曽我日記
(c)曽我 十郎 since2001
脈のない日記。
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VisorBlueEdge with Sphere the PAINTER
おかっぱは良いねぇ。あとロボ娘だし。精神的にというよりむしろ肉体的に。
ガルフォース(ETERNAL STORY)って、もしかして見てない? そんな人には、わりと無理矢理見せにゆくかもしれず。80年代OVA鑑賞会というのは、一度やってみたい。あまり手持ちはないけど。
Edgeのスタイラスは重くて絵を描くには向かないから、jornada525のスタイラスで描いた。jornadaのは一見チープであるが、実は持ちやすい。で、Sphereの拡大機能は倍率がおおきすぎて僕にはちょっと辛い。160x160で描けないのも残念だ。このへんはyappのほうが好きだ。
ただし、グラフィティでコマンド入力できるのが良い。特に左右反転機能はすばらしい。主にバランスチェック用に使うもので、1手順で左右反転できるっていうのはあとざうすけにしかなくて、僕には絶対必要なんだけど、他の人で使ってるって聞かない。あまり左右のバランスを気にしすぎると絵に勢いがなくなるのは確かだけど、バランスと勢いとを比べると、僕は前者をとることが多い。
バランスのおかしさ、っていうのは、PDAを上下さかさまに持って絵を見ても分かる。だけどこの方法だと、どこを直せばいいかまでは分かりにくい。
明日は急きょ関西へゆくことに。夜はNAISTへ。翌朝東京へ帰ってその足でLeaf2000へという予定。あいかわらず馬鹿っぽいスケジューリングである。
あ、今気づいた。なにおぅ。そんなADSLとかInterLinkとかドットi端末とか言ってるひとに言われたくないっす、ていうか、あんたが買うからにはなにか他にも廃人的なウリがあるのだろうか、アステルには。現在H"二年目にして今後どうしようか検討中。
京都駅は屋上からの眺望がガラス張りであるため、屋上ポイントは低い。あそこはむしろ内部のあまりに呪的な空間が心地よい。羅城門を目指した、という時点でかなりキている。船、という形容は駅の東南の操車場を越えた向かいから見ると、まさにその通りです。生研というとこにも一度いかねばなるまいか。
そこでGloranthaが出てくるのはなるほどと思う。僕はあの場所を離れて久しいのだけど。ガンパレのことは語れない、というかあまりに生々しい人工知能のアプリケーションだから、語るのが嫌なのである。語ると醜く自滅するのが目に見えている。
ただ、グレッグの話を聞くと、神(門倉直人)が早々にお隠れになってしまったユルセルームのことに思いを馳せざるを得ない。
プレイヤー自身の持つイメージへの注目、ルールの廃棄(上級ルール)など、振り返ってみれば門倉氏が全てを置いて世界の果てのとばりの向こう側へ去るための装置は、B-Roadsの中に用意されていたと思う。僕がユルセルームを去って京都へ話の舞台を移した理由も、今思えば、いなくなった神様を探しに行ったのだと言い換えられる。
今も、まだ探しているよ。フィクションっていう解けないパズルを僕に残していった神様を。だけど、工学とエロゲの世界の中に探してるって伝え聞いたら、いったい神様はどんな顔をするだろう。
わたしだけのかみさま、とか某女の子みたいに思い入れ深く言ってみたり。
手を動かし始めたら、なんとなく落ち着いてきました。というわけで、今日はちょっと破格の2項目め。
