記憶の技法,スプーン・ライフ 2002年11月
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2002/11/30

 アリーテ姫.魔法の使い方が上手だと思いました.ボックスの魔法はたった一つきりですが,何も出来ないようでいてその実いろいろやれてしまっていた人です.なにしろかくも堂々と姫君をさらってゆくのですから.しかもあらかじめ仕組んだプログラムのみで.流星雨の夜,グロベルに流星の正体が人工星の欠片だと物語るのもたいした想像力でした(それは翌日,真実となってしまうのですが.)そんな彼が魔法を一つしか使えないと思い込んでいるわけは,何も学ばぬ子供の頃に同族が滅んでしまったからで,大人になれなかったことを誰を恨むでもなく自分を恨み,そして,巨大ボックスが現れた時にアリーテが言うように彼が自分を自分でおとしめているからでした.アリーテは酷い目に遭わされているのでボックスが周りにやつあたりしてると言うのですが,彼が実際やつあたりしてるのは(アリーテを除くと)自分の作ったカエル男くらいのものでして,村人にとっては怖いけれど水をくれるじーさんに過ぎなかったと思います.天涯孤独な彼が同族を求める心は全く正当なもので,せめて自分を恨むのはよしなさい,きっといいことあるんじゃないかな,という,それが彼の二つ目の魔法になるでしょうか.魔法が一つしかない状況には別の工夫があって面白いです.

アリーテが魔女から預かった最も強くて最も性質の悪い魔法である「三つの願い」は,彼女が自分の意思で選ぼうとしていたら鼻にソーセージの例を挙げるまでもなくろくな結果にならなかったと思います.しかし,二つ目の願いまではボックスの魔法に相殺されて「自動的に」くだらない願いとなりました.地下牢に描かれた窓と書き割りの夜空,そして刺繍.くだらなく美しく綴られた世界に時も知らず過ごした日々があればこそ,それはアンプルのひと言で内と外がひっくりかえって,アリーテの中に物語を探し求め始めました.私がかぶりつくように見ていたのはこのへんです.アリーテは,昔そういう姫君がいたという話を思い出しました.ボックスの作ったアリーテ像と今のアリーテとはずっとチャンバラをやっていたので,今のアリーテが昔のアリーテを連れてきたから二対一でなんとか勝てたみたいです.それでまずボックスの魔法は解けました.三つ目の願いとしてボックスがアリーテに誓わせようとした言葉は彼の失敗によって救われました.アリーテが一筋縄でいかぬ姫君であることは千里眼で知っていたはずなのに,自分の魔法で彼女を清楚でくだらない姫君に変えている間に忘れてしまったのか,そこをアリーテに付け入られました.およそこれくらい幸運と機転とがあれば,まじないは良い方向へ反転すると思われます.ボックスの魔法がアリーテに対して有効でないのは,その力が魔女の「三つの願い」を退けるために向かっているからで,ボックスが悪い魔法使いであると同時にアリーテの三人目の援助者であったというのも,気持ちの行き帰りがあって面白かったと思います.最初の魔女だって善いも悪いもなかったわけで.

アリーテの行動が周りの人には呪いであるように見えて,それをボックスが魔法で「元の姿」に変身させてしまうのもおかしくて良いです.そんな風に最初は痛快なのだけど最後になるほどボックスの扱いがかわいそうなので,アリーテに対しては,このひよっこが,世間の荒波に揉まれて泣くがよいわ,と思わなくもない,というかそれボックスも同じことを言ってましたが.それにしたって彼女は嬉々として自分からそうしてしまいそうなところが,わたしたちの勝ち目のないところです.

アリーテの語りはアリーテがするというより桑島法子さんがしているように聞こえてしまったので,例の地下牢を除くとあまり話に入り込むことができませんでした.これはビデオで見ちゃ駄目でした.劇場で見てれば生のメッセージにも圧倒されるところがあったと思います.

うむ.そのとおりだったかも. あと,アリーテは苦難に対して流されるよりも知恵を巡らせるので,中将君の気に入るところがよく判るのも楽しみでした.

 こんな風に文章を書いているうちに,じわじわと楽しくなってきました.そもそもボックスは「閉じて誰かを待ち続けるような人」がくだらないものだと判っていたからこそ,アリーテを魔法でそのように変えることが出来たのでした.端っから転倒して始まるこの話は愛しい.


2002/11/26

 Prismaticallizationについて私がよく判ると思うところを一つ.例えば,いつかの学園祭は特別だったと毎年その時期が訪れるごとに私は思い出します.一方で,去年の春がどうだったかということを夏には思い出しません.つまり,ひと巡りしてちょうど同じ場所に立たないと,記憶を甦らせることはできません.もしもこの世界が四季や一年の周期なしに真っ直ぐ進むものだとしたら,私は自分の過去を思い出せる自信がありません.

澄香的な飛躍から話を始めましたが,Prismaticallizationにおいても射場君は循環した時の流れにあったからこそいろんなことを思い出すことができました.木の幹につけた傷はもう一度同じ場所に立たねば気付くことが出来なかったし,そもそも循環があったからこそ射場君はプリズムを拾うことが出来ました.われわれにとって上の段落との差は太陽が巡るにまかせるか機械仕掛けかという違い程度で,直感的によく判る話だと思います.

澄香の最終周で,「何度も同じ一日を循環したから記憶の存在を示唆された」「循環の中で過去を積み重ねた」射場君が,「何度も同じ一日が循環してるからプリズムなしには記憶を保持できない」「循環の中で過去を変えられると思った」人(草加くんというか謎の男)を断固否定するのは,同じ木の幹の傷に対して双方が両極端を感じとっているように見えます.循環に気付きながらも何も持とうとはしなかったかの男は,循環が解けたと思い込んであさっての方向へ歩き出し,射場君は知らず積み重なっていた自分の言葉を信じ得るものとして手に取り,約束を守るため澄香のところへ歩いてゆきます.否定される形をとらなければ語れない類のことを話す,射場君以上に青臭いあの謎の男がやりすぎのような気もしますが,血気溢れる気持ちのいい話だと思います.循環したくない奴はいいからこっちへ来い,俺が洗濯機に放り込んでやる,といわんばかりの熱さ.そして,相手を放り込んだらあとから自分も一緒に入ってふたを閉めスイッチを押す(どうやって?)そんな無茶.世界はくんずほぐれつがぁがぁ回り,肌は触れ合うなんてものじゃなく,話をするには轟音に負けじと名を叫べ.

何度も同じところを歩かないと思い出すことはなにもなく,過去を持つこともありません.あとはそうして歩むために,誰かの手を手で触ることではないかな.

みゆともう一度会おうとしたら,DC版では話が違ってて戸惑いました.それにしても射場君は優しい.こんなによくかまってくれるお兄ちゃんがいたら最高です.私もほっぺた引っ張ってほしいよ.

 そんなこんなで知らず積み重なっていた絵をこちらのギャラリーにまとめました(こうして見ると四葉だらけだ.)PrismPaintのアイコンはPrismaticallizationのプリズムの絵なので,今日はそういう縁でもあります.

あとは補足とか.P17nの略称はファンによるものではなくドリマガの新作紹介でDC版移植にあたっての池田修一のコメントにそうあったのが始まりだったように思います.少なくとも私が最初に見たのはそのときでした.つうかこのときです.

