要はなくて、まず複数の何かが存在して、そのうちのどれかあるいはそのいずれもが僕たり得る感覚、というのは、例えば作家がジャンル別に行うようなペンネームの使い分けあたりから説明できる。
日記を書いていると思うのは、書くことによって、自分のいろいろな側面が現れ出てくるということだ。他の人が、オンラインとオフラインの生活とでペルソナを使い分ける、なんて言うのも時々耳にする。だけど僕はその使い分けという話は素直に受け入れることができない。オンライン上でさえ二つ以上のペルソナを使っている人もいて、それは興味、文体、性格の違いとして現れ、webページの違いで棲み分けられてるんだけど、ここで僕は棲み分けちゃいかんと思う。
複数のペルソナを使う面白さというのは、そのドラマ性にある。人は、効率を求めない部分では、物事を人格的に捉えることが多い。例えばニュース番組では、キャスター一人が読み上げるよりは、複数人の談話を通して伝えられるほうがニュースに人格的な動きが加わって面白く感じられることがある。そんなふうに、誰が、何を言ったか、ということに興味があるのは、自分に対してだって同じことなのだ。自分の中にあるどういった側面が何をしゃべらせて何を行わせたかということ、これをもっと自律的に捉えて、どのペルソナが何をしゃべって何をおこなったか、という見方をすることは、普段からよくあるだろう。自分のエンジニアとしての性分はもっと念の入った仕上げをしたいのだけど、ビジネスマンとしての自分は早々に切り上げたほうが効率がいいと言う。自分の中に現れるそうした二律背反は、人格化された自分の複数のペルソナがやりとりをするドラマとして捉えられる。なお、この例では、ビジネス上のマネジメントをそのまま他人(マネージャー)に委ねてしまうという形で、自分からそのペルソナを分離することさえも可能である。今度は自分の中で二律背反が起こるかわりに、マネージャーと喧嘩をすることになるわけである。
二律背反にせよ喧嘩にせよ、互いが何らかの合意にいたるためにはストーリーが必要で、この前はお前の意見を聞いてやったから今度は俺の思うようにやらせてくれ、じゃあ、その代わり失敗に終わったら責任は全部お前がとれよ、とか、交渉、または恫喝、なだめすかしもあったりして、そういう話の上にのっとってようやく一歩前に進むことが出来る。人格化・ドラマ化はこの生活上のストーリーを組み立てやすくする、ということもできるだろう。
だから、ペルソナ同士というのは密にインタラクションをしているほうが良くて、オフラインとオンライン、webページとwebページとか距離の離れた場所で棲み分けるというのは、自己が分断されてしまってどうにもおいしくない。同じ場所で一つのストーリーを紡ぐのがよい。それでも、パブリックとプライベート、表と裏の顔、フォーマルとインフォーマルという社会生活上の事情から棲み分けは必要になってくるのだけど、できる限りにおいて、そういった窮屈さからは逃れたいものだ。その一つのやり方が、プライベートな妄想の上で女の子たちに会話させることで、僕の日記の中でもときどき成瀬が喋ってしまうことがある。うん、こういう形での妄想のあらわれ、というのは、自分が生きるためのストーリーを形成する上で、とても好ましいものに思えるわけでさ!
自分の中に独立性をもった複数の性質を認めると、なんやもやもやとした僕という中心的な存在が一体何なのか、と問うよりは、そういう自覚的にとらえられる複数のもののうち、誰が僕なのか、という問いのほうが、よりしっくりとくるように思う。それはきっと、意識的に探られ続けるものであって、どのペルソナが何をしたか、そしてどんなストーリーが生まれたか、時には冷血仕事人になり、時にはロマンティストになり、互いを見つめあい、そうしたドラマの中に生きて在るものこそが僕であるという、そういう言い方に僕は説得力を感じる。
前のときにも触れたと思うけど、今回はだいたいが esse in anima(魂の中の存在)とかいうユングの言葉から、人間が魂をもつのではなく、魂の中に人間がいる、とか、人格化は直接的な経験においてすべてのものが魂であり人格であることから出発しているとか、そういう話がおそらく元になってるのではないかと。あとnarrative intelligenceと。
あ、ぜんぜんグランマの話まで届いてねぇ。そいつはまた今度ということで。
仕事、怠惰、仕事、怠惰、仕事、怠惰・・・これでは寝る時間などあろうはずがない。10分くらいで日記は切り上げて、あと3時間弱、寝るべきだろう朝6時。
デューンっていうのはわけわかんないときが良くってさ、ティエラを抱いちゃうところまでが本気で、そのあとの根性あったり料理が上手かったり、したたかだったりするような一貫性のある行動は、取り繕ったおまけみたい。一緒に旅をしてるうちにいつの間やら彼がしっかりした人間であるかのような印象を受けちゃうんだけど、いやまて、そんなことはないだろう。出会いの頃のエキセントリックさと旅の途中に見せるそれとはえらく違って、最後に行動の理由が説明されてなお、前者は極めて逸脱している。菫青は男としての誇りを捨ててとかなんとか言ってたような気がするけど、そんなんじゃない、その逆だ。どこ見とんねん。あれは、これまでの人生で培ってきた誇りや体験、センス、知性、賢さ、美しさ、その全ての表現であって、例えば菫青の靴をなめたりするのとは全く正反対の位置にある。なにも捨てていないし消費もしてない。ただ、一度きり現れて、もう二度と出てくることがない類のものではある。緊張しまくりで、へまをしそうで怖くて仕方がないとか思ってもおかしくないはずなのに、感覚はよりいっそう研ぎ澄まされ、成功を疑わないときがある。酒場が静まりかえったのはなぜか? デューンが菫青の言うことをなんでも聞くというその身を捧ぐような心の動きに感じ入ったわけではあるまい。そんなことは関係なしに、ただ、そこにあった行為そのものが、低く、静かで、そしてトランスへといざなうかのような大きなリズムだったのだ。ティエラの耽りっぷりもあわせてみれば。あるいは創作を志すものが一生に一度だけ作ることのできるような特別なアートとか、そのときその場所でどうして言うことができたのか分からない、そのときその場所でのみもっとも美しい言葉とか。ここでティエラっていう人間が巻き込まれてるのは大変なことで、それはもう、行為がデューンの持つ文脈の全てに沿ってるってことでさ、なにもそぐわない部分はないのに、結果として全て置いてゆくことになってしまう、しっかりとしているように見えて、ばらばらな、このかけはなれた空隙が、たまらなく好きだ。また、ティエラがそれをそれとして理解しちゃうところも。その一点において、ティエラは脇役なんかじゃない。
結局、8時間近く寝てしまった。開き直ってる分だけ、体の調子は良くなった。一時はどうなることかと思ったけれど。
ええと、デューンのことを伝えるには、まだ言葉が足りてない。まず、一番の見せ場はテーブルクロスの引き抜きである。まさか練習なんかしてないだろ? あんな華麗な技がデューンにできるわけなくて、ティエラはもちろんそう思っただろうし、デューンも自分ながらにそう思うだろう。だけどおそらく、あの瞬間だけ、デューンは「できる」と確信していたのだ。でなきゃやらないでしょ。全くわけわかんないんだけど。全てが美しくなってしまう瞬間、っていうんだろうか。後になって振り返ると、いったいどうしてあのときあの場所が神聖に思えたのだろうか、と、かたわらに寝転がってるタバコ臭いビール腹のオヤジと見比べながら思ったりするわけで。逆もまたしかり。結婚なんてするもんじゃない。だがしかし、おばちゃんロリータは最高。永井真理子の可愛さを言語化したという元長柾木の偉業は、うさぎ75の人々にもっと褒め称えられても良いだろう。いやそれはともかく、いつまでもときめいていたい、というのは難しくて、それは単に、望めばできるものじゃない、本人さえもわからない事情に基づいているからである。デューンはデューンのままなのに、「目隠しのずれる」瞬間がある、っていうそんな感じなのかも。そのとき、すべてのことは美しくなってしまう。ああ、あんなふうにテーブルクロスにくるまれて食べられちゃいたい、とか思った人は、手を挙げてください。はーい、はいはいはいはいはいはいっ!
