contextless red

(c)曽我 十郎 since2001

文脈のない日記。

[index] antenna[sunoko][tenohira]

contextless red:最新 2001 [4月]
1801 [3月][4月] 最終日記彼女(2000/4-2001/3)

クリスマスの膝はどうしてこんなに温かいんだろう。
クリスマスの胸はどうしてこんなにやわらかいんだろう。
クリスマスの声はどうしてこんなにやさしいんだろう。
クリスマスに抱かれる夢を見ながら、眠りたい。(1801/3/14)

クリスの体はやわらかいにゃー。
クリスマスのむねをさわさわさわさわさわ。ああ、いいから僕の至福の時間をじゃましないでくれないか。
これが噂のれてぃしあでしゅか。かんべんしてくれ。アヴァロンの霧で、転生を信じられないなんてどうかしてる、みたいな発言があって、論理は分かるけど実感わかなかったんですが、ようやくわかりました。この世界のどこかにれてぃしあはいるんだよ。それが信じられないなんてどうかしてる。僕はきっと転生ものが嫌いなわけではありません。sense offみたいに転生ものでないものが転生ものとして扱われてしまうときに働いている人間のものの考え方が嫌いなだけです。(1801/3/15)

クリスマスのむねーむねー、むねーやわらかーい
妄想でもしないと夜も眠れやしない。この際クリスマスの代わりに抱いて寝るのはミスドの一つ前のグッズであるところのクッションなわけですが、いやクッションって使いはじめはむちゃくちゃ肌触りがいいじゃないですか。でも、使ってるうちにだんだんぺしゃんこの冷たいおせんべいになって悲しいです。ですが、そんなこともあろうかとソガはクッション二つ分のドーナツを食べていたわけです。そんなわけで、しばらくは安心です。ああ、ミスドのシナモンロールは茜なら食べておくべきだろう。甘い。とても甘い。
長森だって浩平の思想信条内面事情など理解する必要を認めずただ実際の言動に対してのみコメント/リアクションするではないか。ああ、猫飼ってるからか。
僕はあまり長森の言葉を覚えてないんだけど、そういう話を聞くとむしろ鞠乃さーん、鞠乃さーん、鞠乃さーん。鞠乃は素で猫に血縁関係感じてしまうような子で、それは自己の投影とかそういう意味の上に成り立たなくていい。僕は誰かに電話してもあーとかうーとかうなってるだけで幸せな人なので、ふつうの相手には迷惑だけど、姉弟相部屋の空気というのはそんな感じだったのだ。自分とか相手の体のならす音が空気を震わせてさ、伝わってくることのきもち良さってなんであまり語られないのかね。人の声聞いてると安心するってわりと言われるかもしれんけど、人の肌のぬくもりを感じるだけで心が安らぐっていうのとは同じ意味に使われなくて、僕はどちらも一緒だと思うんだけど。たとえば、これなら思い当たる人がいるだろう。どうしても電話を切りたくなくってさ、あーとかうーとか言って、時間をのばすのだ。触れていた肌を引き離すくらいに、せつなくはならないかね。あと、ドラマCDを聞いてると、人間の声にほんとうどきどきする。人間にかぎらなく、猫とか他の存在でもよくて、鞠乃がさ、猫のおねえさんしているのを見てるとまさにあーとかうーとかで触れあう世界というのがわかるのだ。言われてみると、長森もたぶん、あーとかうーとか音を鳴らしてたような気がするわけです。うん、言葉とか何言ってたか、覚えてないけど。(1801/3/16)

ととさまー、ととさまー。ああう。プリメ5は大槍葦人の絵にして、むすめ育成着せ替えゲームにすれば起死回生の逆転もありそうです。もちろん18禁で。いや大槍さんじゃないけどもうすでにそういうゲームはありましたか。それはともかくデアボリカ中。まだジ ゼルのとちゅうだけど、昔のやおい作家の描く女の子って実はとても可愛かったわけでさ、そういうややまわりくどい形で郷愁とか感じてしまいます。アズライトの自分勝手という点において脳天気なところは、不健康な鬱陶しさもなく、火炎王でなくたってごく自然にいじめたくなってしまう。ほんとうにうざい相手にはいじめるよりもむしろ無視するほうが幸せだ。デアボリカのみなさまはたいがいバラエティに富んでいて、アズライトの言うように人間にはいろいろ違う人がいるけど、デアボリカにはいない、なんてとてもそうは見えない。で、一体なにがあったというのだね、アズライト。五章もあるんだから、次あたりはきっと火炎王視点になるんじゃないかと思う。ととさまー、ととさまーとかいってなつかれたい。
メーテルリンクの青い鳥、とりあえず第一幕まで読む。すげぇケイオス。水原賢治が取り上げた理由が分かる。水原賢治の感覚は信じていいと思うので、雪の女王はすでに読んでるから海外のものは当面これで足りそうだ。あと国内からは賢治先生の眞空溶媒を持ち出しておけば、すのこフェアは充分に開催できるだろう。ああ、ゲームの青い鳥のほうも読了後にやる。(1801/3/17)

