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最終日記彼女 ゼロプラス
はじまりと終わりの日記
このお礼をするため、ヤマギワさんでまりんとメランのCD購入。シングルを手に取った後、萌えるジャケットのサントラ集が出てたことを思い出して、そっちも手にとって見てみると・・・元ザバダックの上野洋子さんがいる・・・なんで?
まりんとメランの音楽やってる吉野祐司ってVitaNovaの人だったんですねー。上野さんとユニット。すみません、名前覚えてませんでした・・・。
つうわけで、まりんとメランOP冒頭のコーラスも上野さんですね。どうりで耳に引っかかったわけだ。
現在「風の碧、海の翠」聞き中。よいです。
フォルクローレというと、コンドルが飛ぶよりむしろZABADAKの「五つの橋」がダイレクトに繋がる。この二つ以外わかんないですけど。五つの橋は詞が工藤順子で曲が上野さん。工藤順子は遊佐未森ファンならご存じ、未森さんによく詞を提供してる人で、童話の絵、旅の終わりに辿り着く場所。「風の碧〜」のほうは詞が監督の米たにヨシトモ、曲が吉野祐司。パースペクティブ、旅のはじまり。
で、調べていたらこんなものが。ふぇ、ソロアルバムですか、かなりびっくり。最近、ZABADAK&遊佐未森関係の情報からは遠ざかってました。
昨日は根津神社にお参りしてから大学へ。素敵なアニメの舞台をどうもありがとでした。
少し離れたところにある汐見小というとことその隣の中学校あたりを思ってたんですが、名前違いました。>中学校
汐見という地名は無論、かなり私のお気に入りである。しおしおみしお。
こちらから、 こちらへ。・・・あの、これコンソールで見てると、かなりクるものがあります。間違いなく、わたしあちらの世界へトリップしました。周りに人がいなかったら、泣いてたかも。これがK子だって言われなきゃどうってことないわけで・・・だから、これは、すごいスクリプトだわ。冗談だと言っておられるのに過剰反応気味で申し訳ないです。いや、マジ、キますって。
Ruby走らせたのって、じつはこれが初めて(^^;
昨日ヤマギワでトップの2巻をレジへ持っていったときのことですが、お店のBGMになんか不思議な音楽が。・・・素敵だ。んなの尋いたことないんですが、さんざ迷った後、店員さんに聞く。これなんの曲ですか?
この前、わりと揃いのいいビデオレンタル屋を見つけて、それでなんかジャケット裏のあらましを読むと、根津神社(うちの近所)とか書いてあったので、気になってたアニメがあったんですが。弥生中学、ってあったかしら。根津なんたら中学とかはあったと思うですが。
というわけで、縁が重なったので借りて観ました。「まりんとメラン」
ぐわ、曲の予感そのままに最高アニメですよ。まりん(13歳)のボディを、じゃなくて全人間的なまりんに対してここに支持を表明するであります。人類は、いやむしろ末永は義務として一巻だけでも観ること。私もまだ一巻しか観てないけど。
メラン with 大塚芳忠にも惚れ。芳忠さんの声はどこか痛々しく脆いのがいい。あまりに人間臭いんで異種族とは思いませんが。騎士というよりも、抜き身の少年。ドラマCD版のナルサスんときは、それは皮肉混じりに聞こえてくる。
あわわ、うちのご近所でこんな大変なことがあったとは!