今後どうするか2、3日考えこんでいたけど、これだけずっと考えてた物語っていう話題に触れている限り、すぐに結論なんて出てはこない。手を動かしていればわりと後からついてきそうな感じがしてきた。
文脈はちと違うが、ぴーとさんの「過去はきっとオマエに従う」という言葉は力強くひびく。
そういえば、最近では手をつないでらぶらぶテレポートってなくなりましたか。おじさんは寂しいよ。あ、僕のことを「おっさん」て呼んでいいのは香奈花だけだからね。
カードキャプターさくら第三期を見せてもらう。中将くん責任編集によって、最終回へ繋がる複線を最大限に絞り込んだ話数である。第三期は本来全部見なくてはならないということだったが、次の機会にさせてもらうことにした。
中将くん責任編集によって、最終回へ繋がる複線を最大限に絞り込んだ話数のカードキャプターさくら第三期を見せてもらう。第三期は本来全部見なくてはならないということだったが、次の機会にさせてもらうことにした。
こんな名作をリアルタイム見てなかったていうのはショックで、僕ひとりでアニメを見れなくなったっていうのが、なんとも残念だ。毎週だれかの家に押しかけてさ、そこでアニメを見るっていう状況なら十分に想像できるんだけど。あるいは誰かが見てて、毎週会うたびにその話をしてて、だから次の週も見るっていうのはあると思う。中学生ですかあんたは。
そのくまさん、って言葉がぽろっと自然に出てくるのがあまりに良い。人生残っちゃうくらいすごいメッセージなんだけど、そんな言葉が必要なタイミングで無意識に生まれ出てくるっていう、人にあらざるような美しい状態に人がなってるっていうのが素敵だと思った。局所的にだけどデューンがいいのと一緒だ。
朝までそんな感じでその後新幹線車中泊、そのままLeaf2000参加。SP48Kさんのご一行、あるいはJIMたちと一緒に回る。一番の収穫は痕クウガを描いてた、かたはらいたしさんのパワーアニマルオンリー本を手に入れたことだ。パワーアニマルに萌えとか感じる人が僕以外にいたとは。ていうか僕はガオレンジャーってたまたま一回みただけなんだけど(ガオゴリラ登場の回)、なんかガオライオンって子が必死に頑張ってるのに、最後ガオゴリラってひとに居場所やら賞賛やら全て持ってかれて、すげぇ悲しかった。なのに、ガオライオン自身はなんでもない風でさぁ。いやもうそのへんからいろいろ妄想がつきなかったんだけど。あのアニマルたちの演技はやたら良かった。
うおぉぉぉぉぉ、こちら(4/24)を読んで、プロギアの嵐をとってもやりたくなる。「自分が死んだら相手も死なせてしまう」とか、自爆(による難易度調整)があったりしたらとか、気持ちがリアルに想像できる。ガンフライヤーの構造を見るに、ガンナーの女の子自身は戦闘機のほうに乗ってるくさいんだけど、ギャンブラーって副操縦席なさそうだよ。となるとやっぱZ軸方向に避けてるのだろうか・・・。
ゲームそのものストーリーというより、僕がゲームをするためのストーリーこそ必要なのだ。しかし、このへんでどこへ行ったらできるかね。JIM知らない?
久々に時間を忘れてゲームをした。午前0時になってようやくGUTCHIからの電話で夜になったと気づく。
情報さんきゅ>JIM さっそく明日行くことにする。昼の三時頃までのいつか、店にいると思う。今からまたねがぽじの続きをするんで時間の確証はあんまないけど、アキバ周辺にいたりしたら、よかったら電話ください。
本日一気に終了。
2nd 香澄End.
3rd 香澄Bad.(だがあえて言おう、透End.であると。)
4th 小鈴End.
5th 小鈴・美奈萌Bad.
