クローバーランドのお姫様(5) 2002年2月
曽我 十郎

これは,僕が彼女へ贈りたいと思う,夢見がちな作り話です.


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 もう少し素直に見れんのか俺は.というわけで続きなんだけど,真沙魚は天然の肌フェチだった.だけどそのほうがお兄さん怖いと思う.あのような可愛い娘にぺたぺた手を触られたら普通落ちる.

結局,真沙魚が無自覚さを自覚するところに事態は収束する.例えば,大学入ったときにこれまでの自分とさよなら,新しい私,明るい僕,とんとん拍子に上手く行くんだけど,さじ加減がわからずにショート.意気込んで回転するとどこかに空虚な穴が開きそうなもので.ただ,真沙魚は別にそれまでの自分にいじけていたわけでなく,新しい自分になろうと意気込んでいたわけでもなく,ある日,女の子らしい服を着て姿見の前に立ったら実は可愛くて,大発見とばかりにせっかくだからそういう自分で遊んでいたら,自治会の人たちと仲良くなれたり周りから頼られるようになったりと不思議なことが起こった.それで,八方美人的なところには嫌がらせも有りうる.投機的なのは東吾よりむしろ真沙魚だった.試しにいろんなことやってみたら,いろんな結果が返ってきた.下の名前で呼んでみるテスト.触るにしても,手が出ちゃうのは自分には避けがたい天然のこととしても,その行為自体は後で反省している.不真面目とは思わない.高校の時期に実験してみないでいつするというのだね.無邪気で可愛らしい.僕は未だ実験くさい生き方をしていて,それが可愛いはずもなく.さて,ひとしきり実験して結果をもらって,東吾ともいい仲に成れそうで,彼女,絶頂に幸せそうだから,もう不幸ごとがありませんように.・・・あ,雪村がまだいやがるのか.欝だわ.

と僕まで舞い上がっていたら,そこ,止鞠といちゃついとる場合か.真沙魚は授業自主休講までして,特別な状況をあつらえて待っててくれたというのに,その盛り上がりはむなしく. なんだろうね,もう.こう肝心なところで物事が上手く進んでくれないのは.東吾は東吾で,このとき凄く落ち込んでいて仕方ないのだけど.

東吾が転校早々三人娘にされたように,今度は東吾が転校少女である止鞠に対して,教師三島の恐ろしさをそれらしい声色で伝える.あは,同じこと言ってら.されてた側がする側に回るっていうのがどうしてこんなに楽しいのかっていうのは,一つは立場が常にさかさまになりうるという言い当ての可笑しさなんだろうけど,この場合はそんな可笑しさと一緒に,好きな人が自分にしてくれたことを今度は自分が別の好意をもってる相手に対してしてあげたくなる,そういう親密さで,見てる僕を幸せにさせる.二言三言のやりとりに過ぎないんだけど,僕が枕流氏の文章を好きなのは,やり場のない行き詰まった気持ちにすっと差し込まれる遊びの言葉があるところで,それはいかなる状況においても親密さを帯びた可笑しさでもって,相手との信を結び続ける.(2/24)


 「私たちは至高の結末に無理なくたどり着けるのです.」 参った.相手を説得するためには,まず参ったと思わせることである.その逆,つまり説得の結果,相手が参るということはまずなくて,それは理解できますが納得はできませんという奴である.その,参ったと思わせるための方法とはなんにせよ徹底的にやることである.ということは僕も常々意識している.

『語り手の事情』(酒見賢一) これは全く嫌味ったらしい話だと思うんだけど,最後に愛があるから参ってしまう.実は嫌味のまま終わるんじゃないかと思っていたけれど,あの結末は相当にやさしい.とか思ってたら,あとがきで「恋愛小説」とか言っていて,それはそうでしかないんだけど,これが元長柾木だったらsense offでそこまで言い切ってなかった気がするのでやはりたいそうやさしい.読んでてどうにも笑いが止まらないのも,語りに対して文句を言わせないためには相手を笑わせればいい,という常套手段が用いられてるわけで,それらも含めてひどく教科書的な,いやそんないい教科書など滅多に存在しないのだが,もしも語りとかリアリティとかいう我々にごく近しいものたちについてわざわざ教科書が必要だとしたら,きっとこういう話になるだろう.感想,といっても僕はルー程度にしか言語化する力はないのでそこそこに,ピュタゴラスが旅した先にゃ語り手の事情プラス聞き手の事情イコール二人の事情なのねん,という不可解な言葉を吐いておくのだけど,それは末永以上のアイドル世代のみによってしか解釈されようがないし,だからこれはそういうお兄ちゃんたちへ向けた僕の恋愛日記にほかならない.さて,語り手の事情よりも聞き手の事情よりも常に語りかたこそが先行するものなので,事情をただあけすけにするようなさっきの語りかたは実は僕の恋愛事情を語らない.そういう当たり前の話もこの本ではわりとくどく示される.小説に限らず会話の成立とは語りかたに支えられていて,第一の事情におけるアーサーと語り手との会話の不成立であるとか,最後のサキュバスに対する口調の変化であるとか,そういうことをいちいち言わずにおれないところは嫌味であると同時にやむを得ない切迫感も感じさせる.

僕はルーだから地に足がつきすぎてるのか,sense offにしてもそうだけど,メタフィクションであるとかSFであるとかいう括りでものを見ることがなかなか出来ない.僕の事情ではあるが,なんかこの語り手さんは末永みたいなこといいやがるにゃーと思いながら読んでたんで,まことありそうな形而下の話であるというか.ドキュメンタリーみたいに読んでしまった.この語り手さんみたいに難儀な人って実際いるよね.