あと,CDは届きましたか?>水姫


2002/11/25

 prismatic paintのほうでPrismPaint3.0をリリースしました.バージョン1公開以来いろいろありましたが,どうにか思い描いていた形にまで持ってゆけたと思います.ユーザとしてあるいはMOREソフト作者として関わってくださった皆様に感謝致します.折りしも世間は新しいVGAザウルスの話題でもちきりですので,これがアイクルーズ界最後のソフトとなるかもしれません.今冬いくつかの雑誌で紹介されるようですが,きっともう最初で最後の機会だと思います.

VGA液晶が当たり前の時代になっても,アイクルーズやTR1という子たちがいたことをどうか忘れないでいてあげてね.苦労したのよ,この子らは.

2002/11/23

 函館のときに話した象を冷蔵庫に入れるために必要な3つのステップは何かの続きで,四葉を幸せにするために必要な3つのステップを考えました.

答A:修辞構造による解法(兄不在)
ステップ1. 「壊れたユニコーン」の一文を前後入れ替える.
 「四葉と兄チャマはとっても仲良しの兄妹なんだけれど,ずーっと離ればなれで育ちました.」
 →「四葉と兄チャマは,ずーっと離ればなれで育ったのだけれど,とっても仲良しの兄妹です.」  

ステップ2. 「ビッグベンの下で」の一文を,予感から理由へと変更する.
 「でも,四葉,予感がするの! 絶対絶対,四葉のこと,1番わかってくれるのはきっと兄チャマだ,って.四葉のさびしい気持ち……兄チャマだけが埋めてくれるの.」
 →「でも,予感がするの! 絶対絶対,四葉のこと,1番わかってくれるのはきっと兄チャマだ,って.だって会えなかった時も四葉のさびしい気持ちを兄チャマだけが埋めてくれたから.」

ステップ3. ステップ1の結果に対してステップ2の結果を時制を合わせながらはさむ.
 「四葉と兄チャマは,ずーっと離ればなれで育ちました.でも,予感がしていたの! 絶対絶対,四葉のこと,1番わかってくれるのはきっと兄チャマだ,って.だって会えなかった時も四葉のさびしい気持ちを兄チャマだけが埋めてくれたから.(そして今,二人はほんとうに)とっても仲良しの兄妹なのです.」

リピュア8話における原作文章の操作についてしつこく話すのは,リピュア8話において私の最も気に入っている点が,アニメ化にあたってユニコーンの話だけでなくわざわざ他の章であるビッグベンの話までも読み込んで,必要な一文を取り出して,細かな彫琢を重ねに重ねて四葉を幸せにしてあげようと考えてくれたことだからです.

答B:ストーリーによる解法(病巣と治療)
ステップ1.
 四葉のクローバーは成長の途中で傷ついた三葉のクローバーの奇形種である.
ステップ2.
 四葉のクローバーの花言葉はBe mine.「私のものになって」,と彼女は言った.
ステップ3.
 僕は鸚鵡返しに「私のものになって」と言いながら,彼女の葉を一枚ついばんだ.すると,クローバーの傷は癒され,その花言葉は「幸福」へと戻った.

 私は知らなかったのですが,人によく踏まれる場所のクローバーは四葉になりやすいそうです.せつない.

答C:兄による解法(そして,理想)
ステップ1.
 四葉を用意します.
ステップ2.
 兄を用意します.
ステップ3.
 二人の手を,繋ぎ合わせます.

(2002/11/23)

2002/11/21

 RePure#8-b 「壊れていたユニコーン」

「東風が吹いたら」のときに,リピュアのBパートモノローグは基本的に公野櫻子のテキストに準ずるという旨を書きましたが,私は鈴凛たちのキャラクターコレクションを読み足りなかったかも知れません.つまり,四葉に限って言うならば原作とアニメとの違いは明らかでした.その違いは四葉という人を知る上でとても大切なことであると思われますので,私が昔に書いたことの多くを含みますがここに改めてまとめます.

結論から書くと,今回の話は原作(キャラクターコレクション)の「壊れたユニコーン」を元としますが,「ビッグベンの下で」で描かれた四葉の寂しさに解釈を与えることで話の筋を変更していました(両作とも電撃文庫のRePureセレクションに収録されています).その結果,四葉にとっては幸せな話となりましたが,一方通行の心を語りがちな寂しい彼女の,空想と言われても仕方のない想いをふくらます様子は日本行きのトランクに詰め込まれたまま行き場を失ってしまいました.だから,幸せな四葉に置いてけぼりにされたほうの四葉の気持ちは,ここで少しなりと解放してあげたいと思います.

それぞれ何らかの行き過ぎたところがある妹たちのなかで,四葉の行き過ぎている点は兄妹になるためにイギリスを発ったということ,つまり,自分が兄の妹でなくてはならないと強く意識しているところです.彼女は来日に際して次のような決意を語ります.

「いっぱいいっぱいチェキして,離ればなれでいた分を取り戻して,【ホントの】ホントに仲良しの兄妹になるの.」(原作第1話「壊れたユニコーン」p.9.アニメでは【】内を省略)

仲良しの兄妹になりたいという気持ちは普通のことかもしれません.ですが,およそ「ビッグベンの下で」で語られているよう,イギリスにいた頃の四葉は兄と呼ばれる続柄の人が日本に存在するとしか知りません.そして,学校生活でかみ合わないことが多くて寂しい思いをしていた彼女は,兄に対して一方的な思いを募らせていました.

「でも,四葉,予感がするの! 絶対絶対,四葉のこと,1番わかってくれるのはきっと兄チャマだ,って.四葉のさびしい気持ち……兄チャマだけが埋めてくれるの.」(原作第6話「ビッグベンの下で」p.71.アニメ版での台詞は後述.)

イギリスの四葉にとって日本に住む兄は,離れ離れだったのだけど自分のことをよくわかってくれる兄でなくてはなりませんでした.では,離れ離れでない兄を目の当たりにしたとき,彼女はどう振舞わねばならなかったでしょう.彼女がイギリスで過ごした時間は兄が理解してくれるという予感に支えられていたから,今その証明として二人は仲良しであらねばならないのでした.

「四葉と兄チャマは【とっても仲良しの兄妹なんだけれど】,ずーっと離ればなれで育ちました.」(原作「壊れたユニコーン」p.8.アニメでは【】内を省略.加えて,"ずーっと"は"ずっと"に変更(些細ですが).)

「壊れたユニコーン」は原作の第1話であるため,ずーっと離ればなれで話すらしたことのないらしい兄とどうして「とっても仲良し」であったのかは,第6話における上述のくだりを読むまでよく判りません.そのため,このすれ違った言い方はアニメでは省略されています.ひとまず,"ずーっと離ればなれで育ったけれど,今はとっても仲良しの兄妹です"との違いを気に留めておいてください.同じようにも聞こえますが,四葉によると,四葉と兄とはそもそも仲良しなんだけど,離ればなれで育って,それと同時に兄のことは続柄程度しか知らないのです.

さて,今回のアニメで最も変更があった点は,原作では四葉が手に取ると落ちて壊れてしまうユニコーンが,はじめから壊れているという点です.幼い頃から四葉の側にはユニコーンの像があって,誰からもらったものかは判らないのだけど彼女はいつもそれに守られているような気がしていました.そして全く同じ形のユニコーンを四葉が兄の部屋で見つける,というところまではどちらも同じ筋です.