以前の感想を裏切ることなし。降ってきた不可避の痛みに対して、顔を突きあわせる度にそれを寸劇にでもするしかなくて、笑って、笑わせる。劇中、僕はずっと、腹がよじれるほど笑い転げていた。隣の下宿人を気にしながら、声を押し殺して。
まひるはけして癒されたりなんかしないのだ。大丈夫だって言葉にお腹の痛みはぜんぶ預けて飲み込んで、自分の外部に抜き身の自分を置くことで、消費されるものとすることで、自分を支える。自分の内側に何も置いてきてないから、小鈴に自分のこと聞かれてもなんと答えればいいやら、あたし、話すことなんてなにも持ってないし。人に質問するのは好きだな。外側の世界はとても素敵だ。
美奈萌みたいになーんにも分かってない、まひるの外側の存在っていうのが、いちばん縁のところでまひるを支えてる。誤解は、伝えたいことを違わせるけど、他人の存在を気づかせて、あたしを外の世界へと連れ出すのだ。単なる誤解だっていいからさ、優しくしてほしいときがある。誤解っていう、踏み込まないもの、外にあるものがとてもいとしくなるとき。そのとき自分は外にいて、やっぱり外にいる美奈萌と抱き合って、ああ、あそこにあたしの痛みとか大丈夫とかがあるって遠くから指し示す。その言葉を美奈萌は理解せず、だけどただ静かに聞いていてくれたり、見当違いの返事を返してくれるのだ。
自分の行方なんて簡単にわからない。あした、自分は誰とどこにいるのだろうか。まだ出会ったばかりみたいな美奈萌は、あたしを知らない場所へ連れてゆく。それはいつか昔にもあったことで、香澄や透のときと同じように、新しいいろんなことが、これから幾らでも起こる。
美奈萌がまひるを連れ出す場所は、おそらくそんな、なにが起こるかわからない場所で、そこではまた香澄や透みたいな奴がいるかもしれないし、いないかもしれないし、もう笑ってしまうしかないようなむちゃくちゃな事件がまた起こって、どうしようかって二人で頭を悩まして、ああ、あれがあたしたちの大丈夫とか痛みとかだよ、って二人指差して笑って、抱き合って、あっちは桜が綺麗だよ、海辺の公園がいいよ、って日曜日のデート場所でも選ぶみたいに、また次の場所へ歩いてく。いつだって、どこへいったって、二人で指差して、笑って、迷ってるみたいだけど、これは足の向くまま、気の向くままの散歩なんだっていってられる。
性別、羽、まるで外からやってくる異物たちを、まひるはとりあえず、横においとくことができる。いや、正確にはまひるの方がそれに場所を明け渡して横へどいちゃうんだけど。なぐさめる、っていうのは、痛みが相手の中になきゃしょうがない。だけど、自分がよく知っていると自負するところの、相手の心の内に問題があってそれを解決する、っていう方法を当てはめようがないもんだから、香澄はただ自分の思いのたけをぶつけてゆくしかないし、透は命がけで戦い、あるいはあの独特の笑いでまひるを送りだすしかない。まるで自己満足みたいだでくやしいんだけどさ。なんかね、誰かを近くで愛しすぎるほどに、その人の外部に存在する被りに対しては手の出しようがなくて、愛情のインフレーションを起こすしかなくて、もう、ずっと一緒に歩いてゆくことができなくなってしまう。香澄End.の最後は悲しすぎやしませんか。
小鈴にしたみたいに、まひるがわがままだったら何の問題もないんです。いや、だけどね、やっぱり美奈萌にしたように入れても最後までやんないんだけどさ。あ、あとえっちに向けられた自意識が過剰だ。ベッドがいいんです!!最初はお布団の上がいいんですっ!! で、ベッド作るとこから始まる、そんな風に泥縄で。わざわざ指の形が違うような状況で起こる、どこか間の悪い。つい好奇心で木馬に乗っちゃう、馬鹿らしさ。まじめなんだけどどうにも滑稽なところが、これって特別のことなんだって匂いをぷんぷんと漂わせる。そうやって注意を喚起させられた僕の気持ちは、まひるが小鈴や美奈萌に最後までしなかったていう、三人の女の子のうち二人がそれっていうあまりにくどいまひるの性格へのこだわりに対して実を結ぶ。