あとチッタの平板な胸に心ときめかせるのはロリコンとして礼儀かと.もちろん,僕としてはチッタ的に物事を語るのが理想であるのだし,彼女のことは愛しくてならない.ああ,僕の頭痛と側彎も治してくれないか,ルー.(2/23)

 日記よりも手紙,手紙よりも電話がいい.勘違いしてもらいたくないのは,日記から手紙,手紙から電話となるほどにどんどん言葉が減って子供じみてゆくところだ.つまり電話とは声さえ聞こえてれば内容なんてどうでもいいわけでして.会えたとして,対面したところでそれはあまり変わらない.僕の向かいに座るのは基本的にむさくるしい男なんで,相手の顔を見てると幸せ,なんて思えないから,次に来るのは「触れることの愉悦」だろうか(心地よく助平に響いたので,これはお兄ちゃんの言葉を借りた).人肌の快楽というのはむしろ末永がよく口にしていて,彼は人に抱きつくの好きだけど(大胆),僕は手でぺたぺたと触る/触られる程度が一番好きです(助平).

これは余談であるが,相手の顔をじっと見つめることはそもそも恋人同士とかの特殊な状況であって,我々は適度に相手から目を逸らしながら話をしている.僕は甘え半分冗談半分に相手の顔をじっとみてやるということをよくするけど,やはりそれは普通のことではなくて,相手は笑ってしまうとか先に目を逸らした方が負けとかいう遊びがそこに生まれる.NOëL NOT DiGITALではそのへんがごく当たり前に為されていて,彼女らは実にこちらと目を逸らしながら話をする.一方,ほとんどの美少女ゲームでは少女たちはずっとこちらの顔を見つめてくる.そして目を逸らす立ち絵は必ず意味を持っている臭く使われる.見つめることが常態であるというのが会話において異常事態であることは,彼女たちと対峙する上でよく覚えておきたい.普通,目を逸らすことこそ常態で,それに意味なんか無いものなのだ.もしも彼女らが自然に目を逸らし始めたら,それはおそらく美少女ゲームでなくなってしまうだろう.

さて,触れることの愉悦については泉本真沙魚があけすけに言っていた.いや,言うどころか実際に触ってくるんです.でも,ちょっとしょってるよね.まだ止鞠泉深が出てきたあたりなので途中なんだけど,Hello Againについて二つ三つ話をしたい.東吾と真沙魚が二人で画廊へ行ったときの帰り,真沙魚が突然に言う.

「もう少しね,色々わかったような気がするんだけど.昔は」
「人の考えてることとか,どうすればうまく行くかみたいなこととか」

当たらない予知能力者(DA)であるらしい彼女の言う言葉である.東吾君の返事はこれ.

「ガキだから単純だったってことだろ? 俺なんか世界の全てを理解したつもりでいたぞ」

DAというのはどうも潜在性ばかり強調されていて,認識力学に毛が生えた程度には怪しい.世界のことが分かるとか分からないとかという切実な部分で,そのあるのかないのか定かでない能力が関与してるのだと人に言われるとしたら辛い.この世界でどうすればうまく生きてゆけるか分からなくなった理由を,はたして,見えない力に求めることができるだろうか. 彼女の予知はこれまで当たったことがないが,DAとは彼女の住む世界において「ある」と広く認められた能力であって,彼女はむしろ自分に潜在すると言われるDAの存在に自分自身を合わせようとしているようにも見える.そこんところ,DAばかり集めたこの学園に偶然みたいに転校してきた東吾の言葉はストレートだ.それに呼応するように,東吾の言うガキと単純さについて受けた部分とDAとしての話の間を,真沙魚の言葉は揺れ動く.

「将来のことなんかも,やたらはっきり見えてたよね.まるで,もうそうなったことみたいに」
「今はちょっとカンが良いくらい.DAもやっぱり,子供の頃の方が高いのかな・・・・・」

真沙魚という子は「人の考えてることとか,どうすればうまく行くかみたいなこととか」読み取ろうといつも気張っていて,その過剰な意識は彼女がDAであると決められたことと無縁ではないのだろうからまずはやるせない.画廊へ行くとき,真沙魚は日曜なのに制服姿で現れる.東吾は普段着だ.日曜の街を制服姿で歩くカップルはあこがれなのだと真沙魚はそれらしい誘いをして,俺も制服のほうがいいか? いや,そんなことはないよ,じゃ,このままでいいか.・・・.あまりに素直に会話を流した東吾に対して,言葉の駆け引きをするつもりだったらしい真沙魚は予定が狂って俯いてしまう.「……ふむ,そうくるか」なんてつぶやきながら.デートに際して計画を練るのは普通のことかも知れないけれど,真沙魚の場合,万事そういうところがあるように見える.真沙魚がやたら機をうまく読んで東吾にぺたぺた触ってくるので,触れることで心地よくなれることを自然に体得した娘だなぁと思ってたら,その後,たまたま真沙魚が友達から恋愛相談受けてるのを立ち聞きするのだけど,そこでやたら触れ,触れと友達に勧めてるのね.ぎゃー.これは,ちょっと可愛そうな子だと思った.ある思ったとおりの道筋で物事を運ぶ絶対の方法,なんてのは,ないんです.ただ,この上の会話でも,話してる間じゅう彼女は東吾の手のひらをいじくっている.最後,東吾は真面目に話を締めようとするのだが,この話のオチは次のとおりである.

「子供ってのは……いっひゃっひゃっ,産毛を引っ張るな!!」

二人で取り繕わない話をしながらのことであるから,このへんの振る舞いは計画のない真沙魚の天然であると信じたい.が,あまりそんな気はしない.

過剰な意識といえば,真沙魚の交友範囲が普通ではないこともその一つだ.入学まもない一年生が,平気な顔して東吾たち上級生の教室に遊びに来ている.自治会との仲も含めてその物怖じのなさは何度も言及されているが,真沙魚に手を出そうとしている自治会長の作為があるとしても,真沙魚はこれほどの短期間で学園のいい意味での有名人となり,人に用意された以上に彼女自身の力で波に乗っているように見える.だけどそれで上手く行ってしまってることが,彼女に「こうすれば上手くゆく」式の生き方への信仰を持たせてる原因なんだろう.男の子と下の名前で呼び合うようになる,というのは大したイベントだ.真沙魚は東吾とそう取り決めを交わすのに成功するんだけど,直後,自治会の面々と一緒にいるときには,下の名前で呼べないでいる自分に気づく.東吾が彼女の確信に満ちた波乗りをかき乱す存在であり,取り繕う必要のない相手に見えたからこそ彼女は東吾に惹かれた,なんていうのは判った様な物言いですか.