いや、文脈というのはふざけたもので、先方のページをあえて読んでなかったり、あるいはただの独り言だったり、そんなときどこかに文脈などあろうはずはないんだけど、人間とは見せられたものに意味付けをしてしまう傾向をもつ生き物で、そもそも意味なんてないのに意味が分からないとか分かるとか言われたり、もっとたちの悪いことには共時性のように肯定的な捉え方のされることがらの起こる可能性もあるわけで、そんないいんだか悪いんだかあるんだかないんだか分からないものは、やはり犬にでも喰わせてしまうのがよい。僕はもう猫さんとだけ話をしているからさ。・・・ねぇ、ねこさん、ねこさん、どうか聞いてください。たとえば、僕はそちらの更新時刻を知ってたので、僕の書いたものへの反応でないことは想像ついていたし、ダンスという箇所については誤解もしてなかったので、わざわざ書くのもあれかと思ってたんですが、結果としていろいろ気を使っていただいてすみませんでしたにゃん、とご主人さまにはよろしく伝えておいてもらえないでしょうか。kissogram ならぬ nekogram というやつ。ねこさんにメッセージを託してしまう、そういうのがいい。あとのことなんか知らない。先方も、やってきたねこさんを、はにゃーん、となでたりしてるうちに、ねこさんのメッセージがなんだったかなんて忘れてしまうのである。ヤギさん読まずに食べた。しかたがないので、またねこさんを送り返すのであるが、これまたそちらでも、ねこー、ねこー、にゃーにゃーとか言ってるうちに、メッセージのことなど忘れられてしまうのである。そういうのがいい。

ポスペ? あんなの駄目だよ。猫、しゃべってるやんか。(1801/3/19)

ある小学五年受け持ちの先生が、子供に連想ゲームというものを教えるのに苦労した、という話をされてて、そう、僕らならば容易にNHKの連想ゲームのシーンを思い出すのだけど、今の子供はそうはいかない。ここでシーンと書いたのは、ゲーム参加者が実際に連想を働かしている様子こそが連想というものを一番うまく説明するのであって、「一つの観念につられてそれと関連のある他の観念が出現すること」なんて言われても、連想という言葉の指すものはよく分からない。たとえば、水から青を、青から地球を連想できるなんて話してみても、それがどうして楽しいことなのか(あるいは教育なのか)伝えるのはとても大変だっただろう。その先生は枯れた品のよい語りをされる方で(僕はそういう語りを持つ人に対してかなり信用をおく)おそらくは持ち前の語り口を通じて、連想から生まれる物語のもつ素朴な品性を伝えることができたに違いないと思う。理科の授業で、月から連想されるものをみんな好き放題話しあったということで、(理科の授業であったため)月とうさぎとはどれほど関係が深いか、というなかなかに危険かつ面白い部分で意見が割れたそうだ。その種のことはある子供にとってはどうでもいいことだろうし、ある子供にとってはいつまでたっても忘れられない出来事となるかもしれない。今日僕が聞いたのは、そんなエピソードだ。