正直、香澄End.の文章は何描いてるんだかわかんないんだけど、そんなことどうだっていいというくらいに、このワラいに満ちた寸劇の積み重ねがいい。
思い出せば、透のワラい顔の裏にまひるが永遠に張り付いてる。
いや、5分で描いた絵を載せ続けるのはどうかと思ったので、ひっこめました。
で、絵とは関係なくともあれプロギアである。JIMに教わった秋葉原のTRYへゆく。にぎやかなゲーセンというのに久々に入ったような気がするよ。とても懐かしい香りが。
飛べ、エトピリカ、といわんばかりの世界に反して、とてつもない弾幕だった。ケイブなのか。当面の目標を三面クリアとしてしばらく遊ぶが、最後には集中力が切れて白鯨さえも倒せなくなった。気分転換にお買い物。ついでにCLUB SEGAというところにも入ってみる。あ、シューテングいっぱい。レイフォースやガンバード2に浮気しつつ、再度プロギア。ボルトとネイルのペアが調子がいい。他の人のを見ててもよく使われている。あれ、やっぱ白鯨に勝てん。弾が見えなくなってきた。このゲームはどうやら爆風で弾を消せるようなのだが、仕掛けがいまいち分からない。というわけで、久々にゲーメストもといアルカディアを買う。あ、攻略第二回目。ルールは第一回目のほうだろうなぁ。バックナンバー探す。ない。こんなマイナー誌のがあってたまるか。と、思ってたが、最後に寄った書泉で発見。書泉万歳、秋葉原万世。ぱらぱらと読む。ルールはややこしいが、知らなくてもできる類のものだった。ポケットに100円玉が一枚残っていたので再度TRYでチャレンジ。やっぱだめか。そもそもジュエリングが必要な場所でもあるまい。まだそんなに難しくない弾避けのはずなのだが。もっと疲れてないときに来ようと思ったが、ゲーセンに行きたくなるようなときは疲れているに決まっている。がっくり。なお、そのあといつのまにかポケットの中の100円玉が10枚増えていたような気もするが、多くは語るまい。
『一度、子供ばかりのグループが、
死ぬような思いで勝利を掴み取る話しが作りたかったんです。』
とはデザイナーの井上氏のことば。ごめんなさい。死屍累々だ。
ボルトの声がいいよね。とくに笑い声。あ、戦闘機はどちらも複座でした。にしてはコックピット狭いのもネタのうちだった(広告漫画参照)。今日は日記らしい日記。
服はボツ案から。もうちょっと淡色で描きたいのだが。65536色で透明水彩やアクリルの真似はできないものだろうか。鉛筆という選択は、とてもよく考えられている。
「泣きそうな切ない表情」がチェーンのポイント、なんてさらりとキャラ表に書いてあるけど、そんなのまねできません。キャラクターデザイナーという人は、言葉のイメージと絵とが一致している。
(井上氏の描く)チェーンの表情は複雑でとてもよい。それに傷跡だらけの顔なんて、僕が描いてもカッコつかない。痛々しいの描くのは好きなんだけれど。
アウトドア・イメージ・ナビゲーターのページ参照。
画像検索技術とヤマハ発動機にどういう繋がりがあるのかと思ったら、トップページとか見て分かった。
伊豆箱根の写真4000枚の中を、類似する風景をしりとりのようにたどってゆける。たとえば写真から三次元の風景を組み立てる技術は少なくなかったと思うが、道案内の風景と誘い込まれるような風景とはやりかたが違う。リアリスティックとアーティスティックというのはよく比べられることだけど。まずは、4000枚というのはこれまでなかったはずだ。その多くを占めていて、また観光案内と違う部分は、「行く手」の写真が多いことである。どこかへ続いてゆく静かな道が、9x9のマトリクスで広がってゆく。えらいのは、全ての写真にコメントがついていることだ。一行程度のものだけれど、温かみがあっていい。道の画像から検索して道がヒットするのは、画像検索としてただまっとうな結果に過ぎないのだけれど、うまく使えば、それが旅を経験させたりするというのが凄いではないか。
さらにストーリーをかぶせれば、風雨来記になるわけで。
