for AIR

曽我 十郎

さようなら,Natural Language Generation.
ようこそ,Natural Generation.
つまり,言葉なんかいらない.今までの悲しみにさよなら.


厳しいものの言い方,優しいものの言い方,言い方は違うけれど言ってる内容は同じだ,というようなことはない.それぞれがただ厳しい話,優しい話であるだけで,参照される同一の内容などはない,というようなこともない.君と僕は同じだねと,「こ○」と「○い」とを見ればそれはどちらも「こい」なのだなんて同一化したくなるえっちな気分と,君は僕とは違う,類型化して分かったような顔しないでくれ,だいたい君は個をないがしろにしすぎるのだ,僕の持つ切実さを軽んじて欲しくないよと.けんか友達の二人を見て「君らは似てるね」と言ったら,ぜったい違うと二人から言われる.けんか友達という言葉自体がもうそういうあべこべを含んでいて,ありのままのことを言葉にしようとしたら,そう言うしかないのだろう.


語る言葉を持てなかったところでどうということはない.「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」.たとえば自分がどういう創作物を好きか嫌いかということは理由をうまく語れなかったとしても知っている.理由を語れないとしても実際に見て読んでそれを間違えることはない.

そうだとしても,自分の胸のうちだけに収めてはおけなくて,作品について誰かに言わずにおれない思いがあるのだけど,言葉に出来なくてもどかしいということがある.とにかくこれを読んでくれ,というのは乱暴なので最後の手段に取っておくとして,それがゲームであれば誰かと一緒にやれば済む.相手がどういう感想を抱いてるかというのは一緒にいればなんとなく分かってくる.あとはただ好きな箇所(章なり文なり)を言い続けるくらいで,それだけでも5年くらい言ってると相手もなんとなく感じるところがある.つまりは,伝えようもないのだけど伝えたいという自分のやむをえない気持ちに忍耐強く付き合うということで,切実ならば,それくらいは.あえていうならそういうのはどんくさいというのかもしれないけれど,どんくさいことを嘲笑するのは中坊で卒業されたはずである.ときに自分の好きなものや嫌いなものがそもそも分からなくて,それを知るためにどんくさいことをしなければならないこともあって,自分自身の気持ちを観察するために同じことを何度も何年も繰り返してみてようやく俺は彼女のことが好きだったのだなぁなどと過去形で思うことができる.


物語のタペストリを見渡したとき,ある部分は自分にとって目に付く図柄で,残りの部分は目立たない模様や生地のように思えるのは普通で,一つの作品でもここが良いと思う箇所ひとつ挙げてなんて訊くと,相手によって指すところがかなり変わってくる.おせっかいにも,誰のものの見方がその物語の的を射ているかと問うなら,それは参照されるべき同一の内容と読み手の間にある差異とを前提にするから,「けんか友達」というくらいにそう言うしかない妥当な言葉で答えるしかない.まずは物語の中で図をなすに相応しい言葉と図を支える地の言葉を計算機的な客観さで見てみる.一番単純なのは,もっとも多く出てくる語が目につくし重要な言葉なのだろうという見方で,僕はいつも助平助平と書いてばかりいるから,読んでくれてる方も,ああ助平って語がこの人のキィワードなのかね,と思ってるんじゃないかと思う.だけど単純に登場の多さだけで測るとその文章ならではの言葉が見つからない.新聞には年中通して政府という言葉がよく出てくるけれど,それはあたりまえすぎて新聞を読むときに注目するのはそういう言葉ではないだろう.むしろ選挙のときに限ってよく出てくる選挙制度であるとか投票率であるとかいう言葉が重要で,全体にわたって登場しすぎる語もあまり目立たない地を為す語である.とかなんとか.

物語を扱うのに新聞記事と同じようにするのは直感的に相応しくないから,ここは僕の抱いた印象も含めることにしたい.たとえばAIRを読み終えたときに思ったのは,やたらと語り継ぐことに関する出来事が繰り返されてるということで,往人が芸能者であるということ,八百比丘尼というのはやり過ぎで,そうでなくても物語の始まりは誰だか知らないが,わが子よ・・・よくお聞きなさい,とくるのである.神奈は母親から受け継がれるべきことがあって,裏葉たちが子孫に語り継ぐべきことがあって,神社の前でただの母子が,神様の在り処を語ることがあって,いずれにせよ確かな意味を求めることなど出来ない語りきかせであって,神奈はなぜ死ななくてはならなかったのか,神様はどこにいるのか,そして観鈴は.

