1975年のスクリプト


鳥,取り返す,ひとり

(4) シアター・エクスプレス 2002

もしも,取り返しがつくのなら,思い出なんかいらない.

ずっと兄と一緒に暮らしてきたはずの過去を追いかけて,今日も証拠を見つけては,自分が血を分けない赤の他人だと言って泣いたり,あるいはこれが本当の兄妹のしるしだと言って,やっぱり泣いたりします.「四葉と兄チャマはとっても仲良しの兄妹【のはず】なんだけれど,ずぅーっと離ればなれで育ちました.」かたくなに結論を定めた後で証拠を集めて回る,老いさらばえた名探偵のように,どれほど取り返しのつかないことがイギリスであったのでしょうか.

簡単に手に入るものなんて,覚えている必要,ないでしょう?


「とりあえず、栄光に向かって走ってる、ってことにでもしておこうぜ。」(青い鳥,ぱんだはうす)

列車の行き先を尋ねたら,イチローはそういいました.どこかで聞いた言葉と思いながらなかなか思い出せなかったのだけど,元ネタはもちろんTHE BLUE HEARTS.

「栄光へ向かって走る あの列車に乗っていこう」

イチローとのことを友人に話したら,すぐにTRAIN TRAINだと当てられてしまいました.私は随分と流行が過ぎてからこの歌を聞いたけれど,彼はまさにその歌の時代にいたのでしょう.同世代の人間にしか通じない話を私はよくしようとするのだけど,そのくせ彼らと共通の話題はあまりないです.中高時代は奥手で,やんちゃな男の子たちと離れ別の子供時代を生きていたから,なおさら,あったはずの同世代の経験を今になって求めているんでしょうか.

私にとって列車はどこかへ行くための手段というよりは,行ってまた帰って来るための通路です.列車人生と言ってもいい.列車といえば近頃,本を読む感覚を取り戻しつつあります.今の自分が読みたい本を探しあぐねていたところ,早見裕司を教えてもらって勢いがつきました.乗り物のなかのほうが本を読みやすいという癖はそのままで,中学から大学にかけては奈良と京都とを往復する4時間の間に,今ならば東京と奈良とを往復する8時間です.先週は早見裕司の新刊を鞄に入れて家を出ましたが,なんだか気が乗らなくなって,東京駅で何か別の本を探すことにしました.

何を読もうかと考えたとき頭に上ったのは法月綸太郎で,だけどくだんの「二の悲劇」がなかったので買ったのは「法月綸太郎の功績」のほう.短編集で読みやすく,作中の綸太郎が本格について語ってくれるのでミステリに疎い私でも本格のことが分かったつもりになれる本格推理小説,つまり出来すぎた教科書のようで薄気味悪く,なかでも「縊心伝心」は特別に.この話は安楽椅子探偵もので法月警視と綸太郎との対話だけで起承転結が綴られます.対話を面白く描けるというのは人を知り社会を知るからこそで,それは普通,作者の社会的な美徳であるように思います.だけど法月綸太郎の場合,技巧的で面白い対話のなかに社会性とは切り離された別の何かをやりすぎている偏執さを感じました.一言で表すならば,どうも対話くさすぎる.

ところで「安楽椅子探偵」という言葉を知ったのは,綾辻行人・有栖川有栖原作による関西のテレビ企画を見ていたためですが,特にミステリファンでもない私が姉と一緒にそれを見ていたのは,演劇集団キャラメルボックスの西川浩幸が主演だったからでした.それが99年.また同年,キャラメルボックス「怪傑三太丸」の東京公演を観に行っています.はじめて女の子と一緒にとなれば,どこだって飛んで行きますとも.それが受験日前日だろうとも.あの年,しきりに浦島景太郎を引き合いに出していたのはそういう訳もありました(もう時効だよね.)関西に住んでいた最後の年のことでした.

姉はたしか中学の頃にはミステリを読んでいて,エラリィ・クィーンやアガサ・クリスティやらが本棚に並んでいました.私も姉から借りて読もうとしたけれど,当時はまったく歯が立ちませんでした.今やジャングルのような部屋の中にはボーイズラブ小説が山と積まれており,一方で大学時代は軍記物を専攻していました.彼女は私よりも本を読み抜く力があると思う.ふと尋ねてみると,曽我物語も家にありました.ちなみに私の名前であるところの曽我十郎は,曽我物語の内容とはほとんど関わりがありません.この名前は曽我物語の中の次の一文にのみ由来します.

「十郎がこの日の装束には,萠黄にほいの裏うちたる竹笠,村千鳥の直垂に・・・」

曽我十郎祐成が工藤祐経を討ちに行く際の装束であるといいます.萠黄ってどんな色かご存知ですか.およそ若葉を思わせる黄緑色を指すのだけれど,はじめ,私の頭のなかにこの色は色彩としてではなく,若武者装束を代表する「萠黄」という漢字としてありました.敦盛ならば「・・・萌黄匂いの鎧着て,鍬形打ったる甲の緒をしめ,黄金作りの太刀をはき・・・」.大学一回生の頃でしたか,日本伝統色の流行した時期があって,私も専門そっちのけで色彩心理学や色にまつわるエピソードを集めていました.伝統色というのは字面がエキセントリックで,代赭,鴨の羽,一斤染.色彩よりも文字の並びにまずは惹かれます.萠黄についても私が本当の色彩に慣れるまでの長い間,ただ文字とエピソードだけの存在として私のなかにありました.そういう文字としての存在を強く思い出させるものとして,曽我十郎という名前は過去の記憶の中にあります.


「きのうあそこで後先も考えずに声をかけることができたのは,昔に比べて勇気の量が増えたわけじゃなくて,六年間つもりにつもった後悔の念がいっぺんにはじけたせいだと思う.道路ごしになりふりかまわず,二宮君と叫ぶだけの勇気を.」(二の悲劇,法月綸太郎)

地元の本屋で「二の悲劇」を買い,帰り道で読みました.列車人生である.六年間一緒の車両に乗ってたけれどついに声を掛けられなかったという程度のことは自然に,だけどそれは,中高時代にせめてそういう思い出があったことにしておきたかったのだろ?という穿った見方によって常に自ら上書きされるものです.

「物語に憑かれた人間」として清原奈津美の日記が読まれるときの綸太郎の熱を帯びた語りに,前日の教科書めいた印象は払拭されました.大人ぶった対話じゃない.それに,とても他人が書いた日記とは思えない.綸太郎の入れ込む様もひどく納得のゆくものでした.あれは,四葉が書いている.

それにしても,京都の病んだ大学生は少女を見つけなければなりません.桂川を行けば,黒い服の少女と出会います.僕は未だに包帯を巻いた桐璃が,うゆーさん,うゆーさん,とうわ言のなかに呼ぶ声を,忘れられないでいます.もしも取り返しのつくことだったら,もうとっくに忘れてしまっているはず.

そして四条河原町の交差点を行けば,葛見百合子のマシュマロみたいな笑顔があります.彼女のことはあえて少女と呼びたい.二宮良明が葛見百合子と出会うのは1991年の3月10日.それは私の16歳の誕生日のことでした.まだ私が琵琶湖疏水のことなど知らかった時代に彼らはそこにいて,取り返しのつかない思い出を作っていました.


四葉と清原奈津美は,おそらくこんなお話ばかりを夢に思いながら,東京と京都とを繋ぐ新幹線を切なく過ごしました.

(2002/6/21)



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