縁というのは、文字通り二人で縁側にでも座っていることに似ていて、二人とも正面向いてお互いのこと見てないんだけど、一緒にいる。ちなみに、横並びで座ってお互いの顔を見つめ合っているような状況は、いわゆる恋人同士というやつで全くあてられてしまう。鴨川へ行け。
高校1年のとき、よくYとGとの三人で行動していたんだけど、Yと僕とは遊び仲間でYとGとはサークル仲間だった。ただ、Gと僕とはYを真ん中にして左と右に座っているだけで、お互い口をきくことはほとんどなかった。嫌いだったわけじゃないけれど、なんとはなしに、話すことがなかった。Gと付き合いがあった、という気は今でもしない。
中学一年のときの前後の席というのがわりと重要らしいというのは、漫画やドラマからの後知恵であるけど、僕もご多分にもれず前の席の奴と一緒になっていた。中高が一緒で6年ともなると結構な付き合いになるし僕は彼には助けてもらいっぱなしだったのだけど、今はむしろ中高の時はあまり付き合いのなかった奴とつるんでいる。気心の知れた仲間内というのがあって、そこに後からぽっと入ってくる人がいる。はじめは視界の縁くらいにしかいなかったその人と、いつの間にか一番仲良くなっていたということはわりとあるんじゃないか。
半ば連れ去られたいという思いがある。自分の世界の境界に立つ自分のこと知らない人と一緒にいるようにしていると、いつの間にか自分が別の国へ来ていることに気づく。昔いた国の人の記憶は少しずつ薄れ。そしてまた、目は自然とその別の国の端っこにある別の国境線を見てしまう。Yというのもそれまで僕の縁に立っていた男で、だけど、僕はその年の間は彼とべったりだった。Gを拒否し続けたのは、そんな境界上に立ち続けていたかったからかもしれない。そのまま彼の国を自分の国にしちゃうと、また別の国境を探さなくちゃならない。自分の国の中心を見るよりは、辺境に住む他人と話をしているほうが楽しくて。
彼とは一緒に行かなかった。
境に立つのは、鬼さん、異人さん。相手のことを理解せず、ただ国境線に立つ、っていうのは、相手を別の国へと連れ去る力を持っていると思う。長森にしても、やよいにしても、美奈萌にしても。美奈萌はまさにまひるを連れ去ろうとしていて、そのときの香澄の気持ちを想像してみるといい。い〜じんさんにつ〜れられ〜て・・・と歌いたくなるに違いない。
いつだって、誰か僕のことを知らない人が連れ去ろうとしている。僕が時間の長さの強さをいうのは永遠を言うんじゃなくて、時が移り変わるなかで、5年で築かれたものが、別の5年によってのみ越えられてゆくということだ。あるいは、10年というのが特に強いわけではない。それを越えてゆく別の10年が存在するということこそが強いのだ。たぶん、その新しい10年のはじまりには、国境線に立つ誰かがいて、知らず僕の視界に入っている。
誰かと一緒の国に住むためには、相手を連れ去られないための国境警備が必要だ。あるいは、自分自身が国境に立ち続けるか。ずっと一緒にいて相手のことを理解しないっていうのは、理解するよりもよほど難しい。美奈萌というのは長森ほど相手と一緒にいるわけではないんだけど、ただ理解しない点において、長森よりもやる気満々にまひるのことを理解してなくて、独り相撲をとっているのがいい。
コミュニケーションにおいて重要なのは「通じ合える」「わかりあえる」ことではなく、「続けるかどうか」(打ち切るかどうか)ではないかと思います。
ああ、そんなあえて書かなかったことを・・・。いや、まったくその通りなんだけど、おおっぴらに書きにくい、というやつ。ただ、理解しない、ということはもっと積極的な意味を持つと思う。コミュニケーションを続けるための方法は、結果として相手を理解しないことであって、そんな矛盾や誤解に満ちた回転力の働く状況というのが、旅の道連れというもんだろう。美奈萌ラヴ。
トルクの喪失こそが、香澄や透のように極まった状況を生み出したのと比べれば。あれはちょっと露骨すぎるかもしれない。
