久しぶりじゃのう.
http://anime.webnt.jp/nt-news/?detail=219
コンシューマー版とPC版がある場合は必ずPCのほうを選ぶ僕だけど*1,確実にPC版も発売されるこちら,しかし,そんときゃアイシアがういういではない可能性が高いので今回は特例か.
*1:メモオフもPC版だった.
久しぶりじゃのう.
http://anime.webnt.jp/nt-news/?detail=219
コンシューマー版とPC版がある場合は必ずPCのほうを選ぶ僕だけど*1,確実にPC版も発売されるこちら,しかし,そんときゃアイシアがういういではない可能性が高いので今回は特例か.
*1:メモオフもPC版だった.
超重要.足を止めると会話も止まる.
NOëL会話は難易度高いよ.多分.
キミキスの下校デートって校内の静止スポットでの会話が上手く進んだら出来るわけだけど,それ順序逆にしてほしいと思う.
下校のときのほうが話しやすいんじゃない? 男としか下校会話した経験ないけど.
とはいえ,僕が高校の時分には風景から会話を拾うという芸当が出来たもんでもなくて,慣れない人とふたりで歩くと気まずい感じだったけどね.
五年間ずっといっしょだったけど,ふたりきりになるとどうも上手くゆかない相手というのもあった.糊になる人がいなくて.
いまはまあ,それなりに.
それはそうとして桜と雪が同時に舞い落ちるD.C.IIの画面であるけど,立ち絵の手前と後ろの両側に舞ってることに今日気づいた.
隠面消去万歳.
一言ずつ台詞てのはKanon(1999)であり,もちろんSNOW(2003)でもあるわけだけど.SHUFFLE!(2004)もそうだけど,それこそ水姫から借りっぱなしのMOON.のプロモムービーも文字と台詞ばかりだね.最近あまり見ないような,というか水姫が見てないのならないんだろう.
それ散るのOPみてびっくりしたのは,台詞がみんな恋愛がどうのこうのという話だからで,ゲームの女の子って恋はするけど恋についてあまり語りはしないのに,それを一気に見せられるからうわっと来るのでした.むしろ,ゲームの女の子が恋愛を語ってるとこに彼女らのガチンコを感じた.
実はあれが作中の台詞だったかどうかはちょっと覚えてない.雪村しか追っかけてないからってのもあるけど.
『同窓会』のマニュアルみたいってのはあれからないねぇ.ハニカミあたりでそういうのやっててほしかった.
“キャラ紹介時にキャラを端的に表現する簡単な台詞を”ってあれ僕は出来なかったんだよね.代わりにいつもページ1枚くらい話を書いて読んでた.キャラクターの性格を掴んで喋る,喋らせるっていうのが出来ないんだよね.
キャラを端的に表現する,おそらくはキャラを眺めると言い換えてもいいその教えとは相反していたけど,僕はキャラクターに入り込める人たちが羨ましかった.以前,RPGっぽい人が目の前にいたので,うちの後輩たちにはキャラクターに入り込める人が居たんですよ!って僕が嬉しそうに話したら,割と白い目で見られてぐんにょり.そういうのも喜ばしいものとして成り立っていたのは幸運なケースだとは判っていたけど,しかしやはりぐんにょりだ.
というか芳乃家・朝倉家編.
ボクにも家族が欲しいです
雨野さんもよくD.C.のこと読んでるなあと.当たり前かもだけど,そのリスペクトが心地よい.
アニメ→ゲームの順で見て,それでも義之が何奴か,てのはアニメで修学旅行の前にさくらさんからペンダント渡される時点でほぼ予想できちゃうわけだけど,問題はそれを誰が(例えばサンタさん,のようなものに)願ったかってとこで,僕は音姉だと思ってたのだよなぁ.ほら,ちょこシスとか永久アリスがそうであるように,それこそ僕の願望含みでね.
答えはぜんぶ僕の日記に書いてあったのに,僕が気づかないんだもんなぁ.
やっぱアニメのD.C.ファーストシーズンは筋が良かった.おそらくは池田眞美子がグッときた*1というラインで,そのままD.C.IIのゲームに繋いでも違和感がない.
はい,D.C.P.K.でさくらがプリンセスさくらであることには訳がある.まっことプリンセス的な悲しみで,切ねえ.
さくらさんは魔法についてはアイシアと同じくらいドリーマーで,その,それ作るのって無理くない?と僕は思うのだけど,作ろうという意志を持つところがプリンセス.
魔法でみんなを幸せにしたい→(中略)→子供の身体だけど,義之くんと一緒に暮らす.
大人の身体で,自分だけ幸せになっちゃえばいいじゃん,と思うのだけど,そういう考えにならないところが魔女界のプリンセス.んもう.
あとは,どうやってさくらさんを助け出すかってだけだな.純一おじいちゃんがなんとかしてくれてると思いたい.
*1:DVD-BOXII参照
「それに,わたしばっかりお姉ちゃんって言われるのも不公平な気がするし」
「だから,弟くん.文句ある?」
なるほど.お互い名前で呼ぶのも一つの方法だが,これもアリだろう.姉にだって関係性によって呼称としたい欲求があるってことでも良さそうだけど,だとすると僕がゆった通りね.
ふたりで事件を調査する,というのがたいへん良い.
D.C.の場合は桜の災厄に対して女の子(さくら)が一人でどうにかしようとするので.
あと,小さい頃はまだ和菓子をうまく作れないというのが可笑しい.
