Waffle in the AIR

AIRのおはなし



AIRについての日記みたいなおはなし。

"farewell"


sense offについて。まずは御陵透子と話をすることから始めてみる。

透子「私には意味が喪われている」

「その意味ってどんな意味なの?」

透子「だから私には意味の意味が喪われている」

「そのその意味の意味ってどんな意味なの?」

透子「だからだから私には意味の意味の意味が喪われている」


・・・環っかになってる。終わらねぇ。

成瀬「直弥が透子と話せるのって、きっと直弥が脈略なく喋るからだよ」

んじゃ、戦術を変えてみよう。


透子「私には意味が喪われている」

「ラーメンセットひとつ」

透子「私には意味が喪われている」

「はれるでしょう」

透子「私には意味が喪われている」

「おぉーっと、翼くん、ドライブシュートだぁぁぁぁ!」

透子「・・・」


ふぅ、なんとか「・・・」とまでは言わせたぜ。

成瀬「透子みたいな子と喋るには、多分最初は直弥みたいな話し方しなきゃいけないんだよ」

いや、さすがにこれはまだ会話してるように聞こえないだろうけど、でもきっと、こんなたわいもない綻びが、環を抜けだすスタート地点なんだ。(以下、本編の脈略不足な会話へと続く。)

成瀬というのはあんなにほにゃっとした顔してるけど、直弥にとっては真理を知ってるすごい人なのである。私たちの会話はいつも筋道が通っているというものでもなく、いきなりポンと話題が飛ぶことは幾らだってある。そんな脈略のなさが会話の面白さの一つでもある。脈略がないものを会話として受けとれてしまうという、あまりに平凡な才能。だけど、透子にはそれが理解できなかった。直弥は分かっちゃいないけど、なんとなく実践していた。

脈略の壊れた会話があると知っていること。そんなたわいもないことが、ある人にとっては辿りつくのが困難な答えとなり得る。

成瀬の話では、自分の中に未来のヴィジョンが見えてると自覚してたので、成瀬はそうした真理がただ自分の内にしかないことを知っていたと言えるかもしれない。答えは外にはないんだ。だから次に、彼女の世界は終わるしかなかった。「世界の時間が、遠くない未来で、ぷつんと途切れるのが判るだけだから……」世界は終わった。だけど、そのなにもないはずの場所に、往還する環の構造だけが残っていた。「わたしは生まれ、」「育ち、」「少女になった。」「そして、」「あの人に出会った。」何度でも繰り返すその環の存在を知ってから、成瀬は再びこの世へと帰ってくる。

帰ってこない人もいた。直弥が自分の全てであると知った珠季の世界は終わる。その終わった先で、彼女は微睡み続けている。直弥は答えを知り、世界を終えて、環から飛び出そうとした。あまりに勢い良すぎたので、美凪や椎子に引きずり降ろされた。降ろされた世界はけして元に居た世界ではなく、一度飛び出した以上その先にある世界だ。エウレカ、と叫んで風呂から飛び出したおっちゃんのように、何かすごいものを見つけると勢いつきすぎるのだ、私たちは。俺しか皆を救えない、とか、1000の同胞への贖罪とか、大上段の真理。それを彼女たちは引き止めてくれた。

環を一周した先になにがあるのか。環を知り、飛び立った先の日常を生きてもいい。微睡み、少し休憩してもいい。日常の中でまた納得がゆかなくなったら、同じ環に戻ってきて、最初から、「私には意味が喪われている」から、やり直したっていい。そしてまた自分の真理を見つけて、世界を失って、環を確認して、帰ってくる。何度でも、好きなだけ巡って良いのだ、この円環は。

さようなら



でも、また戻ってきていい。



世界には、往人や観鈴や晴子がいた。
真理を得たら、世界は終わる。 真理なんていうものは、生活において糞ほどの役にも立たない。

往人「俺はおまえのそばにいて、そしておまえの笑顔を見ていればそれでよかったんだ」

あほか、あんたは。

観鈴「お母さんとふたりで生きていきたい」

あほか、あんたは。

晴子「うち、ちゃんと、あんたのお母さんになれてたんや…」

あほか、あんたは。

あほです。そんなことは日常生活の中ではいまさら言うまでもないあたりまえのことに思えます。それをことさらに真理として近づけば近づくほど、求めた日常は遠のいてゆきます。往人と観鈴はおはなしに捕われて、往人は真理を得た瞬間、消えてしまいます。観鈴は全てを忘れてしまいます。晴子は医者では直せない観鈴の病という非日常に捕われ、真理を得た直後に観鈴を失います。真理なんてなんの役にも立ちませんでした。けれども、これまで何かよく分からないどろどろしたものだったのが、「あほか、あんたは」と言われる程度のものへと変わったことが違いで、一度全てを失って、また帰ってきたとき、その些細な違いだけが積み重なって残ってゆきます。それは、翼の少女の住む輪廻とも言うべき大きな環でなく、日常に紛れこんだ小さな環のおはなし。