本日三周目突入>まりんとメラン
やたら気に入っとるなぁ。まりんのちょっとこまっしゃくれ気味のしゃべりと、オープニング。メランのことずっと好きでいてね、まりん。
椎子x成瀬ストーリー。そういえばわたし、そのハッピーエンドだかバッドエンドだか分からないヤツってまだ見てませんでしたね。
sense offのマルチEndは、各Endが相互に引用可能なフィクションであることを示す以上に意味とか意図とか感じられないんで、わざわざ全End見るモチベーションが下がり気味なんですが。わたしにとって、各End共通の文脈なんて透子の語る思惟生命の嘘臭さによって全部破壊されてるわけでして。そこでは全てがバラバラに、ただ元の文脈と離れた形で参照され得る状態こそ築かれている。
禅の世界で、人がなんだか物知りな牛を連れて何度も環のなかをぐるぐる回る話があるらしいんですが、ここで牛が何を知ってるかはどうでもよくて、ただ何度ぐるぐるしても、牛はけしてバターになったりしないのだ(もちろん人も)。牛も人も変わらない。それは弁証法的な螺旋を描くんじゃなくて、ただ端点の繋がった環っかなのだ。だけど、牛の落とし物(ちょっと上品に書いてみました)とかが歩いた後に残されて、そのうちそこから草なんかが生えてきて、環のほうが変わってゆく。自分が変わるんじゃなくて、世界のほうが先に変わる。それで、変わった世界に居る自分が、変わる前の世界の自分を振り返るとき、その自分は変わった世界に居る自分ではないから別の自分なのだった。まず自分があって、次に世界が変わって、次に自分の変化が事後的に現れる。人は未来へ向かって揚がったり下がったりしなくて、ただ世界の変化に振り返るとき、過去を捏造し、またもう一度振り返るとき、未来に立つ。あらかじめ過去の文脈があったり、そこからどこかを目指したりしない。何度も振り返り振り返り、環を巡る。自分は変わらない。世界が変わり続ける。変わる前の世界の自分が振り返られ続ける。
ここで、世界が!自分が!とか恥ずかしいこと書いてますが、sense offのこっ恥ずかしさに比べたら、それがどれほどのものだというのか。青臭さはいつだってすぐフトコロから取り出せるようにしておきたい。
sense offがフロレアールに比べこうも文脈がバラバラなのは、誰にとって何が変わるのか、自分が変わると世界が変わるのか、世界が変わると自分が変わるのか、あなたが死んだらあなたが終わるのかあるいは世界が終わるのか、そういうことを考え始めたとき、フロレアールみたいに各Endが未来へ繋がって行く文脈の積み重ねはあり得ないからじゃないかな。文脈について考えることは、一人遊びを続けるか未来に文脈を共有するコミュニティを形成するかのどちらかなんですが、メルンが一人遊びを否定できても、欲しいものは必ずしもコミュニティではなくて、一人遊びとコミュニティとの間にあるものだったりする。それは例えば二人だけの幸福な場所で、そうしたものがsense offでは、振り返り続ける思考法によってより明確に夢見られる。文脈はけして共有なんかされない。ただ互いに参照され得る状態が、一人遊びとコミュニティとの間に、求められるべき空間を描き出す。
端的に言えば、別のシナリオの出来事を参照可能としながらも頑なに拒み続けるところに、二人の愛情とか見えないでしょうか?
こちらも意図的に幾つも意味を畳み込んでるんで、ここではとりあえずもう少し展開しておきます。メルンとの出会いを「目指す」行為の積み重ねは、目指している以上文脈をもって続けられるんですが、目指されるにも関わらず、その文脈と地続きの場所に奇跡という事象はない。この点はたぶん末永の言う「事象としての奇跡は文脈を持たないからこそ奇跡」と同じだと思う。
あと私はコミュニティを文脈の共有されたグループであると捉えていて、文脈を真面目に考えるとき、極端な話、この世に文脈なんてなくて全部わたしが認識した世界でしかないんだ、という考えと、必ずお互いの理解を支える文脈っていうものがあるはずなんだ、という考えがあって、コミュニティというのは後者の考えに依って成るグループ(さっきと少し言い換えてます)。そしてメルンと出会う場所はけしてコミュニティではない。ソリティアトラップの深淵を get it over した先に、あるどこか。そこはソリティアトラップとコミュニティの間にあるような場所なのだと思うけれど、フロレアールではそこがコミュニティでないということについて、ことさら踏み込んではいないというのが、上記のフロレアールに関する部分の論旨です。ただここで、メルンを目指す行為そのものに文脈があったことを話の枕にして、sense offのほうへ話を飛躍させています。フロレアールが問題というよりむしろ好きだから引っぱり出したので、フロレアールという完結した作品とsense offとの比較自体には意味はないです。
文脈の話をすると必ず、コミュニティというあるのかないのか良く分からないけどあるような気がするというなんとも薄気味悪い場所(またさっきと少し言い換えています。コミュニティの話は、話すうちにどんどん気持ち悪くなるものです。)の話が出てきてしまいます。sense offは、認識力学的あるいは事後的な視点やシナリオ内あるいはシナリオ間の断絶を用いて、文脈から逃げ出そうとしているように思えます。このへんの話は去年の八月から飽きちゃうくらいやったのでパスです。
で、文脈から逃れて一体どこへ行くのだね?と考えたわけですが、やっぱそれは、ふ〜たりのために〜、せ〜かいはあるの〜、という語るも恥ずかしい世界であって、sense offというのはやたらなんかあるように見えて、その実、結婚式で二人ゴンドラで降りてくるような恥ずかしさに満ちた場所。ハートの形にロウソク灯して、Let's ケーキカット。ううう、そんなの嫌でしょ。だから、素面で愛が語られるためにはそれなりの舞台装置が必要で、フロレアールのようにフィクションを一人で渡り歩くのもそうだし、sense offみたく、ふたり手と手を取り合って文脈から逃避行するのもまたそう。もはや論理とかすっ飛ばしてますが、フロレアールは一人の悩めるお兄さんで、sense offは二人だけの世界なの!