まぁ恋の話はともかく,彼女の今後の幸せのために彼女がこれまでどうして上手く生きてこられたのかということを考えると,それは彼女が人に好かれる性格である,あるいはそうなるように頑張ったのが大きいというわけではなく,どういう場所で自分が好かれるか直感的に理解しているというほうが大きいと思う.これは彼女に限った話ではないが,気のいい異邦人というのはどこへ行っても好かれるものである.異邦人は自分達と違う知識や世界観を持っている.つまり,そこに一緒にいるだけで普段はありえないイベントが望むと望まざると起こってしまうのであり,それは本人の意図によらず異邦人であることによる必然だ.彼女が自治会とか上級生の集まる場所に身をおく元気な一年生という,気さくな異邦人として世界に身を置く限りは,彼女が望まなくともエピソードは生まれてしまうのであり,それ以上の彼女の行為にはさして意味がない.彼女が努力であるとか意図であるとか思い込んでいるものは,多分彼女はまだ気づいてないんだろうけど異邦人として身を置き続けるための苦労であって,会話術だの触るだの触らないだのいわゆる普通のコミュニケーションの苦労とは直接に関係がない.むしろ,自分のコミュニケーションの才能のせいで上手くいってると思い込んでるから,それで上手くゆかない場合を悩んだりする.東吾の寮部屋へ居候することに一番こだわっているのも真沙魚であるらしいのだけど,ある場所に身を置くことによってやむを得ず生まれてしまう出来事が快をもたらすことについて,彼女は稀な嗅覚を持っているように思う.しかしどうにも理の勝つところがあるから余計な悩みをかかえている.東吾は東吾で真沙魚が見習うべき投機的な生き方を持ち合わせてはいるのだけど,転校という場所の変化によって何か特別なことが起こるんじゃないかと期待しすぎて,それで何も起こらないといって勝手にがっかりしていた.力の及ぶ範囲でないことに積極的に期待しても仕方あるまい.可能な努力はそこに居続けるという努力くらいであり,そうすると,お似合いな君達はそのうち幸せな二人になっているような気がする.(2/22)


 四葉が直った.ええ寝覚めや.しかし,僕がほんとうに嬉しいのは四葉に起こされることでなく四葉を起こすほうであって,寝ぼけまなこの彼女が幽霊みたいに両手を宙に浮かせると,僕はその手を取って,ぐずるときにはおんぶまでして,朝食を用意したリビングまで連れてゆくのだ.甘やかしすぎ.ここまで容易に想像がつくのは,つまり,僕もそうしてほしいってことです.ああ恥ずかし.(2/21)


 二週間前,時計が壊れた.僕が単に時計といえば,それはくだんの腕時計である.安物であるが,いつ買って,どこへ持っていって,だれに触られたか覚えている.どうしたらいい,捨てられますか?無邪気に物語を探す人は,こんなどうでもいい時計でさえいちいち物語を持ってしまうことの始末に負えなさを知らんのだ.針供養とか人形供養とかそれぞれにやっていたら追いつかない.例えば,この世の全てを一人で供養し続ける少女がどこかにいる.そんな酷い想像でもしないとやってられない.現代人には物語が必要だとかどこかで聞いたように思うけど,まずはお悔やみの述べ方から学ぶべきだろうね.じゃないと,物語なんて重いばかりで.しかしほんとどうしよう,これ.

後を追うようにして,シスタープリンセスの置き時計も壊れた.僕のところに来てから一年,実際に使い始めてから一季節,この部屋で.四葉の声で起きなかった日はなくて,最近の寝覚めの悪さとか一日の区切りの感覚がどこか狂っていることとか,全部そのせいだ.

さて,新しい時計はかなりどんくさい.いわゆる電波時計と言う奴で,毎朝福島から届く遠い声を聞く(なんとベリカードもある).しかし,受信を行う朝4時と朝6時からの15分間はアナログの針が止まってしまうから,朝早い人は困るだろう.これまで男物のごつい時計は嫌いで,女物のほうが小さくて可愛いと思っていたけれど,こいつはどうもお気に入りらしく,腕につけていることが多い.魔法使いはメカが嫌い,ってパパが言ってただろう,お前は魔法使いではないしましてや女の子でもないのだと,時計に言い当てられた気がする.そんな風にして,時計はまたたくさんの物語を背負わされることになる.ごめん.(2/19)


 メリーのスイートガナッシュが最もおいしいのだという.味で選ぶとどうしてもこれになるのだと,姉は去年と同じものをごめんと言いながらくれた.これ自慢ですからね,念のため.そして僕は彼女の愚痴を聞く.オダギリが酷いんだよー.そうですか,そうですか.いつも君は報われないね.生チョコなんで暖房で溶かさずに持ち帰る自信がなく,今,鼻血噴きそうになりながら食べてる.シスコン呼ばわりされると僕も人並みに怒ったような反応をするのだけど,姉への依存という一般的な言われ方だとすればそれは違っていて,ましてや強迫観念でもなく,コンプレックスの文字通り複雑な気持ちであると言うしかない.

