第二章. 大地讃唱



四月のさえない天気に体育の授業風景は似合わない。天野はそんなこと考えながら、風景の外を走っていた。体育の授業はマラソンで、三年生がソフトボールをする周りを二年生がグルグルと駆けている。けれども昨晩、星を数えていてもなかなか寝つけなかった天野は、結局、三時頃まで本を読んでいたのだ。ただでさえ彼女は足が速くないし、そんな寝不足で臨む午前中の体育は最悪の気分だった。そのうちに、団子状態の後方集団からさえも次第に離されてゆく。

「あっ、」

と小さく声を上げて転んでから、天野は自分の足が不意にもつれてしまったことを理解した。瞬間、何が起こったのか分からないほどに頭の中が不透明だった。新しいクラスになってから一月で、一緒に走るような子はまだいないから、誰も彼女が地面に突っ伏していることに気づかない。立ち上がろうとして足首に痛み。先生までも遠くで三年の教師との立ち話に熱中しているのを見ると、天野はもうなんだか気だるくなって、そのままべタンと地面に身を投げ出してしまった。

睡眠不足に罪を求めても、悪いのは自分のこの眠れない気質、あるいは、友達の輪に上手く融け込めないことや、ついには自分が可愛くないということまで一通り責め終わってから、頬に当たる土が冷たくて気持ち良いなどと、そんな投げやりな心細さにもしばらく浸ってみる。

・・・相沢さんに会いたい、

天野はついそう思ってしまって、またこんな自業自得までも誰かに頼ってしまうことに自己嫌悪を覚えた。

「ねぇ、大丈夫、」

そうした混沌とした思いで地面を見つめていた天野に、思いもよらぬ、あるいは有り得べき救いの手が空から差し伸べられた。ショートパンツの下、しなやかに曲げられた両脚、そして後ろでくくった長い髪が、かがんた背にふさりと揺れるのが見えた。何度か聞いたことのある透明な声、そして胸に「水瀬」の字。名雪さんだ、と天野は思った。祐一の話にいつも現れる少女の名前、彼と同居しているこのいとこの事を天野の方は見知っていた。祐一の一番大切な人が自分なのか名雪なのかを考えてしまうといつも、天野は名雪が祐一に与えているであろう安らぎに強い劣等感を感じる。だから、地に俯せでいじけている自分を名雪が心配そうな顔で覗きこんでいるのを見て、天野はいっそう情けない気持ちになった。

「・・・はい、大丈夫です」

と答えるのがやっとの天野は、まずは名雪の手を貸りずになんとか体を起こした。

「足、挫いたんだ、どうしよう、あ、血も出てる。二年の子だよね、」

「あ、はい」

「保健室、連れてってあげるよ」

名雪が大きな声で呼んでからやっと、二人の体育教師が事態に気づいた。実はあまり大した捻挫でもなかったから丁重に辞退したのだが、結局、天野も先生も名雪に押し切られるような感じで、天野は名雪の肩を貸りて保健室へと歩き出す。

名雪に触れられるのを、天野はなんとも非現実に思った。

「授業の途中なのに良かったんですか、」

「うん、いいんだよ。外野は人が多すぎるから、一人くらいいない方が面白いんだよ」

密度が低くなったレフトを見ると、ボールを追いかけて走り回る数人の生徒が見えた。ユーモアだったのだろうけど、天野は上手く笑って返せなかった。

「えっと、天野さん、」

「っ、はい、」

名雪がはじめて自分の名前を口にしたので、天野は驚いた反射のままに顔を上げた。すると、肩に回された温かい手が、体をきゅっと引き寄せる。

「もっと、もたれてきてもいいよ、足が楽になるようにね」

そう言って優しく笑うから、天野は自分の顔が思わずぼおっとなるのを感じた。三年生になっていっそう綺麗になったこの少女のことは、走りながら遠目に見ただけで守備位置さえ記憶できるほどに意識している。赤いリボンを揺らして跳ね回る、春が訪れる毎に美しく成長する小鹿のような名雪を、天野はいつしか自然と目で追うようになっていた。けれども、なんのとまどいもなく天野の名前を呼ぶ名雪は、天野のことなど何も意識していない風で、祐一から聞いたのか、先生から聞いたのか、それとも胸元に縫いつけてある名札を見て知ったのかいずれとも分からなかったけれど、もう一度、その名前を口にした。

「天野さん、って可愛いね」

そう、よりによってこのちんちくりんに対しても屈託なく笑って言うものだから、天野はまた驚いて、その腕の温かさを改めて感じ直した。そして、いつのまにか少し高い名雪の肩に頬を寄せて甘えてしまえる自分に気がついた。人肌の柔らかさに触れてしまえば、積み重なった不安や疑念など、現金にも吹き飛んでしまうのだ。

昇降口では、土に汚れた身体をぱたぱたと払ってもらった。

歩くうちに和んでゆく、さっきまでの気だるさと心細さ、それはもちろん恋じゃない、自分があの子にしてやれなかったこと、後悔と憧れとがないまぜの引力、そして眠りを誘うその体温に、天野は母親を思った。








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