ことばの恋・虚仮の恋 2002年9月

"Hello, world"は,奈都美ノーマルエンドから.主人公は重度に工学的な性格.グローバルイルミネーションに関わらないところではよく地に足がついていて読みやすいです.ただしロボティクスは門外漢なので深佳の言ってることはよく判りません.ずっと奈都美と一緒だった僕が途中で不意に深佳のこと愛しくてたまらなくなったのは,もしかすると僕はロリコンだったのでしょうか.それは衝動的に抱きしめたく.自分ひとりだけ周りと歳が違っているものだから,都合のいい時だけ和樹のことをお兄ちゃん呼ばわりするずるさが他人とは思えなかったからでもありましょうか.

そういうわけで二週目は深佳と付き合っています.こういうメカいじり大好き少女のなかでははじめて一緒にメカいじりたいにゃーと思った娘さんです.それは,僕の知ってるロボット屋たちにどこか似ていて気がおけないからでしょうか.それにしても子供を子供であると理解した上で対等に扱う,ロボットをロボットであると理解した上で対等に扱おうとする精神はまっすぐです.週末は延々奈都美の話を読み進め,あとそれに関する文章をひねっているうちに終わってしまったのですが,酷い文章でしたのできっとゴミ箱送りにします.

ところで僕らが求めるべきはハルカあるいは(終ノ空の)リルルちゃんであって,アルファではないと思います.

イタリアから帰還後ブルーな気持ちが続いていて,あまりまともな受け答えが出来なくなっています.ごめんなさい.工学的な性格って何さ.

よんぱちさんのあの絵は大好きです.(2002/9/30)


こちらを拝見しながら,「どきどきアイドルスターシーカーRemix」をプレイ中です.秋葉原のCLUBSEGAに入ったアーケード版をプレイしたのがきっかけ.TRYTOWERには前からありましたが,初心者ではやりにくい雰囲気だったのでパスしていました.

女の子たちがトップアイドルへのし上がり武道館へ行くとかいう大層な話ではなく,そもそも芸能界の話をするでもなく,収録後に慌ててヨドバシカメラへゲームソフトを買いに行くとか,忙しい日々の間のいとまのお話ばかりであるところに好感を持ちました.そのへんはスターロードとスターシーカーの違いというわけで.

マイキャラはもちろんなつき(CV:大本眞基子).半分,夢のつばさの勇希と重ねて声を聞いています.

(2002/9/24)

beulah/eta Carinae

僕らが白馬に乗ったお姫さまを待っている,というような言い替えを何度か聞いたことがあります.どうしてもっと素直に,僕らは白馬に乗った王子さまを待っている,と言えないのでしょうか.

ようやくうちのWindowsMe上でも動作するようになりましたので,とっておきの娘^3動物園を始めています.びうらからはお父さん,えーたからは親父とかオヤジとか,花梨菜からは父とかちちとか呼ばれて頭がぼーっとするくらい満腹になりましたが,世の妹属性の人たちは十二人の妹さんから十二通りに呼ばれてやはりこんな風にお腹一杯な気持ちでいたのでしょうか?

しかし,この娘っ子たちと事に至るのは敷居が高いと思います.わが娘としてしか見れないよ.それでも頷けるところはあって,私は確かに王子さまのお迎えを待っていたようにも思えます.

知らないんですか!?
花梨菜はすっごく綺麗な心の持ち主なんですよ!?

花梨菜だってそんなこと信じちゃいません.傍目にもそうは見えません.だけど,そう言ってくれる白馬の王子さまが欲しかった.この瞬間,私は天乃川玄人であるよりは天乃川花梨菜でありたいと思うわけですが,あなたの元に来る白馬はどうですか.そのときあなたは誰ですか.