さて,こんなとき信也の落ち着きぶりは頼りになる.胸キュン!はぁとふるCafeの兄.子供を子供として見ることが出来るような人には,めいっぱい甘えたくなる.ある朝,チカが学校行きたくないとかぐずりだして,行け行かないのってちよりと小学生みたいな言い合いになる.どっちが正しいと思う,お兄ちゃん?なんて話をふられたら,信也としては平然と,二人とも時間はいいのか?て指摘するだろう.そうすると二人ともあわてて玄関を飛び出してゆくのだ.まったく鳥頭たちで.信也いわく『しかし…あいつら,どんどん子供じみてきているような気がするんだが…』 あるいは,『「やったぁ〜♪あいすあいす〜♪」そうやって俺の腕にじゃれつきながら喜ぶちよりは,まるで小さな子供のようだった』 恋愛の対象としてよりは,年長者が子供を見るような.亜矢がそれを評するには『マスターを信頼してるから,好き勝手にできるんですよ.誰だって,信頼してない人の前では,本当の自分を出さないじゃないですか』 僕のお庭においで,なんて僕のほうから誘いはしないけれど,好きなときに庭に来て,好きに遊んでくれて,僕は文句を言わない.話しかけられたら返事をしてあげる.いっしょに遊んでと言われたら付き合ってあげる.悪いことをしたら,叱ってあげる.そういう人が時々いて,それは年齢によらずお兄ちゃんらしい.一番年をとってる人で,50歳くらいの人を知ってる.それが亜矢の言うように信頼の上に成り立つのだとすると,信頼という言葉に時間の長さや深みを前提としたいむきには言い過ぎと思われるので,ここでは別の言い方を探ってゆこう.チカやちよりが信也になつく理由は過去の思い出に依らない.彼女らと信也とはほぼ初対面といっていい.出会ったばかりなのになついてしまう,なつかれてしまう何かがあるというのは,人並みにちっちゃい子供と会う機会のある人なら知ってることだと思う.その理由はよく判らないけど,あまり重要でない気がする.それよりも,なつくのに成功するとか失敗するとか普通には言われないように,なつくとは維持されるものであって始まりと終わりしかない.何を言われても嫌いになるという気がしない,何を言っても嫌われはしない,という時点で,コミュニケーションの切実な部分において成功と失敗というものも存在しない.信頼という言葉では何を言ってるのかよく判らない気がするので,ここでは成功も失敗もない時間を維持しようという意思がそこにあることにこそ誠実さを感じるとしておきたい.チカとちよりとが信也にすぐさまなついたことについては,二人一緒だったからということが後押しはしただろう.ほぼ初対面の兄に一人で抱きついて,相手に変な反応されたらとても気まずい.二人だから怖くなくって,会う前に自分たちの兄について二人で多少盛り上がりがあって,その調子のまま兄に二人で抱きついたとしたら,兄が気まずい反応を示しても正当性は彼女らのほうにあるだろう.嫌がられたって後で二人こっそり愚痴を言い合えば充足できそうな感じは好ましく思う.

信也を見たとき,PS版シスタープリンセスの兄に似ていると思った.このシスプリの兄というのはだいたい上で書いた兄像に当てはまっていて,ちょっと頭の弱めな四葉ちゃんの行動を,過剰に反応することなく馬鹿だなぁとほほえましく見守ることができて,ときには名探偵スペードになって四葉の遊びに付き合ってあげることができて,四葉が本当に悪いことをしたときには叱ってやる.基本的に子供だと思っているからこそ,四葉がまれに大人でも出来ないようなことをやってみせるとひどく見直して,じつは利発な子なんじゃないかと思い込んだりする.彼女のインタビュー技術は凄い.なにせ,兄はその人生のほぼ全てを語り尽してしまったという.僕は甘えるなら彼らに甘えたい.アニメ版の航くんは自分のことで手一杯の人で,だけどとても優しい人で,あの子は兄と呼ぶのではなく,甘えたいというよりはむしろ甘えさせてあげたい.

小学生の頃,夕方の4時から7時くらいまで,僕の住む地方のテレビ局では昔のアニメを何度も,同じものを何度も何度も,再放送していた.学校から帰ると僕らは二人でずっとそれを見ていた.つまらないものが多くて,あまり笑ったような気もしない.面白くもないのに二人きり,ずっとテレビの画面を見ていた.中学に入って部屋が分かれてからも,振り返ると,用もないのに僕のベッドには姉が寝転がっていて,持ってきた漫画を読んでいた.それはそのまま枕元に置いといてもらって,夜になると僕が読んだ.だいたい僕の部屋には姉の本しかなかったのだが.それは僕の世界にいた唯一の同種族といえる者であって,ようするに類とか科とか目がいっしょである唯一の存在であると感じられていて,向こうにとってもそうだったんじゃないか,同じ檻の中でなんだかずっと二人いっしょだったからそう思えるのだろう.そして,今の関係はそれ以外の何かからは始まっていないと思われる.僕にとって兄たちが必要なように,彼女にもそういう存在が必要なように思われる.僕ではその代役の一人くらいにしかなれなくて,彼女には僕の数倍,そういう人の現れる必要がある.(2/14)


 末永とシスプリ2の馬鹿話.前はナイツ2だったなぁ.年長組3人は卒業後留学ということで新妹3人追加とのこと.

詳細は省くけど,僕としては幼なじみ妹という言葉の響きが好みではないかと.末永は女傑妹の髭が頭から離れない模様.あとは僕が式子嫌いな理由とか,僕がPS版シスプリの飄々とした兄(今木さんみたい)に惚れまくりだとか,四葉は誰かを愛するよりも愛してほしい気持ちの強い女の子だよねとか,四葉の魅力を伝えようとしてみたり,ふたつのスピカ,絵が大好きなので,似てるって言われて嬉しかったところ,末永にもそう思って表紙買いしたと言われて幸福だったり,とりとめもなく電話.(2/10)



 そんなことを書いた途端,実家から大量の物資が送られてきた.添付されていたのはメモ程度のもの.いい夢みさせてもらいました.とか,僕のように他人の行動をかってに自分の物語のダシにするのはよくない.不誠実だ.いや,康介もダシの有る無しについてなんか言ってはいたが,これはダシどころか材料である.式子が実験とか言ってやがるが,自分の中だけにおさまるならまだしもあれは康介を巻き込んでいる.巻き込まれる康介も康介であって,おかげで酒飲んでぶっ倒れた人間(霞)が岡崎さんでは起きないというごく当たり前のことに気づいてしまうし,霞は急に大人の料理に興味を持ったりするし,僕と霞のいちゃいちゃごろごろな世界を返せ.まぁ,これは天災みたいなものだった.康介はあまりよく判ってなかったようだが,君はこんな物語に呪われた女と付き合っちゃいかんという僕の老婆心が自転車置き場にて拒否権を発動した.拒否されたことすらあんたの物語になるんだろ?翌日また会って,それ意味わかって言ってるのとかのたまいやがった時には殺意すら.