それはそうと「そしてキミに会いに行く」の話。あの文章が雪駄さんに読まれていたというのは衝撃でした。赤面するようなラブコールだっただけに。
PrismPaintの話を少し。
ザウルス用、カラーお絵かきツールの開発は、動機がないのと技術がないのとで全然進まんかったんだけど、このたび両方解決したんでリリースとなった。PrismPaintという名前の由来については、PrismPaintを起動して、Prismボタンを押してもらえば分かると思う。この名前はもともとsugichさんの連想どおりVisorPrism用だったんだけど、VisorPrismの液晶がイマイチだったのでそちらは断念して、こっちで使うことにした。
技術的解決というのは、16bitペイントの場合、一度に扱う数値がたかだか6bit程度であると気づいたので、割り算を全部テーブルに書いた。動機というのは、単に「プロギアの嵐」の絵を描きたくて仕方がなかったというそれだけである。そういうパッションがないと、とてもじゃないけど作れない。
世の中のPDA用カラーお絵かきソフトの需要がどうかは知らなくて、僕がソフトを作る理由はそこにはない。シェアウェアにするならもうちょっと考えるだろうけどね。
しばらくカラーはPainterで描こうと思ってたんだけど、PDAの画面直描きに慣れてしまったので、久々のタブレットにはどうも違和感があった。やっぱりPDAのほうに戻ってきてしまいました。
僕がザウ絵を描き始めた1998年といえば、カラーではこのへんの絵を描いてたころだ。塗りとか線の雰囲気が今と変わんないね、平面的なイコンだし、にはは。で、こういうのは主線取り込みじゃなくて色から形をつくってゆく感じで描いてた。小学校のころ、風景画好きでさ。でも人物なんてまるで描けない。そこから始まってたもんだから、線画のザウ絵をはじめて描いたときには、画面直描きは楽しいながらも全然うまく描けんなーと思ったものだった。たとえばこのへん。関係ないけど日記に☆が飛んでますな。摩由璃さんのアレの真似やね。
白黒よりもカラーのほうが楽に描けるって人はいくらでもいるだろうし、そういう人もPDAでお絵かきできるっていうのはいいんじゃないかな。僕はといえば、キャラクター絵をうまく描きたくって、あえてエッジの強調される白黒に移ったのだったけど、エッジで描くっていうのはかなり難しくて、カラーと白黒とどちらが簡単か、手軽か、っていうのは一概に言えない。白黒がカラーにバージョンアップするわけじゃない。それぞれ別に生まれてくるものだ。
ああもう徒然と。人物あるいはキャラクターが描けないっていうのは小学生にしてすでに僕のコンプレックスだったのだけど、友達にこれがめっぽう上手い奴がいて、張り合っているうちに描きはじめるようになってた。あと、このページを見ているような人はTRPGのキャラシートが絵を描くきっかけになるといってわりと分かるんじゃないかと思う。中学のころの僕らはみんなそれで絵を描いてた。中高生というのは相手の絵の巧拙を言うのに容赦なくて、平気であそこが変だとかどうとか言うんだけど、自分のキャラシートっていうのは他人との共同制作でもなんでもなくあくまで自分のものなんで、自分の好きにしてもええやんけ、という意識が働くのか、みななんと言われようがへこたれない。強いぞ中高生。好きに描いてた。鳥の好きな男がいて、その延長で彼はダックばかりやっていた。キャラ絵はもちろんアヒルである。アヒルばかり描いていた。僕はというとやはり線画は苦手で、色塗ってばかりいた。数値記入欄以外は全て色が塗られていたカラフルなシートだ。絵だけじゃなくてみんなキャラシートは手書きなんで、どこになんの数値があるのやら好き放題、他人が見ても読めないというそんな感じ。それは自分の分身であって、それは外へ主張するものではなく、ただ自分にとって一番近くにいてほしいとかそんなもので、自分の好きに作るっていうのは表現というよりむしろ、自分のためのパートナーを作ることだ。そういう意味において、他人がどう思うかなんてことは全くどうだっていいことだ。