D.C.A.S.

さくらさん若いよ.あと音夢っちのいない朝倉家はちょい寂しい.

アニメで知られているような猫っぽい所作の頼子さんはA.S.収録話*1がゲーム初登場である.というのも,ゲームのほうでは猫耳メイド服の少女は美咲さんだったということで当事者たちはいちおう了解している.

美咲の見上げる視線を追うと,そこにはねこの頼子さんが塀の上を歩いていた.

不意に深い一行であった.美咲は頼子と呼ぶので,頼子さんというのはまずは猫耳メイド服の少女を指すことになる.純一的にはメイド服でないにゃんこを「ねこの頼子さん」と呼ぶことにしているわけだけど,頼子さんというのはそのまま美咲であったので,純一としては名前の上で厳密に分けようという感じではない.

今の頼子さんは美咲のうちで,飼いねこ頼子として,のほほんと暮らしている.

今の頼子さんは美咲である,が,そこはあえて交ざったままに.出会った頃ずっと頼子さんて呼んでたことの,名前への愛着であるなぁ.

ところでアイシアが恋愛指南お姉さんとなっている.「ねぇ,そこの学生さん」で,呼ばれた純一のほうが丁寧語になっちゃってるから年上の雰囲気だ.クリスマスっぽい奇跡がわざわざクリスマスよりも早い時期に顕れるてのは,早すぎるクリスマスケーキを売ってたこのひとのサンタマジックなのだろうな.

*1:もとはW.S.か

フィリパ・ピアス「真夜中のパーティー」

短編集,表題作.真夜中のリビングに子供たちだけの時間が偶然生まれる.しかしその夜のパーティー自体は子供たちが知らず巻き込まれている感じの不思議さを帯びない.それは巻き込まれるというよりも自覚的な余興として,上の姉弟らは小さな末っ子ウィルソンに不思議な景色を演じて見せる.余興ってのはウィルソンが朝になってから母親に夢みたいな出来事を語ったとき,それを母親が信じるかどうかを見るっていうね.ウィルソンだけはおミソなので作り物の夢に巻き込まれてる.彼はまだ小さいから他の姉弟とよりも両親と同じ時間のほうを生きているのだろう.

真夜中の時間とその前後にある父と母の眠り始めた夜,ふたりの目覚める朝とを繋ぐちょっとだけいつも通りでない手がかりがよい.チャーリーが自分の耳の中にハエが入ったと思って,眠る両親のところへ訴えにいったことをきっかけに真夜中のパーティーは始まる.あれ,入ったような気持ちになるんだよなぁ,もぞもぞと.そして,無理矢理起こされたウィルソンはパーティーでは半分眠って夢見たようになっていて,朝,寝過ごしている姉弟をよそに自分だけは起きて父母と朝食をともにする.チャーリーの胸にいっとき迫った不安とウィルソンの夢,そんな小さくてもやもやとした気持ちが,真夜中の時間があった手がかりとして残される.

2000年に書かれた訳者あとがきによると,1999年のクリスマス頃のフィリパ・ピアスはおばあちゃん業に忙しかったという.80歳近くのことである.「トムは真夜中の庭で」が40歳前の作品で,ついに正真正銘のおばあちゃんになられたのだなぁ,と思っていたら,2006年のクリスマス前にお亡くなりになっていた.勝手な想像であるが,どこかまだ不思議な時間の中に暮らしておられるような気がしてならない.

真夜中のパーティー (岩波少年文庫 (042))

真夜中のパーティー (岩波少年文庫 (042))

長崎俊一「西の魔女が死んだ」

京都シネマ.余裕だろうとのんびりしてたら予想外の満員御礼,立ち見有り.17:10の回まで四条をぶらぶらして待った.

ここのおばあちゃんはまいと話すとき,まいのことぺたぺた触りながらやる.映画ではおさげを交互に引っ張りながら話すのが好みだ.

内容は小説に忠実にみえて,取捨で別の方向へスライドさせてますよ.たばこ,にやり笑い,魔女談義,の三点.

おばあちゃんは孫の前でたばこプカプカやる不良なんだけど,これを大幅カット.あと「にやり」とする魔女笑いもなくなっている,ように見えた.この人の境遇やらはみ出したワルっぷりは芳乃さくらと朝倉純一の祖母に近いのだけど,そういう感じではなくなっている.

