★「RPG」と「物語」★

第一回




 この連載記事では、RPGセッションから生まれる物語の意味と、それを前提としたときのロールプレイスタイル、そしてゲームシステムを使わないRPGについて考察してゆきたいと思います。


Q. 「RPG」っていったい何でしょう?
A. それを一口に説明することは出来ません。我々は、今もRPGの新しい形を提示し続けており、まだそれを総括する段階には至っていないと思います。

◆はじめに

 「RPGとは複数の人が物語を共同作業で創り出すことであり、それは主に登場人物を演技することによって為される。」

 仮に既存する「各人それぞれのRPG」から共通項を取り出すとすれば、上のような抽象的なレベルまでしか語ることはできないでしょうし(それすらも極端な言葉かも知れません)これ以上の具体化を図るならば枚挙にいとまがありません。

 そのため、RPGについて何かを語ろうとすれば、しぜん何らかの前提や仮定が必要となります。以下、「物語」をキーワードにして、仮定ならびに考察を進めていきたいと思います。


Q. 「RPG」の魅力って何でしょう?

A. RPGの魅力は幾つもありますし、それも人それぞれ異なるものだと思います。ある人は複雑な人間関係とその中での駆け引きを魅力に思うかも知れませんし、またある人は、強大な敵を仲間と協力して倒すことを魅力に思うかも知れません。RPGの形が一つでない以上、RPGは無限の魅力を秘めていると言えるでしょう。

1. セッションから生まれる「物語」とは

 「物語の体験と共有」

 私自身がRPGに感じる魅力のうち、最も大きなものはこれです。それはプレイヤーの立場であってもマスターの立場であっても同じです。ここではRPGにおける「物語」とは何であるのかについて考えることにします。

 一つのセッションが終わると、そこにはとりあえず、何らかの新しい「物語」が生まれます。では、その「物語」とはどこからどこまでの事を指して、どのような内容を持つのでしょう。例えば、セッションに参加したAさんとBさんに、それがどんな物語だったか尋ねてみたとします。答えは同じでしょうか?いえ、きっと違う答えが返ってくるに違いありません。 

 セッションから生まれる物語は具体的な一つのものではありません。マスターがシナリオを用意していたとして、またその通りにセッションが進んだとしても、それはセッションの中で、参加者それぞれの心によって、それぞれ別の形で受けとめられて、それぞれの中で別の形の物語として形成されます。そして、それはロールプレイと会話によって獲得されたことから、小説や映画よりも「体験」に近いものとして、セッションをした友人と語り合い、「共有」できる素敵な物語です。

 「共有」する事により、物語は具体性を失い、抽象性を帯びてきます。友人にとって、その物語は「喜び」だったのでしょうか、それとも「癒し」だったのでしょうか?それはどうしてそうだったのでしょうか?友人の物語に対する思い入れを感じたならば、物語はその友人の思い入れの背景にまで繋がってゆきます。

 物語の地平はさらに広がります。貴方はその物語をまだ知らぬ人に伝えるでしょう。時が過ぎて、忘れてしまう人が増えたとしても、誰かの心の隅にひっかかっている物語の断片が、新しい物語の種子となるでしょう。

 ここまで読んで気付いた方がおられると思いますが、この見方によるとRPGにおける物語とは口承文学の一種、もしくはその発展だと言えるかも知れません。その辺りに関する研究は、機会があればやってみたいと思っています。


Q. プレイヤーとプレイヤーキャラクターって全く別のものですか?

A. 必ずしもそうではありません。RPGに様々な形がある以上、プレイヤーとプレイヤーキャラクターとの境界にも、それぞれに適した状態があるのだと思います。ただし、「ロールプレイング」を前提とする以上は、プレイヤーとプレイヤーキャラクターの「セリフ」は原則的に区別されるべきだと思いますし、あとこの境界について問題とされることは、だいたいが基本的なマナーの問題です

2. 「物語」「プレイヤー」「プレイヤーキャラクター」の関係

 この章では「物語の体験と共有」をRPGの主な楽しみとして据えることを前提としして、「プレイヤー」と「プレイヤーキャラクター」(以下「PC」)との間の関係について考えたいと思います。

 始めに、「物語世界」を感じとって「物語」を受信するのが、まずは参加者、とくに「プレイヤー」それぞれの心であって「PC」の心ではないということを仮定したいと思います。私も「PCが心で感じる」(これは「PCの立場で考える」ということとは別のものです。)ということが絶対出来ないと思うわけではありません。しかし、プロの俳優ならば配役の心でもって世界を感じとることが出来るかも知れませんが、素人ではなかなかそうはいかないでしょう。私はそこに力を割くよりは、まず自分の人生経験からそのまま地続きのところで直接物語を感じることに力点を置きたいと思います。それすらもまた果てしない道程ですから。

 この仮定には「プレイヤー」と「PC」との間の大きな亀裂が見つけられます。そうすると「PC」とは一体何のために存在するのでしょう?プレイヤーが物語を受信するための感覚器官であり、物語を駆動するためのパーツに過ぎないのでしょうか?それは半分だけ当たっているかも知れません。しかし、それが全てではありません。

 実のところ、以上の前提・仮定があるならば、「プレイヤー」と「PC」の心を完全に区別してしまうことは意味を持たないと思います。少し切り口を変えて眺めると、これまでに述べたような「物語」というものは、口承文学だけでなく、近代以前から今に続くような演劇、とくに神事とも言える伝説の再現劇や、演者の匿名性をもった仮面風刺劇における「物語」に近いものです。前者では俳優は舞台の上で神と一心同体のものでありますし、後者では俳優は共同体の一人でありながら、かつその総体でもあります。そして、それを見るための場所が用意され、演劇空間全体の中で、観客は物語を体験し、共有する事が出来るのです。

 しかしRPGにおいては、セッションが物語体験の場であるならば、演者であるマスターだけでなく(先の演劇との対比において)観客であるプレイヤーさえも同じ舞台に上がったことによって、いっそう複雑な演劇空間が構成されることになりました。そこでは「プレイヤー」はもはや単なる観客ではありません。「プレイヤー」と「PC」は、あるときは一心同体、不可分のものであるかも知れません。またある時は「PC」は「プレイヤー」の仮面であり、社会的、肉体的な枠組みを飛び越えるための手段かも知れません。そうして、それが一つのセッションの中でも流動的であることによって、「物語」はより有機的な広がりを持ち、セッションを面白くするのではないでしょうか。


 以上の考察に基づき、1997年4/14〜16日の間に一つのセッションを設けました。
 それは『失われた「貴方」の記憶』を追いかける話。プレイヤーとPCとの関係を考える上で、その双方の記憶を扱うことは興味深い結果を生むのではないかという予想の元に行われました。
 このセッションでは特定のゲームシステムは用いず、また、なんらかの成功判定を行うことはありませんでした。
 次回は、そのときの模様と成功判定を行わないRPGについての話をしたいと思います。



シナリオ『水の記憶』その2
記憶。ほんのすこし昔だけれど、遥か遠くにある記憶。
一度海へ出た水が、天へ帰りまた地に注ぐように、
またいつか思い出す記憶。
記憶は口にした瞬間、物語となり世界を巡ります。
そして物語は心に届き、記憶の一部となるでしょう。
「貴方」がいるのはこの物語の中? 或いは外? それともその狭間?
今ここで、どこにいる「貴方」が大切なのでしょうか。
そもそもどこからどこまでが物語なのでしょうか。
それを踏まえた上で、その「貴方」に質問します

97/04/18 寿琅啓吾
夜光性歌劇へ

短冊懸へ

寿琅啓吾 <soga@summer.nifty.jp>