とりあえず

できた,ということにしておきたい.
半年は長かったが,この先はそう好き放題にもゆかないので.思ったことを端からやれてよかった.

28,000行あって,うち半分がperl,もう半分がJavaScriptです.もっともっと小さいプログラムにしたかったのだがなぁ,というところだけは残念.

ご褒美的に

ケーキ.ヱビス.かにしの.以下,ミーハーな話.

健速さんが僕とだいたい同い歳で,丸谷さんが6つほど上,という年齢的にもキャリア的にもライター新旧世代が3篇ずつきれいに分け合ったという点で変なゲーム.しかも本編からはじめるとまず選択肢でどちらの担当シナリオへ進むか選ぶというガチな設定.それでアンケートのふたをあけてみると健速さんの圧勝で,そこまで差の開く勝負になるとは思ってなかったからびっくりしたのだった.健速さんについて言うと,こなかなの良かったところは男の子の優しくも饒舌な内言であったのが,今度は女の子のほうも丁寧に,交互に内言するようになって全く長々しいのだけど,つい耳を傾けてしまうくどさで.強みでもって力押された.丸谷さんはいつも通り面白いという感じだったのだけど,仕掛けをきかせていたのが直球力押しの前に霞む結果になったのかもしれないね.

丸谷さんのパートについては,名前と声だけでしか登場しない多数の寮生がそれぞれ自分なりに生きてる様子がとても良かった.いろんな女の子がいて面白い.みんな字が難しいのと顔の絵がないのとで名前そのものはほとんど覚えられなかったけど,しゃべってくれるとその内容でああこんな子いたよなといつも思い出させてくれる.あと教室でTRPGやってる様は妙にそれっぽい.これは声だけであることの勝利.それで彼女たちは最後までいて,それぞれに行く先もあって.

先生のタイプをわけてるのがそのあたりかしら.健速さんの描く先生は子供みたいなまっすぐさでひとりの生徒に体当たりしてゆく.丸谷さんの先生はまっすぐな一方でいろんな生徒の声を最後まで聞いてるのだね.

々々さんの絵はロングショットの使い方がますます冴えています.こういうゲームではあまり許されないはずなんだけど,もはや必殺技として認められているのかな.

あと1人ずつ残してる.やっぱ6時間とか辛いのですが急ぐ理由もないので気長に見てゆきます.

ガンスリ vol.9

心的ケアが必要なのは担当官のほうであることは判りきってるわけだけど,人が死んだのではないという建前であるとか,そんなの男なら自分でなんとかしろという信条だろうかとか,そこにジャンさんらしさを感じたのだった.

ペロは2000年のこどもの日から数えて7年と半でようやくアンジェリカと再会することが出来た.そして彼女が余命を過ごしたのも,僕にとってはちょうどその長さだったということになる.

お疲れ様だったね,という言葉が一番合うように思った.

コーヒー休憩

おいしくない例の豆は最後の五分くらい残して捨ててしまったので,ようやくおいしいコーヒーが飲めるようになった.いまにして思えばおいしくないからと思って適当に室内にほったらかしていたから余計に不味くなった気もして申し訳ないのだが.

工学と科学

酒席にて.なにが違うの! 三点でカンケツにまとめなさい,と向かいの姉さんがいうので,いろいろ言ったのだけど納得してもらえなかった(三点でなくいろいろ言ったからだ).で,別の方向から.

京都で役に立つが東京で役に立たないという工学はあっていい.
工学は人の領域をつくる学問なのだと思う.

この“人”の部分は生命や人工物でもあるようになってきたのだけど,領域,というとらえ方だけは変わらない.

工学は科学の応用であると昔は思っていたけど,応用という言葉は簡潔に過ぎるか深い意味を込めすぎている.応用には必ず応用の対象となる人や場所や現象があって,ものがそこに加わることによって対象そのものが変化してしまうことを考える必要がある.そこで複雑系のような数理の話へ持ってゆくよりは,つくったものを置く場所であるとか,つくったものが新たな環境を形成する,というニュアンスを込めて領域という言葉を使いたい.

琵琶湖疏水の話に繋げたかったが,まだ二三歩足りない.

そして明日の世界より−−

後にしようと思ってたけどイメージアルバム付きで見かけてしまったから買うしかないわよね.水月陵,WHITE-LIPS+樋口秀樹,eufonius,中原涼という僕の趣味で一通り集めたとしか思えないメンバ.中原涼の声質がひとり浮いてるわけだけど,それがどう本編に生かされるのかしら.