野島健児はよいなぁ。
それはともかく、今では、マナを消費する、っていうとオンラインゲームかM:tGですか。小説にせよTRPGにせよ、マナの消費というのは魔法の必要条件とかいう話がでてくるとわりと好んで使われてきたもので、あ、あと、マナちゃん、マナちゃんっ、カラダ拭かせてくださいっ、ていうかもうすでに拭きはじめてますよ、熱いお湯でぬらしたタオルを右手に、左手で肩をそっと掴むと、とてもちっちゃくて、頼りなげで、なんだか痛ましい気持ちになって、頭なでてあげたくなって、よしよしとか言いながら、ああ、ついでに足も拭いてあげて、服もぜんぶ着替えさせて、肩の上までお布団をかけてあげて寝つくまでそばにいてあげるから、大丈夫だよ、あああもう何がなんだか妄想がよく働いて仕方のないような不健康な消費の仕方もあって、そうなんだ、今の僕にはまさにマナが足りない。
世界がmanaよりむしろanaで動いているっていうのは、特に女性なら井戸端会議の実感としてあるんじゃないかな。小噺をどれだけ知っているかというのが大切かつ実用的なことで、持っている小噺や逸話集(ana)のうちいくらかを消費することによって、世の中は自分のいいように変えることができる。
男でも酒の席につくとよく分かる気がするが、人の話を聞いてると、話上手ってやつは持ってる小噺の数で分かる。それは多くの話題についてであるよりも特定の話題であるほうがよくて、その人らしい話題についての体験談あるいはそこから導かれるノウハウが多いほど、話は盛り上がるし、話し手に対する見方にプラスの影響を与える。ただし、同じ相手に対して同じ話はそう何度もできない。消費する、と書いたのはそのためだ。小噺はつねに消費され続ける。
僕が面白いと思うのは、こうした小噺のストックが語ることによって同時に増えたり変化したりする部分である。自分の話に対する他人のレスポンスは、そのまま新しい話として追加することができる。また評判のよかった話は、別の人に会ったときにも話すだろうし、そのときには若干の修正や誇張が加えられる、というのも経験されることだと思う。その人の板についた話とは、時を経てこなれているから話しやすいし、情報の追加や変更も簡単である。 対話が情報収集や思考支援の役に立つなんてことはいまさら言うまでもないが、語るということが他人様の影響を受けた社会的過程であるならば、そのブートストラップとなる一人語りをここまで意識化させるWeb日記というのは嫌が応にも面白い。つまんない話はひとりごととして垂れ流して良くてさ、そこに誰かが面白い要素を見つければ、拾われて、社会的に成長してゆく。だけど、ひとりごとっていうのはこれまで拾われることはなかったし、そもそもそれを言うことさえ気味悪がられたわけで。
僕がこのところ物語やクオンティティについて話し易い状況というのは、そういう感じじゃないかと思う。
特定の文物(とくに本)を引用しときながらも、それを話の文脈のなかで説明する手間をはぶいてしまう文章の書き方というのは好きになれない。引用元の分かる人だけ分かればよいという姿勢。僕もときどきやってしまうけどさ。同じ分かる人にだけ分かる文章でも、引用によらなくて、ただ作者内の世界の説明において不足がある、などとレッテルを貼られている文章のほうが、態度としてはよほど健康的だし、誉められたものだなんて思う。
「どれかひとつにしなさいっ、」
「えーん、えーん、えーん、」
絵が描きたい、おはなしも書きたい、プログラムを作りたい、あれもしたい、これもしたい。望みは多すぎて、いつまでも、そんなことで泣き続けるだろう。「おいしくて、かわいい」ていうのは笑いとして書かれてるけど、笑いでもなきゃ聞くにたえない幼児性であるわけで。僕がAIRのことを考えていてたどり着くのは、そんな冗談みたいに語り流されてしまう場所ばかりだ。
ただ安ければいいというわけでなく、買い物というストーリーを我々は楽しむのだ、なんて言われていた時代があった。お店へ行けば接客のプロフェッショナルたちが出迎えてくれて、どんなものが欲しいかを言えばすぐに、良かれと思うものを二三示してくれる。漠然とした要求に対しても、逐一ものを示しながら対話的にゴールへと導いてくれる。ビデオデッキならばどれが画質が良いか、どれが耐久性があるか、素人では分からないような特徴を教えてくれて、僕はといえば、そこから趣味に合うものを選ぶだけで良いのだ。ああ、商品データを知ってるだけで喋り下手のオタク系店員はだめだ。お客さんの要求を理解できること、または、お客さんに要求を言語化させる誘導ができなくてはだめで、応対は簡潔で相手を迷わせないものでなくてはならない。僕としては、ただ人と話をするだけで必要な情報が全て手に入るというのは、これほど快適なことはない。接客サービスっていうのはお客さんに満足してもらえるストーリーを作ることであって、店員さんはその道を極めてないといけない。
今では百貨店に代表されるそうした誇らしさは顧みられなくなって、ともかく安い店であるほうが喜ばれることが多い。でも僕は、だからといって、お客からそっぽを向いて商品を手渡すような店員が平気で居る店は許せないし、マニア客以外に対して商品の説明が上手くできない店なんて、くだらないと思う。ああ、やたらと具体的だな。ともかく、店員さんへの視線が厳しくなりつつある昨今は、アキバの場合であれ老舗で買い物をすることが多くなった。あとお店が新しく、小さくても、きちんとした応対のできる店は良い。ソフマップ中古PDAや秋葉館PDAの皆様は素敵だ。いや、ようするに某Palm取扱店が気に入らないだけですかこの文章は。
接客サービスっていうのは今後、電子商取引の場で特に重要になる。今の電子商取引は商品リストだけ並べるようなもので、説明員は居ない。これが「居る」ようになるのは劇的な変化だ。お客さんの要求にあった商品を検索するエンジンや、実際に買ったお客さんの意見を集めて、未購入の人の購買意欲を高めようなんて研究が盛んであるが、そのフロントエンドとなるのはもちろん対話型ロボット(ソフトウェアエージェント)である。僕ならば、いちばん萌える女の子ロボットが応対してくれる電子商店で買い物するだろうし、もしも買えば買うほどその子と仲良くなれるというならば、それはなおさらだろう。
括弧ナシ。ホシノルリサーガはよいねぇ。
メッセージはすべからく分身である。
それは人格的で、自律的で、
あるいは、否応なく人格的に捉えられてしまうものである。また、メッセージとは、聞き手に支えられる社会的な存在である。
ええと、スローガンというのがときどき必要になる。その内容は、あまりに当たり前のことであるか、その反対に、何言ってんだか分かんないものであるのがいい。前者はともかく後者については、なんかいいこと思いついたんで書いてみたんだけど、なにがいいんだか分からなくて、書いたものとにらめっこしながら考え込んでしまうってことがよくあるわけで、そういうのは壁にでも貼っておくに限る。そのうちに、意味は後からついてくるのだ。Outlookのメモ帳は、Palmデバイスと同期できてデスクトップにも貼れるのでいい感じである。で、いま貼ってるのが上のblockquote.