原作において,ユニコーンがまるで四葉の手を蹴ったかのように落ちてゆく様は,兄から嫌われてしまうかもしれないという悲しみに対して為すすべもない様子を想像させます.そんな風に不安と悲しみで一杯の彼女は,ユニコーンの足の裏に『四葉2歳のお誕生日に』とあるのを見て,泣くのをやめて頭を働かせ始めました.だって,会ったことのないはずの兄の部屋に2歳の四葉のことを記したユニコーンがあるのは大矛盾じゃないですか.

「これってきっともしかしたら…….うぅん……チガウ,これはきっと絶対に,このユニコーンは兄チャマがくれた……遥か遠く日本からやって来た兄チャマからの贈り物だったんだ……」(原作「壊れたユニコーン」p.16.アニメ版の台詞は後述.)

こうして,兄はイギリスへ来たことがあることになってしまいました.その推論の結果として,四葉は次のような兄の気持ちを知ることになります.

「兄チャマの気持ち……四葉がゼンゼン知らなかった兄チャマの気持ち,ちょっぴりだけ,チェキできたの…….」(原作「壊れたユニコーン」p.16.アニメには該当する台詞なし.)
「四葉と兄チャマは,ずっと離ればなれだったけど,【でも……】ホントはずっとずっと昔から,つながってたんデスね♥」(原作「壊れたユニコーン」p.16.アニメでは【】内を省略.)

ユニコーンと誕生日のメッセージが兄の部屋にある理由について,ヒントがこれっきりではなんとでも推理できると思いますが,そこは名探偵ですので四葉にとって必要な答えを正しく発見していると思います.もとは二つで一組だったユニコーンを二人で分けて,兄はその思い出を写真の裏にでも書くかのように「四葉2歳のお誕生日に」と自分のほうのユニコーンに書いておいたのでしょうか.そんな風に想像したのは,兄に嫌われてしまうかもしれないという悲しみに襲われた反動だったかもしれません.この話において兄は冒頭で四葉と別れたきり登場することがないので真相は闇の中,それにしても四葉が兄の気持ちを確信することができるのは,イギリスにいた頃と同じ,つまり,兄が不在のときのみなのです.

アニメのほうでは,兄の部屋のユニコーンは足がすでに一度折れていて,それを直した跡が残されています.四葉にはなにも不手際はありません.そして,裏に『よつばちゃんへ』のメッセージを発見した四葉は推理を働かせるまでもなく,思い出すのです.

「これは,これはもしかしたら……そう,このユニコーンは兄チャマがくれたんです.遥か遠く日本からやって来た兄チャマからの,贈り物だったんだ……」(アニメ版)

ここでは,原作で見られるような,きっと,うぅん,チガウ,きっと絶対に,と強く想像力を働かせる姿はありません.それもそのはず,このとき四葉はもともと彼女の中にあった記憶を,ふとしたきっかけで再発見したに過ぎないのですから.もしかするとあのユニコーンは,古いおもちゃ箱の底にあるのがふさわしかったかもしれません.そして,彼女はそれを取り出しました.

一般に記憶とは不完全なもので,原作とアニメを個別に見ると,それが本当に思い出された記憶だったか創作したストーリーであったか,あるいはその交ざったものであったかは一概に言えないかもしれません.しかし,両者を比較したときにその差異が浮かび上がります.アニメ版では上で引用した「ビッグベンの下で」の話を,時制(因果)を逆転した上で挿入しています.

「絶対絶対,四葉のこと,1番わかってくれるのはきっと兄チャマだ,って.だって会えなかった時も四葉のさびしい気持ちを兄チャマだけが埋めてくれたから.」(アニメ版)

イギリスから遠い国に住む兄について思いを巡らせて,兄は「1番わかってくれる」に違いないから今の自分の寂しい気持ちをきっと「埋めてくれるの.」と想像する原作と,自分が兄について思いを巡らせることで兄が寂しさを「埋めてくれた」から兄は自分のことを「1番わかってくれる」アニメ版と.両者を比べると原作の四葉の足場のなさが際立ちます.ここでは,兄は自分のことを最も判ってくれるんだ,ということが全てに先立っています.だから,彼女は砂上の楼閣が崩れること,兄から嫌われることを恐れるのです.

アニメで四葉の思い出した記憶は,遠い昔,イギリスにやってきた兄が四葉にユニコーンを贈り,四葉が落として壊してしまったそれを,兄が自分のユニコーンと交換し,持ち帰ったというものです.この思い出は四葉にとって理にかなった幸せのかたちであると思います.しかし,四葉の前後が転倒したものの考え方とそれに伴う足場のない寂しさは巧みに忘れられて,さっきのたとえ話を続けるならば,出てきたユニコーンの代わりにおもちゃ箱の底へ納められてしまったように感じられます.

ところでゲーム版の四葉にも原作に準拠した足場のなさが見受けられます.本当の兄妹でなくてはならないという四葉の思いは時々裏返って,兄が自分のことをほんとうの妹だとは認めていないと思い込む節があります(オリジナルストーリーズのクリスマス話,ポケットストーリーズの七五三の話参照).ゲームでも,いつもキスしてくれないからほんとうの妹だとは思ってないんだ,となんの前触れもなく泣き出すことがありました.四葉の言葉を素直に受け取ると,非血縁エンドにおいて四葉がもらわれっ子であると兄に告白することは自然な流れです.ただ,私は四葉の寂しさについては原作の描かれ方だけでも十分に感じ取れるように思います.

アニメの話に戻りますが,アニメのほうにしかない台詞にも多少の転倒した考え方が交じっています.

「四葉と兄チャマの二人だけの秘密ができました.」(アニメ版)

秘密とはユニコーンの思い出のことを指しています.ここで四葉はもともとあった記憶を思い出しただけなので,それを新しく手に入れた秘密として採り上げるのは寂しすぎるかもしれません.原作で四葉が手に入れる二人だけの秘密とは,兄がドーナツ好きである,というような些細なことですが(第2章「犯人はこの部屋にいマス!」)それはユニコーンよりはよほど彼女が掴んだ新しい幸せだったと思います.

兄は四葉のことを1番判っていて,一方で四葉のほうは離ればなれだった分を取り戻すために兄に会えたら兄の秘密をチェキしまくるのだと言います(原作「ビッグベンの下で」p.71から72のあたり).だけど,四葉がたわいもない事柄で兄との関係を見失って不意に泣き崩れてしまうのを見ると,これは自分が兄をチェキする姿を兄が自分をチェキする姿に重ね合わせた,極端な裏返しの態度として感じられて仕方がありません.彼女はなにより自分のことを兄に知っていてほしい,見つけてほしい.ゲーム版では四葉が怪盗クローバーに扮して街に潜み,兄に自分を探し出してもらうための挑戦状を出すということがありましたが,あれは切実な思いで.今回の岡崎律子さんのエンディングテーマ「Be happy, please!」は,"あいにゆく"とか"みつけだす"というキーワードから四葉が兄に対してしたいことを唄いあげているように聞こえますが,四葉が兄にしてもらいたいことであるとして聞いたほうがしっくりとくるのではないでしょうか.

"Be happy, please!"(岡崎律子)

よろこばせたい
たのしませたい
世界中のどこからだってあなたがみえる

どうしてもどうしてもあいたけりゃ
それはかんたん
あいにゆけばいいのね

よろこばせたい
かなしませない
世界中のだれよりもあなたをしってる

もし
そのこころなやますもの
あるならすぐにだって
みつけだしてみせましょ

そして,アニメで描かれた四葉の幸せな様子は,反転して見たときの寂しさの向こう側にいっそう感じ取ることができるように思います.