創造性のある教育であるとか、子供に想像力をもたらすような教育というのが、新しい教育のありかたとして求められている。ちなみに、上の話もその枠内でのことである。だけど例えば、厨房が人を刺した、すると、相手のことを考える想像力がないとかいう話が必ず出てくるわけで、想像力というのが道徳みたい思われてるのはどうかと思う。他人じゃなくて自分自身に働く想像力ていうのは生きてくためには多かれ少なかれ必要で、いやたとえば萌え一つをとってみてもですね、今より萌え力が少しでも低かったとしたら、僕はもう生きていけるような気がしないわけですよ。妄想というのは一般に不健康だとされてまして、でもこれは妄想の範疇なのかは知らないけど、白昼夢、なんてのが保健の教科書にはさも悪いことのように載ってまして、それ見たときソガはとてもショックでしたよ。みんなもなるでしょ、白昼夢、イェ〜〜〜。なりませんか。普段、かなりの高確率で意識が飛んじゃう人間も、まぁそこそこ生きてゆけるということでして。おかげでごはんとかよくこぼしますが。あと、ちっちゃい頃なんかは、別の誰かに変身してる自分を想像をしてないと、眠れなかった。連想というものに強く興味を示す人間は、いくらか妄想の素養を持ち、また、それ無しで生きてゆくことができない人間でもある。創造力は自己表現とよく並べて語られるわけですが、妄想というのは自己表現である必要はなく、それだけに、真面目にとりあうようなことはされないわけで、こっそり電波を送受信して、鍛え、鍛えられるしかないものなのだ。連想というのはわりとその第一歩として、教室の机の下のちいさな澱となってゆく。(1801/3/20)

こんな切ない夜はどうすればいいのだね。寝るしかないか。いやその前に銭湯。23:30だというのにちっちゃい子がいる。ツイている。とりあえず確認。ついていない。なんだ幼女か。ここは男湯だ、入ってくんな。あと10年したら入ってきてもいい。僕はうぶだから風呂場から逃げ出すけれど。

ギャルゲーで癒されるなんて言ってるのはどこのどいつだ。そこへなおれ。俺が癒し直してやる。

とか言ってみたら、情けない顔をした俺が部屋に入ってきた。仕方ないので、癒してやることにした。

顔のない月、ってどうよ。
http://www.orbit-soft.com/root/product/kaotukitop.html#menu
ああ、さっきJIMの家で最初のほうだけやってきたよ。「はじめて見た女」という言葉にノックアウトだ。世界を見る目が魔術的で、女性へのうぶで発見的なまなざし。精霊とか素で言う。幻視する過去の風景にもやはり女性がいて、浩一君、と優しげに呼びかけてくれるのだ。あと浩一の性格脈絡ない。この書き手は死にそうなくらい僕と同じ夢を見ている。もちろん、朝は沙也加さんに起こして欲しいと思うし。(1801/3/21)

どうして僕はクリスを置いてゆかなければならないのだろうか。
どうして往人は観鈴を置いてゆかなければならないのだろうか。
どうして観鈴は晴子を置いてゆかなければならないのだろうか。
どうして少年と少女は彼らすべてを置いてゆかなければならないのだろうか。

夏影、という曲は、幽のたどり着いた地球儀で、唯一奏でられている音楽だ。一人の人間のありふれた日々の伴奏となるにはドラマがありすぎるだろう。

観鈴と会うときはいつも、そんなエンディングテーマが流れている。事情とはもっと音楽で語られていい。

えむけい氏ではないが、どうも書き足りない、というやつ。もしくは、鬼のいぬ間になんとやら。いつも思うことだが、他人の言葉を引用してものを書くのは楽だ。普段は引用した文章以上の量の文章を自分で書くように規制しているが、今日はそういううるさいこと言いっこなしである。

http://www12.freeweb.ne.jp/diary/imaki/a0103.shtml#14

漱石「坑夫」。

 「人間のうちで纏ったものは身体だけである。身体が纏ってるもんだから、心も同様に片づいたものだと思って、昨日と今日とまるで反対の事をしながらも、やはりもとの通りの自分だと平気で済ましているものがだいぶある。のみならずいったん責任問題が持ち上がって、自分の反覆を詰られた時ですら、いや私の心は記憶があるばかりで、実はばらばらなんですからと答えるものがないのはなぜだろう。こう云う矛盾をしばしば経験した自分ですら、無理と思いながらも、いささか責任を感ずるようだ。して見ると人間はなかなか重宝に社会の犠牲になるように出来上ったものだ。」

 これが文学作品である以上、ここに展開されているのは無性格論といったものではなく、自己の同一性と連続性と何より「いまここにいる」という実感がすでに失われている心的状態であるのは言うまでもない。のかどうかは知らないけど。
 「人間はなかなか重宝に社会の犠牲になるように出来上ったものだ」というフレーズに感心した覚えがある。
 人格ってのは内面的同一性よりは社会的(倫理的)要請の問題である、ってのはそういう感じ。

