海の向こうから来たるもの



遠く、どこまでも続く砂浜に、それは訪れる。

五月初めの憂鬱と共に、海の向こうより来たるもの。
天野はそれが悪いものだと言っておびえた。
祐一は何かを知らせる使者だと思った。
真琴だけがそれと正面から向かい合い、
コン、と一声鳴いた。

ただの人間とただの子狐とが二人と一匹。帰ってきた真琴のおそらく人のものより短い一生を、ありのままに受けいれられなかった初めのころ、人にとって美しいと思える世界のことをできる限り伝えておきたいという気持ちに、天野と祐一はせきたてられていた。

そして、連休中に最も人が少ないのは海だと言って、電車で三時間ほどのその場所を選んだのは天野だった。

「波の音を好んで聞く赤子は、海の向こうから来るものに取られてしまうことがあるのだといいます」

「じゃあ、おちおち連れて歩けないじゃないか」

「いえ、だから歌を唱うんですよ」

砂浜には天野の靴跡と真琴の小さな足跡が続き、海風に子守歌が乗った。天野のけして上手くない歌は真摯で恥じらいがなく、波の音をかき消して真琴を守っている。こんな時につまらない羞恥を考えてしまう不器用さが、自分と天野との生物学的な差なんじゃないかと、祐一は思う。


こぎつねこんこん、

やまのなか、


山に囲まれた街で生まれた天野は、初めてこの海を見たとき、水平線の向こうに自分の生まれ故郷があるように感じたと言う。それは、曇り空に溶ける海原に散らばった、どこか疎らな心の風景だ。天野には自分をその場所へ連れ去ってほしいと思っていた頃があった。

だけど、生まれた世界は違っていても、この場所で出会ったからには、ここは故郷じゃないけれど、もう帰ることを求めない。

真琴は天野の腕の中で、見たことのない景色を注意深く確かめ、天野が語る海の物語に耳を立て、それが終わるころ波打ち際へと走り出す。

ただの男と、ただの女と、ただの子孤とが、それぞれの浜辺で、恐さに立ち向かう一つの美しいものを共有していた。

砂に埋もれた薄紫の貝殻たちが、降りつもる花の化石に見えた。そうして春が過ぎ去っても、奇跡はまだ、ここにある。








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