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最終日記彼女 ゼロプラス
はじまりと終わりの日記
散財とか予定リスト(やたら長期的)
懐かしい風が、吹いたような気がします。
AIRに直面してから半年かかってようやく、頭の中がぐるりと一周しました。なんか無茶苦茶長かった。
というわけで、また別のことをやりたいと思うんで、日記のほうはこれにて休刊です。研究生活のほうが死ぬほど忙しいというのもあります。まぁ、人生いろいろってやつで。なんか思いがけずたくさんの方に来ていただくようになりましたが、皆様、ご愛顧ありがとうございました。
あ、猫の地球儀(秋山瑞人)は必読です。言い残したいことは、それだけです。
それでは、またどこかで。
最後に、この日記の全てをクリスマスに捧げます。彼女の天気予報を子守歌がわりに、僕は眠ろうかと思います。
たとえば、月の船なんていう、遠くかけはなれた気持ちになるような言葉に血や肉を与えようとすると、雲の波に船を漕ぐ人々の姿や、あるいはそれは月の連想から巨大な女体の船であったり、どうにも生臭くていけない。
名前は、銅貨とか黒蜜糖とかおよそ月製の図鑑にでも載っているような言葉で良くて、往人とか観鈴とか、そんな人間みたいな名前はいらない。
縁日の灯火に誘われて、星の子供が地上へ降りてきた。だけど、肉のシャツが重くて、歩けない。はるか彼方に見た灯火は美しかったけれど、祭りの喧噪のなかで、それはもうずいぶん昔に見た夢だったような気がする。夜空の向こう側に何があったかなんて忘れた。手を引いてくれる母はいない。
月や星が持つようなヴィジュアルの切実さに対して、不自然なまでに興味のなさそうなものたちがいて、そういうものたちこそ実は、月や星の世界からやってきたのではないかと思われる。往人、観鈴、あんたらのことだ。空を見ても、魂から遊離するどころか、魂の世界へ落ちてゆくばかり。瞳孔を撃つ光よりも、人間たらんとする受肉の苦しみのほうが切実で、なにもみえない、たてない、あるけない。一方、美凪というヒトは、屋上のパースペクティブや星が、視えている。
ヴィジュアルノベルでありながら、ヴィジュアルを拒否する重苦しさというのが、AIRの主流にある。観鈴にまつわる絵は、どれもわりとどうでもいい感じだ。飛ぶことは歩くことと置換可能な動作で、視覚に迫らない。でも、最後に一つだけ、海岸線の先にある景色が指示される。このちっぽけなファインダー越しに、何が視えただろう。
飛翔する言葉やヴィジュアルは与えられず、どこまでも重い体を引きずって、ただ景色が欲しかった。もしも、星月夜のなかにでも自分の風景を知っているならば僥倖、さもなくば、ひとりぼっちの旅に出て、目に映る限りの広すぎる世界のなかに溶けてしまいそうな自分を、切り分けてくれるような一瞬の光景と、出会いにゆくのがいいんじゃないかな。
以上は、夏の「エロゲー批評」用に考えてるAIR評の草稿。そろそろ書かないと、ということで。当選したら、今度はなんとオフセットで出る予定のようです。
げふっ。妄想の世界につれてゆかれました。もうこの世界から帰りたくない・・・。
たしかに買い物かごってみないですね。