クローバーランドのお姫様(2) 2001年12月
曽我 十郎

これは,僕が彼女へ贈りたいと思う,夢見がちな作り話です.


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狐がたり



 天野美汐の母親は長患いで入退院を繰り返していたため、小学校へ上がるまでの美汐はよく祖母の家に預けられていた。そんな夜、美汐が眠りにつくまで祖母がお話を読み聞かせるようになったのはいつからだったか、二人のお話の時間は日を追うごとに増え、そこにはこの祖母の創作した話も幾らか混ざっていたと思われる。


第一章. はじまりの狐

 ある夕暮れに狐のむすめが迷い込んだのは、青くかすむ、知らない景色を見下ろす丘の中ほどでした。振り返れば茜色の空は遠く秋の影だけを残して、狐のおうちはその真っ暗の、もうどこだか見わけのつかないところにまぎれてしまいました。

 子供の狐は夜遊びをしてはいけない決まりでした。日が落ちてもまだおうちに帰らない子狐は、宵闇に食べられてしまうのだといいます。この狐のむすめは朝からずっと、病気の母狐の薬になる黄色い花を摘んでいたのですが、日が悪かったのでしょう、今晩必要な分が集まらないままに夕暮れを迎えました。それでいつもより少しだけ離れた場所を探そうと一歩踏み出したまでは覚えているのですが、そのあとはいつの間にか、なんの心当たりもない暗がりの世界へ迷い込んでいたのでした。立ち止まるほどに闇は深くなり、子狐ひとり飲み込んでしまうには十分であると思われます。

 狐のむすめがこれまで摘んだ花をもう一度胸の前にかき集めると、ようやく必要な数の花びらが揃っていました。

『おかあさん、心配しているだろうな、』

 むすめがつぶやいたその上を、すすきの風に揺れる音が通り過ぎてゆきます。それは大きな鳥が地面をかすめて飛ぶように聞こえて、むすめは嘴にかからないようにきゅっと体を丸めました。

 この狐の子供はほんとうの宵闇というものを知りません。日が暮れた後はいつもおうちの中にいて、母狐と今日一日のおはなしをするのです。今日はどこまで遊びに行ったのか、ほんの一歩、薮のトンネルをくぐった先には新しい野原があって、話をするにはこと欠きません。ですが、この日は過ぎた遠出をしてしまったのかもしれません。おぼろげに思い出されるのは母狐の話に出てくる宵闇のことで、それは夜の野原を覆うほど大きな化け物であったり、あるいは子供の魂を引き抜くという透明な亡霊でした。

『どうしたんだろう、』

 怖いような、だけど良く分からないような奇妙な気持ちが狐のむすめの胸のあたりに生まれました。むすめの迷い込んだその丘の風景は、話に聞いていた恐ろしいばかりの夜の野原とはどこか違うように思うのです。見渡すと丘の下では大小幾つもの光が瞬いていました。それは人の家の明かりです。このとき、むすめにはっきりと分かったことは心細いという気持ちだけでしたが、それはおそらく、けして自分とは交じり合わない別の世界を見たときの、せつなさだったことでしょう。


 ・・・


「おばあちゃん、わたしは早くお母さんキツネにお花をとどけたいよ、」

 布団から顔だけを出した姿の美汐が、待ちきれなくなった様子で、そうお願いをした。

「大丈夫だよ。きっと、届けられるからねぇ。」

 子狐になった気分の美汐は、薄明かりに照らされた天井を見つめて、うん、と頷いた。美汐の母の療養する病院は、祖母の家からは遠いところにあった。この夜の美汐は母に花束を届ける夢を見るだろう。二人はそんな物語めいた毎日を過ごしていた。

「おばあちゃん、それとね。ヨイヤミ、って一体なあに?」




第二章. 美汐狐

 天野が狐のことを話題にするのは、真琴のやってきたあの冬以来のことだった。そもそも天野が具体的な言葉を使って昔話をしたことは、これまでにあっただろうか?

 相沢祐一は、そう天野に尋ねかけた言葉を飲んで、ゆっくりと息を吐きながら空のほうを見た。一月の曇り空は間もなく雪を降らせそうで、こんなとき、今、降り始めるという予感のひときわ強くなる瞬間がある。

 言葉にも、そんな瞬間がある。祐一は天野の空を見た。空の気持ちを推し量ることはできないが、大切なのは気配のようなものではないだろうか。缶コーヒーを手に公園のベンチに腰掛けた二人は、体で感じ合える距離にいた。

 だから、祐一は雪を待った。


 しばらくすると、天野が静かに語り始めた。


 ・・・

 それでは一つ、お聞かせしましょう。

 私がその丘に迷い込んだ夜、月はまだ無く、星が空ばかり照らして私の帰り道に影を落としました。その中をしばらく歩いてみましたが、ただでさえ知らない場所です、自分が一体どうやってこの丘までやってきたのか何も手がかりを思い出せません。いくらすすきをかき分けても、前に進んだように思えないのです。私はもう野原の真ん中で肩を抱いて座り込んでしまいましたが、夜空を見上げれば星のちらちらするのが何かの語り合いであるように見えて、独りぼっちの心細さは少しだけおさまりました。

