1975年のスクリプト
 

通信中

(2) 超時空通信

今木さんが携帯電話を持ってるものだと私が思い込んでいたのは,松江で中将君の携帯へ可及的速やかに云々と連絡してきていたのを隣で見ていたからである.つまり,携帯にかかってくる電話は同じく携帯からかけられているものであり,家の電話にかかってくる電話はおよそ家の電話からかけられていると思われる.あるいは,手紙に返事を書くときは相手がどんな格好して手紙を書いていただろうかと思い浮かべる.そんなメディアの対称性はわりと普通に期待されてしまう.

電話の自動応答サービスには,自分が人間の話し手ではないことを聞き手に対して明らかにしなくてはならない,という制約があるらしい.これはNTTの研究所の人に少し聞いた話で,どのレベル(法律,ガイドライン?)での制約なのかは深く聞かなかったのだけど.我々は電話サービスの合成音声を人と間違えることは普通ないが,そこにストーリーが伴うと騙されることはある.リカちゃんが話してくれるのよ,と聞かされてから受け取った受話器の向こう側には,しばらくの間にせよ彼女が確かに生きていた.制約が設けられたのは自動応答の登場した頃だろうからずいぶん昔のことだと思うが,話し相手が人であるか人でないかを区別できないことが問題視されるというのはそういう昔からあったようだ.リカちゃん電話はあちらが一方的に話をする素朴なものだったが,音声認識を使った電話サービスが謳われだしてる昨今,ようやくにして彼らの危惧が技術的な面では現実味を増した.ところでさっきのNTTの人の話であるが,電話番号案内サービスにおいて音声認識を使った自動応答を実証実験したところ,相手がコンピュータだと分かった時点で嫌がって電話を切ってしまう人が多かったらしい.このタスクでは音声認識も含めて応答のパフォーマンスは既にコンピュータの方が上なのだが,伴うべき誠実さのストーリーがまだ追いついてはいない.


ストーリーが先行しすぎたものとしてはNOëL NOT DiGITAL(pioneer LDC)があり,これはテレクラのようだと揶揄されたほどだった.しかし,NOëLを前にしたときの合意はこれはテレビ電話であるというのが半分,ギャルゲーであるというのが半分というどっちつかずであり,いっそ相手の女の子がテレビ電話でなく私とおんなじようにプレステのコントローラを握ってくれていたら,NOëLに対する私の思い入れは説明しやすくなる.私の投げるものが会話ボールならば,彼女らの投げ返してくるものも全て会話ボールであると予想されうる.彼女らが,返事してくれろと,こう念を込めながら会話ボールを送っている姿を想像するとおかしくて,そして寂しい.寂しいというのは特別な意味でなく,普通に長電話を切るときみたいに寂しい.

先日まで約一年間にわたって「メールドラマ 北へ。」というのを続けてきた.これはi-mode専用のサービスで,北海道に住む女の子と二三ヶ月メールのやりとりをするというものだ.彼女らは実によく喋る.彼女ら,と書いたのは相手を何人かから選ぶことができるからだ.同時に相手ができるのは二人まで.全部で何人だったかは忘れた.一年間,毎日二通ないし三通のメールをぶっ通しでやりとりしていたのだ,ともかくたくさん居たという気がする.彼女らがこのi-mode専用友達紹介サービスに登録した理由はさまざまで,一番面白いのはおせっかいな友達が勝手に登録してしまったというものだ.私の話よりむしろ彼女らの日常の愚痴が多い.学校ってどうしていかなくちゃ駄目なんだろうね.メールじゃうまくこたえられなかった.途中で携帯電話を持ったまま家出する中学生の女の子がいるのだが,これはもう私の想像を越えた携帯の利用である.彼女らは家出をしても通信手段があるのだ.行く先々での気持ちの変化を私へ書いて送ってくれた.メールの打ち間違い,文面の勘違いをする子もいるが,ドコモが「電話教室」なるものを開かねばならない今の携帯事情を考えると,気のおけない同世代の友達がいないターニャに携帯メールは難しかっただろう.

NOëLにはエンディングがあって,それは彼女らとオフで会うことである.私の部屋のテレビ画面に,街で彼女がこちらへ向かって近づいてくる姿がモニタされる.そしてENDロール.わざわざ発せられた,会う,という言葉は達成されることがなく,これには騙されたような気分になる.バッドエンドにおいてクリスマスプレゼントが郵便で届くほうがまだ嘘は少ない.

北へ。のほうは全く彼女らの都合によってメールが打ち切られる.いわく,曽我さんに頼りすぎてしまったから距離を置きたいとか,家の借金が大変なので携帯の料金払う余裕がないとか(葉野香は頑張ってるだろうか),淡白かもしれないけれど,通信を切るときというのは他にどうしようもない.通信は無限に続けられない.話しているといつか眠くなるし,明日忙しかったりするし,電話代はかさむし.などと切るための適当な理由が思いつくならば,それはまだ幸せなほうである.切る理由が思いつかなくて困ることがある.それなのに,ただの一日間だけでもその間ずっと話し続けるという状況を考えるのは何故だか不自然に思えて,無理にでも切ってしまう.

