曽我日記
(c)曽我 十郎 since2001
脈のない日記。
[index ][firewire] antenna[sunoko][tenohira]朝の淡い日差しの中、少し眠いままに自転車を走らせていると、春を歌うような声の子供たちを追い越した。目が覚めた後の街はそんな風に色鮮やかだろうって、僕は他人事のように思い出す。
風を受けて団子坂を下りはじめた。僕の胸ポケットには石ころが一つ入っていて、自転車の勢いがついた拍子に、ぽん、とはねた。その石ころは桜石といって、月初めに根津神社の境台で拾った緑色の石だ。ちょうど桜餅くらいの大きさで、色も同じようなものだと思ってくれていい。ただし、桜色の餠はなくて、その代わりに落雁のように白く粉っぽい内側が、緑の外皮からところどころむき出しになっている。
四月の僕は桜石のことばかり考えていて、誰かに会うと必ずその話をした。だから坂を降りてすぐ右手にあるミスドでも、レジのお姉さんに「これ、ドーナツにしてよ、」と緑色の石を取り出して言う。「当店ではそういったご注文はお受けできません」山中の民宿で釣った鮎を料理してもらうのとは違う。どうやらまだ半分頭が寝ている。「あ、それじゃコーヒー一杯ください」こんな風に僕が妙なことをしない限りは、その桜石はなんの変哲もないただの石だった。ドーナツ屋に入ったついでに、石の粉っぽくて甘そうなところを舐めてみたけれど、やはり砂の味しかしなかった。
カフェインで目を覚ました僕は、また仕事場へ向かってペダルを漕ぎ始めるのだけど、そうするとすぐさま額を汗がつたった。まだ肌寒い日々の間に、ときどきこう馬鹿みたいに暑く感じられる日があって、そんなとき桜石のひんやりとした表面に触れていると、僕はさわやかな気分で今日の仕事に取りかかろうという気分になれるのだ。
・・・なれるもんか。まだ時間があるので涼しい場所へ寄り道してゆくことにした。西日暮里へ向かう途中、不忍通から少し脇に入った斜面に須藤公園という木陰の多い水場がある。僕は桜石と名づけたそのありがちな石に、なにか別の正体があるってことをどうしてだか確かめたくって、ここで何度か実験を行っていた。たとえば、ジャングルジムの真ん中に桜石を置いて、僕は遠くに隠れてそれを見ている。しばらくすると石はくるくると回りだし、溶けて消えて桜の葉の香りだけを残す、そんなことがあると全く面白いのだけど、実際には何も起こらなくて、僕以外には猫さえも興味を示さない。あるいは、日の当たるべンチの上で焼いたり、水道の水をずっとかけ続けてみたりしたけれど、科学的な変化が起こったようには見えなかった。変わったとしたら、公園にやってくる偏屈そうなおっちゃんから隠れたり、おばちゃんの好奇の視線を逃れようとしたりして浮き足立つ僕が、どうにも変な人になってしまったことだけだ。
ふと、公園の真ん中にある池が目にとまった。もしも、あそこへほうり棄てたりしたら、こいつもあわててその正体を顕すんじゃないだろうか。僕は桜石を、子供がするみたいに勢いよく池に投げた。それはやっぱり普通の石みたいに大きく水をはね上げてから沈んでいった。にごった池の底に緑色の石が届くのを想像した。石はそこで座りが悪そうにごろりと一度ころがって、まわりの泥をかき混ぜる。石が動くっていうのはそのくらいなんでもないことであって、もしかするとあんなどこにでもありそうな石にこそ、いつか手や足が生えてきて、亀にでもなって動きだすのではないか。川の流れ込まない池の亀というのは一体どこからやってきたのかいつも謎だったけれど、そんなふうになんとなく生まれてくるのではないだろうか。池の側に立つお社に勝手な伝説めいたものをつけ加えてから、僕は再び自転車にまたがった。
文京区根津神社というのは躑躅の名所で、五月の連休にはいつになく賑わいを見せて華やぐ。だけど、桜の季節、いつも通りの人のまばらな四月には、ごくあたり前のような石が落ちていて、僕がするみたいにたいして意味のないその場の流れにすぎない事情によって、どこかの池に一つ、生命を誕生させたりしているかもしれない。過ぎさった四月をそんな風に振り返りながら、あいかわらずの暑がりである五月の僕は、もう夏気分の日差しに辟易して、手をかざし、太陽に住むという烏を射落としてやりたいとか考えている。ああ、生命の尊さなんて知ったこっちゃない。だけど、生きることも死ぬことも全く季節の気まぐれでなく、せめて僕の手のひらで包みこめるほどの、ぬくもりを通して感じていたい。