スローガンの話に戻るが、やりたいことやってんだけど、ほっとくと方向の無い状態になってきて、そしたらこんな論文書いてられっかムキーーっ、と叫んで、始まりの位置を振りかえりたくなるのだ。
人の文章というものは、望まざるともその人らしさを示すものとして捉えられがちで、優しげな文章を書く人が「俺はそんなにいいひとじゃないっ!」と主張する様は、わりとどこへいっても観察される齟齬である。あと、言葉がひとり歩きする、なんて言葉もよくいわれるわけで。ところで、言葉がそぞろ歩きする、っていう言い方はなんかいいと思いませんか? sense offっぽいし。って、わけわからんよ。で、こういうわけのわからん言葉はやはりトイレの壁にでも貼っておくのがいい。
自分のセッションに参加した人がなんらかのカタルシスを得て帰ってゆくのを見るにつけ、あらゆる意味で素人である自分の言葉が人の心に影響を与えてしまうことの責任の重さを感じていた。それは今から思えば、あのRPG研のメンバーに関してはおせっかいもいいところだったけれど。たとえばWebに掲載されてる物語への感想に対して僕がネガティブに思う部分は、作者の言葉があまりにそのまま受け取られてはいないか、ということであって、それは作り手としては本当に冗談じゃないし、読み手としても不幸だ。読み手としてはできるだけ自分の言葉を使って自分の世界のものにしてしまうのが「読む」ことの素晴らしさだと思うし、作り手としてもそうやって読み手のなかで幸せに暮らしてもらうのが一番嬉しい。自分の書いた言葉があまりにそのまま返されて、読み手の言葉になってないのを見るときは、なんとも気が重くなる。僕はそんな作品のことは忘れた。なにかあるんだったら作品に直接話してやってくれ、とか思う。それで、ひとりよがりな解釈を嬉しがって作者に話すのもどうかと。もしも作者に対して感想を書こうっていうんならそれは対話なんだから、鸚鵡返しでも独り言でもなく、つまりは、自分の体験として「語り返す」気持ちを持たなきゃだめだ。その点で、創作物に対して創作物を捧げる、というやりかたは、一番好ましいと思う。もちろん、それに対する感想を原作者に強要するなんてのは、勘弁してほしいことではあるが。
あと、評価というのは、どこそこではこれがいいと言われている、っていうような、自分のコミュニティへ相手の参加を求める行為でもあるから、相手の属するコミュニティを把握してないと単なる勘違い君になりかねない。査読者が自分たちのコミュニティに関係のある論文を評価するように、編集者が自分の雑誌傾向に合わせてリテイクを出すといわれているように、自分が「ここを直したほうがいい」と思った背景に、いったいどんなコミュニティがあるのかは、もっと意識されていい。その前提から、批評行為とは相手が自分の好きな人間のとき求愛ダンスとか批評好意とでもいうべきものになって、相手を自分のコミュニティに引き込みたいっていう気持ちが前に出てさ、コミュニティが違うという理由でそれを否定されると、とても寂しい気持ちになって、だから何度もしつこく迫るんだけど、相手は頑固者でさ。
ボクハゴムガスキダ。
いや、言い足りないな。僕の話し合えるコミュニティていうのは二人か三人くらいまでのもので、それ以上になると、人の集合とか集団とかそんな感じ。普通はそれコミュニティていいません。一人対一人の関係以上に大切なものなんかなくて、文脈もそれ以上には広がらなくて、がんばったとしても僕と君とあなた、同時に三人が一緒にいるくらい。だいたい一対一で会ってるときって、会う相手によって話す内容とか話し方って全然違う。それをそのまま足し合わせてさ、同時に三人なんか相手にしてみなさい。文脈なんかてんでバラバラじゃないか。僕はそういうときよく分かんないので、とりあえず萌え萌え叫ぶことにしている。
そういうわけで、日記のセクションごとにアンカータグを付けてるのって、多数へ向けてというよりむしろ話題ごとに誰かの顔を思い浮かべながらですが、同じ制服を着ているという程度には、Web日記コミュニティなるもの(Web日記に関心を持つ人々の集まりとして捉えられるもの)への帰属意識というものはあると思う。この形のタグ付けっていうのは少なからず日記コミュニティのスティグマになっていて、相手にアンカーをつけてもらえると引用の際に便利という主張の背景には、そうした帰属性を強く感じる。便利さっていうのは、はじめは単純なスローガンなんだけど、壁に貼り付けて何度も目にするうちに自意識を強く喚起するものになってしまう。他の人と同じバッヂを付けて歩く気恥ずかしさとか、相手にもタグの付いた日記を書いてほしいと願う、求愛的な病状とか。
また話がそれた。で、そもそもTRPGやってたときの、言葉の自律的な働きがもたらしてしまう影響の、その不可避であること(物語的であること)に惹かれて、物語云々を言い出したのだ。語りの中のインタラクションとかいう話は、物語、物語と唱え続けているうちについてきた話だ。だいたい松岡享子のストーリーテリングに関する本をいくつか読んだ後のことで。
また、なれない方は、語りの途中でちょっとことばにつまったり、いいまちがえたりすると、それで話がすっかりこわれてしまったとお思いになるようですが、けっしてそんなことはありません。語り手の気持ちがしっかりお話の中にはいっていて、その場にお話の世界の空気がかもし出されていたら、その空気は、そうたやすく破れるものではないのです。わたしは、ある保育園で、ことばにつまった先生を、子供たちが実にしっかり支えて待っているのに感心したことがあります。話の先へ気持ちを走らせている聞き手は、むしろ語り手をつまずきから立ち直らせる力になってくれます。小さなつまずきが致命傷になるのは、語り手が、自分の語り方にばかり気を向けているときです。語り手がまずお話に気持ちを集中しないで、どうして聞き手にお話の世界を支えてくれるよう要求できるでしょう。語るときは、自分のことではなく、お話のことを第一に考えましょう。
(松岡享子,「お話を語る」,日本エディタースクール出版部)
ここで、語り手が話の世界に没入することが、語り手の独りよがりなお話に聞き手を付き合わせるような状態をさしてないのは明らかであるが、念のため同じ本から引用して補足しておく。
語りのテクニックというものがあるとすれば、それは、聞き手への"親切心"が生み出したものだといいたい気がします。
若いゲームマスターほど格好とケレン味にこだわって失敗する。どこまで自分のやろうとしている話を知っているか(覚えているかじゃなくて)ということと誠実さが話を支えるのであって、取り繕いやら見た目やらはたいていその逆をいってしまう。RPGのアドリブというものはその場の機転や小手先のものではなく、自分の話を知っていれば自然についてくるものである。P総統にも言ったことがあるけど、TRPGをやってる人ほど語り下手な人が多いというのは、もっと自覚されていい。そうしたときに、松岡享子による「その空気は、そうたやすく破れるものではないのです」という表現はとても優しいし、力強い。
買ったとも。人として。
遠慮がちな胸。控えめなお尻。そして、無駄のない体つき。自分が発育不良の女の子だと思いこんでいた男の子の話。この子がやたら可愛いのと一見陰のなさそうに見えるところがウリかな。どこへ行っても売り切れで驚いたよ。男の子スキーが増えちょるということかのぅ。たとえば、れちことジゼルの記憶を持ったデューンが一日どんなことを考えて暮らしているのかとか思うと、どうにも助平な想像になってしまって仕方ない人とか多いのだろうか。
プレイした。ああ、おちゃらけたり冷静にデューンのことなんて書いている場合ではなかったよ。さらばデューン。こいつはたまらない。本気の感想は棺桶まで持ってゆくべきだが、どこかでぽろっと漏らすに違いない。それはおいとくにしても、このシナリオライターの人には惚れ。
主人公にも声があるし、会話が面白い。逃れられない出来事と周囲の白い目に対して、自分の近くにいる人間はみないいやつだったりする。お薦めのお話である。まだどの話も読み終えてはいないのだけど。
「僕がギャルゲーに気持ちよさを感じるのは、好意が回数で測られるところもあるだろう。何度会ったかということが、好きだということなのだ。」
コピペなんで自分で本当にこんなことを書いたかは忘れたけれど、これは、とらハ1のことを指している。あのゲームでもっとも衝撃的だったのはなにより「選択肢への回答が女の子と仲良くなる上でほとんど関係ない」と聞いたときだった。だってやっぱときメモから始まったでしょ? 女の子の好みを当てること、回答のクオリティが勝負だったでしょ? そんな馬鹿な、と思った。単に会った回数だけで女の子と仲良くなれるのだ、とらハは。
回数だけ、という言い方はどうにもネガティブに聞こえるかもしれないが、都築さんはまるで肯定的に扱っているし、僕もそうだ。話は変わるが、僕が長森にさ、「もう俺のことなんか気にかけるなっ、」とか言ったりすると、長森はきっと「毎日会ってるんだから、心配して当たり前だよ」と真顔で答えるのだ。どうして当たり前なのか? 情が移るから、なんていうのは読み飛ばしすぎで、「毎日」っていう量的な要素が、そのまま「心配して当たり前」という話に言葉の上で繋がってゆくことに注意したい。って、自分で状況を設定しておいてなんだが、長森がそう言うんだからこれはしょうがない。回数、すなわち時間というのはかけがえのないものであって、その価値はいつも平然と好意に置き換えられてしまうのだ。
クオリティでは計りきれないものが、この世にはある。僕はこれを祝福だと思うよ。
いやだから、わたしそういう助平なこと書くのやめなさいよ。というわけでこの項は消した。
僕らは冗談なしに、
事実となんか向き合えない。
ああ、そんなのあたり前よ。
あんな奴、姉でも兄でもない
いつだって真顔のまま、
あたり前のように悪口を言う。
ああ、もう冗談じゃないよ。
存在なんてものは全てネタで、
探さなくてもそこにある。
いつだってある。
美奈萌の話はようやく天使様とかいう話が出てきたところなので、はじまりもいいところ。美奈萌の挙動不信さに周りの人間が合わせることはなく、どうでもいいものとして聞き流されているのがいい。大事なことはもっと別の場所にあるのを知っている。焦ったり取り繕ったりするのは自分ばかりだ。
あと、他の誰でもなく僕がこのページでこのゲームのことを扱うのは何人かの人間に対してややこしいことになるのは分かってるのだが、譲れない。おっきな流れに負けないためには、語り続けるしかない。表面上の知識の正誤ではない。主張してもだめ。語ること、それだけしかない。
自分の意見は主張するべきだ、なんていってるのはどこのどいつだ?