二人以外にとって、意味(sense)なんて切断されてる(off)のさ。だけど、当事者の二人だって意味を分かってなんかいない。切断されてるもの、意味なんて分からないものをどうやって語ればいいのか。語らずに別の方法で指し示すしかないやん。やんやんやん。お米券プリーズ。
あ、今、ここにいる僕は見ますよ。でもはじめてだから、イタくしないで(涙目)。
あまりに再現されてたので笑い。>α外伝のロラン
ドットアニメ師の人が楽しんで作ってるのが分かるような気がしていい。これとティファとパーラ(特に後者が重要)のためだけに買ったり・・・はしないか。スパロボは昔やってあまり向いてないと思ったから。
ブライガー登場でお姉さま向けにも強化。
仙台へはなんとか行かずに済みました。18:30頃、クロネコさんに託す。今頃もう着いてるはずだ。
そんなわけで、息抜きにアキバ(あともう一本残ってるけど・・・)。で、上記のデモを見たり、ヤマギワで浩子さん売り切れだったり。仕方なく石丸で購入。
あと、ガンバスターの(2)とか名雪のとか。
しかも、もとの水。
ここで野生というのは、サバイバルでなく得体の知れないものとして現れていて、例えばなつへのとびら@成恵 の猫が生きるバラバラの時間であるとか、無類の猫愛者である加藤さんの言葉であるだけに猫というのがよくハマっている。
妖精族のむすめのジェインとかどうですか。野生のもの。Wild Thingsという言葉には、けものっぽさを喚起させられてたんですが、今振り返るとむしろ得体のしれない感じがする。妖怪みたいに、ぬっと出てくるもの。
妖怪と友達になってしまったら、それはもう得体がしれないとかなく、切り取られた永遠。They have no souls, and cannot die, and are of the kith of the Elf-folk.ヤン川の流れはけして変わらず、ただ人に終わりがあるだけなのだ。
凄い雪です。
うちの庭では真琴駆けまわり、さっきから誘われてるんですが、手の放せない提出物が。この雪だと私が郵便屋さんになって届けねばならんかもしれないし。仙台まで。
名付けというのは全人格的センスが求められるような気がして苦手なんですが、犬を飼ったら付けようと思っている名前があります。というか今思いつきました。「真琴」。瞳がつぶらで体の小さめな奴。
雪が降ったら物珍しそうにはしゃぎまわって、春になったら耳を伏せて寝てばかりいる。・・・おい、なにやってんだ。お前の待ち望んだ春じゃないか。寝てる場合じゃないだろう。とか耳を引っ張って言ってみたりするのだ。
人間体より動物体の真琴と生活するほうが、相変わらず想像しやすい夏町です。
このたび中学校の教員に採用されました。萌え萌えです(笑)>大雪の中学校
あ、私とのエンカウント率が高いのは、きっと最近の私が廃人的な時間じゃなく普通の時間に大学に居るからです・・・。
気分転換にジョナサンで夕飯にしようかと思ったら、あれですよまた。一人でしか来てないのに、メニュー二人分置いてくんだもんなぁ。一つは向かいの席に。・・・あまりのことに本当にバグなのかどうかチェックしましたが、他のウェイトレスさんは一人の客には一つしか渡していない。やはりバグなのか。当たり前だよな。って昔はそんな失敗はしたことがなかったので、もしかして、技が増えてますか?