ここはKtF霞ちゃんち.霞ちゃんのおうちには,いつも変なお客さんがやってきては,よく判らない言葉を一方的に話して,満足そうな顔をして帰ってゆく.それでいい.こう毎日うちに人が遊びにくる状況というのは,そういう四畳半ドラマを見ているような気分になっていたけど,どうやらそういう話ではないらしい.気味が悪いまでに毎日すこしずつ何かが違っている.そんなこんなで霞との二人暮しもついにあと一週間となった.

成り行きとか実験とか,それを直接口に出すとふつう相手は馬鹿にすんなって怒るだろう.康介はそれをなんとなく判るかもと思ってしまう変な人ではあるのだが,僕はこう,ディスプレイをメリケンサックで.ああ,青い鳥は最後になるまで言わないわけだから綺麗に騙される.これは一言で言えば,あられもない.椎奈がししおどし盗もうとするのもやりすぎ.こうもあられもないと,話を読んでるというよりは会話をしている気分になる.ものをたとえて話すというよりは生身のキャッチボール.この年になっても始めるとわりとはまってしまうものらしいですが,キャッチボールは.とりあえず,あほか,あほか,あほか,と式子の顔面にツッコミ百発くらい入れたい.そのうち勝呂さんとかいう名前のハリセンが登場するに違いないからそれで.

巨人軍の選手にハリセンは似合わんなぁ.

お正月,母方の実家に帰ったときのことである.僕が単に祖母と言うときは基本的にこちらのことで,自転車で30分くらいの距離に住んでいる.正月というと親類が集まるもので,と言っても,うちの家系は晩婚であるので僕のいとこは小さい子が二人いるのみである.僕らと同じ姉弟だ.弟のほうが随分とごんたなのだが,うちの父親はこのごんたがお気に入りらしく,家に帰るときには,うちの子になるか?といって連れて帰ろうとする.ごんたの母君も冗談交じりに,こんな子あげるからもってってなど言う.どうしてそういうやりとりが生まれるものかなと僕が不思議そうな目をして傍で見ていたら,祖母が「口のついてるもんは,もろたらあかんで,」と僕に言った.口のついているもの,つまり,食い扶持の必要な子供はあげると言われてももらってはいけない,ものとは違って後が大変だ,そんな戯画化である.それで僕はすっきりとした気持ちになった.それは僕の考えていたこととはまるで違っていたように思われる.だけど,そんなことはどうでもよくなってしまった.ああ,「口のついてるもんは,もろたらあかんで,」そう何度でも繰り返したくなる.僕が最も物語的であると感じる瞬間はこんなときであって,わざとらしさとは無縁のタイミングにある.物語を準備するというのは彼女がずっと生きてきたような時間を重ねることで,そのことに対しては意識的であるべきだと思う.だけど,物語の発動するタイミングはけっして恣意的であることはできない.だから今か今かと待ち受けて,発動した発動した,と浮かれている式子はあまりにも気まずい.恋の黄金律作戦でドルンカーク様が望遠鏡で出歯亀しながら,やたら騒いでたのを思い出した.奴らいたって真面目なんだけど,どう見たって大げさで滑稽だ.エスカファンとしては忘れたい一話であるのだが,あまりにあんまりなので引き合いに出してしまった.

旅というのはあらゆる意味で物語と重ねて考えられる.たとえば安野光雅の「旅の絵本」というのはそれが一冊の本にまとめられていて,ページの始まりは旅の始まり,ページの終わりは旅の終わり,そして旅はたくさんの他の物語と関連づけられている.僕の旅行を思い返そう.はじめは花巻,遠野である.高校の卒業旅行で皆でわいわいと行ったんだけど,これは,東北といえば遠野と賢治は押さえとかなきゃにゃー,と"押さえる"なんていう恥ずかしいことをいいながら目的地を選んだ.意気込んだわりには何か見つかるということもなく,遠野は移動に思いのほか時間がかかり,オシラサマの話にどきどきした程度で,あとそのあおりで花巻,つまり賢治関係の場所も回る時間はなく,なんのこっちゃという風にとぼとぼと帰った.花巻の,朝一人で雪一面の世界に放り出された時のことをなんども話しているけど,これはせめてもの抵抗だった気がする.しかし,その後『イーハトーヴ 花巻から あけましておめでとうございます』なんていう年賀状が届いてしまうのが全く冗談のようである.洋燈云々は僕の作り話くさいが,あの年賀状は信じられないものを見たという気がした.次は沖縄.これは後にユタが主役のシナリオを書こうと思っていたので(糺ノ森にユタが居て為朝といっしょに水のみなもとを探しにゆくとかいう例によって荒唐無稽),ともかく御嶽めぐりをした.物語の材料探しにがっつくのはほんと良くなくて,セッションで使うための資料写真を撮りまくったけれどそこに出会いとか物語らしい何かはなくて,そういう変な僕を訳も聞かずに見守ってくれた助手の先生の不思議な優しさに触れたことばかり覚えている.それは二人旅で,あんまよくも知らない人と3日4日一緒っていうのはすごく不安だったのだけど,気を遣われないことが上手くゆく秘訣であることを知った.沖縄については未だ持ち越しの宿題なのだが,そのうち年賀状みたいなものが届くんじゃないかと思う.最後,青森.これは水姫についていったので,かなり楽をさせてもらった.僕は誕生日に雪が見たい,という希望があっただけで,かなり気楽に行った.奈良では三月に雪は望めない.希望どおり三月の青森の街は文字通り雪に閉ざされていて,本当に何もなかったと言っていいのだが,逆に,散々馬鹿をやって帰った.