わたしの名前はりゅうこつ座に由来します.わたしは一代目のPCにCanopusという名前をつけましたが,その後はずっとCarinaとしています.だってカノープスなんて当たり前になってしまったけれど,カリナって誰も聞いたことない名前でしょう? エータはきっとりゅうこつ座のエータ星,この銀河で一番明るい星ではないかと言われています.夏の大三角,アルタイルは犬飼星とも牛飼星とも呼ばれます,リラ,そして白鳥,北の十字架から南の十字架へ,栄光へ向かって走る列車に乗って,天路の旅は続きます.ビウラはそんなわたしたちのための休息の地でした.

名前一つにしても懐旧のロマンを感じさせる(あるいはダサい)言葉の選び方と,達成率でなく「たっせいかん(達成感)」と呼ぶところの緩さがいかにも彼ららしくて好きです.今は花梨菜の星とえーたの月が一つ埋まっただけですが,未読の空白を埋めてにんまりするというよりむしろ,彼女らの話がまだこれだけたくさん残っているのだなと空白を眺めて頬をゆるませます.そうするとこの表は,未達成感こそが嬉しくさせるものかもしれません.(2002/9/23)


ブロンドフィールド/ホワイトフィールド

ブロンドフィールド/ホワイトフィールド
イマジナリ・カラー

私は金色の野原を知りません.川澄舞の立つ麦畑に胸を痛めたとしても,私の故郷にそのような場所はありませんでした.古いアルバムの風景はフィールド・オブ・ドリームズを求める広大な農地ではなく,狭いあぜ道をゆく川の流ればかりです.

しかしながら,いちめんの金色を白黒で描いてみれば,それは真っ黒に塗り潰すしかないものです.黒という色は万能で,有り得ない金色の補色となって私たちの目に影を落としますし,川やふちの透明色が心に映し出す影でもあります.実りや豊かさの幻想と,びしょぬれで叱られたり深くて怖かった思い出のそばには,過去へ向かう同じ色を見つけることが出来ます.

暗やみに立って見上げることをわたしが初めて想像したのは,遠い南の海の底に少女を見つけたときでした.その地方の海は全く静かなもので,夜になると水面は鏡となって星たちを映し、まるで二つの天が水平線で交わるように見えました.海がそんな風だったので,あたりには星の言い伝えがありました.それは海の底に住む星の一族のむすめの話で,彼女はときどき天から落ちてくる星を拾い集め,もとの場所へ帰してやることをつとめとしていました.これは地元の漁師ならば必ず知っているお話ですが,いつか,星を拾うそのむすめのことを拾った少年がいたというのは,まだあまり知られていない話です.

星のむすめはつややかな黒髪を翡翠(かわせみ)の羽にたとえられ,みどり色と呼ばれていました.鳳凰,麒麟に習うよう翡翠とは雄の翡と雌の翠をその名の内に持つもので,かけがえのない己の半身を備え合う様子は比翼の鳥をも連想させる睦まじさです.ただし,鳳と凰,麒と麟は同じ色をした種族ですが,赤の名を持つ翡と緑の名を持つ翠とは本来交じり合うことがありません.赤色を見て目をそらせば緑色が浮かび上がるというように,それは自分の姿が映らない壊れた鏡に似ています.欠けてしまった自分の半身をけして見ることが出来ないとすれば,それはナルキッソスの水鏡よりも切ない恋でしょう.そもそも長恨歌を引き合いに出すならば,星たちがいかに綺麗であったとして,七夕の夜に比翼連理が叶うことはありません.つまり,このみどり色のほんとうのいわれは,むすめが深い海の底から水面を見つめ,そこに星影のゆらめく様を何かにとりつかれたように眺めていたということでした.しかし,むすめをそのように呼んだ星の一族はもういません.彼らはみなそれぞれが望む星のかけらを拾って天上へ帰ってゆきました.そして,目に映ることのないものを探していた彼女だけが,暗いよどみの底に残りました.

この最後のむすめの話が漁師の間に伝わっているのは,大きな魚を逃したときや大切な針を落としたとき,それがこのむすめの拾いものとなるように願うからです.それは不幸を転じて幸運とするための祈りでした.年に一度の星祭の日にはわざと高価な貴石を投げ入れる者があるほどに,むすめのことは深く信心されていました.