自分で見ようともしないのに何かが見えること.妄想と想像の違い,というのはこの人が何度も言い聞かせることなんだけど,これもカット.たぶんこれ,文章で読むと面白いんだけど映画のなかで言葉にすると理が勝ちすぎるんだろう.結果として,鶏小屋が荒らされた後にマイ・サンクチュアリ*1で吹く嵐の意味も変わってくる.梨木香歩のほうでは自分で望まないのに勝手に拾いとってしまう,解釈してしまう薄暗いもの.長崎俊一のほうは理屈の具体化されない風雨で,しかし郵便屋さんという人間が助けてくれる類のもの.

不良なおばあちゃんでエッジを立てたり言葉に依ったりする代わりに郵便屋さんを足して,関わる人間の数の多い,しっとりとした映画にしている.だから,終盤が大きく変わる.

「でも,おばあちゃんだって,わたしの言った言葉に動揺して反応したね」
おばあちゃんはにやりと笑って片目をつぶった.
「そういうこともあります」

梨木香歩のほうは言葉のやりとりが多くて,そういうこともあるだろうと先回りして断っているからここでもそう切り返している.もちろん,ここでにやりと笑う.長崎俊一のほうはにやりと笑わないし切り返さず無言になる.このあと初めてたばこを吸う様子が,むしろおばあちゃんのやるせなさであるのかな,そういう感じで一度だけ登場する.おばあちゃんがまいの言葉に応えられなかったことで,あのとき酷いことを言ってしまったというまいの後悔はより重くのしかかっている.銀龍草*2の話がないのもここでふたりのやりとりを断つため.

ママの「この人はこういう死に方をする」という言葉の有無でおばあちゃんの違いはまとめられる.梨木版は有りで,ママを普通でない気持ちにさせる魔女みたいな死.長崎版は無しで,おばあちゃんみたいなおかあさんみたいな死.

それで,ガラスに残されてた言葉が帯びる,やんちゃさの程度も違ってくる.梨木版は泣き笑いだが,長崎版は切ない.

19:15,上映終了後,ロビーに人が多いのでまだ何かやってるのかとラインナップを眺めたら,19:00からは滝の白糸(生演奏付き)本日限定とあって悔しかった.ひとつ早い回で見れてたらこちらにも間に合ったのだが.

そんなに好きな映画でもないけど劇場で演奏付きというのは機会なさそうだからね.

鏡花物も映画化されると人間が増えたり生々しくなったりする方に振れるのだ.それで映画化とはこういうものなのかと思っている.

*1:まいのサンクチュアリ.裏庭の照美=テル・ミィもそうだけど,ちょっぴり酸っぱいと思う.

*2:おじいちゃんが鉱物好きにせよどうして鉱物の精と呼ぶのかぴんとこなかったが,別名「水晶蘭」であるらしい.ああ.

ゾロリゾロリ

久々にGを仕留めた.俺もりっぱな猫になったね.

奴がちょっとどんくさ過ぎた気もするが.

ゾロリナの風体を思い出せない.ヌルリナはなんとなく覚えてるのだが.

そういや超獣伝説ゲシュタルトで禁忌とされるGの名ってちょっとあれだよね.

龍潭譚絵草紙


天満橋 The 14th.moon にて.
http://www.14thmoon.com/blog/14/14thmoon.cgi?date=2008.06.30

龍潭譚という時点で素敵すぎる.
男の子が龍潭譚だいすき!って言うのは気恥ずかしいよなという話なので.

本になったらぜひとも買います.

前も書いたけど,異界へゆきてかえりし少年の心がなにか変わる,という類の話ではない.ふるさとから九ツ谺へ迷い込む道と,九ツ谺からふるさとへまたゆく道は異なる.右から左へ,絵巻物のように物語の景色は一方向に流れるものであれば,そこをゆく少年はただ,ゆきて,ゆきし.少年はなにも変わらないのにその周囲は流れ流れて,九ツ谺を経てふたたび訪れたふるさとはおぞましいものと変容しているのである.

龍潭譚がどうしてこれまで絵にされてこなかったのだろう,という中川学氏(上記絵草紙の作者)のコメントがあったが,金沢の泉鏡花記念館では龍潭譚の立体絵を見ることが出来る*1.
http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/bunho/ikkinen/sansaku/tenji.htm
氏が直感されたよう,景色の変容が美しく,妖しく,ひと続きの絵とするに向いた話なのである.

*1:あとでブログを拝見したら氏も記念館を訪れておられるので,ご存じの上での話ですね