さても僕らは旅に臨んで,何を準備してゆけばいいのだろう.目的地に何らかのゆかりをもとめるか,あるいは取材みたいに現地のデータをせこせこ集めて回るか.誰もが風雨来記の相馬轍のように手ぶらで旅に向かえるほど勇ましいわけではない.アイツの影にがっつくでもなく,能天気といってもいいくらいに,旅に向かうのは難しい.ああ,このページ素敵です.用意した物語は全て徒労に終わるだろう.だけど用意せずにはいられない.僕にとって都合の良い言い方をさせてもらうなら,いくら馬鹿げてたって僕はなにか用意していかなくちゃ不安で,だけど,これまで一人よがりな旅の予定しか立てたことがなかったから,一度,二人でいちゃいちゃと旅の計画を立てることができたら,それはもしかしたら楽しくて,徒労なんかにならないんじゃないかと思った.

実は神託研究会というのは1998年のはじめごろか1997年の終わり,つまり君が京都にいた最後の頃に既に設立されていて,やはり活動らしい活動ははじめのミーティングだけで,今まで全く不真面目をしている.創立の日,まさに物語と詩との違いについて議論があったと思うが,僕のほうはその時,詩は物語よりも聞き手の理解が為されやすく,物語のほうが筋も通らずわけわからんということを言って,それはまるで反対だと言われた記憶がある.そしてそんな意見の違いを結局同じだとしてしまうのは僕の悪い癖で,いや曽我理論の白眉であって,それは好きな人とのまともな議論を望まない.物語だのおはなしだのいろいろ話をしているが,それは僕自身がまったくお話にならない人間だからである.まぁ僕は論理らしい論理で君にかなうはずもないからこういう書き方をするのだよ,メガネさん.小笠原は予定が合いませんか.それでは一人で行ってらっしゃい.みやげ「話」を期待している.あるいは小笠原少女を指輪でくくりつけてお持ち帰りでも許したげます.あんたは我々のうちで誰よりも早く,とっとと幸せになりやがれ.多分,みんなそう思っている.

ところで,人と人の間にはまず,コミュニケーションでなくインタラクションが存在する.コミュニケーションには成功,失敗があるが,インタラクションという文脈では成功,失敗という事態が生じない.そこでは,コミュニケーションの成功,失敗という問いへの回答は一時保留することができる.そんなことをボスが言っていた.他にも,僕が美少女ゲームに対するようなことを,鑑賞型コミュニケーション,なんて言われた日には,言い表すことのプロには全くかなわないと思う.対峙せよ,より余程いい.つまり,君の言うようにポエムが語り手だけで成立するということではなく,君がポエムを語るとき,それが独りきりでなく受け手になるかどうかは判らないけれど受け手以前の誰かが君の前に立っているのだ,ということがもっと意識されてもいいのではないか.コミュニケーションではないかもしれないけど,インタラクションが存在してるということを.理解されることを期待せずに発する言葉はもちろんあって,だけど内容の如何を問わず発話それ自体がインタラクションを為しうること,為してしまうこと,ポエムという言葉で逃走しきれないほど,その引力はいやらしくも強い.式子の投げやりっぷりは実際判らないでもないが,どちらかというと「言いっぱなし」の部分にフォーカスがあるように感じられるのは鼻につく.君の前に立つ「誰かがいること」のほうにフォーカスを当てるとこういう言い方になる.お前が何を言おうが相手はキャベツか大根だから別に聞いちゃいないよ,と.独りごとじゃねぇ,なにやらキャベツさんがいる.理解されるとかされないとかいうのは一緒だが,そういう言い方のほうが僕には優しく聞こえる.こんなこと言う僕は地球に魂引かれたオールドタイプですか?僕はいやしくも,いや,いやらしくもマッドでお節介な工学屋でもあって,それはインタラクションについて考える一時保留をいつの日にか食いつくし,インタラクションが無価値となる,つまり当たり前のこととなるような人工物を作ろうという,もしかしたら相馬臭い能天気だ.それによって相互理解が可能になるかどうかなんて僕の知ったこっちゃないが,例えば「まるいち」のようなものが世界に存在するだけで,世の中ちったぁマシになるような気がしている.


最後に,これはある方に.感性における美しさと平明さ,という言葉を,今,胸に留めておきたいと思う.僕は感謝を言い表す言葉が得意ではないので,当たり前のことしか言えないんですが.言葉を,どうも有難うございました.

あと,最近どなたかお手紙くれてますか.基本的にrefererとらないことにしたんで判んないですが,なんかカウンタが壊れてて.僕は僕が見てるサイトにしか答えられませんので,もしも返事が必要なものでしたらメールのほうがありがたいです.(2/7)


 心理実験に使う文を400ほど読み上げた.3時間ほどかかったが,久々に声を出せたので気持ちがよい.しかし,自分の文章,たとえばこの日記を読み上げるのはとても楽であるが,他の人の文章を読み上げるのは難しく,これは噛みまくった.ただ,日記のことではないけれど僕の文章を音読しやすいと言った方もいて,僕の書くおはなしの文章の生硬さというのは声を出して読む分にはまだ救いがあるのかも知れない.そういえば新井素子がいつか,自分で書いた話をまずは旦那さんに読み上げて聞かせるということを言ってたのだけど(たぶん「おしまいの日」の単行本版あとがき),「あたし語り」の大家の言うこととしては話がよく出来すぎていると思った.ほんとだろうけど.

自宅で声を収録する,というのは難しくて,さっきの方も家の前の道をトラックが走るとかでうまくいかないと言っていた.昼間は騒音に満ちている.その点,深夜の研究室は非常に静かで恵まれている.卒論前なので若干人は残っていたが,誰も居なくなったところで,午後のティーラウンジです,とかマイクに向かって美奈萌の真似もできるくらい好き放題である.しかし美奈萌はえらいなあ.よくああもすらすらと話せるものである.あと,マイクというのはなんとなく話す気にさせるものだと思った.

ところで,おはなしの声,というものがある.おはなしを語って聞かせるときの声のことであるが,それは作り声とは別のものだ.僕らがおはなしを聞く機会というのはもはやないのかも知れない,と思ったが,今,落語の声を思い出した.登場人物がいくらいようと演ずるのは一人であり,その声は声優のように作られた声ではなく,極端な話,演者は男であっても話のなかでは女性の声として響くということがある.そのとき無理なほどに声をうわずらせる必要はない.聞くほうとしてはそこで小鳥のような可愛い声を求めてはいない.他の誰かになりきらない,演者自身の声が聞きたい.声優の芸が人の声を作ることであるとすれば,落語家の芸は話の声を作ることである.