主張なんていうものは、誰も聞かねぇ、犬も喰わないじゃないか。
ああ、いかん。これはsense off始めたときのノリに似すぎである。こんなクソ忙しいときに付き合ってらんないので、あと二週間は封印じゃあ。
のようなものに誘われた。ずっと一人でやってきたから、戸惑ってしまった。
僕は毎年、なにか一つ新しいことをすることにしている(というかしたくなる)んだけど、今年はまだそういうのないね。
一万個のカタマリに対しては三万時間で叩き潰す。三万時間を費やしたものは十万個で喰らい尽くす。そうしてみればフラットなこの世界に、論理学はいらないのだった。あの、僕、いまだに三倍返しとかいう言葉を使うんですけど、子供みたいですか。週末は研究室に籠もる。月曜日には泡をふかせてやるわ。
一億人の標準的なプログラマーの群れとか妄想すると萌えます。ゼリィみたいにぶっ潰せ。なにもかも。
たとえば夢占いについて、どうにもうさんくさく感じたり、あるいはあまりに少女らしいロマンであって自分とは無縁であると思ったりするかもしれないけれど、自分にとって大切な人や身近にいる素敵な人がそれを語るとき、夢とか占いとかいうかたちのないようなものを、真摯に受け止めたいと思うことがある。
この世の誰もがみんな、魔法使いなのだ。こころの世界に浮かびあがる象徴(魔法カード)を自由な形に組み合わせると、それは世界でただ一つ、その時その場かぎりの魔法となって生まれる。誰だってそういう力を持っているのだ(とても嘘くさいですね。)だけど、語り手と聞き手がいないと魔法は成立しない。セッションの参加者はあるときは語り手になりまたあるときは聞き手となって、魔法を取り交わしながら、話を進めてゆく。でもまぁ大まかな話はゲームマスターが作っておいたほうが混乱しないだろう。どのフィクションにだって言えることだろうけど、ルールがおまけ程度にしかないB-Roadsでは余計に、嘘くささに負けないための誠実さが必要だ。嘘があるからこそ、かたちのないものを語ったりそれを受け止めたりできるような嘘のない場を作る方向へ気持ちを傾けることができる。キャラクターよりむしろ参加者自身が、大まじめに魔法使いを目指すような、そういうセッションをすることができれば成功だろう。
背景世界に関する資料は整理されておらず、追いかけるのは困難であるが、内容自体は散漫でなく、追いかけるほどに意味深い。ただ、門倉氏が参考図書としているような本(「闇の中のオレンジ」(天沢退二郎)「時計坂の家」(高楼方子)など)あるいは「送り雛は瑠璃色の」(思緒雄二)を読んだほうが、話のつくり方を理解するには向いている。
ファンタジー
本作は「the Roads to Lord」に始まるローズシリーズの第二作であり、「the Roads to Lord」及び第三作「Far Roads to Lord」のサプリメントは全て参考になる。
絶版である。まぁ、ルールも背景世界も必要ないけど。
B-Roadsをはじめて以来、というともう8年か、進歩のない話をしていて聞いてるほうも飽きてくるわけであるが、はじまりへと一度きちんと返そうと思ったのだった。
こちらでRPGシステムの網羅的な紹介がいずれ特集されるようです。上のはその草稿。
とはいえ、同じ話でも場所を変えて語ればずいぶん違ってくるもので、物語についてエロゲ方面で話してきたことは、RPGの場で話していたことと変わっている。次の場所にもこの話は持ってゆかれるだろうし、そこでもまた、色は変わるのだろう。
まぁ、無理矢理ひねり出したが、この自転車操業はどうにも。せめて、発表くらいは実のあるものができるようにしたい。
・今日まで二週間の戦場跡:某論文誌エージェント特集最終原稿、JSAI投稿、共著本を英文校閲へ、某国際会議(でも開催は奈良と大阪)投稿
・来週の戦闘予定:某国際ワークショップ最終原稿、某研究会発表、共著本原稿推敲・送付、本年度研究計画(もっとも大切だがもっとも後回しにせざるを得ない)
眠い。クリスマスのやわらかい膝の上で以下略。
僕のポケットに。
ひろいお空と、とんがった鉛筆が一本だけ。
中学生の頃はとかく色鉛筆が好きだった。白い隙間があったら塗り尽くしたくなる程度には、僕の頭んなかのねっとりとしたものを鼻から吸い出してゆくかのように作用した。いくら塗り重ねてもまだ足りなくて飽きない。そのうちに筆圧と粉とでつるつるになってしまうから、そこでようやくやめる。で、色鉛筆ていうのは、消えない。昔、クーピーっていう消せる色鉛筆というふれこみのやつがあって、これが実際は期待するほどには消えないんだけどさ、まぁ、うたい文句になる程度には色鉛筆が消しゴムで消せないっていうのは確信される。それでも描き間違えたら頑張ってこすって消すわけだけど、どうしても跡がのこっちゃうんで、その跡が消えるくらいに上からぶ厚く塗り潰すことになるのだ。で、どこかがぶ厚くなったらほかもぶ厚くしないとバランスがとれないっていうんで、どんどん全体が厚化粧になる。この消せないもので埋めるとか潰すっていう感覚が好きだったんだろうな。あ、あと紙がつるつるのがたがたになったところで止めざるを得ない、っていう、終わりが用意されているところもきっと良かった。
いまや時代は進歩して、色鉛筆だって真っ白に消せちゃうわけです。上の絵はE-700とねふぁさんの幻色鉛筆にて。描き方はあのころとちいとも変わってなくて、あいかわらず液晶がへこむくらいげしげしと塗り重ねてるんだけど、物理的な終わりがない分だけ僕が終わりを決めなくちゃだめで、これは大変な判断だ。CGというのは終わらない世界を見せるから、怖いです。
疲れたのでなんとなくおでこちゃんを描きたくなった。こうぺたぺたとさわりたい。
で、あんた自身がそれ使ってみて、これはいい、って思ったのか。
研究会で新しい道具が発表されるとわりと出てくる質問で、発表者本人がどこか見るべきところがあるて思ってなくちゃそもそも登壇してるはずはないんだけど、聞いててそれが伝わってこない研究というのはなぜかある。あ、私のもそうですか。他の人による評価を受け止めるのも自分の体験のうちとして、ともかく自意識が問われるのだ。自分がたいしていいと思ってないものをいいと主張してもうそ臭い。そんなつまんない研究はとっととやめたほうがいい。やめました。やめたいです。むふー。いや、捨てるんじゃなくてね、もっと大きな欲望で塗りつぶしちまえ、と思うのだ、こういうものは。
利用者としての自分は、何か道具が有りさえすればあとは工夫次第でどうだってできて、スペックよりもっと大切なことがあると考える。それはときに作り手としての自分をおびやかす。palmのちっちゃいモノクロ画面で絵を描いてて楽しい僕は、大画面とかカラーとか作ろうとしている僕をあざ笑う。利用する楽しみ、っていうのは、スペックだけでは計れないんです。機能は、いつ、どこで、どんな風に使うかっていうなかでしか言えなくて、そういうストーリーのみえないとき、道具というものはとても作る気になれない。
あと、幻色使いの人に目のおっきな娘さんを描く方がほとんどおられないというのは、偉大なる紹介者の有田さんによるストーリーがそれと反対の方面に説得力をもったということであって、ツールの特性としてなんら描きにくいと思わないし、描いていて楽しい。そんなふうに、どう使うかって言うときの説得力には、スペックとの対応づけだけで語れないところがあります。
泡をふいたのはこっちのほうだった。あたしはいやだっていったのにせんせーが無理やりにっ、とか涙声で言いたい気分。この場合のせんせーが誰にあたるのかを想像した人が何名かおられると思うが、その想像はおそらくはずれであると言っておこう。
たしかに、日記というものには脈絡がないかもしれない。しかし、もしも世界が文脈とともに語られるなら、日記も文脈とともに語られるのだ。あるいは、日記が文脈と切り離されてるなら、世界も文脈から切り離されている。どっちか片方が違うというのは感じられない。日記と世界との間には、そういった脈絡があるように思う。
