クローバーランドのお姫様(6) 2002年2月, 3月
曽我 十郎


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 最後の日記の前に,もう一つ書かねばなるまい.乱暴者でいつもごめん.確かに修辞を振るうことは私の生死に関わる話なので,詭弁と貶められるくらいのことはしたのだ.また,作法,という言い方ならばようやくにして私も昂ずることがない.意味など知らぬ存ぜぬ範囲においても,カチンとくる言葉とこない言葉というものがある.ポエムという言い方はかなりきた.意味の在不在を問う以前に,言葉のムードを難儀に思う.あと,前回の繰り返しになるけれど,言葉を受け取る我が暴力的なのではなく,我に意味を押し付けてきやがる言葉こそが暴力的である.意味は感じるものではなく否でも応でも感じさせられてしまうものだ.そして言葉に犯されるがままの僕が助平で淫乱なのが悔しい.なんとか復讐してやる.互いの不一致するところなど星の数ほどあるが,一番大きいのはこのあたりなのだろう.

だから,いつも言うよう,私は君ほど優しい人ではないんです.僕は血塗れの幸いくらいにしか興味が持てない.

しかしこれ,美少女ゲームの話として語らないと途端にリアルじゃないね. (3/8)


 言葉の意味やら意図やらは発話後に回収されるしかないものであるが,後で回収されることに保障を感じられなければ言葉を発することはとても難しくなる.例えば,僕が末永に対してあーだとかうーだとか物語だとかいう言葉のガラクタを言えるのは,ずっと一緒にいればいつか意味が回収されるだろ,という全く投機的な事情によるものであって,そう思えない人に対して何か言わなきゃならないのだとしたら,僕はネタ帳片手にそれを読み上げるくらいしか怖くてできない.ただ,このような投機的な事情に対しては静歩行と動歩行との違いを引き合いに出した説明がある.人が歩くときにはその瞬間ごとに静止しても倒れないようなバランスで足を出すのではなく,ふらふらと傾きながら投機的に次の足を踏み出す.しかし,全体の歩行としてはそれで安定することができる.動歩行を比喩にしているくせに,地に足の着いたいい話ではあって,歩行に際していちいち悩むことがないように日常の言葉を投機的に発することへ不安を感じる人は少ない.

というような人と人の間とか足と地面の間にある信頼関係に落とす言い方は優しいが,どうも話が旨すぎる.だから今日はそんな説明はチェーンメールと一緒にごみ箱フォルダへ入れておく.さて,僕らはおそらく独り言を発することを許されてなくて,どれほど頑張って独りきり言葉を発したところで,そこには語り返しが生まれてしまう.例えば作文を書くときに、文の中に自分に語りかけるような語り口があることや相反する二つの視点を持った分裂した自分の言葉が現れているのを発見してしまって,うっかりと自分自身への理解を深めてしまうことがある.あるいは,言葉にしてみてようやく意味が顕かになるというのは外化された思考の過程であり対自的なコミュニケーションと捉えられるようなものだろう.(外化,というのは内にあるなにかを前提とするのであまりいい言葉ではないが,人が自分の内に思考すると考えがちな視点を換えるための方便である.)自分の表出したものが別の視点を持った「自分」として自分自身に対して働き返す,語り返してくる作用から逃れるにはかなりの作為を要する.作為を用いたところで逃げ切ることができるのかどうかも分からない.そうすると,意味を回収しないことのほうが本当は難しい.

昨日書いたような語りのなかに自足する意識というのは,自らも語りの意味を回収しない.これは,子供が童話を繰り返し読むことを指して「子供が読むという行為のなかに完全にいるから可能なこと」「童話を読むことで自足している意識」とした言葉,また「童話は本来読まれ,語り継がれるだけでよくて,解釈を必要としない.それは語られ,聞かれ,読まれることで自足しているはずである.」(河合俊雄)というのを受けたものだった.世の中で独り言というのが随分と気楽に考えられているような気がするのだが,言えるもんなら言ってみやがれといつも思う.もしも言葉を発することが自明な容易さを持つとすれば,その自明さとは自足の意識と等しくなければ風前の灯火である.独り言を言っているはずなのに,自分の言葉に反省する.省みられた時点でそれは自分に対する自分の二人ごとであったに過ぎないと分かる.そして自分の文章に対して自省するなというのはかなり無理の有る話である.どうしたって見返すし,そのたびいつも破り捨ててしまいたくなる.馬鹿にして! 自足する語りというのはおそらく,起結因果あらゆる方向性をもたない物語であるがために始まりも終わりもなくただ繰り返し語り続けられる.「〜とはよくある話で」式のありそうな話を集めてカードに記し,適当に並び替えたような話をするときが僕は一番楽に思う.なんら方向づけも新発見もないそうした語りの中へ入ってゆくときが一番楽で,そこから外れたことを書くと後になって気がふさぐ.そして楽であることが容易に叶うはずもない.そうすると,誰かとの間に信を想像させてもらうのは,ふさいだ気持ちを楽にしてくれる.ごみ箱行きは,信を想像しすぎる助平な気持ちだけでいい.