3ヶ月後に世界は滅ぶからこのタイトルなんだけど,「明日の君と逢うために」と店頭で並んでいると可笑しくてよいです.

ところで「終末の過ごし方」に「ひとめあなたに…」のオマージュを見つけ出せるから,ってのに引きずられてる感もあるけど,健速さんていかにも新井素子好きそうな気がするよ.

美夏とシンシア

元はといえば,僕が天枷美夏について話したこと*1に対して,水姫がシンシアの話*2で返したことに端を発する.ロボットが人間の代用ではないという点を共通の事項としてシンシアの話が出てきたのだと思うが,こうしたことがシャンクによると会話を理解することの範疇にはいる.一方,僕自身もなぜ美夏のあのエピソードが面白いのかそれほど明らかではなかったが,水姫の話を聞いて改めて,ロボットが人間の代用でない点よりも,そのことをロボット自身が主張しているところを面白く感じていたのだと判った.もちろん僕も僕の話の聞き手となりうる.このことを僕の話としてうまく伝えたかったが,ちょうどいい話がなかったのでしばらくはロボットの本を読もうかと考えている.泥縄であるが,会話するということはそれくらい遅れてくるものと思う方が気楽でよい.

Tell Me a Story

コンピュータと人が会話できるようにしよう,という動機において,ロジャー・シャンクが1970年代後半から進めたスクリプト(脚本)の考え方は,ある状況において会話の登場人物や発話の内容・順序はだいたい決まっているものなので,その典型的な脚本を用意しておけばコンピュータにとって会話を理解したり生成したりすることが多少容易になるというものである.脚本があればコンピュータは次に何をするべきかあらゆる可能性を吟味する必要はないし,情報の欠けた部分は典型例を用いて補うことが出来る.たとえばコンピュータがレストランのスタッフを担当するロールプレイでは,玄関から入ってくる人間は自分でそう明言しなくとも十中八九お客さんであるので,コンピュータはまずは挨拶したり,その人を客席に案内すればよい.ただし,あらゆる場面でこのようなことが出来るようにするには,スクリプトをどのようにしてつくるのか,ある状況に対してその典型にあたるスクリプトをどうやって探すのかという点が難しくなる.また,典型であるスクリプトを実際的な場面に適用する際の技術的な課題も少なくない.しかし,そうだとしても,ある限定された場面ではうまくゆきそうだという見通しはマクドナルドのレジを思えば得られる.

シャンクはコンピュータ上の知的処理を研究するにあたって,人の知性,とくに記憶の仕組みについて深く検討している.スクリプトは単にコンピュータの会話処理のために考案されたわけではなく,人もスクリプトのようなものを持っており,人同士の会話においてもそれは利用されるという仮説に立つ.人同士の日常会話では,その場で細かな要素(記号)や規則の組み合わせに基づいて話を組み立てるよりは,スクリプトのような既にあるものを利用した簡単な手続きで話が進められる.これは人の知能が単純であるということではなく,人が会話のどの部分で最も知的な処理を行っているかということの問いかけである.1990年の Tell Me a Story (邦題:人はなぜ話すのか)では,スクリプトだけでなく話の内容も既にあるものとした議論が行われており,日常の会話について人の知性が働いている部分とは,その場で話の文章を組み立てる作業よりむしろ,話が記憶され,持続的に修正が行われる過程や,相手の話に対して返答するべき話を記憶のなかから選ぶ過程であるとされる.

Tell Me a Story において,AがBの話を理解するということは,Bの話に関連があるとAが思っているようなAの話を返す形で現れる.このため本書の典型的な例題では,話者が交替するごとに話の中心が伝言ゲームのようにスライドしてゆくことになる.これは,相手が自分の話を理解してくれたと思うのはどんな時かということを考えたときに,単に理解した,と答えられるよりは,相手の経験にあるうちのよく似た話を返してくれたほうがより納得できるし,そこでは多少のスライドについておおらかでいられるものだという仮定に基づく.

シャンクに言わせればワイゼンバウムのEliza(1966)も人の会話における理解のありかたの証左となる.Elizaはテキストベースの対話プログラムであり,ユーザの入力から部分を切り出して修正したり,入力と関連する文を探すことによって返事を生成する.いまでも数多く見られる人工無能プログラムやブログペットの元祖である.そしてここで人がEliza的なプログラムに対して理解力を認める場合,それはプログラムの仕組みよりむしろ,結果としての会話における関連の連なりにおいてである,ということになる.