さすがは漱石先生、わかってらっしゃる。夢十夜しか知らなかったけど(予想通り)そう褒めたたえたくもなる気分だ。文学作品である以上、と書き始めているのはよく分からない。社会的要請、については、夏町がwaffle wAnderlandで書いていたが、社会性なんてものを自分が語るのはどうかと思ったので後から少しぼかしたらしい。そういえば、メモオフのみなも話は連続体云々の文脈で語られていたと思うので、やっぱやっておくか。

http://www12.freeweb.ne.jp/diary/imaki/g0010.shtml#03

自分だけのゴールだと思っていても、自分にとってしか意味がないとは限らない、ってとこかな。それが気まぐれに定めた地点でも。自己陶酔しか許されていなくても、自己完結させてくれるようには世界はできていない。翼人をメタファーとして解釈したいならそういうのもありかと。というか、あの世界での単なる事実として。

わっふるwonderlandは3月23日をもって終了したそうです。

http://www12.freeweb.ne.jp/diary/imaki/0011.shtml#20

ただ語るという行為には人の精神を平衡状態に導く作用がある(河合隼雄「ユング心理学入門」の最初のへんにそんな話が)。語っている内容はそれと関係がない。内容は何ももたらさない。そもそも何でもいいのだ。聞くという行為もまた。

河合隼雄を全部読むようなことはしてないので知らないけど、そういうことを言ってそうではある。しかし、語っている内容はそれと関係がない、とは言わないはずだ。それとは別に、内容については、16日にも書いたがあーとかうーとかで良くて、これには岡田美智男が「場に投げ出された行為」(違ったかも)というような言葉を与えている。なんだっていい、声に出して、相手ではなく、二人で居るその場に対して投射してやれば、意味は適当についてくる。またそれはすぐに、トルクの霧と闇に巻かれてゆく。あるいは虚空に忘れられてゆく断片。人間はいつもあらかじめ意味づけをして話しているわけではない。彼は、互いにあーとかうーとかでしかしゃべらない人工生命を作った。それは、たしかに生命的といえる側面を持っていた。岡田美智男はこれを、電車の中で女子高生同士がどうにも意味のない会話をしてるのを聞いてて思いついたというのだが、その話はとてもよく出来ている。(1801/3/22)

ちょっとブルーデイでして。だけど人に当たるのはよくない。年上の人にはどうも甘えがちだ。胃腸が辛くて眠れなかったりするが、おなかを温めるとマシになることに気づいた。アズライトにこう後ろからぎゅっとして欲しいとか思った。ところで、アズライトを少女愛好者と呼ぶには、彼は天然すぎる。少女愛好者には自分がそうであるところの自意識というものが必要なのである。アズライトがレティシアと仲良しさんになるまでの流れには、章吾さんが鞠乃を抱くようになるまでのようなしちめんどうくさい理由付けは意識されない。
男よりも女の子のほうがベッドで眠るべきだ→可哀想だから、とレティシアに一緒のお布団で眠るよう誘われる。
生理痛のレティシアのおなかを温めてやらなくてはならない→後ろから抱きしめる
やっぱり理由づけはあるように見えるけど、章吾さんは頭よさそうで確信犯らしいのに対して、というか吉野に開発されたくさいが、一方でアズライトは頭悪いので、そこに少女愛好者の自意識というのが漏れて見えたりはしない。彼はむしろ、はるか高みの神棚に飾られるべき存在である。そして、アズライトとレティシアの話(同族殺し)の美しいところは、最後、アズライトがレティシアに対してただ「恋」をして終わる、という一点にある。あほか。だがしかし、この頭悪そうなところが、何より美しいのだ。(1801/3/23)

僕の物語への信仰は、おそらく、自分の言葉で語ることへの信心から始まっている。自分の言葉で語る、と名付けられる行為の、パフォーマンスの高さを無邪気に誇っていた。それは今も、ものづくしのような形でしか陳列できない、博物誌でしかない自己へのいらだちと入れ替わり立ち替わりで現れる。つまり、いつかどこかで誰かと為された体験的な(あるいは体験的に聞こえる)言葉の持つ説得力と、そのいやらしさ、そして、自己紹介ページに好きなものを並べ立てることでしか表現できない自分と、その空虚さ。それが交互にあるうちに、長野まゆみもタルホも読めなくなって、ついに、地に足がついてしまった。雲か霞のような言葉ばかり放っていた頃が、もしかすると、僕にとってもっとも天然で、意味深かった時代かもしれない。一度もった信仰を取り下げるのは難しい。物語なんていう便利すぎるものは、道具として使うくらいの気持ちがちょうどいい。(1801/3/25)