こういうオチは、もう飽きましたか。僕はもう物語とかストーリーとかいう言葉をまるで助詞か接続詞であるかように使いまくってて飽きないんだけど、こういうのも幼児のような反復だろうか。ばぶー。繰り返すことって普通、面白くないことだと言われてると思うんだけど、なんでこんなに面白いかな。赤ちゃんに聞いてみたい。
Prismaticallization. ああ、素敵だ。 こんなに誠実かつ的確な文章があるなら、ライターの池田氏も報われようというものだ。登場人物紹介は必見である。あまりに正確な紹介は、紹介された当人でもないのに、なんだかもう図星で笑うしかないような気分にさせられる。このページを教えてくれた水姫に大感謝。
プリズマティカリゼーションは、同じ一日が繰り返されるっていうその特殊な世界への解釈が要請されるためか、どうも哲学からの引用に読者の注意が向きがちであるが、射場の世界自体はむしろ図書館的であって、哲学はその棚一列を埋めているだけに過ぎない。先日の新歓コンパで本が好きという子がいたのでどういった本が好きかと聞いたら、真顔のまま図書分類番号で返されたので驚いたが、射場のことばというのはそういった分類やら書架の配置やらと大差ない。このとき、本の名前を聞いてその置き場所がわかるっていうのは確固としたヴィジュアルイメージを持っているからであって、それはわりと文字とか論とかとは離れたところにあるだろう。本が好きというのと図書館が好きというのは違っていて、後者は図書館のイメージにずっと依っている。ああ、理科の教科書とか図鑑の図版って、印象の強いやつはどのへんのページに載ってるか、ってなんとなくわかるし、文章もそういうところがある。図書館はそうした印象的な配置の集積で、本は読み進めるたびに意味深さだけを残して流れてゆく。たとえばプリズムの配置なんて考えるとなんとなく意味深いわけだけど、射場はそういう意味深さは後ろに置いて歩いていった。置いていったものは思い出として手に入るかもしれないし、塵になって消えるかもしれない。消えたものはつまらないものだったのだ。歩かなければそれは意味深いだけのものとして流れに澱をなす。じゃぶじゃぶと膝まで濡らして、手を川に突っ込んで捕ろうとするんだけど、もやもやしていて、つかめない。消えたものはほんとうにつまらないものだったのだろうか。いや、毎日を失いつづける世界でこそ、射場は意味を見つけたのだ。
リスナーを遮断する(2/25)というあたりについて。世界はわたしたちの間で閉じました。ありがとう、さようなら。という、成瀬の宣言を聞いた人間の何割かはおそらくロマンを感じたんじゃないかと思う。あれは直弥と成瀬の二人だけの世界なんだから、我々が関与していいはずがないのである。直弥が主人公のゲームを元にしてるだけに、取り残された、と言って怒る人が何割かいたっておかしくないんだけど、おそらくいない。元長柾木のゲームジャンルに対する自意識というのはたいしてとりあげる必要もないほど他の部分が面白すぎる。ただ、ふと振り返ったときに作者の存在を生々しく感じさせる点で、それは非常に意味深い。
末永はここを読んでおくべきだろう。あんたが書いたんじゃないかと思った。双方に失礼な話ではあるが。
こばさんという方は日記を拝見するとゲームがゲーム的であることに何か強い思い入れがある方であるように想像するんですが、プリズマ評にはそこがすっぽり抜けていて、そんなところが僕は好きになりました。おそらく昔の日記のほうで、循環する時間とそれを体感させるゲームシステムとの関係について熱く語っておられるんじゃないかと思うんですが、何か一つ、一番大切なことをまとめて書くってときに、そういう深すぎる情念はみんな置いていってもう書かなくていい、っていう状態になっていることは、作品を語り続ける上でとても素敵だと思うんです。
あと、掲示板からたどったDALさんという方のこちらも。最後の「思わせぶりな場面は何箇所かありますが、主人公の視点からは意図的にセクシャルな描写が外されています。」とか、sense offについて、こばさんの言葉を受けての「このシナリオは判らない、と言ってしまえば判らないだろう。だが、全て判る、そう断言することも可能だ。」とか、ときにとてもツボにはまる言葉があります。・・・とかつらつら書いてるうちに、さらに今週の仕事を増やそうというメールがっ。こんな深夜(午前3時)といえど、おちおちしていられない。ていうかうちのボスはいったい何時まで仕事をしているのだ。作業に戻ります。
ここの一番面白いところを書くの忘れていた。
... スタッフロールの歌(「Get Wild」を彷彿とさせる)などが良い感じです。
ああっ、その通りだ、GetWild だよ兄弟。どうして今までこんなことに気づかなかったんだろう。birthday eve を聞くとどうにも血が騒いで仕方がないのは、太古からの条件付けだったのだ。GetWild を思いだそうとすればするほど、birthday eve が混ざって困る。まぁ、「あたらしい予感」とPSY・Sの「EARTH 〜木の上の方舟〜」の混ざり具合には及ばないが。高瀬一矢と下川直哉、こういうのは作曲者の世代が出ちまってるんでしょうか。何歳かって知らないんだけど、小室センセと松浦先生の曲を聞いて育ったくらいなんじゃないかなぁ。ああでも元長柾木がTMファンであることを考えると、手先の器用なI'veのことだから、わざとそうしたんじゃないかと思えて楽しい。
いつの日か互いのdirection重なるのならかけがえのないこと。いつだって見ず知らずのだれかとすれ違い続けていると夢見る。胸のどこかから聞こえる恋愛的な呼び声は全て Human System という歌に語り尽くされている。二十歳を越えた人間が Human System のことを言っても格好つかないが、中学のころ必死に歌詞を覚えようとして毎朝通学時間に口ずさんでいたけれど、英語が引っかかってしまって「出会えないふたりのrelation」以降が全然覚えられなかったのだ。若い頃にやり残したことっていうのはいつでもちょっと周りの人から見てイタい感じで甦ってくる。で、若者は「出会えないふたり〜」なんていう重なるに至らない世界の話を真顔で言うんだけど、大人はエッチなので、つい最後に二人をめぐりあわせちゃう。二人だけの閉じた世界で。
ああ、sense off と Sense Off の二通りの表記があるのってまずはきっと、humansysntem(アルバム名)とHuman System(humansystem収録曲名)ていう二通りの書き方があるのにならったんですよ。
疲れました。落書き。
疲れているときにそんな話をされるとつい乗ってしまいます。しかしやっぱこのソフトは動作が速いんで落書きには一番である、って自分でいうのはなんだが、根本的に浮気性なものであまり自分のとか人のとか関係ない。
こちらで描いておられるぽっちゃりした感じのさくらがとてもお気に入りで、うちのさくらも描くたびにふわふわのもこもこに(あまり関係ないがついでにぺたぺたに)なってゆく。小鳥という体からしてちっちゃい子がいるだけに、さくらのがちっちゃいのは比率的に一層はにゃーんだ。ただ、どうして発育不良なのかということに思いをはせると、はにゃーんとかいうよりむしろああもう痛々しくってほっとけないっ。ぎゅっ。
さくらへ。「甘えてくれていいからね。」
佐祐理さんへ。「もぅ、あんたって人は。」
里村へ。「あほか。」
香奈花へ。「いっしょに星を見よう。」
天野へ。「つうか、もう許さん。」
さくらと一緒にいたい。天野と居るときっととっつかみあいの喧嘩になる。だけど、僕は男だからいつも途中で折れて、それでしばらくは気まずくなってしまうのだ。
あっちの世界に住むあなた、こっちの世界に住むわたし。