もちろん,今木さんとこの話を受けてのことでもある.この余計な一行が助平になってやしないかということが,いつも悩ましい.(2/28)


 『送り雛は瑠璃色の』 思緒雄二(門倉直人)
シュンたちが行うように言葉がまじないであるとすれば,そうした意識は自然,語りかたにも影を為す.言葉によって言葉のことを語らなくてはならないという気の遠くなりそうな話を,誰もが身近に感じ取れるような短い尺に収めているのは,そこここに散りばめられた普通は知らないような日本の伝奇に対する薀蓄のおかげではない.気さくでエキセントリックな友人であるカズに惹かれるからこそ彼の言葉を信じられるのだし,気にかけずにはいられないハルカの不思議さは,彼女を「なんとかしてあげたい」がために話の奥深そうなところについて分かろうが分かるまいがこちらから話に近づかざるを得なくする.言葉の意味については,まずは探るべくもない.当時の僕が今の僕だったら,今の僕がおはなしの女の子にするようにハルカやカズやレイカのことを語ってなんとかしていたに違いないのだけど,当時は今ほど言葉が出てこなかったから精一杯彼らの写し絵を描いて,それに念を込めながら話を読み進めた記憶がある.

少年が主人公ということで,文体は門倉氏の好きな古いジュブナイル風の,例えば『闇の中のオレンジ』のような硬い筆運びであって,カズがおどけた会話をしても雰囲気がうわつくことはない.それは子供におはなしを聞かせるとき,猫のように飽きっぽい彼らをじっと座らせておくための言葉遣いで,話がくだけるために十分だけれど話を聞くことに対してはくだけさせない.読むには慣れがいるかもしれないが,聞き手に対する真摯さが伝わってくる.

『親愛なるシュンへ
自分を見つめ直すべき切実な必要に駆られ,私は旅に出ます.必ず戻ってくるから,どうぞ心配しないでください.以下に私からの質問を記します.シュンも考えてみてください.---こんどいっしょに答え合わせをしたいと思っています.』

カズの残した言葉である.どうにも答えが出せそうにないことに対して,果たして僕らはどうするだろうか.それは言葉を尽くして,だけど,ただ語ることができるだけだ.ハルカの魂の在り処についてどう答えることができるだろう.答え「合わせ」というけれど,どちらかが正しくてそれに合わせるということはなく,互いの問いに答えるでもなく,語り合わせの形を取るしかない.

『・・・本当の解答は,瞬,君自身が思えるんだ.』

カズは約束どおり帰ってきた.だけどこれは酷い言葉だ.そんな風に言われて,結局語り合うことになんの意味があるだろう?

だけど,カズは言ってない.シュンがこれから語るだろう幾多の言葉を聞いてやらないよ,とは言ってない.解釈の正しさを探ることなく,ただ語るなかに聞くなかに,読み進めるなかに充足されることがある.『親愛なるシュンへ』から始まる手紙が残されたとき,そもそも僕らが普通考える意味での語らいが不可能である本のなかの彼から10の挑戦を受けて,一方的な語り合わせがその先に待つというやるせなさを察知せざるを得ないし,同時に,その瞬間にだけ,よくは分からなかったカズの本当の顔らしきものが覗くように思える.顔の見えた相手には,心から話をすることができる.

本が僕の話を聞いてくれるなんてことが有り得ると思いますか.ときに,それが有り得ると信じているとしか思えない状態に僕はなってしまう.

歌やまじないがあまりに出てくるのは通低音を為すためであって,それはこのおはなし自体が僕らと共に詠む歌たらんことの支えに供され,輪郭は溶け,一つ一つの区別ができなくなってゆく.ロマンの勝った話ではあるから,そういう括りが相応しく思える.(2/27)



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なつかげめいきゅう ほしくさせんろ (c)1996-2001 曽我 十郎
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