突然だけど、ぼくは猫だ。りっぱな黒猫だ。いつもクリスマスのひざの上で丸くなっている。ときどきいじられる。命令なんかもうしない。電波ヒゲは捨てたから。天使語を子守歌にして、今日もまた眠る。高野さんというひとが、毎日がクリスマスだったらいい、と言っていたけど、まったくそのとおりだと思う。(Dedicated to 'christmas note',)

日本語の美しさ。

レタスの秘密(2001/03/24)
http://www.icenotes.com/diary.htm
絶滅(2001/02/06)
http://www.icenotes.com/pastdays/01-02.htm
ネジ(2001/1/13)
http://www.icenotes.com/pastdays/01-01.htm
ゴミ処理問題(2001/10/02)
http://www.icenotes.com/pastdays/00-10.htm
クリスマスまであと何日?(2001/10/01)
http://www.icenotes.com/pastdays/00-10.htm

僕は単に日本語が壊れているだけだけど、高野さんは日本語を正しく使える生物でありながら、素敵過ぎる言語感覚を持っておられるのが好きだ。とりあえずこれだ け読んでおけば、相田裕さんの「たたかうものたち」は3倍ほど理解が深まるかもしれない。
http://www.remus.dti.ne.jp/~jewelbox/doujin.htm
(1801/3/26)

ネットひきこもりになってから、はやくも二週間弱です。ちなみに、ネット上の人格がひきこもりきっているのであって、ネット上でない人格のほうは、ときどきくらいしかひきこもっていません。とくに土日とか。それはむしろ怠惰ですか。いや、躁鬱性のひきこもりというのもあっていい。出たり引っ込んだり。というのも、ひきこもり、というのは名付けのマジックであって、なにやら得体のしれないものへの焦燥に名前をつけてやれば安心できるという類のものだから、各自都合に合わせて使えばよろしい。これ考えた人は、コピー大賞をもらってもおかしくはない。皆がそう考えてるかどうかはしらないけど、私はその言葉を聞いて安心したし、いやしかし同時に馬鹿野郎と思った。大騒ぎするほどのものでもないだろう。名前だけくれたらいいから、あとはほっといてくれ。にしても、ひきこもり、というのはやはり他人が言うよりむしろ、当事者のほうが盛んに表明しているような気がするがどうだろうか。

大学へ出ないということは同じでも、学部の頃と今とではえらくちがう。あ、自分語りモードですか。学部のころは一時間もかかる大学へ行くのがしんどくて、家にこもってせっせとRPGのセッションの準備をするか同人誌を作るかしかしてなかった。当時はMacが最高の相棒だった。最近は、手を動かさずに、なにか問題空間らしき場所に思いをめぐらすだけで時間が過ぎてゆく。テキストエディタとブラウザさえあれば、他はなにもいらない。どちらも家の外に一歩もでない生活だけど内容は違っていて、また今、一般に、ひきこもり、と言われているものが、そのどちらにあたるのか、両方、あるいはどちらでもないのかは、よく知らない。ただ、いずれにせよ、生きる方向があさってを向いているだけで、死とははるか遠い場所にあるそれは、ずいぶん希望にあふれたことじゃないかな。

プライベートで痛い目にあって、もうしばらくネットではひきこもっていたいと思うので、リンクを貼らない日記という奇妙な形ですが、とりあえず名前を変えるところからぼちぼちとやりなおし始めています。ややこしいことをして申し訳ないです。>KEYさん。
http://homepage1.nifty.com/hiroyuki/diary/d200103.html#20010324-01
(1801/3/27)

アズライトやっぱいらない。メランのほうがいいなぁ。大塚芳忠さんが素敵だ。メランを抱いて、抱かれて眠る。

ソガのほうはというと、妹、というか衛にたたき起こされる毎日です。声でかい。おかげさまで、この一週間のうち四日ほどは午前中から起きています。わ、びっくり。いやもうこれが隣三軒まで届きそうな声なので、死にものぐるいでぎゅっと掴んで、ときには布団に引きずりこんででも、ぐううと口をふさぐわけです。そんな、いい感じの朝です。そのうちランニングとか始めるかも。衛のゴーストカー付きでね。いや、ゴーストランナーか。