 暗闇の中から伸びてきた腕が私をつかまえたのはそんな時です。腕は太く手は大きくて、私はそこから逃げ出すことができませんでした。

「ようし、これはうまそうな子狐だ、」

 私を捕らえた黒い影が、低く響くような声でそう言いました。影はひょろりとした二本足で、背が私の何倍も高いものですから、この影こそがヨイヤミなのだと私は思いました。

「おっと、少しの間おとなしくしていてくれよ。」

 そのまま袋につめられそうになった私はなんとか逃げ出そうと身をよじりましたが、体が強く締めつけられるだけでした。

 私はヨイヤミの名を呼んでお願いをしました。早く家に帰ってお母さんにお花を届けなくてはならないのだと。

「おまえ、俺のことをヨイヤミと言ったか。ヨイヤミは人を化かすものよ、俺を山師と知ってのことか。」

 影は私を高くつまみ上げて、顔をじっとのぞき込みました。

 私もヨイヤミの顔を間近で見ることになりました。ようやく山の端から姿を見せた月の光が、おとこの彫の深い顔をはっきりと映し出します。瞳の淵は深く、吸い込まれるような静けさをたたえていました。それは物知りそうな夜の生き物の瞳で、ずっと見つめていたいような気がしましたが、目が合うと、おとこは私をぽいと放り投げていいました。

「ああ、目を見ちまうといけない。目を知った相手なんか、食べられるもんじゃない。」

 私はすすき野原にしりもちをついたまま、おとこが立ち去るのを見送りました。よく分からない気持ちで一杯だったのは、私がまだ子供すぎたせいでしょうか。ともかくそれが、私とヨイヤミとの出会いでした。

 そのうちに、ケーン、と高く呼ぶ声が聞こえてきました。おかあさんの声でした。月明かりに照らされた丘は、おかあさんの声に導かれ、道もあきらかでした。

 私がこれまでに一番遠出をした小山の上で、おかあさんは待っていました。ごめんなさい、黄色いお花が集まらなかったの、そう言い終わらないうちに、おかあさんは私を抱きしめてくれました。おまえ、怖かっただろうねぇ、そう言われると、私はなんだか泣かなくてはならないような気分になって泣いてしまいました。でも本当は泣きたくなんかなくて、おかあさんだいじょうぶ、早くお薬作ってあげるからねと、そう言いたかったのです。

 次の日、おかあさんは私が拾ってきた黄色い花のうち、本当に必要な種類とそれぞれの役割を教えてくれました。赤い花、白い花、そして毒の花のことも教えてくれました。それはこれまで一度に教わったことのないたくさんのことでしたが、私は不思議と全てを覚えることができたのでした。


 間もなく、独りぼっちになった私は、心細い気持ちになるといつもヨイヤミと出会った丘へ出かけました。でも、そこに彼が現れることはありませんでした。丘に雪が積もって何も見えなくなった夜、ふもとの街では雪にさえ明かりが点り、人の暮らしを映し出しました。彼もそのなかの一人だろうかと私は想像しました。それから一年が過ぎた次の春、草木が芽吹くとともに私は一人前の娘になりました。そして、野いばらのかんむりを編んで独りきりの成人式を挙げた夜の丘に、彼が私を迎えに来ました。昔、出会ったときのままの何でも知ったような瞳で、「おまえ、ついてくるか?」と言うのです。そのときようやく私は彼のことを心底怖いもののように思いましたが、それでもついて行く気持ちになったのは、怖いもの見たさと独りきりのさみしさとがないまぜだったようです。

 彼は山歩きをなりわいとするやくざもので、ときどき街に下りては騙りをしました。ここより見えるあの丘には古くから千里眼の狐が棲んでいる、そう言って私を袋に詰めるのです。私は秘密の穴を抜けて、彼のふところに隠れます。やぁ、袋のなかから消えてしまった、狐の神通力だ。俺は千里眼の狐から免許皆伝を受けた薬売り、この薬をごろうぜよ、切傷火傷に破傷風、なんにでも効く狐の膏薬だ。塗って善し貼って善しの狐の膏薬、さぁ、売りに出るのは一年に一度だ。

 そうしてこの薬が少しばかり売れると、彼はさも嬉しそうに微笑むのでした。山で必要なだけ鳥やけものを捕る暮らしに不自由はないのでどうしてそんなことをするのかと尋ねると、彼はこんな俺でも誰かに喜んでもらえるのだなぁと答えました。だけど、彼のつくる膏薬というのは油に何かまぜものをしたという風のたいしたものではありません。ある時、私はほんとうに効き目のある薬の処方を教えてあげようとしましたが、「ほんとうに効くような代物は、かたぎの人間のために残しておかなくてはならない」と彼は私に言い聞かせました。