ただ一人,「会いたい」と告げて通信を終えた少女が居た.

「うん・・いつか会いたい・・.
私は・・私が,家族と暮らすように・・.
十郎さんと会えるのが当たり前になるような,そんな時間が欲しい.」

「私,十郎さんと会える日を,いつまでも待つよ.寂しくなんかない・・離れてるけど,感じるから・・.
その日が来たら.一緒に探そう!私たちの時間・・私たちが初めて作る思い出・・.
出会いの場所は,私の大好きな北海道.待ってるよ・・最高の思い出を探そうね!」

以上が最後の二通,くだんの家出少女が送ってきたものである.

ねずみにしてもなんにしても、暮らしのあたりまえみたいなことをいちいち話にしてしまうのは、一日中テレビ電話がついてるような時代が来て、あたりまえのことがあたりまえに隣にあると感じられるようになるまで、変わらないような気がしている。

私は半年前にそう書いていた.一日中テレビ電話をつけることそれ自体は屁でもない.テレビ電話なんてPCに標準搭載されつつある,死ぬまでメールを交換し続けることなどなおさら簡単である.通信はもはや無限に可能だ.だけど,やらない.会いたいくせに通信を終える私や彼女が言う当たり前な時間とは一体何だ.


さて,私の文章の中に時々出てくる「そしてキミに会いに行く」(高橋なの)は,女の子がシャアと出会う話である.女の子は我々と同じ世界で生まれた.そしてシャアというのはもちろんガンダムのキャスバル・レム・ダイクンである.女の子,と呼ぶのは少し失礼だったかもしれないが,庸子は24歳のOLでアニメファンだ.ただし,アムロ贔屓であるからシャアのことは嫌いだ.会いたい人のことを強く想えば想うほどその人に会えるということはなく,結果は少々ひねくれてやってくるように思われる.努力しても目的がそのまま実現されるということは少なく,姿を変えた何かがもたらされることがほとんどではないか.そもそも庸子の初恋の人はアムロどころかポーの一族のエドガーであって,これは単純に巻き込まれた事態だった.庸子がガンダムの世界に迷い込んだこと,そして次にシャアが庸子の世界に迷い込んで来たことは彼らの意思とはかけ離れている.彼らは特別会いたかったわけではないが出会ってしまった.

会えば他人ではない,と言うことができる程度に彼らは誠実だった.嫌いな人と一緒にいるうちに情が生まれてしまうことはあって,別れ際には身を切る思いがする.だけど,2次元と3次元と,文字通り次元の扉を閉じること,繋がり過ぎてしまった通信を終えることを庸子が即断するのは,やはり一つの誠実な生き方である.

世界が再び分かたれた後,結婚をし子供をもうけた庸子がシャアと一瞬,邂逅できるのは,彼女がシャアと別れてからも生きた証に他ならない.たとえば,辛いとき過去の思い出に頼ることがある.だけど,本当に辛いときには過去さえも思い出せやしない.過去でなくそれは別世界の出来事として捉えられるかもしれない.時空を越えたそれらはいずれにせよ,現在に従うものでしかない.血相を変えて願うほど見えない,手が届かない事態がもたらされる.真に混沌の中にあるようなときに,よすがなど思い出せるはずはない.誰かに会いたいと願うことは肝心なときには的外れとなるもので,出会いというものがより強く従う原理は,キャラクターと当たり前のように生命を託し合える誠実さで庸子のなかに証拠としてある.

「そしてキミに会いに行く」はみのり書房のアニパロコミックスJr.という少々マイナーな雑誌に連載されていた漫画である.今から10年以上前のことであり,当時姉と認め合い,互いの中で盛り上がっていたようなこの作品の良さは,私の中ではおそらくもう霧散してしまっている.時々,単行本のほうを読み直してその頃の気持ちを辿ってみたりするのだけど,なのさんの言葉は詩的すぎて筋道で追うことはもう叶わない.だからこれは,過去について多少想像を交えつつ,わからないなりに今思うこととして書いてみたものである.余談ではあるが前回とのつながりを書いておくと,桜鬼というのは"Dandy dragon"のほうに出てくる.

相手がどこの世界の人であれ,会いたいと願わない,通信をしないほうが会える気がするのはどうしてだろうか.だけどしばらくするとまた通信したくなるのはどうしてだろうか.四葉と会えるようになるためにWebの更新を止めたこともあった.だけどまた四葉と話し始めた.そしてあの彼女の最後の通信をきっかけに私はi-modeを解約してしまったのだけど,また繋ぎたくなるんじゃないだろうか.電話みたいにかけたり切ったりするのが実は,繋がり続けるということなのか.思い出したり忘れたりしても,いっそ永遠になってしまっていてね,とは,連載となる前の短編にあった言葉だ.それで思い出すときはいつも今に支えられていて,だから,キミに会いに行くことができるというのか.門を閉じたり開いたり,通信路にもそういう難儀な鬼が棲んでいる.

(2002/4/14)



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