その代わり、伝票をくるっと巻いて筒に差す動作は家でこっそり練習したのかというくらいスムーズに。始めのころは筒に入れられなかったからなぁ。
いや、少なくない、ってのは思い過ごしだったという結論ではなかったかね。
水姫と私が口をそろえてプッシュするものってゆーと、
くらいのもので、あとは風雨来記というわけだから、鬼門といえばガンダムWくらいでしょ。白倉由美とは和解したとか言ってたはずだし。
いや、それはポート・ブラックサンド? 逆に私はFFを全くやってないんですが。別の意味でアメリカンな空気がどうも。
あと、それはノートパソコンの仕様です。
ザウルスはノーパソとは違います。ザウルス少女と言えば、もちろん手書き文字入力がウリに決まってるじゃないすか! ・・・背中とか手のひらとか。スタイラスなんか使いません。人差し指で書く! これぞ真の手書きであると言えるでしょう(頭悪い)。
再戦の機会は一週間で訪れた。アイルランドからいらっしゃいませ。だいぶ慣れてきたので70点というところだ。前の惨敗から学んだことは多かったようだ。しかし、ここから先は1点でも上げるのが大変だ。話すほうは度胸で何とかなっても、聞き取りだけはいかんともしがたい。
youcanさんの、こちら。とうとう娘化の波がザウルスにまで!
胸元でMI-E1ってすぐ分かるのがポイントかと。範囲外の温度で動作させたヴァージョン(ダレてる)とかぜひ見たかったり。
シャープからようやく届きましたが、私、SZABのほう使うし・・・。早くザウルス本体のほう送ってください。ザウルス宝箱proの掲示板では来週発送とか書いてたけど、来週私あまり家におらんて・・・。
絶賛プレイ中。・・・嘘です。そこまで時間ないので、一日分くらい。
もはや各所で言ってますが、海路で釧路に着くまでの流れは魂もってゆかれます。こんな広い船に乗ったのは初めてだ。ゲームで船というとあまりいい思い出がなかったんですが(ミシシッピ連続殺人事件←説明不要、セプテトリオン←夏町の反射神経ではクリア不能)。写真だけで広さとか時間の流れとか見せれるのね。あと会話の間にタイミングよく入る潮の音とか良いでしょ。ヴォーカルの必要ないオープニング。そして、冬の少し鼻にかかった声とか。
一日目は摩周湖に直行。だいたい自分の行ったことのある道のりを辿るつもりである。次は知床五湖だ。摩周湖の少女には申し訳ないけれど。
その土地土地で買い物とかしたいですね。それじゃ北へ。になっちゃうかもしれないけど、わたし摩周湖といえば、売店で売ってた「摩周湖の水」(250ml缶)が忘れられんのです。毎朝、売店のおばちゃんが摩周湖から汲んで缶に詰めているのです。たまにマリモとか混入してます。たぶん。
「あんた私のお父さん?」とか怒る夏のちょっと幼児的なセリフがいい感じなんですが、次に会ったときもまたこんな風に怒ってくれるかしら。
釧路港からまずは手近にあった釧路駅を目指すも、気づいたときには摩周湖の近くに居ました。すごい方向感覚だ! 日常をシミュレートされてしまった・・・。実際に北海道をツーリングするなんて、夢のまた夢という感じですよ。仕方がないので、マニュアルを見てバイクの操作を覚える。
摩周湖第三、第一展望台から硫黄山へ。硫黄山で裏摩周の噂を聞いたため、今日は摩周を極めよう、と登らずに引き返してそちらへ。登ってる時間なさそうだったし。硫黄山は登ると降りられないという思い出があるのです。足元が危ういので、降りるのは思ったよりも時間がかかる。かつて私はバスの出発時刻に遅れそうになりました。
Webページ作成。行ったことなかった裏摩周のこととか書こうと思ってたんですが、摩周湖の少女というあまりに直球な設定に幻惑されて、つい、妖精が、とか恥ずかしいことを書いてしまった・・・。うわ、俺こんなこと書いてるよー(少女の写真つき)。もっと硬派なページにするつもりだったのに、とアップロードした後で大後悔。
OURsLITE3月号購入。山名沢湖も描いてたりで、買う理由がまた一つ増えた。