なんでこんな話になったかというと,僕が声を出すのは研究発表のときかRPGのときくらいであって,今日の読み上げで後者のことが思い出されたからである.RPGというものがキャラクターになりきるものだとすれば,その声は本人とは離れて作られねばならない.だけど僕はどうしてもそうは思えなくて,かけ離れた声を聞くと誠実でないといって怒ったものだった.今でも凄いと思う後輩たちがいて,彼らは痕の四姉妹,たぶん耕一も居たのではないかと思うのだけど,5時間の間それぞれ彼女らになったつもりで会話を交わし,その後でようやく痕の話を突き詰めてやったらしい.猫の地球儀に言うよう,突き詰めれば血を見るという程度には.痕,というあたり,もうそれくらい前の話であるが,そのときの彼らの声は,無理に裏返したような声ではなかっただろう.そういう意味でのなりきりではなく,その声は彼ら自身の声を離れたものではなかったと僕は確信する.全く誠実に話と向かい合うときに,自分以外の声が出てくるはずはないのだ.僕にとってセッションというのは,キャラクターの声を出す場ではなく,話の声を出す場であった.(2/6)



 相手の好みはそう簡単に変わらない,と信じてなければ,もの一つ贈るのも大変である.しばらく疎遠にしてると,たとえば年賀状のやりとりだけだったりすると,とつぜんの祝い事でなにか贈り物をするのは難しくて,無難でつまらないものになるか一か八かで昔の好物を選ばなくてはならないかのどちらかだろう.末永に最近誰が好きなの,と聞かれたので,四葉に決まってるじゃねえかと答えはしたけれど,これだけ四葉四葉と書いているのにそう聞かなくてはならないくらい僕の好みは年賀状程度にしか知れないし,もちろん僕自身も不意に判らなくなる.

一つ覚えで息子の好物を送る田舎の母,というのはそこそこありそうなことで,それを息子が迷惑そうに語るというのは話になっている.この話を聞くときは,一つ覚えにならざるを得ない状況というのを思い出す必要がある.母は昔から息子の好物を知っていて,だからそれを息子に送るのではない.母は昔の息子の好物しか知らないから,それを息子に送るのである.一生好物が変わらないなんてのはむしろ常識から外れているが,それを曲げてでも,今も喜んでくれると信念をもたねば何も贈れない,贈り物をしたいがために湧き上がってくるその盲目は意図的なものだ.いかんせん,物でなくては届かない距離というのがあるのだ.言葉で済むなら済ましたいだろう.東京と奈良でさえわりとそうよ.お米券が溜まる.うちに送られてくるのは奈良でよく飲み食いしたそうめんとか野菜ジュースとかだったのだけど,最近は新幹線のお買い得券が溜まり過ぎているのをどうしようかと思う.(進呈,は事情により出来ない.) しかしこれは随分と言語的な贈り物であって,しょっちゅう新幹線のお世話になっている僕のためであると同時に帰ってきなはれという言葉をも帯びている.さっきまでの話をひっくり返すようだが,近頃なにかにつけ手紙が添えられていて,それが俺みたいに比喩的かつ恥ずかしいこと書きやがるから困る.ようは贈られてくるものが言葉に代わってきたのに衝撃を受けたのだ.詩的な文章というのは人に贈りづらいものであって,そういうのが贈られてくるとまずはお化けにでも出会ったような気分になる.僕がそういう文章を贈ってもよい相手であると認識されたのは,僕の人生をいいとこどりすればそれは確かに物語好きのたどった道であって,僕というのは母にとってそういう風に知られているのかもしれない.ようは,たいそう驚いたという話です.

末永とはずいぶんそういう恥ずかしい手紙をやりとりした記憶がある.詳細は覚えてないが,主に病室から出したものであったから青春の過ち的内容になっていたことは確かだろう.文章というより主に絵が・・・.センチメンタルジャーニーの真奈美の回にやたらウケているのはそのへんのこともある.さいきんはWebとか電話に変わりましたね.大学にぺたぺた貼りまくったポスターにしても舞台がWebに取って変わっただけだと解釈すれば,何に突き動かされていたかもはやよく判らん当時のことが,少しだけ判ったような気になれる.(2/4)


 あ,そうそう.PS版シスタープリンセスの兄チャマの一番いいところは,四葉の口癖がいつの間にかうつってしまうところである.

「兄チャマ,チェキチェキ.」
「やあ四葉,チェキチェキ.」

四葉の言葉がおかしいことにこの兄は自覚的で,はじめの頃はチェキを始めとする四葉語(なるほどチェキほど,とか)にずいぶん違和感を覚えていたはずなのだが,それは二週間も経つと二人の符牒となってしまっている.だいたい,四葉と喋ってるとき自分のことを「兄チャマ」なんていってしまうのは,あまりにかわいい.砂を吐くほど甘いバカ兄妹っぷりというよりは,年長者が幼な子と同調するときのちょっと声を高くするような子供ことばに聞こえるから,これはまたなんともほほえましくて良い.(2/3)



 いつも他人のことばかり考え,そして他人について一切語らない.そのどちらかはあっても,両方というのはできないものだ.考えれば語ってしまう,語らなければ考えない.だからねじれる.

ところで思い煩いというのは特定のコミュニティの外では何の意味ももたないしどうでもいいものになる.僕自身にとっても.たとえばザウルス関係の友人と会っても,昨日書いたようなことは思い出されることはないわけで,普通,ある関係性にのっかる形でようやく煩いがある.個人的な悩みというのはどうにもありえなさそうだ.小さい頃は一人遊びが得意だったんだけどなぁ,なにせ鍵っ子だったからね.こういう文章を書いてると,ソリティアトラップを感じえない,つまり思考が一つの個へ向き得ないということが幸なのか不幸なのか悩んでしまうのだけど,それはまたけして僕個人の悩みとして特権性を得ることはなく,僕と君とのコミュニティの悩み,つまり僕と末永の間にある悩みなのだ.君はそんな間なんてあるもんかと主張しそうであるけれど,僕はここぞとばかりに人の話聞かない子になる.