桜の雨が舞う,がアニメD.C.ファーストシーズンのEDで,桜雪の舞う,がゲームD.C.IIのOP.アニメのほうは春から始まる明るい話なので*1桜をたくさんの雨粒に見立てた鮮やかな光景.後者は喩えでもなんでもなくて,雪と桜がいっしょに舞う歪んだ季節の話なので見たままを唄っている.アニメのD.C.IIについては雪の季節じゃない時点で続編があると気づくべきだったね.
朝5時か6時くらいに加茂街道を自転車でゆくと,道半ばでタクシーが土手に寄せて止まっていて,ドライバーが写真を撮っていた.ちょうど東山に朝日が昇り始めて賀茂川の桜がさわやかに輝いている.
風が強い日にはうちの玄関まで桜が舞い込んでいる.舞い込むところを見たわけではない.玄関に花びらが一枚,落ちていた.
僕はいつもうつむき加減だから,それは舞い散る桜の姿をあまり見ない.それ散るといえば久々にOPを見たら,女の子が順番に恋を語る姿に再び強いものを感じた*2.恋,恋,恋.僕はうつむいて桜を見送る.
桜のゆくえについては夏本さんが綺麗にまとめて(?)くださったので,僕の方ではもうすこし背景めいた話をしたい.何かを見立てるというよりは僕が間近に見た景色の話.
桜が水に流れるのは細い川筋に限る.あるいは人工の水路.つまり,自然の砂州が小さくて,岸辺と水との境界がくっきりとしているところ.桜の樹のすぐ傍に水が流れてなくてはならない.そういうわけで土手の広い鴨川では桜が流れにまで届かない.いっぽう疏水路ではぜんたいに桜が流れやすくなっている.
鴨川沿いの桜を独りで見るのは朝早くか夕方寒くなってからになる.昼間は人が多い.
去年,幾らかひとが集まって河原で花見をしたのだけど,風が強くて,桜からも遠くて,地面は傾いていて,薄暗いところで身を縮こまらせながら時を過ごした.先週,そのときのことを話題にしたら,あれは慣れない人たちがやった花見って感じだったと言われて,慣れない人たち,のあたりが腑に落ちた.花見で大騒ぎするというのは誰にでもうまく出来ることではない.
独りで桜を見て回るのは気が軽いと思う.だけど,もしかしたらこれも誰にでもうまく出来ることではないのかもしれない.だとしたら僕は幸運だ.
それで,独りで見るならば自然,疏水路のほうに足が向く.
僕は4月1日に限らず嘘・大げさ・紛らわしいのでかえって4月1日には何を書いたらいいのか判らなかったくらいであるが,先日,その桜の流れない賀茂川を散歩していたら,桜の代わりに鴨が流れているのを見た.これによって下流では鴨川と呼ばれるのだ.沿岸の砂州の辺りは水の流れが遅いため鴨たちはめいめい好きな方を向いているが,川の中央では流れが速いため,鴨たちは揃って上流を向く.僕のほうでは判らないが彼らは水面下で足を激しく動かして,その場に留まっているのだろう.時折,くちばしを突っ込んで何か捕っているのは漁師が長靴で立つ姿にも似ている.川が流れる方へ体を向けるとどこまでも流されてしまうので,彼らは下流へ移動するときにも上流を向いたまますっと力を抜く.するとカッパではないが鴨が川に流されているようなほほえましい絵を見ることができる.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%A0
1ヶ月も前の話だったのか.ショックだ.
ご存命中にあと一歩でも近いところへゆきたかった.
義之「姉弟でデートもないでしょうが」
音姉「じゃ,デートごっこ」
あほか,と反射的に思った.
音姉「わ,私たち,恋人さんみたいに見えてるかな?」
義之「いや」
義之「なれないイメージプレイを敢行したはいいが,勝手がつかめずに途方にくれてる姉弟に見えてると思う」
だよなぁ,それ.姉弟の黒歴史というやつです.
音姉が昔,おはなしを書いていたという.危険,危険,それ読んじゃだめ.
義之が読んだら塩の固まりになってすなすなに崩れそう.
特徴的なことばや言い回しの頻度から,文書の作者や成立年代の手がかりを得るという手法がある.
以下は,本音と冗談が半々のように聞こえたが,
……僕らは誰も頻度なんて信じちゃいない.しかし唯一,プラトンの著作の成立年代だけは頻度ベースの結果が受け入れられている.なぜだと思う? そうでもしないとみんなが好き勝手に言って収拾つかないからだ.
とは,情報技術にも詳しい史料学の先生の話.
プラトンがどうだかはともかく頻度を信じないという背景について,他にゲストがいたのでその場で深くは尋ねなかった.日頃の研究内容から推し量ると,文脈から切り離されたことばの数を積み上げても仕方ないという気持ちがあるのだろう.史料にあたるというのは文脈から言葉を発見する作業になる.欠落やページの前後,解読できない書き文字も少なくないので,それを時代や人や前後の文脈から推測する仕事になるから,あることばの持つ意味や重みが文書ごとに異なってることに対して敏感なんだろう.
ことばを数え上げるっていうのは今だとだいたい計算機にやらしがちだけど,やはり乱暴なところがあって.それは人間ですら難しいと思うことだらけで,同じ表記でもこれってぜんぶ同じ意味なのかと延々悩む.いま,ことばの正解をたくさん作らなくてはならないとき,およそどのへんで妥協するかってのは,リテラシの充分に高い人2,3人でそれぞれに作った答えを突き合わせて,最後に専門家がチェックしている.
ううむ,小石よ.みずほ先生が敵だというあんたの直感は正しいので,もうちょっとどうにかしたほうがいいよ.にしても,モノローグの恥ずかしさはうた∽かたに通じるところがあるね.そういうところも僕は好きなのかと,その日,私は知りました.
次回,近接の夜空.