もしも残ったものに納得できなかったら。人の形で納得できなかったなら、次は烏だ。抱く腕もなく、思いを伝える言葉も持たず、思い出をとどめる場所さえないちっぽけな体。でもより苛烈に環を巡ることでしか、この身に納得させることはできないと思った。もの凄い勢いで、もう一度同じ環の中へ飛び込む。椎子や美凪のように引き止めてくれる女はそこにいない。観鈴も晴子も自分の環を巡るだけで精一杯なのだ。あほだ。このどうしようもない気持ちは。

「なんなんだろうか、その正体は。
 確かめなければ、ずっとこの気持ち悪さが残るのだろう。
 でも、それは確かめていいことなのか、わるいことなのか…それさえもわからない。
 どうすればいいのだろうか…ぼくは。」

僕らは、ほんとうのことを知ってはいけないんだろうか。

「僕が、消えてしまう。
 それは恐怖だった。
 始めて知る…心の底から感じる恐怖だった。
 そこへ向かって、僕は歩んでいるのだろうか。」

だけど、知らずにはいられなかった。そして、また環を知る。

「いつか、こんなことがあった気がする。 それは、空を目指していた時の記憶。」

「そして、恐怖を感じる。
 このまま、その向こうに行ってしまえば、
 僕は消えてしまう。」

環を知るとともに、世界が終わることを確信する。

「でも、自分の中で大きくふくらんでゆくものは、止めようがなかった。
 今日までの日々を僕はさかのぼってゆく。」

だけど、それでも止められなかった。

「その中で俺は…彼女との暮らしをひとつずつ思い出し…
 そして、忘れていった。」

待っていた別の景色の中で、俺はただの烏となった。ただ、みすずのそばにいたい、その思いだけが一つ積み重なった。できたのはようやく、それだけのこと。

烏の話は終わり、話は観鈴の風景へと移ってゆく。

「わたしが終わらせるの、その悲しみを」
「今までわたしだった人たちが、誰もできなかったこと」

晴子と一緒にいたいけれど、わたしがやらないといけないことがある。あまりに大上段な使命感が彼女の世界を終わらせる。やはりそれを止める椎子や美凪はいない。観鈴はそれを自覚し、身勝手にも晴子に告げる。

「朝起きて、もしもわたしが変わってしまっても…」
「わたしは覚えてるから」

みすずは記憶を失った。次こそはそれを引き止めるため、いつの日か彼女を連れて帰るために、烏は空へ飛ぶ。

最後に、晴子。もしも、本能というものがあるのなら救い。例えば母性とか、好きな人とただいっしょにいたいという欲求とか。その本能を信じられないから、彼女は自分で書いたおはなしに規定される。いつか、観鈴は連れ戻されるのだから、情はかけない。それを10年も続けられるというのは、ただものではない。あまりに無茶な規定。無理がたたって、晴子は酒まみれだ。自己の中の本能を基準として認められなかったら、時間くらいしかすがれる基準はなかった。母といっしょにいたいということ、その気持ちを自分に証明するために、観鈴は眠ることもなく、痛みの中で無茶とも言える長い時間を頑張った。どうしてそこまで時間へ過剰にとりすがるのか。時間というものは生理と繋がっていて、必ず身体に影響を及ぼす。ずっと眠らないことが体に及ぼす影響はあまりに明白だ。そういった生理的現象を無視することの、とり返しのつかない影響にしか基準を置くことができない。記憶を失った観鈴に対して、晴子は勝手に疑念を抱き、勝手に自己の中で解決した。そのとき、晴子にとっては10年間、気持ちに逆らい続けたことこそが基準となり得た。それぞれが互いに対してではなく己の時間に価値を見い出す。

この自分勝手に環を巡る人間たちの間に、どんな愛情があったというのだろう。往人は勝手に出ていって、勝手に戻ってきて、勝手に烏になった。観鈴は自分の決めたゴールに消えていった。「もう一度だけがんばろうと決めたこの夏やすみ」の中へ。晴子は観鈴を置いて出ていったし、自分勝手に母であることを確認した。いや、そもそも、自分勝手である以外にどうやって確認するというのか。それはただの独り言、独り遊びじゃないのか。

「直弥の言葉って、人に話し掛けてるみたいに見えて、結構独り言みたいなのが多いんだよ」
「…でも、それって最初のうちのことだと思うよ」
「最初は直弥が一方的に喋ってても、段々ちゃんと会話になってると思うよ」

そう思うかい、成瀬。環のほころびこそが、会話なのか?

