R.S.T. (5)  鏡花水月の少女


われら年頃の若者が既婚者を囲めば,しぜん話は馴れ初めの話となります.二度目に会ったときはもう下宿まで押しかけてきた,なんていうひとめ惚れの話を聞いたなら,一同ほーっと声を上げて感心いたします.ひとめ惚れには好きになる理由も文脈もなく,そこにわれらを説得するものは欠片も見当たりませんが,そういうことってあるものですね,どういうサークルだったんですか,そのとき部屋って片付けましたかなどといろんな興味を呼ぶものです.それらに対して十分に答えが得られたならば,われらは元となる突飛な出来事に不信も物足りなさも抱くことがありません,つまり,ひとめ惚れを説明することは出来ませんが,その周りで起こった事態を説明することによって説得力を持たせることは出来るのです.

そこでは当然,何も隠してはいないよと告白する誠実さが求められます.説明することのできない不安定な出来事をおさめるのは,唯一,正直さだけでありましょう.例えば,どうして好きになったのかよく判らない,と本当のことをそのまま口にするのは,人の信頼を受け,あるいは自分の気持ちが自分で信用できるようになることの始まりであると思います.

泉鏡花の「外科室」はひとめ惚れの極北で,過去に一度すれ違い,視線をかわし合っただけで九年の恋が生まれ,再会の時に互いが死を選びます.そこには当然修辞的な美しさは与えられますが,やはりそれだけでは足りません.物語は後半を費やして,二人の出会いがどれほど瞬間的なものであったか,背景を感じさせないものであったか,そして生まれた恋がその後語られないまま今に至ったことを残された者が述懐します.正直に述べ立てられた過去のありさまは,それが理由を求められないひとめの恋であったことを再確認させるものでしたが,同時に一つの説得行為でもありました.

kanonならば川澄舞の話の説得力はそういう性質のものです.本当に理由の判らないことは,ただそこで起こったことだけを正直に,そして精緻に告白するしかありません.

「UFOを見た,と言って誰が信じてくれるだろう.つくならもっとマシな嘘をつけ,と笑われさえするだろうか.だけど笑えないUFOもあって,相手を驚かせたり騙したり誤魔化したりしようとしないときの子供の顔に,ときどきそんな嘘が書かれている.舞と真琴の子供っぽさ,嘘の下手さあるいは本気さ加減を見るにつけ,そんな因果は分からねぇ,と後半の展開に困惑を覚える私にも,本気の態度が伝わってくる.一緒に裏山へ行ってみれば確かにUFOの降り立ったような黒い地面があるし,二人で探すなら他にもたくさん証拠を見つけるだろう.信じるか信じないかのどちらかしかないというよりは,場合によってそのどちらでもいい,むしろ暮らしの中に何を望むのか迷ってばかりであることの一つ一つを漏らすことなく書き留めてゆく様が,誠実で魅力あるように思う. 」

そんな風に昔もよく似たことを書きましたが,もう一度,舞の話を辿り直したく思います.

舞「でも、祐一のほうが、私よりも強く魔物を引き寄せる」
祐一「そら、好かれたもんだ」
祐一「そうなると、もうこの物語は俺ナシでは語られないものになっているってことだな」

最後の魔と戦った後のことを絵に描いてみると,ただ誰が何をみてどんな思いでいるのかということが語られるままに話が終わります.「誰が」の部分はぐるぐると入れ替わり,思いは未来へも過去へも届きます.祐一が舞を好きになったこと,舞の話は自分なしで語れないものだと祐一が決めたことに理由らしい理由を見つけるのは困難で,そうなってしまったからには語らねばならない目もくらむような混乱だけが残されます.

一瞬、細長い廊下があぜ道に見え、俺は自分の気が確かでなくなりはじめていることに気づく。
目の前には子供がいるのだ。
幼い女の子だ。
手負いだ。
肩から血を流している。背中までぱっくりいっているのかもしれない。
過去にまで彼女の刃は届いたのだろうか。



俺が探しているひとと、何か関係があるのだろうか。
待て…意識が混濁してきた…
誰かが俺に何かを訴えている。
それがわかる。
だがその手段はあまりに強引だ。
俺の手には負えない。
つまり、その受け取るすべが俺のほうにないのだ。
それは俺を傷つける。人を傷つける。
鉄パイプを耳の穴に通すようなことはやめてくれ。
そんなものは通らないのだ!がんっ!と激しく頭をぶつけたかと思えば、俺は冷たい壁に半身を預けていた。

わたしが思う正直さは,「気が確かでなくなりはじめていることに気づく」こと,「俺の手には負えない」こと,「受け取るすべが俺のほうにない」ことによって,まずは告白されていると思います.以降の出来事でなにか不意打ちでだましたりばかしたりしようという魂胆は,そこに見られません.まずそれは第一に「判らない」ことなのです.

また,舞が四肢の自由を奪われていったというのは骨が腐っているとか内側から黒くなってきているとかいう舞の自己申告によるもので,祐一は確認しようとしましたが暗くてよく判らないという顛末でした.そういう真偽の判らないことに対して祐一は「少女の陰惨な死のイメージは,そのまま舞の末路に直結していたのだ.」という連想を与えます.つまり,ここでは祐一が瀕死の少女を見て舞の事情を想像したということ以上に何もなく,舞自身がどう思ってるかなんて判りません.それはあまりに理解不能であるから,一方的な思いこみを綴るしかなかったということが素直に語られていると思います.