もちろんここで大切なのは,そもそもの話を記憶するときのことや,うまく引き出すための索引付けや,記憶や索引が時間とともに変化してゆく過程である.それは僕らが生活するうちに常に行われており,とくに誰かと会話したり自問自答するような場合に活性化している.それはそれで大変な過程であるけれど,その代わり,いざ話を引き出して言葉にするときに必要な労力は,従来思われていたよりは楽なものと言えるのである.会話について,その場の即応的な過程よりむしろ日常的に経験されることや考え続けていることを重視する点でシャンクの主張は魅力的に思われる.

日常会話についてシャンクは声や表情,しぐさなど非言語の側面は議論から外しており,また言語の組み立てや会話の進め方にもあまり重きは置かず,話が記憶され発話される点に特化している.シャンクの主張は会話の理論として見ると特殊な部類に入り,むしろ日常記憶やエピソード記憶と呼ばれるような記憶の研究との関連が指摘されるが,僕はこんな風にして日記のようなものを長い間書き散らしてきた結果なのか,会話あるいは会話のように何かを綴るとき,記憶することまたはその一形態として文章を書いたことがかなり重要な過程であったと感じる.

言語的側面についてもう少し補足すると,発話を生成する過程には文法のような還元的な規則に基づく部分も少なくはないし,発話を理解する過程においても同様である.実際,シャンクの理論を実装しようとするとこれらの助けを借りることになる.しかし,いまコンピュータの生成する発話が僕らの経験に沿った見た目に近づいて来ていることには,シャンクが主張してきたことの貢献があったと思われる.自然言語処理の技術全体を眺めるならば,今では電子メールやWeb上で僕らの言葉が電子化されるようになったこと,僕らの言葉を大量に集めて処理できるネットワークとコンピュータの環境が整ったこと,文章を要素に分けて相互の関係にラベルを付ける技術が進んだことによって,僕らの言葉の味わいをそのまま残したような用例ベースの処理が機械翻訳や音声合成で盛んになったという時代にも因った話であるが,シャンクの主張そのものは色あせていない.

Tell Me a Story とおよそ時期を同じくして,シャンクはその理論の知識工学における具体化とも言える事例ベース推論の技術を提案した.これは過去の実際の事例を集積し,事例の類似関係に基づいて新たな問題に関する推論を行う手法であり,今でもナレッジサイエンスにおいて発展的に利用されている.

シャンク自身は現在,人の実践的な学習の仕組みに沿った教育システムの研究開発に従事している.

人はなぜ話すのか―知能と記憶のメカニズム

人はなぜ話すのか―知能と記憶のメカニズム

  • 作者: ロジャー・C.シャンク,Roger C. Schank,長尾確,長尾加寿恵
  • 出版社/メーカー: 白揚社
  • 発売日: 1996/12
  • メディア: 単行本
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レストランのスクリプト

はじめてのオフィスに足を踏み入れるのは心の準備がいる.たいてい,こんにちは,とでも言っておけばいいのであるが,返事がないと心細くなる.こそこそと歩いて,ちょっと顔の向きが合った人に,すみませんが,と腰低く声を掛ける.

レストランにはもう少し決まった流れがあって,戸をくぐれば三分の一くらいの場合は向こうから声を掛けてくれて,席を教えてくれて,メニューがきて,注文して,料理がきて,食べて,レジで支払えばOKであるが,残りの半分くらいはこちらから声を掛ける必要があって,その場で声を上げるか恐る恐る中へ入っていって人を探すか,さらに半分はそうしても返事がなくて途方にくれるか,といった具合である.慣れてくると店に入る前からどういった流れになりそうか予想できそうなものであるが,あいにく僕は店を選ぶのが苦手で途方にくれることが多い.

ここでスクリプトという言葉は脚本の意で用いている.レストランならば自分が行動して相手が応えてくれるという手順についてあまり考える必要のない決まった流れがあって,海外のレストランでどうするべきか(支払いはいつどこで?チップの渡し方は?)なんてことはガイドブックにも書いてある.あるいはスクリプトから外れてしまったとき,玄関に人がいないけれど店の奥のほうにいそうならばとりえあえず聞こえるように,こんにちは! と言えばよさそうである.ここではお店で人の姿が見えない場面における別のスクリプトを用いているとも言える.苦手な僕でも手持ちのスクリプトを増やせばマシになってゆくところがある.しかし,僕らを焦らせたり困惑させるのはむしろ,いま自分がどのスクリプトを当てはめるべき場面にあるかを理解し,またそれを当てはめようとする点においてであると思われる.