メルン「人には、それができる。世界の壁を飛び越えることができる。わたしは、それを奇跡と呼びたい。」

独り言じゃなく、わたしたちが会話できているのだとしたら、ただそれだけのことがきっと奇跡。

We must get it over.

「この海岸線の先に、なにがあるのか」
「わたし、そんなこと言ったっけ…」
「言っていないかもしれない。でも、そう思ってると思ったんだ」
「そうだね、確かめてみたい」

言葉は互いに確かめようがない。だけれど、それは語られなければならない。海岸線の先にあるものを確かめよう、と確かめようのない言葉を使って二人は語る。

行き場を失った想いは、全て星へ返して。

晴子「そうすれば、うちらはきっと…ずっと穏やかに生きてゆける」

そうじゃなくて。

日常に埋没して生きてゆくこと、それ自体を自覚しているようでは、日常を生きていることにはならないよね、ジャン=ロタール。晴子がことさらに家族の良さを強弁している間は、それはその心地良さの中でとる戦いの休息だ。日常は意識しないからこそ日常だった。弓のことを忘れた弓の名人の話があったが、日常を生きるとは言ってみれば日常の名人になることだ。

烏は、環を包むさらに大きな環に住む少女の元へ飛んだ。あるいは、またそこから戻ってきて、再び往人を生きたかもしれない。往人と観鈴は過酷な日々を巡っていた。晴子は環の中に羽を休める場所を見つけた。そしてそれを、環から旅立つ二人の子供が見ていた。二人は往人たちのいない、翼の少女もいない日常をゆく。

さようなら

でも、その無限の中で、きっとまた彼らの住む場所へ戻ってくるだろう。
浜辺の町で見た風景を忘れない。
全てが終わりを迎えても、円環はけしてなくならないのだから。
だからそれは、どこまでも遠く、おわりのない道だった。

ただ、それでも、積み重なるものがあった。母から子へ、物語は歌い継がれる。それは子が母に贈ったおはなしでもある。神奈は母へ旅の話を聞かせた。肉体的な輪廻というよりも、語り継ぐことによって一つの物語が続いてゆくのだ。そんな大きな話でなくてもいい。屈指の名場面がある。

「いたよ、おかあさん!」
「なにが?」
「かみさま」
「今、この中にいるよ」
「ほんとう?」
「だって、ぬいぐるみだと思って見てたら、かくれようとするんだよ」

子が母におはなしを語る。

「ここが神様のお家だからね、返してあげましょうね」

それを母が受けとめて、物語として語り継ぐ。きっと、この親子の間でこの出来事は永遠に語り草となるのだ。そして、それはまた、子から孫へも。確かめようのない言葉や想いたちが、物語として積み重なってゆく。

裏葉「海辺の村にも夏祭はありましょうね」

海の話、祭の話。笑顔とともにある話は、物語として語り継がれる。三人の間に生まれた物語は、いつまでも、いつまでも続き、観鈴にまで届いた。

世界が終わるとき、それを垣間見ることがある。

「まるで世界の終わりのように…静かな時
 終わってしまうのだろうか、このまま。
 ここで終わってしまうのだろうか。
 僕も目を閉じる。
 もう水が降る音しか聞こえなかった。」

社に屋台は一つもなく、
行われなかった祭の場所で、
世界の終わりを感じたとき、
社の階段の上にそれはあった。

奇跡が、そこにいた。

大切な人と紡いだ物語以上に
大切なものなどない。

それは、奇跡の集合。

AIRは第一に物語讃歌だった。たとえ独り遊びしかなかったとしても、環の中で物語は確かに綴られてゆくこと。そのために、どれほどの長さが必要だっただろう? とにかく読み続けなくては終わらなかった物語。長い。異様なまでに長い。この長さをもってしか、物語というものを語り得なかった。ただ無茶なまでに時間を費し書き連ねることでしか、確かになれなかった。過剰な長さの中にはただ物語の存在しか残りようがないはず。そこまでしないと伝わらないはず。麻枝准自身が過剰さの中に自分を規定している。物語を賛美するための物語。だめだ、また自己言及の環にはまっている。そんなものは語り得ないからこそ、過剰に語りまくるしか手がない。だけど、ほころびはいくつだって用意されていた。物語のざらざらとした表面を手がかりに、どこまでも読み続けることで、そこに何かが残せるはずだから。皆がそこに自分自身のおはなしを感じとる。それはそれぞれ違うおはなしなのに、AIRについて語りあうことができるのだとしたら、そんなおそらくは当たり前のことが、どんなにか嬉しいことだろう。

もしも、できるのだとしたら。

できないから、また無限へと歩き出す。どこまでも過剰さを規定することで、確かなことを探しにゆく。(2000/10/25)


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夏町 銅貨