本当に周りは鬱ばかりなので、ここのところの暑さやら湿気やらはどうかしているのだろう。うちではおととい扇風機の首根っこひっつかんで押し入れから引っ張り出したところで、独りで何か考えてたりすると、僕のからだじゅうすっかり夏影でいっぱいだ。夕方になると向こうのほうに美奈萌が立ってるのが見えるんだけど、いくら歩いてもそこへたどり着けないとかわりとそんな感じで、まひるでありたいというよりはむしろ、美奈萌にいてほしい。他人事みたいに感情がついてゆかないままにホテルへ連れてかれて、駅前で別れる頃には、愛しさや感謝でなく、ただ美奈萌という人間についてなにか言葉にならない叫び声をあげて泣きたい。
SP48Kさんからお誘いがあったのに乗っからせてもらって、ざうすけのオフ会をやります。他の人がざうすけ(というか特にPrismPaintかも)でどうやって絵を描いてるのか観たいっす、とか主にそんな助平ごころ満載です。ざうすけ関連のアレでソレな絵描きさんは、どうぞ遊びに来てやってください。6/2(土)の予定です。
打ち合わせ用の掲示板はこちら(提供:SP48Kさん)
えらそうに告知してますが、幹事もSP48Kさんにやって頂いております。SP48Kさんには何から何までお世話になってしまって、感謝の言葉が尽きません。どうも有り難うございます。
人と会う機会っていうのはどえらく増えたんだけど。
理系の人と会うのはとても緊張する。だって僕、文系だし。
文系の人と会うのはとても緊張する。だって僕、理系だし。
理系の人はこわいです。僕は論理ってわかんないし。
文系の人はこわいです。いや、だから僕、論理とか弱いから。
ああ、うん。
こわくないのは、僕は文系だからとかあたしは理系だからとか
自分でことさらに主張する人たちです。
ほら、こわくない。だって僕、
足を伸ばして地面に座れる、っていうのはあこがれる。僕は体かたいんでできないから。女の子はたいてい出来るって聞いたけど、どうなんでしょう。
このめりはりのない天野のボディーラインをひくのに愛を込めまくったので、いったん崩して色を塗りはじめるのにだいぶ勇気が必要だった。PrismPaint 三作目。
TOKさんがPrismPaintをQVGA機種へ移植してくださいました。PetitPaintという名前で公開されています。ROVECATさんの日記に、PetitPaintで描いた日本画風の素敵なイラストが。
え、いや、もう嫁入り後だからオッケーさ。
およめさんと妻とは違うから、オッケーさ。ドキドキ感とか。
およめさんというのはちんまくて(not 幼妻)、時を問わず新婚さんで、手が触れあうと紅くなり、朱が交わると痛くなる、とかそんな感じ。眠い頭なのでわけわからんちー。おやすみなさい。
ええと今週から一週間ほど出張。またとない機会なので、ちっちゃい頃に一度会ったっきりのお兄ちゃんに会ってくる。なんというか、シャイな印象がおぼろげに残っているだけで、コピー誌に文章書いてますんでよろしければどうぞ、とか、ポツンと。僕はというと緊張しまくりで、末永のことばかり話してしまった。会話になってねぇ。今度のは無理矢理押しかけるという感じで迷惑っぽい。あと、突然思い当たったけれど、松永さん(美学専攻)って顔見知りだったんじゃないのか、お兄ちゃんは。はわわ。
ええと、能力を磨く努力ていうのは最近した気がしない。した気がするかしないかは、いかに負荷を感じたかだと思うんで、学部生のころは無理して本を読んだ記憶があるけれど、このところは無理してなにかした記憶がない。で、無理をしたといっても、何かひとつの話を深めるというのは苦手で、新しいことをはじめようってときにだけ無理をしてきたので、なんだ、そもそも増えはするけど磨いてなんかないじゃない。
幅を広げることは芸の面白みのひとつであるが、深みというのは多かれ少なかれもっと垂直方向に語られないだろうか。例えば観察であるとか、あるジャンルにおいて別ジャンルで得た知見を利用することはむしろ横方向へ量的に変化してるっぽいんだけど。それを螺旋形に深まる質的な変化というには、どうにも飛躍があるように感じられる。有りうるとしたらそんなかっこいい言い方でなく、狭い穴に量を詰め込んだら仕方なく下へ下へと埋まってゆく、というのが僕のイメージだ。仕方なく、っていうあたりがあまり創発的じゃない。