私にとって,とおい上の世界を見ているのは少女でした.私は絵を描くので描いた絵はしぜん地面に垂直の構図となります.少女の見る境界は深い水の底からは水面でしょうし,金の髪をした草原からは想像の成層圏でしょう.あるいはもっと素朴に彼女のことを見るならば,画面や絵を境にして彼女は向こう側からこちら側を見つめています.私たちが絵の中の少女を見るとき,少女の見上げる向こう側には必ず彼女のことを見つめる誰かがあります.それは海女の少女であるかもしれませんし,羽を持つ人であるかもしれませんし,あなたや私自身かもしれません.おはなしの中のむすめを拾いあげるために,赤い髪をした少年はあらゆる修辞的な苦労をする必要がありました.そのとき,もしも魔法があるとしたら,出会いをあらかじめ含んだ彼女の視線を絵のなかに埋めてしまうことかもしれません.それは,有り得ない誰かを探すむすめの絵であるにも関わらず,私は絵を見た瞬間に,つまり絵の存在する瞬間において,必ず出会うことができるのです.ただそれが魔法である証拠に,私は彼女に触れることが出来ません.一部の優秀なアクアノートやアストロノートは,絵の中に見つけた息が詰まるような気圧と距離の辛苦を耐えしのぐ力を持っています.だけど私の力は心許無くて,星のむすめを拾った少年がいるというお話にまだ確信を持てないでいます.

ひとねむりしておきたら,そのとき私もホワイトフィールドに一歩,近づいているでしょうか.綿の国星のチビ猫の真似はとても出来そうにありません.ようやくにして,ラフィエール,と大きな人の名前を呼ぶことを覚えましたが,その後どうすればよいのかがさっぱり判らないという次第です.(2002/9/12)





 森里さんから"ALL CAST"(やるドラシリーズのファンによる作品集)を頂きました.私も参加させてもらっていたもので,フィクションの女の子について話を書いたのはこれが初めてのこと.忘れ難い思い出です.それに加えて,なんと森里屋さんの新譜も一緒に! 有難うございます.大切に聴かせて頂きます.(2002/9/10)

 不規則な生活をしているので体温がなかなか戻りません.心も落ち着かないのでしばらく文字を書いていたいと思います.

最近,本を読む力がまた湧いてきたので,他の人の薦めるような本を読んだり,昔の本を読み直したりしています.

「サクノスを除いては破るあたわぬ堅砦」(ロード・ダンセイニ)
昨日,末永の部屋でICOをやらせてもらったときに思い出したのはこのお話.ひと月ほど前に読み直したら,やはりまだ好きでした.私がときどき長いゲームを億劫に思うのは,こういうすぐ読める短編に,歳月を超えて好きなものが少なくないからです.ICOの城にはガズナクによる強大無比の城塞にかくのごとき一画もあろうと思わせる厳かさや恐ろしさがありました.だけど私は高所恐怖症で足場ゲームをすると目は眩むし動悸が止まらないので,自分でプレイするのは避けたいと思います.余談ですが,イコくんの激しい息遣いとか端正な顔立ちとかには身もだえいたしました.

「最後の物たちの国で」(ポール・オースター)
同僚による一番のおすすめだったのだけど,私にはあまり残るものがなくていい感想を返すことはできませんでした.よって,ここにも書きません.もう一冊同じ作者の「シティ・オヴ・グラス」を借りているので,そちらを読み終わった後にはなにかあるかもしれません.

「クビキリサイクル」(西尾維新)
別のページでも書いてますけど,京都のミステリは当たりというか中ってばかり.ちょうど1年くらい前に「夏と冬の協奏曲」,3か月前には「二の悲劇」を.夏と冬の読後にはまとまった文章を書いていないのだけど,去年の11月ごろのメモには「大好きな夜の鴨川をぶらぶらとしたい.包帯巻いた桐璃がそこに落ちているはず.うゆうにとって桂川の少女がその子でいいなら,僕は彼女を頂いてゆく.僕,うゆーさん.よろしく,鴨川の少女.と,記憶喪失の彼女に話しかけるところから,物語は始まる.」とか書いてあります.よほどこたえたと見えます.