というわけで、お待ちかねの紺碧の國ですが、いや、もう何事もなかったように話が進んでいたり。アリスの件はミチルがカイを責めるところに回収されてるので話的には良いが、パルック割れたよ?換えはあるの?アリス自身は最終回までになんら救われそうな気配がないので、呪いが解けてカミーユとファが踊りだしたりする事態にでもならない限り、割と死んだほうがマシな未来だ。彼女の骨は誰かが拾ってやらねばなるまい。落ちた翼とかパルックとか。カイよ、お前、拾ったか? ていうか、おそらく拾えないのがカイで、だからZONEとかゆーのを探すのだけれど。
ミチルちゃん無茶苦茶可愛いです。p.95とか、ごろごろごろごろー。あとこのしょっちゅう髪型変えるのはエライ。河原のシーンなんて他より三歳は幼いよー。そうそう、君はそんな同人誌とか読んじゃ駄目です。おそらくその本は18禁のエロエロ同人誌で、世の中学生男子たちに新たな境地を開く使命を帯びているのです。それこそ脳内革命なんていうチープな言葉で語られない、男子にとって300年以上の歴史を持つ春画の威力なのです。君が読んだらきっと赤面ものですよ。あ、数字とか適当です。
コミュニケーションと本というのは随分違うレベルにあると思うことが多いんですが(当たり前ですか?)、この本むっちゃ好きでさ、とか俺の気持ちはこの本を読んでくれんと伝わらん、とか、コミュニケーションの手段として人に本を薦めることがあって、まぁ、それはたいてい上手く伝わらない。物語を言葉の代わりに使おうとすると、それは言葉と同じ程度にしか伝わらんのです。
本は誰かと一緒に読むことで言葉とはまた違ったやりとりが生まれるのに、この一緒に読まなきゃ駄目ってとこをつい忘れて、言葉を相手に投げるみたいに物語を投げてしまうんだと思いますが。祐一と真琴みたいにほんとに一緒に読む必要はなくて、やりとりする二人の間に対話的な場が生まれているかどうか。対話的な場? 分かるような分からないような言葉ですが、ドラマ見た後すぐ誰かに電話をすること、あるいは漫画の発売日とかでもいいんですが、例えば、相手もそれを見てることは知ってて電話するわけです。ねぇ、あれ読んだ!?って、物語を読んだ直後、興奮しながらリアルタイムに語られる読みは流動的で、電話が終わったとき出来上がってる感想文は、二人の会話の気分にえらく左右されている。それは第三者が聞いたら、なんでそう読めるのか分かんない、はぁ?な感想だったりするけれど、二人にとっては真実、筋の通ったストーリーなのである。
コミュニケーションの手段として、誰かから自分の魂の一冊を渡されたりしたら、内容に肯定的であれ否定的であれ、コミュニケーションが一歩か二歩進んでなくてはならないという期待と義務感とが双方に錯覚されると思うんですが、わりと乱暴な話で、本を渡した程度で普通、そんな劇的な変化はない。それは、地道に言葉を積み重ねる中の一要素に過ぎない。
カイが時雨に同人誌を見せるのは同族意識の確認で、新しい何かを築くのではなく、確認とか踏み絵に使うことはあると思うけれど、本を渡す行為は、たいていそれ以外の錯覚を伴うように思う。
相手の薦める本をあえて読まない、ということもよくあって、相手のことは好きなのに、どうしてあんなに強く薦められてる本を読まないのかと思うけど、それは錯覚を厭うとかよりむしろ、本の受け渡しをコミュニケーションとして認めてしまうと、他の種類のやりとりがもう失われてしまうような気分から来てるんじゃないかな。それは、二人の間に錯覚呼んでしまうような本というものの怖さと直接結びついていて。
だからミチル、君はそう、カイの大事にしてる本なんて読まなくていいです。
あ、そうそう。山名沢湖といえば、今は亡きAmi掲載の「夏休みが待ち遠しい」が重要です。あれは私の魂の漫画なので、ぜひとも読んでください(大迷惑)。
開発はSZABです。 一通り揃ってるサンプルプログラム(ザウルス宝箱proのページに掲載)が優秀で良いと思います。ざうすけなんて、最初マニュアルとか見ずに作ったくらいだし。<それはそれで問題が・・・。
北海道ツーリングといえば、上野珠理さんのLANDSCAPEが、私バイク分からないながらに好きです。こちらとかあえて伏せ字を読まなかったくらいなので、とてもやりたい度が高いですね。WebPageの名前が風雨来記というのが素敵ですよ。最終日記なんたらとかいう名前ではとても到達できそうにない世界なので、おそらくデフォルト名でプレイ。こちらでもお薦めだったし。さわやかというかせつないというのはまさしくそうだと思います。瑠璃子さん。歪みとかなくて、ただあまりに青春。