ええと、早まらないように。中国四大「小説」と言われるのは、紅楼夢のほうであってる。
なんか急にさみしくなってしまった。あ、今、松江にいるんだけど、独りで飯喰って、ちっちゃなホテルの部屋にいたりすると。電話しても誰も出ないし。いつも必ず話をしてくれるお兄ちゃんも(僕には12人のお兄ちゃんがいる)、今日は夜から予定が入ってて、三分しかはなせなかった。しくしくしくしく。で、あまりに寂しいので、発表原稿にLOVEって三回書いてみた。内緒話は愛だ、とか、そもそも会話とは愛なのだ、とかだいたいそういう方向で。
「きっと今の僕、鏡に映せば、空気のぬけた風船みたい。」
英語発表終わり。ようやく母国語タイムの始まりである。
jornada525を使い始めて一月ほどになる。彼女には研究関係の作業で想像以上に助けられた。TypeIIのCFカードが使えるもんだから、microdriveにシステムソフトのリーダース英和辞典Pocketを入れてるんだけど、これが英語論文読むのに便利だ。シャーペンで書き込みながら論文読むんだけど、辞書をひくときもシャーペンから手を離さなくて済むのだ。画面のタップはシャーペンの先でできるからね。あと出張先にあの分厚いリーダースを持ってゆく気にはなれんのだけど、jornada525ならポケットに入るし。日本語で逆引きもできるので、和英辞書がわりにもなる。この機能もかなり使えた。和英は紙の重いやつ持って来ちゃったんだけど、意味無かった。今度からやめよ。買って以来、英語と日本語の発表が一回ずつあって、発表で話す内容をPocketWordで推敲した。蛍光ペンや文字色変更があってチェックしやすいし、もちろんどこででもできる。あとあのTPOを選ばないスマートなデザイン最高。カバーを付けた形で店頭展示したらいいのにね。
少なくともPDAおたくな人は買ってないみたいで、一般にもあまり売れてないんじゃないかと心配してたんだけど、P-in compact使ってメール読みやらWebブラウズできる小さくて安くて可愛いPDAとして、シグマリオン的にかなり売れているらしい。よかった、よかった。液晶は256STNだけど全然気にならないっすよ、とアイクルーズスキーな夏町も言ってました。デザイン込みで超萌え。だけどお絵描きはアイクルーズでどうぞ、とか。ゲームはできない。えここdeふぁいとの画面おかしくなる。この256色ってIndexカラーなのか?
松江城のお堀を舟で巡ることができる。80人いる船頭さんの中でただひとり歌う船頭さんがいて、松江ゆかりの歌から、替え歌、はては自作の歌まで披露してくれる。歌う船というのは特別だと思っていたけれど、歌う舟というのはこうも違和感のないものだったか。
途中で乗り換えた舟の船頭さんは、わりと期待されるような博識というふうの船頭さんだ。堀川には山口のほうからやってきたつがいの白鳥がいる。だけど、雄だか雌だか分からないけれど一方はもう死んでしまって、白鳥は今は独りでいる。独りになってから、白鳥は人なつっこくなったという。舟が近づくと縁によってくる。船頭さんが手招きすると、つぅ、と手のほうへ来るのだ。やっぱりさみしいんでしょうかねぇ、なんて船頭さんが言うから、またさみしい病がぶり返してきた。
ところで、ちと前の土曜ワイド劇場を誰か見ていないだろうか。藤田まことが刑事のやつ。この堀川めぐりの船頭さんが、安来節の名手だった女性の悲運を語っていた。
藤田まことの背中はとてもよい。
あたりはうろ覚えで、えらい長い話やなーとか東京はこわいところだにゃーとか幼心に思った。あとちょうどやおいを読み始めたくらいの頃だったので、ちょっとどきどきしたとか。なんにしても、名付けられる側でない、名付ける側のまなざしはそこになかったと思う。いや、ふと思い出しただけ。
言い続けた者が勝つということはあるのだけれど、この言い続けるというのがなかなか大変で、僕は姉のことを「ねえさま」と呼ぶのを、三日で断念した。相手を名付けて自分を規定するというのは全人格をかけた勝負であって、僕が相川真一郎に対して唯一許せないことがあるとすれば、いづみが「真一郎様」と呼び続けようとするのを真一郎がばっさり切り捨ててしまうところである。おまえ何様だとか思ったし、凄く落胆した。全うさせてやれよな。この無念さは他にない。