 またある日の私たちは、人の手のまだ入らない山の中に銀の在りかを探して歩きました。彼は山や川の相を読むようなそぶりで山肌を削り、光る雲母質の数に勘を得て銀脈を追いました。そんな運まかせの当て物よりも、私はおかあさんから教わった狐のたからの在りかを知っていました。そのことを彼に伝えようとしましたが、「そんな大事なものはおまえが大切にしまっておかなくてはならない」と強く私をたしなめました。

 私の差し出すものはなに一つ受け取ってくれなかった彼ですが、ただ一つだけ聞き入れてくれたことがありました。私たちは近隣の山や街を巡っては一年に一度あの丘に帰っていましたが、三度目の夏、白い野ばらの花嫁衣装で私はおよめさんになりました。それからの二人は丘に建てた小屋で暮らしました。

 その冬、彼は高い熱を出しました。私はおかあさんの薬を作りましたが、狐のお薬は効きませんでした。人間の薬でないと彼にはよくないのかも知れませんが、私たちは薬を買う分のお金を持ってなかったのです。私は狐のたからものを売りに街へと出かけました。珍しいもの好きな地主の息子が興味を持って、私にいくらかのお金を渡しました。そのお金で買った薬を彼に与えましたが、それでも彼の熱は治まりません。五日目に彼はうわ言のように誰かの名前を呼びました。だけど、それは人間の言葉だったので私には理解できませんでした。

 私がどうして彼と一緒に居たかったのか、このときようやく分かったような気がしました。私も彼も独りで居たくはなかった、独りにしたくはなかった、それ以上に必要なものはなにもなかったのです。

 一週間が経ってようやく熱は下がりましたが、彼はものを言うことができなくなっていました。その代わり、彼はわたしのことをぎゅっと抱き締めてくれるようになりました。

 しばらくすると、多くの人間が丘へ狐狩りに来るようになりました。彼らは狐のたからものの在りかを探しにやって来たのでした。私たちは猟師の手を逃れて遠くへ行きました。そのうちに近くの川の上流に金脈が見つかって、あの丘は人夫たちの手によって壊されてしまったと、風の噂に聞きました。


 二人の間には何人かの子供が生まれました。そして、そのようにして始まった狐の仲間たちが、今でもこの世にはいるのだといいます。

 これが、私の知っていることの全てです。


 ・・・


「なぁ、やっぱりそれは何かのたとえ話なのか?」

 話を聞き終えて、祐一は天野にそう尋ねるしかなかった。

「いいえ、たとえば母親が娘に聞かせてやるような、どうということのないおとぎ話です。」

 ヨイヤミ、あるいは彼というのが誰のことを指しているのか、そもそもこれは天野の話なのか、いや、だけど天野は狐じゃない、人間の女の子だ。

「相沢さん、おはなしに意味なんてないんですよ。」

 天野は遠い目をしてそう言った。

「それでも私は、このおはなしを相沢さんに聞いて頂けたことが、これまでにないほどの幸せだったと感じているんです。それだけじゃ、駄目でしょうか。」

 もしかすると、それが自分にとってどういうおはなしなのかは天野自身もよく分からないんじゃないだろうか。分からないのだけれど口をついて出てきてしまう何かがあって、言うことができれば楽になるということもあるんじゃないか。それに意味なんて、ずっと二人で居れば後からついてくるものなのかもしれなかった。

 手にしたままだったコーヒーに口をつけるとすっかり冷えきっていて、祐一は缶を地面に下ろした。

「暖かいところへ行きませんか、」

「ああ。」

 祐一は天野の手を取って立ち上がった。そうして百花屋へ向かう間中、天野の話の続きを考えた。丘を去った後の二人の暮らしはこんな風だっただろうかと、祐一は天野と肩を触れ合わせて歩きながら思った。



第三章. 真琴狐

「ある朝、もえぎ色の草で編まれたお布団に包まれて、ひとりの女の子が目を覚ましました。日差しはあたたかく風は優しくて、とてもいい日でした。この女の子の生まれた春の野原には、悲しいことなんて何もありませんでした。」

「それってまこちゃんのおはなし?」

「うん、真琴は真琴のおはなしが大好きなんだ。一美ちゃんは真琴のおはなしは嫌い?」

 ・・・

 (つづく)





続きは、2002年1月6日の美汐Festival(東京文具共和会館3F)において頒布予定の本でお楽しみください。小説本でコピー誌というのは手に取る判断が難しいと思いますので、話の雰囲気を感じるのに必要と思う分だけ、こちらに掲載しました。話はここからさほど長くは続きません。だけど、それは一番必要な箇所であると思っています。

サークル名は「有為転変 」、頒布スペースは「A−24」です。
当日は私も売り子をしています。
突発サークル「有為転変 」と今回の本の概要については、サークル代表のSP48Kさんのページに詳細があるので、ぜひともご覧ください。

私たちの話に興味を持ってくださる方がおられたなら、これ以上の幸せはありません。

それでは、どうぞ宜しくお願いします。






なつかげめいきゅう ほしくさせんろ (c)1996-2001 曽我 十郎
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