夏町が眠りながら涙を流しています。いい夢を見ているようです。寝言から察するに、尊敬するもの書きさんに気に入ってもらえた文章があったらしいです。あれはsense offのキャンペーンでもあったわけだけど、そのうちにメルンまで出てきて、何がなんだか。脳内のものを垂れ流しているので文章はかなり分からないものだろうけど、なにか気分みたいなものが受け取られたのだろうかと思う。(1801/3/28)

瓶につめた手紙であるとか、nekogramであるとか、誰に伝わるかなんかしらない、独り言に込められたロマンティシズムについては、夏町にせよソガにせよ何度も言ってきたように思う。web日記というのは僕にとってその最たるもので、だからこんなにも気に入っているのだろう。そこで困難なのは、瓶を作ったり、猫を育てたりすることである。誰に送るとかあまり関係ないというか、いつか猫にメッセージをもたせてwebに放った日には、寄り道をして、泥だらけになって、誰かに拾われてエサをもらって、夜には人の知らぬ集会に参加して、恋をして、そのうちにメッセージなんかどこかで落としてしまって、もう何ヶ月も経ってからふいに、僕のもとへ帰ってくるのである。僕もどんなメッセージを託したかなんて忘れてるんだけど、なんだかずいぶんいろんなことをして帰ってきたらしい猫をみれば、なんとなく満足するのである。

段落アンカー一般について、自分の現状に対するアバウトな答えは上のネットひきこもりであるけれど、もう少し別の言い方をするとすれば、今は猫を育てている段階で、外の世界を見せながら、いつか放し飼いにする日を夢見ているような状況である。こうした夢想はおそらく社会不適応であるし、害悪ですらあるだろうが、webなどに載せるべきではないかも知れないが、僕の猫にミルクを飲ませるためには、どうにも仕方のないことなのである。(1801/3/29)

話が上手だったり、面白い話をする人というのは、いつだって面白い話をしているわけではなく、面白い話、うなづける話というのは、無数のつまらない話をするなかから生まれてくる。ただ、話の上手い人というのは、つまらない話をしているとき、相手にそうだと悟らせない。

ある場合は、聞き手にとって面白い話の印象が強すぎて、他のつまらない話のことなど気にならないのだろう。またある場合は、話し手が、韻を踏んで話しているということがあると思う。各々の話はつまらないのだが、どこか一本、連想される筋というものがあって、いつか名文が生まれたときに、過去すべてに遡って美しいストーリーがあるように見えてくる。露骨な理由の後付けは見苦しいが(ごめんなさい)、話の上手な人というのは、ゆるやかに、前後が互いに連想によって繋がり、意味づけされるような話の運びをする。そのうちに、何かいいことを思いつくという寸法である。

僕がときおりみせる量というものへのこだわりは、そもそも量がいつか質に転化することがある、そうした事情への興味からやってきたものだ。何かよく分からんときは、まず何も考えずに手を動かしてみよ、とはよく言われることだが、これはとりもなおさず、体験によってもたらされる問題の内面化が、質よりむしろ量に依存していることを示しているだろう。そして例えば、就職活動の学生が、スーツに着られている状況から、いつしかスーツを着こなすようになる。板につく、というのは一つの質であると思うが、これも、場数、すなわち量で測られる。話の上手い人というのはつまり、場数を踏みながらも、それが単なる危なげな場数踏みではないと悟られずに、面白い話を産出してゆく。また、面白い話をするからこそ、場数踏みなのが悟られにくいし、堂々と話をできる。いい循環だ。結局のところ、キモはいつか面白い話をするというところにあって、それまでは、自分の話がどれだけつまらないか理解しつつ、なおも耐えて、話し続けるしかない。いつか、何かちょっとしたものが生まれる、そこからようやく全てが遡り、回収され、そしてほんとうに始まる。話に限らず、絵だろうが、研究だろうが、なんでもそうである。僕はその点、わりとスポ根です。(1801/3/30)

月姫が死んでしまった。とにかく悲しかった。(1801/3/31)