2002/11/19

 昆布茶はむしろ必ず注文しています.という感じのエピソードを積み重ねてるうちに,いつの間にか周りから年寄りくさいと言われるようになってしまいました.ところで,前はイソップ童話だったのがグリムのすっぱいぶどうの話に変わってるところがミソですね?

2002/11/18

 久しぶりにイラストサイトをぐるぐるすると,いつの間にか世界は広くなっていました.

何事にも自信のない今の状態は全く悪いので,頑なにマージしてこなかった世界を合わせてゆこうと思います.画家さんへのアンテナ錻力空中線を追加しました.リンク先は数年前のままなので,しばらく他をぐるぐるしたいと思います.あと今まで描いた絵の整理もしたい.

濱口よしたかさんの10/21の話.下敷きに落書きしていた頃,というのは懐かしいです.ノートも落書きだらけだったなぁ.楽しかった.今思うとあれは全部教壇の上の先生にはばれていたはずです.話聞かなくてごめんなさい.

16色CGが消えていったみたいに,カンバスサイズとかドットコントロールによる「もば絵」らしい絵,というのはなくなってゆくんだろうし自分でもいつか描かなくなるんじゃないかと思います.ただ,もば絵を描いていて楽しかったという思い出はなくならないはずです.

私は今,けしてノートに落書きをしたいとは思いません.だけど好き.

 私の印象だとシスプリ同人さんの半分くらいは女性です.実態は判んないですが,好みのものを選んで記憶していると,そんな感じに思えます.昨日の話はそのことも念頭においてました.お互いをアネキとか姉チャマとか呼び合う彼女らはとても楽しそうです.そんなとき,敵わないというかやっぱり遠い世界を見ているような気分になります.ところで,兄のいない妹はこのごろスールと呼ばれます.妹がほしい,という言葉はいまやシスプリの文脈を離れてマリみての世界の響きを持っているかもしれませんね.

 函館出張のうちに考えたことが膨らんで,思いあまって「私は研究が嫌いなんです」とボスに打ち明けたら,またいつものように子供をあやすような感じでうまく言われてそのうちに騙されてしまいました.若輩者なので言葉では全く勝てません.だけど,ボスは私がなにかにつけ下手くそなのは言い方の問題だというのですが,私にとってはむしろ好きか嫌いかの気持ちの問題でした.

研究とものをつくるのとどっちが好きなんだか判らないので,きっと研究だろうとまずは決めて5年間そう唱え続けたのですが,研究成果はともかく気持ちがついてきませんでした.唱えるうちに気持ちが従うなんて言ってたのは誰でしたっけ?(私です.)それで全ての考え方が覆るとは思いませんが,5年間唱えて駄目だったというのは,私にとってその理由を気持ちへと還元するだけの説得力がありました.

と,打ち明けてすっきりしたら研究のことが好きになってきました.根っこが天邪鬼でしょうか.あと,言葉でなく気持ちに還元して泥臭くゆかないと,同じ土俵ではあの人に一生勝てない気がします.

2002/11/17

 朝近くまで末永と電話.忙しいのに付き合ってくれてどうもありがとう.コミティアへ行く元気はありませんでしたが,夕方からよんぱちさんと祐翔さんと合流しました.祐翔さんは私などよりよほどしっかりした方でしたので,年下とお聞きしてわが身が恥ずかしく.気のおけない関係のお二方に交ぜて頂いて楽しい時間を過ごすことができました.どうもありがとうございます.

よんぱちさんに見せて頂いたBABさんの鉛筆絵本があまりに素敵だったので,コミティアへ行かなかったのを後悔しました.他の友達も行っていたので,気張って行けばよかったですね.前回のコミティアX2で見た「ちゃぶ台返し」の話をしたところ,今回のティアズマガジンにちゃんとレポートされていてウケました.

博論についてご心配頂きましたが,日常生活に影響が出るくらい深みにはまった文章を書かないよう気をつける,ということで区切りをつけられたかと思います.例えば昨日みたいなのはぜんぜん問題ない.はるか昔の思い出を文章に交ぜると業が積もります.もしも書くならば,あまり遠くない,できるなら今日一日の思い出くらいにとどめておくのが健康には良いと思います.sense off から二年経ってようやく気付きましたよ僕は.今日からはヘルシー曽我です.


 ひらしょーさんがプレイしておられるので,せっかくだから前に書きそびれたことなどを追加します.

ノーマルエンドでは特定の女の子に殉じ過ぎてしまった結果として不幸な人が増えるのですが,おざなりに終わらせるのではなくてしっかり時間をかけて終わらせるので,選択肢で失敗したという風にがっかりすることがないのは良かったです.奈都美,深佳,遥香の話しか知りませんが,明らかにアレな世界で彼らが希望はなくともしぶとく生きる様は好きです.救われないし希望もないけれど夢はあるというところかしら.

私がプレイした当時は高速スキップ可能なパッチがまだなかったので,二週目以降は共通イベントが重たく感じられました.発売当時はシナリオの不整合もあいまって評判を下げたみたいです.おっしゃる通り不整合は脳内で保留できますので,むしろ重いのが肉体的に苦痛でした.

  部屋で後輩のかけていたシスプリラジオが耳に入ってきたので聞いていました.何かの募集をしていて,リスナーの女の子が妹として兄に語りかける録音テープがいくつか紹介されていました.名前は自分の名前か架空の名前か,脚本も自分で書いたものです.かわいらしいもので,良識ある人は痛さを見るかもしれませんが,こういう背徳的な遊びはおよそやってて面白いに決まっているのです.パーソナリティも含め女の子たちが楽しそうに妹ごっこしてるのを聞いていると,シスプリを女の子たちにとられてしまったような寂しい気持ちが少しだけします.


 成層ノート

strato-naut

9月にイタリアへ出張したときのことです.行きの飛行機で腕時計の針を時差の分だけ回そうとしたら,時計の使い方が判りませんでした.いつもは自動で時計を合わせてくれる電波時計もこのときばかりは無用の長物で,機械に頼りきりだったのが裏目に出ました.

適当にいじっているうちにどうにかデジタル表示だけをイタリア時間に合わせましたが,アナログの針のほうはそのままだったので,思いがけなく世界時計が出来上がりました.上のアナログが日本時間,下のデジタルが現地時間です.

ミラノから鉄道で一時間ほどのクレマという地方都市で夜を迎えました.ダイアルアップしてアンテナで日記の更新時刻を眺めていると,日本のみんなは8時間先の世界を過ごしていました.サマータイムなので時計の上では7時間.なんにしても置いて行かれたような気持ちになって,私の時計は電波時計でも世界時計でもなく実は亜高速の宇宙時計で,もうみんなと同じ時は過ごせないのだと馬鹿なことを考えました.

時間といえば前回の小さな魔女の話のなかに,次のような挿話があります.

むかし,魔女は独りぼっちではなく,パートナーである猫と一緒にいたのだそうです.魔女と猫との間には友達以上,もしかすると肉親以上の深い繋がりがありました.魔女のもつ魔法がどんなものになるかはすべてパートナーの猫によって決まっていましたし,猫は魔女と心を一つにすることで,世界の深淵の知識に触れることが出来ました.

あるとき,魔女と猫との間に大きないさかいが生まれました.それは,ある一人の魔女が「宇宙を飛ぶ力」を発見したときのことです.猫たちは空の世界に憧れていました.そしてその向こう側にあるという広大な宇宙は,彼らに無限の夢と希望を感じさせました.けれども魔女たちは,空や宇宙以上に今,自分たちのいる地上の世界を愛していました.そのころほうきにのって飛ぶことの出来た魔女たちは,もしもほうきの翼を休めるための地上の世界がなかったら,遠くへ旅をすることなんて出来やしないと考えていたからです.そういうわけで,宇宙を飛ぶ力の使い方について魔女と猫とは大いに言い争いました.