居場所の違いっていうのをどれだけ意識していても、飛び込むような気持ちがあって、ああもういとしいものと居場所の違いっていうものを美奈萌は別の階層で語ることができるんだけど、まひるはいちいち一緒に考えて戸惑ってしまうのだ。屋上で体当たりしてくるかのような勢いで抱きしめてくれた美奈萌を。おそらくまひるは、無償の愛情を理解できない。戸惑いながらなんとか真剣に答えようとするんだけど、王手飛車取りをされて飛車のほうを逃がすまひるのそれは、総力戦というか焦土戦術で、自分なんてどこにもない残酷なものだ。ああでもそんな残酷な本気につけ入る形でしか、あの子を繋ぎ止めておくことはできないよ。まひるをはじめての人にしたかった、まひるの特別でありたかった、ていうのは、まひるの中にそもそも特別なんてなくてまひるは自分自身さえも特別じゃなくて、せめてわたしなんかでもいいからどんな意味だっていい、特別なものとして心においてほしい。まひるっていうのは、何だって通り過ぎっていってしまう子なのだ。なのに、ベッドの上でさえ自分のこと無しに相手のことだけ無表情に考えこんでしまうまひるはよ! 手帳のこと、ファンレターへの嫉妬のこと、いつだってまひるは美奈萌の気持ちを確認していたけれど、自分の気持ちは分からないままなのだ。ああ、でもホテルからの帰り際には、ようやく何かすこし、自分自身のものらしい言葉が生まれてきたかもしれない。
どこへいっても神棚の上のものとして扱われてしまう人。かけはなれた無邪気さ、まじめさ、才能、というのが、たいていその対象となる。ふるまい、っていうのは、場所やことばづかい、態度が変わってしまってさえ、変わらない。たぶん、自分と他の存在との間の距離に依存していて、これはもう、仕方がない。理由は分からないんだけど、自分がなにかを他人に与えているという果てしないディスコミュニケーション。自分が何を他人に与えているのかなんてわからないままに、だからあたしは無償のままみんなに支え続けられるしかなくて、だからまひるは何か返したくって、その身を差し出すのだ。その身というのはかけがえのないもので、それが何かだなんて分析できない。つまりは、そのかけがえのないものこそがあちらのせかいからこちらの世界へ与えられている。何を与えているのか分からないていうのはきっと全てを与えているからなのだ。だからこそ、わたしは何も分からないあなたを幾らだって愛す。人並みに傷ついているというまひるの自意識は何度も語られるが、自分が周りに何を差し出しているのかということは全く意識されない。無償の愛情が分からない、というのはつまり、自分が何を与えているか分からないということだ。美奈萌、あとは頼む。
あの放送室での行為とか木馬にまたがってる美奈萌とかさ。扉をガラッと開けて入っていって、後宮小説のタミューンよろしく「ぬしらは馬鹿か、」といってやりたくなるけど。銀河=まひる、セシャーミン=美奈萌。美奈萌を語るのに人のよさなんて言葉で終わらせたくなくってさ、それは、あほらしさとか仕方のない笑いの中でしか真剣に語れない無防備さ、愚かさだ。言葉どおりの無邪気っていうのはまひるよりむしろ美奈萌でさ。ああ、そうだった。美奈萌も自分の行為をわがままだとか思っていて、自分がまひるに何を与えてるかなんて分かっちゃいないんだ。だけど美奈萌にとってそれとこれとは別のことなのだ。ずっとまひるの側にいたと思っていたけど、最後、クラスメートの言葉にそうじゃなかったと気づく。確かに、美奈萌のそれまでの行動を思い返してみると、はたから見て香澄ほど明らかにまひるの側に立つものではなかったと思い知らされる。仲良しグループに入ってくる四人目とか五人目が感じてしまう疎外感、ノリコとカズミに対するユングの気持ちみたいな。だけど、まひるのことがすきだ。だからこそ、美奈萌のおそらく自分でもよく分かってない思いつきは、いい方向に働く。放課後の放送に誘う。ラブホに誘う。香澄ではありえない行き違いの文脈が、いつかまひる自身を変えて、どこかこれまでと違う別の場所で、美奈萌は新しいまひるの、一人目の人になる。
世界に美奈萌が居ることの奇跡を思う。それは、メルンとはまた別の方向から差す光だ。
透 Endってないよね。全て終わってから書けばいいもんだが、奴についてはそんなの待ってらんないだろう。
まひる達の集まりていうのは、屋上的な要素がどろり濃厚だ。例えば、約束なんてしてないけどなんとなく屋上へ行ってみたら必ず誰かいる、っていうことでいつも繰り返し確認される時間と場所を共有する感覚。確認なんてほんとの意味では一度でいいかもしれないけど、相手を信じる、信じないということじゃなくて何度だって確認したくなるのは、その結果よりむしろ確認すること自体が自分の在り処を支えてくれるからだ。たとえば、寂しさなんていうものは、一度きりのなにかでけして癒されるものじゃない。自分を愛してくれる誰かを信じていたって、子供みたいに何度でも求めてしまうものじゃないか。確認しようという思いの前には、屋上にいっても誰もいないかもしれない、っていう危険が仮構されるんだけど、それは屋上の、金網一枚に隔てられた安心とともにある危うさだ。仮想的に危機が用意されて、だけどそれはすぐに回収される予感と一緒にある。まひるは美奈萌との帰り道、ふと立ち止まり、美奈萌が振り向いて自分を探してくれることを確認する。それまで意識されなかった、探す、探してくれる、っていう屋上のかくれんぼごっこが明らかになる。後から屋上に来るようになった美奈萌にしても、高いところが苦手ながらもあえてその場に身を置くあたり、金網で区切られた境界の崖に立つ危うさがぐるり反転して、自分の在り処の確認とか感じさせるのだろう。あるいはそこは、学校と無限の空との間にある果てでもある。危機がそこにある。だけどわたしたちは大丈夫だ。そんなことが何度も何度も確認される。
単なる同族意識の符牒というにはあまりに危うい、火薬まじりの、だけどゲームほど危険でない、信管の取り外された、ごっこ。
あいかわらず言葉にできない屋上の話はともかく。
透のもつ無限の洞察力というのは、そんな特別な符牒の中でこそ保障される。
まだ論文が一本残ってるんで続きは後日だが、ともかくこれはエロゲの20世紀を飾る傑作だろう。ああ、21世紀になってからもう4ヶ月ほど経ったけれど、新世紀なんてものは麻枝准と元長柾木にまかせておいてさ。僕はもうちょっと20世紀を振り返っていたいよ。
自分が誰かからお礼のような素敵な気持ちとか喜びをもらったときに、いったい自分が相手になにをあげたのかわからない、っていうのはわりと広く言われていることだと思うんだけど、まひるを引き合いに出してみた、というところです。
わかるかわからないかという話においては、相手の顔が見えるかどうか、オンライン・オフラインというのは関係ないらしい、ということを、最近思う。素敵です、と感想をいただいたとして、その人と顔をつきあわせて「どのへんが素敵だったの」と聞いてみたところで、綺麗だとか幻想的であるだとか意味をなさないひとことでしか答えられないものだ。知ってる人か知ってない人か、対面非対面に関わらず、なにをもらったのかなんて言葉にするのは困難であって、そうすると言われたほうは自分はなにをあげたのだろうと困ってしまって、じゃあ、わかんないし、いいからこれからもぼくのなんでももっていってください、なにかそれで喜んでもらえるんだったらかまわないです、と思う。肉とか手とか足とかばらばらにして、ぼくの知らないぼくの全部ももらっていってください。あげます。ぼくがさみしさでいっぱいのうちに。
だけど、ひかえめに、僕の歩いた跡とか進む先にあかりを置いていってくれる人もいて、そういうことがあると、僕は切り身を作ったりしなくていいし、ただとてもやすらかになれる。
もしも僕がさみしくなくなったとしたら、もう僕のことをこんなふうにあげたりしません。僕は僕をさみしくなくしてくれた誰かのためにだけ、僕をあげます。
そんなこんなで、今日はとても論文なんて書いてらんない気分。いや、書くけどさ(; 美奈萌ー。美奈萌ー。好きじゃー。あ、治った。さみしくなんかないさ。れっつごー。
と誰かどこかで言ってたように思う。いいんです、だって僕は愛のぶらぶら星人だから。東京夢漂流、大好きさ。
件の論文は終わり。ようやく過去を振り払って新しい研究に取り組めそうだ。