そして,教室のドアを開け放ったその先に,少女の笑い声がしました.少女がいたのかいなかったのかなんて判りやしません.ただ,誰かが誰かと共にありたいと願うならば,過去はニュースではなくドラマのように語られます.何が起こったかではない,誰が何を話して何をしたのか,それは過去のことなのに今の言葉で語られ,そう,まるで演劇の台本のようで,台詞に秘められた彼女の気持ちはみんなト書きに記されていて,僕はそれを知っている.そう錯覚するほど望まれた,これは僕の掌のなかの寸劇です.

少女「あ…」と少女は声をあげた。声をあげたかったのはこっちのほうだ。だって、その麦畑の中には何も見えなかったからだ。そこから『あ…』なんて声が聞こえてきたら、びっくりするのはこっちに決まってる。少女「あのさ…」少女は麦の中から立ち上がると、こっちに向いて声をかけた。少女「…遊びにきたの、ここに?」恐る恐る、といった感じで少女は訊いた。祐一「いや、ちがうよ。迷ったんだ」祐一「このあたりは、まだよく知らないんだ」祐一「でも、こんな麦畑があったなんて、おどろいたよ」少女「…どこからきたの?」祐一「さぁ…向こうのほうかな」よくわからない方向を指してみた。祐一「合っているかどうか、わからないや」少女「じゃあさ…」祐一「うん?」少女「遊ぼうよ」祐一「どうして?」少女「遊んでいるうちに思い出すよ、きっと…」

彼女にうさぎの耳をプレゼントしました.だけど,それはどこかで見たような気がします(名雪のくれたうさぎの耳だ).現在の出来事が,過去の思い出として流れ出してゆきます.

少女「あたし…自分の力、好きになれるかもしれない」
少女が告げた。
祐一「そう。それは良かった。自分を好きになることはいいことだよ」
少女「祐一といたらね…」
祐一「会って少しのぼくをそんなに信用されても困るけど…」
少女「どうしてだかわかんないけど、そう思うよ…」
祐一「ふぅん…」

この少女も佐祐理さんも,どうして出会ったばかりの僕のことを,こんなにも想ってくれるのでしょうか.だけど,そういう事態があったとしか,いいようがありません.僕が何を思ったか,そして彼女はこうしたこう言ったと想像することは,例えば世界の壁を越えたり手がかりのない孤独の荒野を抜けたり,もしかしたら誰かと心を通じ合えるんじゃないかという根拠のない希望をいちいち精密に思い描くことであって,そういう生真面目さこそが二人の出会った理由に説得力をもたらすのでしょう.

ただ、もし、その嘘が現実となることを願う少女がいて、
そのときより始まったひとりきりの戦いがあるというのなら、
そこには最初から魔物なんてものは存在せず、
ただひとつの嘘のために十年分の笑顔を代償に失い、
そして自分の力を、いまわしき力を拒絶することを求めた少女が立ちつくすだけなのかもしれない。

一瞬の、ほんの数日の出会いから。

両手いっぱいに持ちきれるだけの物語をもって,舞に会いにゆこう.出会ってからまだ一月もたってない彼女の,何がわかるわけではない.だけど,僕の大切なもの,たとえば,僕の過去をキミに差し出せば,キミに届けたい想いに足りるだろうか.馬鹿,そんな手前勝手が相手に通じるはずはない,通じるはずはない,通じるはずはない.

祐一の語りに対して,まず舞の唯一の反応らしい反応は「…祐一の言ってることはよくわからない」というものです.だけど祐一は深く説明することもできず,「終わったんだよ、おまえの戦いは」と一方的に繰り返すことしかできませんでした.

「今日からはあの頃の舞に戻るんだよ」
俺は寄り道をしてきていた。
名雪から受け取って、机の中に押し込んであったそれは、偶然にもあの日の舞を飾っていたものだったから。

そもそもの始まりに理由がないとしても,それぞれのシーンの繋がりだけは掴むことが出来るようになっていますし,そうでなくてはただの無茶苦茶です.そこに祐一の言うような偶然はなくて,名雪からうさ耳をもらっていたからこそ麦畑の物語にも耳が登場するのでしょう.しばらくは話の連鎖を追いかけます.

「…そんな…急に言われても理解できない」

だけど祐一が再び説明すると,これまで否定していた舞の目が不意に金色を宿し,麦畑の話が伝わったように見受けられます.

舞の目が、金色を映したように見えた。
その目にも同じように、あの日の麦畑が広がっているのだろうか。
舞「あの日の男の子は…みんなと同じように私から逃げた」

そして,理解不能な切腹のために,祐一は未来の二人を想像します.佐祐理さんのいないつまらない休日のこと.しりとりのこと.あると望まれた,未来のことを.その想像の終わりはまた,麦畑でした.

…そう。だから祐一は、あの日にも現れたんだよ。
…訪れてもいなかった、この場所に。
…祐一をよんだのは、まぎれもなく、舞のその力だから。

もちろん,そこは祐一が実際に訪れた場所ではありえません.訳の判らない出来事は,その周辺に連鎖する物語の正直でつまびらかなるところが支えてゆきました.祐一はまいと麦畑で約束を交わし,話は舞の語りへと移ります.祐一の麦畑が舞と無関係に語られたのと同様,舞の語る母親との出来事は,祐一のあずかり知るところではありません.そうしてそれぞれの話を全て語り尽くさないと,「あたしたち」の邂逅のときは迎えることが出来ませんでした.

理由を説明しようがない出来事について,そのはるか昔や遠い未来を想像し尽くすことが,存在の確かさを示すあかしとはならないでしょうか.話の筋そのものはたいして重要でなく,彼ら彼女らについて想像できること全てが渾然として網羅されているからこそ, 二人の間に起こった出来事に対して僕は,不信を抱いたり物足りなさを感じることがありません.

ただ,夜の校舎で二人は出会い,恋をしたというだけのことです.

(2002/9/6)



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