猫たちは宇宙へゆけばたくさんの新しい発見があるに違いない.それはみんなを幸せにするだろうから,この力をどんどん使おうと考えました.魔女たちは,もしも地上がまるで見えないような高いところにある宇宙へ行ってしまったら,みなは帰るべき地上のことを忘れてしまう,まだみぬ未来ばかりを見ていては今の時間を忘れてしまうと思いました.そしてそれは不幸なことだから,そんな力は捨ててしまったほうがいいと考えました.

そのうちに,宇宙を飛ぶ力を見つけたそもそもの魔女は,いさかいを嫌って独りで宇宙へ旅立ってしまいました.その後,魔女の言い伝えによると,やっぱり今の時間を忘れてしまった彼女は宇宙まで飛ぶための足場を失って,宇宙と地上の間の成層圏で独りきり悲しい歌を唄っているのだといいます.また猫の言い伝えるところによると,彼女は飛行眼鏡を持たなかったために成層圏の凍気で視力を失い,高度10000メートルの世界をあてもなくさまよっているのだといいます.

今週は函館大沼へ出張で,函館空港からのバスでは連れの後輩ととりとめのない話をしていました.そこで後輩が私に問題を出してきたのは少し前に仲間で盛り上がったという話で,象を冷蔵庫に入れるために必要な3つのステップは何かというものでした.そりゃ(1)レイコを用意して(2)レイとコに分けて(3)間にゾウを挟むんでしょ,と答えたら,○○さん,日本語のとんちじゃないんでもう少しアルゴリズムっぽく?答えてください,と言いながら笑います.この答えは彼の気に入るものだったようです.さて,たぶん象を解体しちゃいかんよな,ああ,さっきのヒントでなんとなく含みが判りました,(1)冷蔵庫を開ける(2)象を入れる(3)冷蔵庫を閉める,ですね.はい正解.

この気がきいた問題にはあと三問続きがあるのですが,あまり関係がないので省きます.それよりも,口ではあのように答えましたが,答えてしまった自分が後になって嫌になりました.ここで私が圧倒的なまでに望ましいと思う答えは,「象は冷蔵庫に入らない」であるはずなのに.どうしてそう主張しなかったのでしょうか.

魔女の絵はこれで第二稿です.そもそもPrismPaintでは私の十八番である星の絵が描けないんじゃないかと思いこんでいたのですが,半年近く前によんぱちさんの描かれたライオンさんを見て強いショックを受けました.ロマンチックで,しかも480x640pixelのPrismPaintではなく240x320のPrismPocketのほうで描いておられます.

私は星の絵をもう二度と描けないという暗示を自らかけていると思われますので,それを破ります.ねふぁさんのもば絵こんてすとに間に合うよう,行きつ戻りつしながらなんとか描き進めているところです.第一稿のときよりどうにか絵になって来たように思います.

("これは僕の読み重ねたノート,成層圏をゆく人たちの記録." PrismPaint3.0beta3,2002/11/16)


 もうすぐ冬です.冬眠に足りるだけの女の子話は備蓄できましたか?

「痾」(麻耶雄嵩)を読み終えて,私の「殺人リレー」も終わりました.イタリアの話とか尾崎翠とか林矢子さんとか中勘助とか色々書きたいことがあったのですが,二ヶ月かかっても文字にならなかったので,いつか書けるようになってからにします.

また寂しくなったら何か書くと思いますが,ひとまずは博論を書くための休暇とします.それでは.

(2002/11/13)


 水月,今日も花梨の話の続きです.意識することなく体に触れる度,言葉を交わしあうことで,気まずいなんて引っ込み思案になる間もほとんどなしにそれを想いへと昇華してゆきます.そんな彼らは,こと素裸で触れ合うに至っては一つ肌を触れ合わせるごと言葉を交わさずにいられません.その一言一言が胸に融けてゆくのをじっくりと感じながら,一行進むのに何十秒もかかって,読ませて頂きました.地の文のない文章は基本的に正視できない私ですが,徹底的に言葉と接触とが対応づけられていて,触る,話す,想う,を繰り返す螺旋にイカれてしまいました.想う,話す,触るの順じゃないの.隠すものがなくなった人間の言葉っていうのは本当おもしろくて,おかしくて,正直で,布団ひいてからの彼らの言葉は自然とこみ上げてくる笑いに支えられていて,とくに互いのシモの話など笑うしかないもので,そこで言葉が相通じるようになってきてようやく,想う,話す,触るという順序へ変わってゆきます.いや,参りました.年寄りには甘い毒です,これは.

山人の女に会ってしまったのは驚きでした.今は亡き母親も山人で,それで透矢の父親は妻のルーツを探しに来たのかしら.那波ははじめ怖かったんですが,現金なことにそれで底知れぬ怖さはなくなって好意も感じられるようになりました.山人の女ではありませんが,なんといっても私の理想は幼い頃に出会った「薬草取」のお姉さんですから.

神社は八幡さま,透矢は為朝みたい,という連想で,いつか行った沖縄を思い出しました.波上宮という海のほうへせり出した崖の上の神社が印象深かったのですが,そこは残念ながら熊野さまです.琉球になんで熊野さまがあるんだ?というのでよく覚えている場所です.宮代神社は八幡さまだってどこかで言ってましたっけ.そもそも違うかもしれません.那波にまつわる血筋が山人なのか渡来人なのかで話がぱっくり分かれて交差しているような気がしますが,まだ判りません.両者を一緒にしてしまうのかもしれません.オカルト話は柄ではないのでこのへんにしときます.それと,CGが埋まってないのでノーマルエンドへいってしまったのかな.スタッフロールがないのでバッドかも.梓弓は必須だろうという気がしていたので,原因はそれかもしれません.

昨日は夢に花梨らしき人が出てくるという稀有な体験をしたくらいで(わたしはそういうことは過去にない),私の頭のなかは例えるなら花梨脳になってしまっていたのですが,神楽で花梨が倒れてからは伝奇のほうに気を取られて,少し醒めてしまったのが悔しいです.もう少し,あの普通でない状態の私のことを知りたかった.

(2002/11/12)


 水月をまた少しずつ進めています.花梨の話のつづきです.「今日のキミ,ちょっとだけカッコ良かったかも」 ガタガタ震えながら弓引いて,それでもやんなきゃ,頑張れ男の子だよ.翌日になってから「花梨が一緒にいてくれれば,もう少し頑張れそうだから」なんて言ってしまったことを思い出して恥ずかしくなります.言葉の上だけで恥ずかしい台詞を交わしあうとかけ離れた感じを受けるのですが,この子たちは手を繋いで別れの言葉を,蹴ってしまって謝罪の言葉を,包帯してあげて祈りの言葉を,手を重ねあって感謝の言葉を,もう少し頑張れそうだから,震えて倒れて膝枕してすねて怒って,弓を放って腕を抱いて抱き合って.距離を気にしながらもナチュラルにぺたぺた触れ合ってる,話してから触るんじゃなくて必ず触れた後になって言葉が追いかけてくるの,そんなときお互いに物語めいた言葉が口をついて出てくる不思議があります.

いやしかし,若いっていいですね.