そうなんかー。わりと十数日前に行ったばかりなんですが。G'sマガジンが売ってて便利だったのになぁ。買うときに右見て左見てからレジにもってく必要がありましたが。
あと、そのアニソンラジオが無くなったようでは、魅力半減では・・・。わたし的にもかなり。
WallPaperとかのE1対応は、実機が届いたらすぐにやると思います。>SaTa.さん
数字をちょろちょろいじるだけなんで移植自体は大変じゃないんですが、モノがないことにはどうにも。
アイクルーズ専用ソフトだったWallPaper ex.をQVGA機にも移植しました。
なお、正式名称はWallPaper ex.のままです。
ザウルスでVGAからQVGAへソフトが移植されるのは初めてのことですが、こういうことがあってもいいんじゃないかな。
アプリケーション識別子はVGA版もQVGA版も同じWDWWですので、アイクルーズユーザでも両方同時に使うことはできません。
追加機能
主な修正
時計の針や文字の色を変更できます。
*clock.tanshin1.ff0000 |
上の例では、針の短針のふちどり部分を赤色に変更しています。最後のff0000の部分が色の指定です。値は24bitRGBの16進表現(HTMLで利用されるのと同じ)です。コマンドの意味については、このページの下の方にあるコマンド表を参照してください。何もコマンドで指定しない場合は、以下のような値になります。
*clock.tanshin1.fcfccd *clock.tanshin2.000000 *clock.choushin1.fcfccd *clock.choushin2.000000 *clock.moji.fcfccd |
スケジュール・Todo・時計モードの表示文字の背景部分について、透明度を変更することができます。自分の見やすいように変更してみてください。
色を濃くする場合は、設定ファイルWDWWAPL?.TXT(?の部分は0から9までの通し番号の数字)の適当な場所に
*window.color.shadow |
というコマンドを一行を書き加えてください。これは壁紙ごとに設定できます。コマンドの後ろは空白をおかず、すぐに改行してください。
ほかにも様々な透明度に変更することできます。このページの下の方にあるコマンド表をご参照ください。なにも指定しない場合は、次の指定がされたことになります。
*window.color.normal |
以下のようなコマンドを利用できます。設定ファイルWDWWAPL?.TXT(?の部分は0から9までの通し番号の数字)の適当な場所に一行ずつ書き加えます。同種の効果のコマンドは、後ろに書いたもののほうが有効となります。
コマンドの後ろは空白をおかず、すぐに改行してください。
アプリケーションランチャーとしてのみ利用する場合は、*schedule,*schedule.small,*todo,*todo,small,*clock.fullを書かないでください。
*schedule | スケジュールの表示 |
*schedule.small | スケジュールの表示(小) |
*schedule.cursor_off | 壁紙モード(スケジュールにカーソルを移動しない) |
*schedule.cursor_pim | PIMモード(カーソルキーで壁紙を切り替えない。壁紙は順送り・逆送りキーでのみ変更) |
*schedule.zasch | スケジュールopenボタンで「ZaSch」を起動 |
*schedule.tsukinoyotei | スケジュールopenボタンで「月の予定表」を起動 |
*schedule.yoteieditor | スケジュールwriteボタンで「予定Editor」を起動 |
*todo | Todo(アクションリスト)の表示 |
*todo.small | Todo(アクションリスト)の表示(小) |
*window.color.white |
スケジュール・Todo・時計モードのウィンドウの背景を白(不透明)・文字色を黒に変更する
![]() |
*window.color.light |
スケジュール・Todo・時計モードのウィンドウの背景を白(半透明)・文字色を黒に変更する