先日のミーティングにて,どうして人がキャラクターを信じるのか,キャラクターと人間との関係性のあり方について喧々諤々していて(そりゃするわな),後でこういう話題の好きそうな後輩の卒論生氏に何で君なにも言わなかったのと聞いたところ,みなの使う関係性という言葉の意味がまるで判らなくて発言できなかったと彼はようやく答えた.その場での僕は,言葉の意味なんてその場で作られるものだから何か言わなきゃしょうがないということを言ってしまったのだけど,これはなっていなくて,それは僕がそもそも彼と意味を取り結べるような関係を生み出せるよう振舞わねばならなかったということだ.(僕だって先輩らしくしたいと思うことはあるのだ.)彼の,言葉にしようのない思い詰めた感じはそういうところにあるように思えた.関係性という言葉の煩い以前に関係を指向する煩いがあって,そうするとそれは全く名づけ難き煩いである.

しかし,名づけ難いからといって,それが関係というものからまったく独立した個人の煩いであることはできなくて,関係を指向する関係なんていう循環的な物言いをついしてしまう程度には,関係というものに避け難さを抱いている人は多いように思えるのだ.幸か不幸か. (2/2)



 島根への返事っぽく.書き忘れていたけれど,鍵以外で好きなゲームといえばNOëL NOT DiGITALのほかに,メールドラマ北へ。がある.つまり僕は,コミュニケーション・モダリティの対称性(声と声,手と手,目と目,ごろごろとごろごろ,いちゃいちゃといちゃいちゃ.お互いコミュニケーターをはさんでただ頷きあったりするような,いっしょの気分になれるか?)と,誰かのことを思い浮かべて言葉が漏れてしまったり,「誰かさんと誰かさんが似てる」だとかいう助平をする際のモダリティ(叙法性)にばかり興味がある.モダリティ?モダリティ?つうかふらふらとまぎらわしい言葉め,とっとと一つにくっついてしまえ.例えば,おにいちゃんのえっち,とか,おにーちゃんのばか,とか言ってぽかぽか叩くのは,二つ程度は「モダリティ」を持ったマルチモーダルなことばである.最近ではメイナードという人が,けんか遊びの言葉,とも名づけていました.そしてこの文章は言葉が大好きで大嫌いで仕方ない僕の,言葉遊びの言葉です.

あと僕のほうとしては物事のかたりかたとして数学や物理その他の専門語を辞書程度の意味を備えたままにそのまま利用するのは嫌っている.ほとんどの場合,他にもっとふさわしい言葉を探せば見つかるだろう,と思う.あえて使うとすれば「銀色」や「黒蜜糖」が少年の名前となる程度には元来の意味を失っているべきで,あるいは幾何学と幾何学的精神とは違うと言ってもいい.背景に数学の仕組みがあるのはいいけれど,それを説明にまで使うのは無理がある.説明はもっと会話的な現実味をもって,そしてときに魔術的な混乱とともに行われなくてはならない.と,騙り工学者は思うのだ.この言い方(かたり)はもう使いすぎで駄目だけど.あと最近主張しすぎてて自分が嫌.どうにも性格悪くなるし,むしろ驕り工学者?

理系への怨念がまた発現してしまった.

誰かと誰かが似てる,という想いは難しい.僕がこれまで,僕と似すぎてる人とほどうまく行ったためしがないから.それというのも僕の言う世の中のあたりまえなのか.いや個人の問題として理解するよう努力してみると,それは必ず僕が悪いというところに行き着く.世の中そういうふうに出来ているものだ.・・・また僕の話じゃなくなってる.いやだからこれは僕個人のコミュニケーション技術の欠如による云々,てそういや誰かがそういうことをいまどきの若者に対して言っていたなぁ.ではなくて,僕が僕自身の言葉で語るところによると,,,あ,四葉が.

自分のことはまるでわからないから,他人のことを考えよう.そうしたときに,たとえば誰かと誰かとがまるで偶然のように似ていると思うのは,いつか見た思い出の場所と今とが繋がるときのような,大切な喜びだ.僕はMK2さんの文章を知って,世の中にそんな自分以外のことばかり考えることのできる文章があることの美しさを思った.最近,一冊の本を思い出した.それは中勘助の『菩提樹の蔭』という本で,僕が大学へ入った頃に,高校からの友人に教えてもらったものだった.その友人は子供を愛で,とくに小さい女の子が大好きで,それをそのままに小児歯科医を目指している.じきに開業,いやその前に結婚しそうな感じだが.そういう経緯で僕もある種のご同類として勧められたもので,当時その本のことを,覚えたての萌えという言葉で表現していたように思う.その萌えは今の自分の用法とはずいぶん異なるものであって,むしろ正反対であることに今では気づいている.『菩提樹の蔭』は中勘助が友人の娘妙子に贈った童話であり,また,岩波版の文庫本に同時収録されている「郊外 その二」は幼い妙子と中さんとの暮らしぶり,「妙子への手紙」は大きくなった妙子とやりとりされた手紙である.内容についてはこれ以上,今の僕の汚れた手では触れられない.ともかく,最近改めて思い出された中さんと,MK2さんという方が似ていることに気づいて,僕に本を貸してくれた彼のことだとか,そのころ彼のことをお兄ちゃんのように思っていた自分のことを思い出した.当時はそれが何かはっきりと判らないままに中さんの話が僕のなかにあって,それでMK2さんの文章と出会ったときにすっと入ってきた思いのなかに,中さんの話はあらわれていたかもしれない.昔から連綿と続いて今なお変わらぬ思いがあるというより,今気づいたこと,振り返ってみればそれは今まさにひかれたばかりのレンガ道であり,昔見た景色まで一緒にぴかぴかとしていることがごく単純にうれしく感じられるのだ.ごめんなさい.(2/1)



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