(2002/11/11)


 JIMとPiaキャロの映画を見に行ってきましたんで,内容を報告いたします >水姫

引き止めてもらえず傷心のまま列車に乗ってしまうのは,男の子のほうではなく女の子のほうでした.この二人はやはり交換可能ですね.そして美崎海岸行きによく似た理由で乗り合わせたともみとさやかは,台風の訪れた海岸でびしょ濡れになりながら互いの想いを吐露しあったり,そのまま二人で海に身を投げたりするうちに,最後には手と手をぎゅっと繋ぎあうようなエッチくさい関係になるのでした.そんな,ともみとさやかの恋物語です.あとやたら出てくる露天風呂でも,ともみとさやかは隣同士で入っていました.ともみ様ないんぺたんで非常によろしい.よい.よかった.

JIMがオチをつけてくれることに期待しつつ,以上で報告終わります.

帰りにアニメイトでシスプリカレンダーを買いました.現在曽我家では全国に先駆けて2003年6月です.その後,池袋餃子スタジアムでたらふく餃子を食べてきました.先日のマグロといいJIMとの夕食は一品づくしが続きます.「100円玉ないんで細かいのでお願いできますか」と不意に綺麗な関西弁のイントネーションと出会ってとても和みました.「神戸南京町の餃子」は店員のお姉さんもちゃんと関西人で素晴らしいです.

先週関西へ帰った時にも生粋かつとても可愛い関西弁な人がいて,嬉しすぎたので思わず「むっちゃ関西弁ですね!」と言ってしまい,恥ずかしい思いをしました.それは関西で言う台詞ではない.

(2002/11/10)

 MK2さんのところの質問にこたえてみる.(2002/11/10)


 リピュア#6

小さい頃の私というものは今の私とは別個の生き物として存在するように思います.はじめての記憶の中にある家は川の堤防の上で,周りになにもない寂しいところでした.その荒れた川のそばを幼稚園へ上がる前の私が歩いてゆくのが見えます.次の家は坂の上にありました.そこでは自転車のブレーキを知らない私が坂を走り落ちてゆくのが見えます.そのとき私が見るのは第三者の目から見たちびっこい私の姿で,当時の私の眼がとらえた風景を私のものとすることはできません.思い出のなかで私は小さく姿を変えることはできても私自身にはなれなくて,その小さな私であるらしい子供の前に立って彼を見つめることしかできません.そうすると,小さい頃の私とは何かおはなしの中の主人公のようであって,今の私は時折そのページをめくって,本の主人公に感化されるということがあります.幼少時の不幸な記憶が現在をねじまげたという言い方は恨みがましくて好きではありません.おはなしの中は他人ばかりで,彼の話ではあるけれど私の話であるようには思えません.だけどそれは私以外の誰も読んだことがない本であるという点において私の自慢であるし,私の話であると思います.

幼少時を外国で暮らしたという春歌,四葉,亞里亞の三人はその時代を小さい頃の話として胸に棲まわせていて,活動的な春歌と四葉は極端にその影響を受けています.四葉は不一致の多いイギリスでの生活のなかで,顔も知らぬ兄のことを深く知りたいと思ったこと,ほんとうの兄妹になりたいと思ったこと.春歌は大好きな祖母からいつも聞かされていた日本の話.彼女らはたとえば,昔からずっと兄のことが好きだった,という言い方はしないと思います.昔の自分は別の自分かもしれなくてそれが今の自分と連続してるかどうかなんて判らない.ただ,大切にしたい気持ちは,あのとき強く何かを願っていた小さな女の子の話と,そして今またここにある私の気持ちである,と.自分が連続していると考えられないことは回りくどい思いかもしれませんが,彼女らが遠く離れた思い出と対話して生きるさまは,寮母の先生や祖父祖母たち,いつか夢見た未来のこと,その過去か未来かわからないような時間の断片を巻き込んだ豊かなものであると思います.

鈴凛が大切に持ってるジジの話ももちろんそうです.話には触れませんが高いアニメ力でした.ただ,モノローグが基本的に公野櫻子のものであるということも念を押しておきたいと思います.この人の文章は記憶の話をするときに最も精彩を放ちます.私が四葉のことを好きな理由の8割くらいは「壊れたユニコーン」と「ビッグベンの下で」のためであるし,鈴凛ならば今回の「東風が吹いたら」と「もうひとつの未来」.後者は鈴凛の形代の話なのです.

この一週間ほど,シスプリ関係で見に来てくださった方が多くて嬉しく思います.なかでも千影の兄くんであるむぎさんに千影の話を読んでいただけたことがハッピーでした.有難うございます.

(2002/11/9)


 時間の流れが無茶苦茶で申し訳ないのですが,今年4月の日記を掘り出しました.順不同になりますが検索エンジン入れたからいいですよね? 【】は今日つけたコメントです.(2002/11/6)

 【忘レナ草の】沙耶の後だから狙ったというわけではなく,帰りの新幹線では谷崎潤一郎の「卍」を読んでしまった.なぜかザウルス版があったのだ.作中によく登場する大軌というのは大阪電気軌道,つまり現在の近畿日本鉄道の前身のことである.園子と光子が奈良へ行くときに利用しているので読んでいれば自然に判ることではあるが.もちろん当時,奈良駅は地下化されておらず,油坂から奈良駅までは路面を走ったと聞く.若草山というのは東大寺の裏手から登ることのできる草色の丘.ここからの展望は今でも奈良一番の景色だが,奈良公園から西へ伸びる線路がまっすぐ生駒トンネルに吸い込まれてゆくだろう当時の眺めは,ずいぶんと旅の気分を感じさせたのではないか.神戸と比べれば田舎臭い終着駅である.春のわらび採り,夏の草いきれ,ふわふわとした若草の土は女学生気分抜け切らぬ女の子二人が肩を寄せ合うには,全くお誂え向きであった.姉とか妹とかの話を以下引用.

「あほらしい!あんた女学生間のことちょっとも知らんねなあ.誰でもみんな仲のえゝもん同士やったら,『姉ちゃん』や『妹』や云うのん珍しいことあれへんわ.そんなこと不思議がんのんあんたぐらいなもんやわ.」

物事は,ごく普通にうまく行かない.機会は,いつだって失われる.
理由は,正確に読み取ることができない,それ自体悲しいことかもしれないけれど,それは相手が生きていて話すことができても起こることだったから,だとしたら,光子のいないことがただわけもなく悲しい.【園子が夫のハズさんに言った台詞.ハズは園子と光子の関係が常識を外れたものであると考えている.私のコメントは沙耶の文脈が交じっていてよくわかんないですね.】

「光はきっと日曜になると機嫌が悪いの.なぜって一日姉ちゃんに会えないのだもの.なぜハズさんがいると来てはいけないの?でも電話ぐらいならと思って,さっきかけたらハズさんと一緒に鳴尾へ苺狩に行ってお留守!まあお楽しみ!
 ひどい,ひどい!
 あんまりやわ,あんまりやわ!
 光は一人で泣いています.
 あゝ,あゝ,あゝ,
 くやしいからもうなんにも云わない.

Ta Sœur Clair

Ma Chère Sœur Mlle. Jardin


 あて姉ちゃんを「マダム」とは云わない.
 「奥様」---まあ嫌な! 思てもぞっ とする!
 でもこんなことハズさんに知れたら大変ね,
 Be careful!
  姉ちゃんはなんで手紙に「園子」とサインするの?
   なんで「姉より」としてくれないの?