繰り返し現れる出来事は重要なのかもしれないし,もしかすると,それはごくごく当たり前のことだからこそ,何度でも出てくるのかもしれない.僕がAIR全体を思うとき,この繰り返しはどうしても目を引く.語らなくてはやってられない出来事ばかりで,いっそ語りの中に浸かりきって,その中で満ち足りることができればいいと思うのだけど,そうすることができなくて,何度も繰り返し語らなくてはならないことがやるせない,夕暮れの童話.一方,僕が観鈴たちのことに目を向けるときは,それこそ生命に対する地と図のありかたに自明さを持たない,心の深すぎる彼女の,僕にはよくは分からなかったけれど彼女は彼女なりになにかをずっと考えていたのだろう,そして考え抜いた末に失われてしまったということを,ただそのまま口にすることしか出来ない.分かったような口は聞けない.ふと,映画「大阪物語」('99)を思い出した.漫才を続けることの出来なくなった芸人であるところのジュリーは,失踪した挙句ついには車に轢かれてしまうのだけど,何を考えていたのか誰にも理解はされないままに,きっといつもええこと考えてたんや,と残された妻に言葉を送られる.交通事故にしたのが大阪の人情であってこれは泣くことができるのだけど,観鈴の死はそういう普通に泣くための手がかりすらない.泣いたところで誰が分かってくれよう.そんなとき図のようにも見えていた語り継がれる様は話の地へと変わって,このやり場のない気持ちを支えてくれるように思う.図と地は騙し絵のように反転し,泣くに泣けぬ笑うに笑えぬ泣き顔と笑い顔とが両面で.

AをしたいからBをする.Bが原因でCが起こる.Cに対してDという提案があった.とか.物語のことを振り返るときに僕がどこまでそれを分解してゆくかというと,ひとまとまりのよく似た文章の集まりとその頻度やおよその位置くらいで,全体の話の流れ方というのをあまり見返さない.盛り上がりと呼ばれるような一瞬の喜びや切なさはただ読む中にある.はぁとふるCafeで盛り上がりのテンポが悪かったとして後からどうこう言う気にはなれない.後から思い出されるのは好きも嫌いも両面本気の喧嘩姉妹と頼りになる兄との言葉のやりとりが繰り返されること,そればかりが生彩を放つ.ただ,読む中で僕が八方手をつくして必死に思考を巡らせるのだけどどうにも埋まりそうにない裂け目があるとき,例えば舞の切腹であるとか透子の消えたことだとか,そういう瞬間に強く悼むような気持ちが生まれたことはよく覚えていて,振り返るまでもなくいつも言葉にしている.

読み終えた後から観察できる妥当さというのは頻度にまつわる部分くらいなのだけど,助平心があって,読んだ中で僕の記憶に焼きついたことについても追加して話をしてしまう.この見たまんまの部分でない後者は曲者で,誰かに自分を訴えようとする業の深いいやらしさのために他のたくさんが踏みにじられて,そんなとき見たまんまのことだけを言えたら幸せではないかと思う.助平さは美人投票のようによく分からない基準で測られるものであり,また別の誰かの助平な感想を招く.答案の採点よりは美人投票のほうが楽しいということはあって,助平な言葉が人の世に連綿と語り継がれてゆく.せめて,その不幸が嬉々とした声で語られてほしくはない.悼みましょう.そしてお悔やみを述べましょう.


自分の言葉で語れなかったところでどうということはない.南無阿弥陀,つまりもう誰のものでもないような言葉でいい.失われた彼女がどこへ行ったのか,空,輪廻? いいや,手を合わせた瞬間には宗教的物語などなく,あったことをただありのままに語らなければ故人をないがしろにしているから,あんたほんまあほやったなぁ,そう繰り返し唱える.そして言葉の中へ入ってゆく.そうすればきっと痛ましくとも不幸ではない.


(2002/3/10)



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