![]() |
*window.color.normal |
スケジュール・Todo・時計モードのウィンドウの背景を薄い黒(半透明)に変更する
![]() |
*window.color.dark |
スケジュール・Todo・時計モードのウィンドウの背景を濃い黒(半透明)に変更する
![]() |
*window.color.shadow |
スケジュール・Todo・時計モードのウィンドウの背景をもっとも濃い黒(半透明)に変更する
![]() |
*window.color.black |
スケジュール・Todo・時計モードのウィンドウの背景を黒(不透明)に変更する
![]() |
*toumei | 表示文字の背景を半透明から透明に変更する |
*clock.full | 全画面に時計のみを表示(時計モード) |
*clock.tanshin1.?????? |
時計モードにおいて、短針のふちどり色を変更 (??????は24bitRGBを16進表現した値。ようするにHTMLで利用されるのと同じ6ケタの値。) |
*clock.tanshin2.?????? | 時計モードにおいて、短針の針の色を変更 |
*clock.choushin1.?????? | 時計モードにおいて、長針のふちどり色を変更 |
*clock.choushin2.?????? | 時計モードにおいて、長針の針の色を変更 |
*clock.moji.?????? | 時計モードにおいて、文字の色を変更 |
どうも座りが悪いのでやめました。リリー博士とか。あとエンデバーの出典はどうやら私も忘れていました。
「時の果てのフェブラリー」は人類の義務として購入。元がヴィジュアル系の文庫だっただけに、もうちょっと元のイラストの雰囲気を重視して欲しかったんですが。あの可憐さとか。<結城信輝のファンなんで、そのへん差し引いて聞いてください。
なにより、10年間止まったままだったウェンズディの話がようやく前向きに動き出したのが朗報でしょう。後書きだけ読んだ。
で、後書きといえば、やっぱこれかと。
Hello,Endeavour...hello,Endeavour...
聞こえますか?
外国からお客さんが多いもんでかなり逃走気味だったんですが、ついに捕まってしまいました。捕まったからには、特攻気分でデモの準備をする。
やっぱ玉砕。デモは動いたが、英語はひどい。温かい目で見守られてしまった。次こそは。一息ついたので日記などかいております。
大学の友人にワンダースワンcolor欲しいねん、て言ったら、何を買うのかな〜と変な目で見られてしまったが、もちろん欲しいのはファイナルファンタジーの方である。誤解だ。そんなJIMを見るような目でみないでくれ。
一年ぶりくらいに夏町が本を読む気になっているので、この機を逃さずにいろいろと仕込む。ゆとり。
とりあえず、最近どうもダンセイニ卿と縁があるので「ヤン川の舟唄」を探す。ネット上の話だと、こちらで「妖精族のむすめ」と並べておすすめだったため。あれは、我が魂のファンタジー短編なのだった。国書刊行会くらい生協にあるか?とか思ったが、甘かった。京都ならどこに売ってるかなどすぐに分かるのだが、東京は本屋巡りをしていないので、というか、上京以来本を読む気になれなかったので勝手が分からない。そのせいか神田はどうにも近くて遠いイメージがあるため、例によって旭屋netdirectで注文。
いやむしろ、神田の手前に秋葉原があるのが問題なのかもしれない。
おはなしなんてみんな嘘っぱちである、というのはええかげん何度も書いてきたように思うけれど、もう一度書いてみる。
末永によると、フロレアールとは我々がフィクションを渡り歩いて生きてゆく話なのだという。目から鱗。フィクション全肯定という意味がようやく分かった。
子供の言うことに耳を傾けてみる。「へへへ、嘘っ八や」「むっ、俺のは嘘っ九やで」「嘘っ百」「嘘っ一兆!」語呂悪い。意味なんかなくて、子供の言葉遊びである。
嘘っぱちと喝破するのはまことに気持ちが良いが、九とか十になったときの、語呂の悪さよ。嘘にはときどきそんな気持ちの悪いものが混ざっていて、九とか十とか言ったときに残る澱が、嘘でない何かとして残る。現実の姿というものは、子供と遊べば良く分かる。なにより、現実とは萌えるものでなくてはならない。そして、ちっちゃい子とはまさに萌えキャラ((c)MK2氏)である。