なりたーいーものにーなーるよねー。乙女のポリシーなんて嘘っぱちである。だけど、ときどき、言い続けることで乙女になる子もいる。お兄ちゃんとか乙女とか言い続けることがいかに不自然であれ、その言葉が指すものは時とともに周りへなじんでゆく。あまりにばっさり切り捨てることは、短絡であるだろう。
意訳すると、ぼくのおよめさんだよー、えへへへへー、とかそんな感じ。一生やってなさい。神楽は凄かった。
「え、なんて?」「いや、なにも」「わけわかんねえよ」「左様ですか」
上の台詞をだいたい10状態くらいのオートマトンで出力(数字は適当)すると、会話はだいたい再現できるだろう。俺、耳わるすぎ。人の話聞く注意力がない。ごめんなさい。あと、去り際が格好良すぎだよアンタ。背中に惚れました。
「宇宙の法則 世界の基本」(太田虎一郎)。単行本になっちまったよ。ちゃんと博多娘も出てきます>末永
風邪をひいた。
恋では鼻は垂れまい。
今日は官営電波研究所でちりちりと過ごした。
だいたい星というのは、蛍石の産地やら理科の実験やらでぽっと生まれてきてしまうものだから、人工の星といえば、それよりもっと製作者の自負を感じ取れるような、不揮発性の、機械やコードで組み立てられた衛星のことを思う。
それは、人工星実験国内初成功、といういかにも僕好みのタイトルだったけれど、字面の華々しさに比してポスターはたったの一枚である。模型などもないから、いかにも胡散臭い。そもそも、実験、というあたりが怪しい響きをもっている。ようするに、「人工」と「星」(衛星、ではない)と「実験」という不自然な組み合わせがどこか空想科学的な匂いを漂わせるのだが。
ああ、なるほど。一種の投影機なのだ。高出力レーザーで夜空を撃ち、擬似星を映し出す。プラネタリウムのドームスクリーンではない、ほんとうの夜空へ、だ。観測目標である星の近くに投影したこの人工星を基準にして、大気による観測誤差の修正を行うのだそうだ。実験の成功とは、この人工星の光が本物の星と同様の観測歪みを見せたということである。いや、すまん。専門ではないのでこの辺は怪しいから、水姫あたりからはもっとマシなコメントを得ることが出来そうである。
地上に立つ人として、明け方に空を走る人工衛星の光に感じる憧れは、星に対するそれとは違う、飛翔感のようなものなのだけど、この人工星は、星の光をそのまま手のひらに収めたいというような、まさに、人工星実験国内初成功、なんて書いてみたくなるような、地に足のつかないロマンを含んでいるだろう。
落選。天野本は美汐Festivalまで先送り。
復活させた。懸念は技術的に解決したため。正規表現万歳。
Artificial Starというよりも括弧書きのLaser Guide Starのほうがニュアンスが伝わるだろうか。語感としてはどちらも捨てがたい。
せっかくだから、人工星の話をもう少し詳しく聞いてきた。目的は概ね前に書いたとおり、地上の望遠鏡が捉える星の像の、大気揺らぎを修正することである。そのために、観測目標の星の近くに人工星を投影し、この人工星の像のゆらぎを参照することによって目標の像を正しく修正する。具体的手法としては、Nd::YAGレ一ザー(ネオジム、イットリウムアルミニウムガーネット。固体レーザーの代表的なものらしい)で15km先の上層大気を照射し、そこに投影される光を参照光とする、とか。華々しい新技術というよりむしろ、実現のためのノウハウの集成である。望遠鏡の光軸に沿うような形でレーザーが照射されるので、望遠鏡システムとの融合が難しいそうだ。国内初、というのは米国では幾つも成功例があるが、今回のは国内の独自技術であり、またそのノウハウを培ったというもの。ちなみに、この人工星を使って星の像を正しく修正できるのかどうかは、また今後の課題ということである。
で、やたら熱心に聞くものだから、天文関係者かと思われてしまった。申し訳ない、僕はお向かいのブースに居るしがない人工知能屋さんです。マルチとか売ってます。マルチ商法というといかがわしいが、人知というのはどうにもいかがわしさと背中合わせでして。もうどこまでが嘘でどこまでが本当やら。
日時がぶつかっちゃいましたな。まぁ、別のコミュニティですかね、やっぱり。
マクロデザイン出版局も落ちました。夏のエロゲー批評はありません。有終の美は飾れず・・・冬はあるのか?
ものごとには手順というものが。基本的に私のほうはwelcomeですが。