これも他人が書いた文章とは思えませんが.こんなこと書いて送ってくる相手を,忘れるなんてできない.なぞっている形は小説の読みすぎとハズの言う通りであるけれど,遊びの形から始まることが悪いということもない.いいということもない.良し悪しなんぞ知らん.(2002/4/22)

【いや,やっぱダメでしょう.触りすぎるのもまた良くないのです.「卍」は私の安全弁で,ときどき,あっ,と思い出す.「白き花びら」(マリみて,「いばらの森」に収録)もそうなるでしょう.ほどよく触るのは難しいものです.年齢の遠い佐藤聖さんの話はまだ冷静に読めますが,園子のように学校を出た人の話になると身につまされるものがあります.白薔薇さまこと聖さんには幸せになっていただきたい.】



 記憶の技法.

西尾維新のクビシメロマンチストを読んだら右京区の風景が懐かしくなって,おととい京都市の西半分へ足を運びました.いーちゃんの住んでる場所についてはクビキリを読んだときの予想に反しまして千本中立売だったらしく,中学生の頃何度も通ったその場所へもう一度行きたいと思ったのです.

京都駅から50系統のバスに乗って,それはもちろん鹿鳴館大学ゆきではなく立命館大学ゆきで,バスはおよそ北へ向かい堀川中立売で西へ折れます.私はそのちょうど千本通と交差するところで下車するわけです.するとおかしい.あるはずのアーケードがありません.空は高くひらけ,見通しの良い南北へ伸びる道.千中から西へ続く道には特徴のあるアーケードが続くのがバスに乗っていれば見えました.バスはそこで再び北へ折れ,西,北,西とジグザグに立命館を目指します.私が覚えていたはずの風景は千中から北へ続く道,千本通沿いに両側の歩道は薄汚れたアーケードで覆われていて,市バスが通る時にはただでさえ狭い千本通が余計に狭苦しく感じられる.そのバスに,13歳か14歳かの私が毎朝乗っていた,はずなのに.

たぶんね,東から千中の交差点へ入るバス,その先に見えるアーケードの風景,北へ折れるバス,そこに本当はアーケードはないはずなのに,せまっ苦しいものとして記憶していた視界をふさぐあのアーケードは,私が乗ってたバスの暗い天井のことだったのだと思います.

アーケードの柱の跡がないか,調べて歩いたんですけどね.思い出はどうも間違っていたらしく,それに加えてぱっとしない町並みに間の抜けたマクドナルドや無印良品が出来ていたりして,がっくりときました.

ここまで来たら天神さんへお参りしないと失礼な気がしましたので,北野天満宮まで歩きました.あ,そうそうこれ.まだ間に合うかしら.七五三は奈良の率川神社にも行ったはずですので,なんだかあちこち連れ回してますが.

とはいえ,6年間この界隈へ通いながらも天神さんは二度目という不信心です.本殿の前にはぴしっと一列に待つ人たちがいて,私たちもそこへ並びましたが,一跪一礼,二礼一拝,,,なにか違う? 言葉も言葉の意味もうろ覚えすぎますので,前の人のやることをじろじろと見ながらああ二拝二拍手一拝を.拝って礼のことなんですね,覚えました.特に頼みごとはないので頭は真っ白のまま手を合わせます.近年はいつもそうです.

ひどい寒さで雨まで降ってきたから,参道のたこ焼きを買ってホクホク食べながら歩きました.四葉の口のまわりについた青海苔とってあげて.

天神さんから今出川沿いに少し西へ歩くと天下一品(熱狂的なファンが多い京都のラーメンチェーン店)があります.この○○町店は私を病院送りにしたということになっていました.私は高三になって初めてここへ連れてきてもらったのですが,その直後,たまたまお腹の病気で入院したものだから,これは悪い冗談.そもそも天一のスープが粉っぽくてお好み焼きを作れそうなくらい濃いという冗談のような通説,またすでに入院の必要な体だったこと気づかずこってりラーメンを食べて(そりゃあ)気分を悪くしたという真実味でもって,ホント交じりのウソはウソ交じりのホントへとたやすく入れ替わるのです.

たこ焼きを食べたところでしたが,せっかくなので10年ぶりのその店へ入りました.やっぱり,ここのラーメンは特徴的な味わいがありますがさほどおいしいわけではありません.だのに部活帰りの沢山の彼らがこのお店を愛用したのは,みんなでラーメンを食べるのがおいしかったのでしょう.入院のこととか在りし日の彼らとかそういうことを考えていると,少しおいしかった.

天神川と呼ばれる小さな流れが,立命館のある衣笠のほうから北から南へ天神さんの西を抜け,いつか桂川へ合流します.天一のすぐ側にその川へ架かる5メートルくらいの橋がありました.その50歩先には見慣れたバス停がありました.バス通学の私にとって,高三のその天一の日まで天神川より向こうの世界というのはありませんでした.天神さんにもついぞ行かずバスで通り過ぎるばかり.そもそも買い食いだなんて,したことなくってよ? その壁が,あの日,天一までずいぶん歩いたような気がしたのですが,それがバス停からたった50歩先の場所だったなんて.当時は奈良と京都との間を決められた方法で機械的に往復することしか頭になかったようです.

近くまで来てしまったので母校へ寄ることにしました.いやもちろんはなから寄ってゆくつもりだったのですが,特に仲の良かった教諭もいないし日曜日ですから何を期待することもありません.ただ,改築を重ね近代的なビルディングになっていたのを男子校の気安さで門をくぐり,友人へ見せるため二三枚の写真を撮りました.戦後まもなくの建物で,古くて薄暗いけれど丹念な掃除によってぴかぴかであったことが自慢の校舎は,もう一つも残ってませんでした.カトリック校だけあって掃除や服装,作法にはやかましい,今のガサツさはそのころの反動でしょうか.マリア様がみてる,も「お聖堂(お御堂)」と呼んでたからにはカトリックですね.そもそもマリア様だからプロテスタントは有り得ませんが.うぶな中学生の間はみな真面目に学生帽(!)かぶってカラー留めてたような世界です.高校に上がって擦れてくるとそういうのはなくなって着こなしも颯爽としてきます.リリアンは女子校なのできちんきちんとした身なりがさまになりますが,男の子の格好よさというのは崩していないと出せないところが多かったように思います.見せる相手などさほどいるはずもないのに,男の子は男の子だったなあ.

マリみての女の子たちを見ていて安心できたのは彼女らの健康さのためだったと思います.「ひみつの階段」を例にとるなら,トーマの心臓のヤコブ館二階端,小公女,指輪物語に長野まゆみと文学少女が好むような本抜きでは,あの寮で生活してゆくのに必要な創造力が働きません.およそ少年と少年の話なんぞに入れ込んでないとしても,単に友達から本が回ってきたという理由で賢治や長野まゆみの一篇くらいは読んでそうな雰囲気です.だって乙女の基礎教養よ? 一方でマリみての彼女らが懸想するにあたってフィクションの介する余地はなく,それよりも白薔薇さまに代表されるようぺたぺたとこちらの体をいじってくる.触る,触られることの嬉しさ.全く,それ以上に何が必要だったというのでしょうか.第一巻を読んでいたときの私の顔はひどく緩んでいたと思います.続きの巻を買いました.

クビシメの話に戻りますが,いーちゃんと巫女子ちゃんが西大路丸太町にある智恵のマンションから帰るとき,『西大路通りを中立売まで登り』とあるのですが,前に書いたように西大路通は中立売通と交差していません.私は西大路を下り,おそらくはこの辺だろうと「仁和寺街道」を左折しました.界隈は狭い道に旧家が並び立ち,いかにもいーちゃんが選びそうなところでした.日も暮れて暗い道をずっと行くと仁和寺街道はちょうど千本中立売のすぐ南の三叉路に通じていました.きっとこの道です.