昨日はご心配かけてすみません。誰とはなしに。あまりに心に届く話に出会うとああなってしまう。僕がかくありたいのは、つまりは、アーシアンのWorld's ENDの美幸であって、って前にも書いたけど単行本未収録なんでサウス読者にしか分からないね。そうしてみると、今の僕は多紀に出会わない美幸みたいなものだ、ってことを時々思い出してしまうんです。
そんな「ねがぽじ」から逃走してるモノ、約一名発見。いや、たしかにこんな気持ちのとき二重影は適任だけどさ。先にはじめちゃいますけど、ちゃんと後からきてくださいね、とか、下宿に電話したら、あーあ先輩まだ寝てたよ、みたいな感じで。て、あれは危険なブツだから、僕もいつ続きをやるかわかんない。ところで、イクサー1のえろえろさ加減をどうしても周りのレイアース(これもえろ)世代に広めたいんだけど、どこのレンタル屋にも置いてなくて悲しい。ガルフォースにしても見たのはまだ僕がけがれを知らぬ小学生の頃でさ、引き算というよりむしろそれまで知っていた何かに積み上げで足されたような印象しか受けないわけですよ。新しい器官が開発されてしまったというか。
あ、話は飛ぶけど、僕が話してた量っていうのは経済上のインフレーションとは無縁で、末永も幼なじみを例に挙げてるように、変わらない同じ内容(日常的と呼ばれる何かとか)が繰り返されて回数がふくれあがったとき(過激化したとき)力を持つ、ていう話で、一回にばらまく弾の数は増えないです。満足できなくもならない。真に量たりうるのは、主張せず、ただ語り続けるものなんです。
僕はこの十年近く、つまりは一つのことしか言ってないと信じているからこそ、バラバラ死体になりそうな体をなんとか繋ぎとめておけてるわけなんだけど。でも、ときどき首とかもげてるよね。 ごろり。
下宿に帰ったら、姉から小包が届いていた。アンテノールの紙袋であるから、おそらくは前に送ってくれるといっていたバレンタインデー(2ヶ月前)の何かだろう。開けてみる、やはりチョコだ。だけど、なんかいろいろと入っている。あっ。お誕生日おめでとう。うむ、それは1ヶ月前である。ずっと送ろうと思っていたけど風邪やらオダジョーやらで延ばし延ばしになってしまった、というのが目に浮かぶようだ。それはハードカバー本で、有名だから僕ならすでに持ってるかもしれないと手紙に断ってある。立ち読みして自分でも欲しくなったものらしい。何だ? 紀伊国屋書店のプレゼント用包装を(たまには)丁寧に外してみる。
「カラフル」(森絵都)
ああ、兄弟! どうして僕が森絵都を読むと知ってるんだい。
既読のものは「宇宙のみなしご」と「つきのふね」だったから、ちょうどいい。添えられた手紙の続きみたいに、読み始めた。
・・・読んだ。いや、だからさ、こう、一ヶ月遅れで送られてきたものが、ちょうどこの二三日の僕の日記の文脈に沿っているっていうのはどう考えてもおかしいと思わない?
森絵都のたまらない笑いの感覚に比べれば、僕の言い分なんて、僕がこれほど嫌っている主張とやらに過ぎないと分かる。人生他人事っていうのを。僕らはこの世界にホームステイしている。家族の中で、人生の中で。僕が東京へ来てから前向きに考えてたのは、そういうことなんだよ。アチョー。
もう少し日本語で話そうな。まずは、「ぼく」が天使からもらったぺらぺらの情報だけで真として生きていけちゃうっていういいかげんさ。もちろん、当たり前のように別人みたいだって気づく唱子のような奴がいるんだけど、最後に唱子はそれをひっくり返して、「ぼく」自身の気づきへと見事に繋がってゆく。いいかげんであることがどれほど当たり前のことか。
「この世でもあの世でも、人間も天使もみんなへんで、ふつうなんだ。頭おかしくて、狂ってて、それがふつうなんだよ」
(中略)
「三日にいちどはエッチしたいけど、一週間にいちどは尼寺に入りたくなるの。十日にいちどは新しい服を買って、二十日にいちどはアクセサリーもほしい。牛肉は毎日食べたいし、ほんとは長生きしたいけど、一日おきに死にたくなるの。ひろか、ほんとにへんじゃない?」不安げに念をおすひろかに、
「ぜんぜんふつう。平凡すぎるくらいだよ」
「誰が僕なのか」、誰が、自分なのか。ばらばらな、あるいは「ぼく」の言い方に沿うならカラフルな自分を、他人事のように見つめる。あるいはそれは、
「そんなたいそうなことじゃなくって、あんたはただたんに、飽きっぽいんだよ」
とっかえひっかえ、いろんな色を。他人にしか分からないらしい自分の色を指摘されると、俺をそんな特別に切りとらないでくれ、って「ぼく」でなくたって髪の毛逆立てて怒っちゃう。自分じゃわかんないんだもん。だけど、知ることのできない自分自身というのを、自分のことなんて他人事やんか、えいっ、って切り込んでゆく。唱子はそれをほほえんでおめでとうと言うのだ。
それで、僕はいろんな他人だから、明日にはぜんぜん別人みたいかもしれない。だけど、早乙女くんは言ってくれるのだ。
「でもまあ、いちおう予告はしてくれたわけだし、なんとか長い目で見てやるよ」
さんきゅ。
中学三年でちびでぼくに憧れて美術部入って雷こわくておそらくぼくにだけ強情な唱子が愛しくてたまらんのだけど、そのへんどうよ>末永。 わりとひろかとの間で揺れましたけど。
綺麗に落とそうかと思ったけど、やめた。
powered by JINZO Paint16(上野さん) and SQ Pocket(Qtaさん)
・上記画像
・jornada525 コントラスト・明度最大の状態に最適化した画像(jornada525で見るときはこっち)
ああっ、廃人とかマニアとか言わないでください。僕自身はほんとに気に入ったのしか買ってなくて、それってザウルスとBlueEdgeとjornada525だけなのだ。あとは備品とか借り物とか。
この子、最高にかわいいと思うんだけど、買ってゆく人はあまりいないみたいです。ちなみにjornadaというのは「水も飲まずに砂漠などを丸一日進む旅」の意(ランダムハウス英和辞典より)だから、これは旅人のPDA。
NO.525、名前は"ジャーニー"
256色STN液晶が不人気の理由かなと思うけど、液晶よりもトータルデザインに萌え。絵のほうもJINZO Paintを使えば上の通り描ける。コントラスト・明度最大に設定すると、描いている間とくに目が疲れるということもなかった。
僕の望みはシンプルで、書きかけの文書や発表原稿を、デスクトップPCと手のひらサイズのPCとでやりとりしながら、蛍光ペン入れたり編集したかった。僕は発表のときに使った紙の原稿をすぐどっかに無くしてしまうけれど、彼女はよくやってくれている。
僕が店員さん尋ねたら、なんかメーカーに問い合わせた上で「USBクレイドルでActiveSyncできます」と答えてくれたんだけど、やっぱりできません。そもそも525の場合、ActiveSyncの接続手段にUSBという項目がないのだ。
スペックに関する記事は下のリンクから。548のレビューは参考までに。
jornadaにリビドーをたたきつけてしまった。せいざい遊び倒したので、再び闇へ帰ります。
自分の苦しみというのは自分にだって分からないものである。僕の苦しみなんて君には分からない、なんていう以前にさ。たとえば「あなたの病気は原因不明のものです」なんて医者に真顔で言われた日には、こちらとしては笑みが漏れ出てしまう、じゃあ宇宙から降ってきたとでもいうのかといわんばかりに。一体自分の体にどんな異変が起こっているのか科学的に分からない。こんなことは現代医学では患者数にしてそれぞれ何万人という規模でみられる話である。
自分の体がいかに理解不能で自分の思うままにならないかというのはいわゆる病気に限らん話であって、ぜんぜん大丈夫だと思っていたのに不意に倒れてしまう、自分の疲労に気づかないということがあるだろう。僕にとってこの言い方は不自然で、自分が疲労してるっていうのがいったいどういう状況を指すのか理解できなくて、内臓の痛みや体の疲労には人よりもかなり鈍感であるらしい。おかげで問題など感じぬままにいつの間にか体が動かなくなってて入院、というのを繰り返したわけで、体に聞いてみたところで加減が分からないものだから、昨今は適当に思いついたときに喰う、寝る、遊ぶ、というおそらくは過剰にぐうたらな生活を送っているわけだ。ここしばらくは入院とはご無沙汰している。