嘘っぱちを並べながら、フィクションを渡り歩く。そして、それは時々、百とか千になる。八よりも百、百よりも千の方が大きい、強い、という単純な原理である。単純な原理こそが、嘘の世界に澱や影を落とす。
奇跡とも呼ばれるそれがどんなものかについては、直接メルンの口から聞いて欲しい。
(フロレアールEND3.「不幸」)
氷原の上で、ジャンとメルンは巡り合えただろうか。
金色の野原で、祐一と舞は巡り合えただろうか。
直弥は、珠季と巡り合えたか、椎子と巡り合えたか、美凪と巡り合えたか、
世界の終わりで、成瀬と巡り合えただろうか。
過去から現在に向かう時の断絶とフィクションについて。なつへのとびらの話を書いたのにつられて、これまたいつかやったような話の蒸し返しである。
フロレアールEnd1+2,3,4,5に見られる各世界の不連続さからは、それぞれが過去未来の関係にあるのではなく同時に重なり合って存在する世界であるととることは容易だろう。そこではメルンが死ぬこともあればジャンが死ぬこともある。そしてもちろん各Endはパラレルワールドなんかではなくフィクションとして存在しているがゆえに、End6におけるジャンとメルンの巡り合いへと結実する。
少女は金色の野に居た。あの野原はどこにあっただろう。どこで見た景色だったろう。遠い昔、幼い日の思い出を覚えていますか?母が言う。小さい頃のあなたは葱が好物で、葱ばかり食べていた。そうだっただろうか。試しに葱を食べてみる。なんとなくこだわったような味がする。近くのラーメン屋へ家族総出で通っていた頃のことを思い出す。その時の葱は旨かったような気がする。旨そうに葱ばかり箸でつまんで食べている自分の顔が思い浮かぶ。そうして、それが記憶となる。愛すべき誰かの語るストーリーが、自分の記憶を創ることがある。記憶は人との関わり合いの中で無数のフィクションとともに創られてゆく。舞と共に生きることもその例外ではない。過去に出会っていたかいなかったか、死んだか死んでないかは問題ではない。ただ舞と通じ合えたかどうかという先に、金色の野の風景が生まれ、巡り合う。
君とは初めて出会ったような気がしない、という言葉は額面通りに受け止めないのが普通だ。無論、過去に出会ったことなんかないのである。しかし、ここで語られるフィクションが現在から未来へと続く愛情とかを喚起しているからこそ、それはクサい台詞となり得る。過去がどうだとか言う額面の意味は喪われ、二人の間にあるかないか、通じ得るか得ないかという語り手聞き手の関係のみが残される。世界は小さなフィクションに溢れ、フィクションは無自覚なまま消費され、意味を喪ってゆく。
何があるかないかなのか、それは求め続けられる。一つには長い物語の末にようやくメルンによって語ることができた奇跡がそうだろう。互いの世界の壁を越えるための何か。それはフィクションを消費しつくした先ではなくフィクションを消費し続ける中にあるのだ、とジャン=ロタールなら言えるだろうか。
あるとき、大きなフィクションが必要になる。自分が存在するとかしないとか、あるいは相手が存在するのかしないのか、分からない。そして混迷の霧のなか相手の存在を求めたとき、フィクションが生まれ、消費される。存在について哲学したとき、何かのあるなしにまでたどり着くには、大きなフィクションを生みだし、消費し、その巻き添えで全ての霧を喪わす。ジャンはいくつのストーリーを消費しただろう。祐一は不可解だった舞の存在にたどり着くために、どんなストーリーを生み出しただろう。それは二人で行われる。ジャンが語り手となりメルンがそれを聞き、最後に逆にメルンが語りジャンが聞く。舞が魔を語り祐一がそれを聞き、最後に祐一が出会いを語り未来を語り舞が聞く。そこにどんな関係が残っただろう。
たとえば生きたの死んだのという奇跡ではなく、通じるか通じ合えないかというところに奇跡が置かれている以上、過去は巡り合いや輪廻転生のロマンを示すものよりむしろ現在から見たフィクションとして捉えられるべきだろう。
特別に時を越えた出会いである必要はない。フィクションはいつも時を越える。