「義血侠血」(泉鏡花)
「外科室」「夜行巡査」「海城発電」と一緒に読みました.つまり,岩波文庫です.これまで読まなかったのは幽霊とか出そうな雰囲気がしなかったからですが,もったいないことをしていました.金さんに抱かれて乗る馬は誰がなんと言おうと白馬でしたわ.金沢へ行きたいですね.外科室の小石川は幸いにも近くなので今度行ってみようと思います.

「薬草取」(泉鏡花)
一番好きだと公言している割に,ここ数年の無読書の霧のなかで忘れてしまっていたから読み直しました.ああ,こういう話を僕が求めているというのをおおっぴらに言うのはどうかだけど,なにも判らない心細い幼子であった僕を拾って無条件になんとかしてくれた姉さんがいた,というありえない過去を前提として生きたいと僕はおそらく願っています.僕は迷ったら医王山へ行くのだと思います.薬王品を夜もすがら.

鏡花は青空文庫にもあるんで有難いです.「薬草取」も今度は「夜行巡査」「義血侠血」とあわせてPDA(CLIE)で読みました.

5年くらい前のことだったと思うのだけれど,萌えとはなんぞやと末永と議論をする中に,私の「泉鏡花の女は萌え」というのがありました.それ絶対萌えじゃないです,と末永には言われたし,世の中的には私がそう言ったとして変な顔をされそうだというのも何となく判ってきました.ただ最近思うのは,萌えという言葉はそこに自分の少女を見立てる心が言わしめるものじゃないかということです.話は多少それますが,元長萌えというのは素直に受け止めるとクリエイターのアイドル化というよりは少女化で,そこには元長柾木というお姫さまを見立てる誰かがいるんじゃないかな.まだ本当にそうであるという気はしないのだけど,ただ,女の子たちによってある種の男性が受けとか攻めとかでなく「お姫様」として見立てられることは知っているでしょう?そういうものの見方がそろそろ男のほうにも混ざってきてるんじゃないかと思います.萌えについてもう一つ思うことは,どうやったら自分は人並みになにかに萌えることが出来るのかいう話です.それはこれまで何度も書いてきたように,妹や耳しっぽ,そして鏡花の女に萌えると嘘でもいいから言い続けていればそのうちそれらに萌えるようになります.関係のつくりかたとしてはごく初歩のことをやってるに過ぎないのだけれど,多くの関係は他の人によく判る説明ができるのに,萌えが欲しくて,関係が欲しくて,ただ純粋に接触を繰り返した初歩であるだけのそれは,それぞれに萌えている理由を人に説明するのが極めて難しく思えます.ここで,少女を見立てる心と萌えるためにはどうすればいいのかということとは,私のなかでは繋がってくれません.得られた後になって判った心情によって実際それが得られていたのだという気はあまりしません.そういうことがあるのはお話のなかの出来事だけじゃないかと思っているから,私はいつまでたっても科学的じゃないんです.

「西の魔女が死んだ」(梨木香歩)
一年前に最終日記彼女を閉じたとき,私はもっとしっかり生きてゆかなくちゃという割とありきたりのことを考えていました.しっかり生きるというのは,昼間のうちにしんどくなったり,急に頭の中が真っ暗になったり,夜に寂しくなったり悪い夢をみたりしない生活のことです.文章も絵も描きたくない,本も読めない,ゲームをするのもまっぴらごめん,という本当にどうしようもなく灰色の時間を,生活のなかから減らしたいと願っています.悪い時間が訪れることをネット環境のせいにしたことが何度かありましたが,ネットそれ自体は私にとって良いこともあり悪いこともあるので,あまり関係がないように思います.例えば今この瞬間,文字を書いているだけで私はとても落ち着いてきました.

(2002/9/8)

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