三叉路そばの古本屋で「京都インクライン物語」(田村喜子)を買って帰りました.本をレジへ持っていったとき,この本を買ってくれてほんとよかったわぁ,とおばちゃんが嬉しそうにしています.この田村喜子の本の大ファンであるらしく,レジの背中のとっておきの本棚に置いてあるのを何度も読み返しているそうです.本を買ったことでこれほど喜んでもらえた経験などかつてなく,私も嬉しいもので疏水の田邊先生のことを少し話してから別れました.

そのまま東京へ帰って,銭湯のおばちゃんに関西へ帰っていたことを話しました.私にとっては東京へ帰るのだし,銭湯のおばちゃんにとって私は関西へ帰るのです.奈良正倉院展の話になって,あれは絶対一度は見に来てくださいよと関西人らしさをアピールしてから湯船に浸かると,さて今日自分は幾つの嘘を考えたかしらと数えます.ぺたぺたすることのない日々に,きっとフィクションは交じりすぎて.低い壁の向こうに響くきゃっきゃという声,女の子は長湯というけれどあれは単に遊んでいるのだ,東京に流れるのは神田川ばかりではなく,僕は声をあげて,先に出るよ四葉,走っててコケたらあかんで.そうすると,

はーい.でも,わたし平気よ,と返事だけは一人前に.


おまけ:京都・大阪の橋めぐり(「二の悲劇」に登場する京都の水場はだいたいここで確かめることができます.)

(2002/11/5)


 

桜瀬りろ

よんぱちさんとこに対抗して.いや私はナンパなのでつい・・・.しかし,髪の色は緑であってましたっけ.

ウイングマンを読んでいたのは小学校4,5年の頃だったと思いますが,その時からりろを特別気にしていたのは既にロリコンのケがあったのでしょうか.基本的に中学のおにいさんおねえさんがメインの話ですので,おそらく自分と年の近い容姿のりろがナチュラルに好きだったのだと思いますが.その頃はまだあおいさんがお姉さん過ぎたのでしょう.あとこれも年齢のせいかも知れないのですが,広野健太よりはウイングマンのほうが好きだったわけで,広野健太は広野健太ではなくウイングマンだったのです.

あおいさんとりろのどっちが好きだったのかということは同世代の人に尋ねてみたいものです.美紅ちゃんでもいいけど.

あー,やっぱり同じ理由で,鮎川よりはひかるだったような.

PrismPocket + zaurus MI-E21 2002/11/4)


 

ぴろをあげる

西木さんへのお誕生日絵です.27日のことなんで随分おそくなっちゃいましたが,おめでとうございます.

うちにあるものはみんな真琴のものだと秋子さんは言うけれど,真琴の持ち物といえるのはやっぱりあのときもっていた財布とぴろだけでした.財布も元をただせばぴろのものだったみたいなので,つまり,真琴の持ち物はぴろだけでした.

だからわたしが大切な人へ贈ることのできるわたしのものはひとつしかありませんでした.

わたしの大切なものをあげるよ.

ぴろをあげる.


絵は幻色鉛筆2+cassiopeia E-750.幻彩で描くといってましたが,ペンのサイズと透明度をその場でちょろちょろと変えるフォトショップ塗りが出来ないので私には使いこなせませんでした.断念.幻色鉛筆は透明度を気にしなくても線にタッチがあるので使いやすいです.ただし,精細な線が引けないのでほわほわっとした絵向き.えーと,線の細い絵を描く場合にはPrismPocketをどうぞ(笑)今ならザウルスE21も安いですしね.


水月を少しはじめました.花梨という子を家まで送りました.なんかさっそく手ぇ繋いでるし,嬉しい子達だな.

『魔法は解かないとね.お姫様から下僕くんへ最後の命令.早く雪のところへ戻りなさい.』

なんて可愛く言う.早くも最終回を思わせるような盛り上がりっぷりでした.女の子にせよ男の子にせよ,自然とこういう風に演じられる人がいるのは嬉しいなあ.

月姫がひと段落ついたのでそろそろD.C.へ戻りたいのですが(index.htmlのサクランボは伊達ではない),体調が万全でないので先送りにしています.机に書いたさくらの名前も擦れて薄くなってきましたので,消える前にはなんとか始めたいのですが.

月姫はひさびさに終了したゲームです.何をもって終了とするかは客観的な基準を設けていないのですが,用意された登場人物の話は全て読んでいて,あと途中で終わるような話も心残りがない程度には押さえている状態のことをそう呼んでいます.だいたいそれくらい付き合ったゲームのことを私は好いてるのだろうと思われます.

あまり数はなくて,雫,痕 Renewal,Moon.renewal,kanon,AIR,嬌烙の館,好き好き大好き!,フロレアール,とらいあんぐるハート,ラブちゃ箱,終ノ空.ヴェドゴニア,鬼哭街,アトラク=ナクア,ねがぽじ,days innocent,Treating2U,月姫,歌月十夜,これだけ.

自分で書いた文章を観察する限りにおいては最も好きらしいsense offと胸キュン!の入ってないのがこの基準の怪しいところですが,およそ網羅されてるんじゃないかな.あと足りないっぽいのは青い鳥とD.C.,忘レナ草,BSF.青い鳥は言葉にできないし,D.C.はむしろ変なことを口走ってしまいます.忘レナ草もまだ思うように言語化できてなくて,BSFはイタリアの思い出の品であって,それぞれ妙なひっかかりがあるものたちです.

ちょっとリストアップしてみたくなったので.

(2002/11/2)


 歌月十夜とプラスディスクを終了. これにてシリーズ全てが終わりです.

月姫の話と遠野家の話を一緒にしてしまうと,子供の秋葉がどうしても割を食ってしまいます.屋敷や寮における彼女の尊重される立場を他の場所でも築くことが出来るかというとまだ若すぎるのではないか,志貴が何の興味も抱かない系列グループ会社の話を時々持ち出すあたり,自分の持つ力の有効範囲をまだ知らないような気がします.ある場所でのキャラ立てが別の場所へゆくと全く通用しないことがあって,シエル先輩程度には自分にとって都合のよい場所を作るところから始められるようになるのが彼女の次の仕事です.場所というのは話とか文脈とかと読み替えていただいて結構.遠野家しかしらない琥珀さんによる権謀術数?も遠野家以外で通用するような気がしません.

だから,おおきくなってあの女たち見返してやるんだわ.

種としては成体だけれどまだ一年程度しか活動しておらず言動も幼く見える吸血鬼がいました.プロフェッショナルだけれど体の成長の停止した執行人がいました.年齢を上方修正された戸籍のない娘がいました.年齢と年齢らしさを幻惑させる設定満載の世界によって本当の幼さが隠されてるように見えるのですが,怒ったら怖いとか実は計算高いというキャラ立てはこの場合,愛すべき子供であるあなたを受け入れてあげますよ,とでも言うべき周りからの努力賞であって,甘んじて受けるわけにはゆきません.ひどく情けない気持ちになります.

歌月十夜に限って言えば,全ては夏の終わりの乱痴気騒ぎ,笑い,笑い,笑い,または寂しんぼうの子猫が見た夢なれば,どうか幼い彼女たちに真顔の祝福あらんことを.

(2002/11/1)

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