患者の会のようなものがあって、保健所あたりからその集いへのお誘いの手紙が来るんだけど、僕の病状というのは他の人に比べると圧倒的に軽いものなんで、あまり興味をもてないでいる。軽さっていうのは病状もあるけど、僕はさっき言ったような痛みを気にしない性質があって、最近は「これは一般的に痛みと呼ばれる症状だろう」という自意識くらいあるけど、別にどうだっていいや、とやっぱり流してしまうものだからなおさら。
また、これには語り手としてのプライドも関わる。だいたい僕の病気に関する話はお話にならないのだ。事件の評価が常に先送りされていて、未だ体験として回収されていない。例えばあれで受験に失敗でもしてようものなら一つの話として回収できただろうけどそうでなかった。それはその後に起こる数多くの失敗へ結びつけられようとするんだけど、そのうちにまた一度二度と入院して状況が変わって因果の糸は見えなくなって、罹病によってなにが起こったかという内省は、いつまでも次への期待として持ち越されてゆく。そういうわけでオチがまだないからこれはどうにもお話として許せない。もちろん、オチなんてつくはずないかもしれんが、こう独りで自分の物語を探してゆく僕の人生の楽しみを奪わないでくれ。
さて、このようにWebで自分の病気のことを語るというのは読み手に対する不意打ちの実弾であって、とくに政治的でない場合においては、病の苦しみは他人に分かりっこないとされるコミュニケーションの困難さをもって読み手にただ心苦しさを与えるものである。ただし、僕の日記を読んでる人には慣れっこのような気もするし、病名を出さないあたりこの文章では控えて書いている。繰り返すが、病の苦しみというものは自分でさえ理解できない部分がある。それでおそらく患者の会というのは、非政治的な部分においては、他人による理解不能よりむしろこの自分のなかの自分でないものへ向き合う場として用意される。
すなわち苦しみは、私を私に閉じこめるということでは私的であっても、私の自由にならないということでは非-私的な他性を帯びるのである。(p.98)
あるいは、
物語を聞くことは、他者のリアリティを証言すること、「具体的な他者」を存立させることなのである。こう考えれば、物語が取り戻させる自己は、「他者としての」自己だといえるかもしれない。(p.90)
(寺戸淳子, 被る人々---宗教の、非暴力の、奇跡のことば, 越境する知(2) 語り:つむぎだす,第3章, 東京大学出版会, 2000)
おはなしの聞き手が同時に語り手でもあることについては何度か書いたような気もするが、「私」が体験的な苦しみを語るとき、聞き手は他人の克服のモデルを自分のものとして受け止め、その行為が「私」の体験がリアルであることを語り返す。語らいの場では語り手は実際にも入れ替わって、語り手は聞き手に聞き手は語り手に変わる。他人に受け止められることによって保証される自分のリアルという言い方は、中心的な自己あるいは主体性をもった自分を否定するものとしてしばしば悪い印象を与えるように思う。しかし、他者として「認識」される自己というのは、中心が常に移動し続けるということであって、これが主体性であると人に感じさせる何かを否定する言い方ではない。
上の引用文は南仏の巡礼地ルルドへの、癌患者が主体となって組織された巡礼団における語りに向けられたものである。病にまつわる「被り」とは、「苦しみという自分自身の理解さえ超えた他性を被る」(p.102)だけでなく、奇跡的な治癒さえも差し出された不意打ちの恩寵の被りとなる。それに対して、癒しという言葉が指す内部的変化にはときどき違和感が感じられて、他人事として降ってきた痛みが自分事として癒されるという描かれ方に物足りなく思うことがある。他人事は、どこまでも他人事なのだ。たとえば、まひるの被ったものは、けして癒されたりなんかしない。
それはそうと、「成恵の世界」第18話はよくまとまっている。最後の、自分の好きな自分になる、ていうのはあまりに中学生らしいスローガンであるにしても。自分なんて他人みたいなもんでさ。
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Qtaさんさんの壁紙機能付きタスクスイッチャSQPocket用 SQ Pocketの下半分に予定表と仕事リストを表示する。
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他のplug-in同様、SQ Pocketと同じフォルダに置いてください。jornada525でのみ動作確認。HandheldPC用SQ上でも動くけど、使い勝手がいいかどうかは分かりません。
練習で作ったものなので、サポートみたいなのはなしです。
SH3(jornada525/548)
MIPS(cassiopeia)
ARM(iPAQ)
しょっぱなから地道に実装するのはあまりに辛気くさく思えてきたので、もう少し簡単に結果のでそうなものを練習で作った。12時間くらい。WindowsCE FANの特集「PocketOutLookデータを参照する」あと、本家QtaさんのSQ Pluginのソースを参考にさせていただいた。
Outlookのデータへのアクセスは、SZABのPIM機能へのアクセス手法と大差ない。初めての人はとまどうだろうし、どちらかを知っていればもう片方はおそらくすぐに分かるという感じだ。色の変更やラインの引き方が分かったので、今後、こういう見た目の部分を作る見通しがついた。あと日付の取り扱いかたとか。しかし、予定の開始日でFindする方法が分からずじまいだった。
どっかで見たような画面になるけど、WallPaper ex.は、SQ Pocketがうらやましくて作ったものなんで、それはそうなのだ。本plug-inが少しでもご本家への貢献となればうれしいと思います。
ほとんどずっとブルマっていうのは悪い感じじゃないんだけど、スカートでぱんちらがないのにむしろ違和感を感じてしまった。にしても、漫画はこう過不足なく盛りだくさんのがいい。感動すら覚える>グレイト・ノスタルジア。で、僕はシェルパーソンというのが好きなんで、ちょっとズレ>歌うバチスカーフ。せりおさんとか妄想するだけで萌える。機族の記憶という話が出てくるんで、むしろマップスなんでしょうけど。鈴ちゃん「メカの他人」にあとから気づいてツボにはまる。
中学生だよ、全員集合ということで、紺碧の國。ミチルというのはチルチルの足手まといにしかみえなくて、その分、チルチルが未確認電波体である「光」さんから受信するコマンドとは無縁でいられたんだけど、ゲルダになる、っていうのは、物語っていう電波の中へ自ら足を突っ込むことですよ、満ちゃん。「雪の女王」がゲルダの話であることから、カイにこれほど注目するのは谷山浩子の「カイの迷宮」(第一回に付けられていたように。)から来てるのだろうし、羽木さんが雪の女王だ、ってしちゃうあたりはもう見事に恋愛漫画になってるんだけど、僕はゲルダに感情移入しこそすれ、カイと女王には取っ掛かりすら持たないんで、ナニワともあれ満ちゃんだけ見れればいい。青い鳥というのがそもそもメタ童話なんで、もう一段、何かありそう。うわ、まて、時雨。亜理子も僕のもんだから取るなったら。
その年上のお兄さんっていうのは、あたしのことを見てくれる視線を持ってて。祈り、見守ってくれる必要ないから、ただその視線をあたしにください。だけど、今日会いにいったら、お兄さんは他の女の子にも同じ視線をくれるのだ。そのときあたしは、それを遠くから見てることしかできなかった。漫画としては男女ひっくりかえるところがいいよね、テンちゃんと紫亜さんとコタローくんは。
最後のだけ、小学生でした。
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どんな試験だったんだろうね。
今月はこれにておしまい。どうもありがとうございました。