etegami - Christmas 12.2184

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蛍石のモールス 2000年6月26日

ソリティアトラップの深淵を超えて

ジャン=ロタール & メルン=ボーリャン

from

"フロレアール"(13cm)

人には、それができる。
世界の壁を飛び越えることができる。
わたしは、それを奇跡と呼びたい。



ドイツ土産のEisweinで祝杯をあげながら、フロレアールについて少し語ろうと思う。酔っぱらいの書く文章なので、未プレイの方にとっては意味不明の内容となっていることは、あらかじめ御容赦頂きたい。ネタバレについてもご同様に。

ソリティアトラップに陥ったジャン=ロタールの性癖に共感しない私がわざわざ何か書こうというのは、最終章において、この物語がジャン=ロタールだけでなくメルン=ボーリャンの話でもあったことが明確に示されたからで、つまり、けして重ならない二つの世界、例えば私にとって相容れないジャン=ロタールのソリティアと、私あるいはメルンとを繋ぐものが奇跡であるという括りが、深く納得のゆくものだったからである。

最初にまとめてしまうと、記憶の呪いから人を解き放つのが、フロレアールやkanonの舞シナリオにおける奇跡だという言えると思う。ここで何故kanonの話が出てくるのかと言えば、フロレアールの語り口があまりにkanonの、特に麻枝シナリオと対照的だからであるが、詳しい比較はここではとりあえずすっ飛ばして話しを進めさせて頂く。

フロレアールの中の記憶

記憶について、順に語りたい。フロレアールの中で語られる記憶は、「嵐」の原因となるジャン=ロタールの取捨選択の記録であり、次に「神」なる外部の手による選択への抵抗、最後にはジャン自身が選ぶことへの行き詰まり、という形をとってジャンを呪う。この呪いからの解放こそがジャンとメルンがコミュニケーションをとるための道であり、物語のゴール(奇跡)である。はじめは「嵐」への処方箋として「日常に埋没すること」が示され、ジャンとメルンとの間に共通のプロトコルが成立する。

しかし、その先の展開において、共通のプロトコルが成立することはない(あまつさえ撃ち殺される)。まず、海より深い事情はフォルキシアやジャンのプロトコルとは全く別のところにあったことが示され、「神」の手による選択というコミュニケーション可不可とは直交する概念が挿入される。そして、そのソリティアトラップをジャンの世界として一括した後に、ジャンの世界全体を対象としたコミュニケーションの可能性をメルンが肯定することによって、奇跡が示される。この最後のメルンの言う奇跡の中で、ジャンの苦悩がまとめて物語構成の中にカプセル化されているところが、押しつけがましくなく、物語としても美しいと思う。

舞シナリオ(kanon)の中の記憶

並べて舞シナリオの中の記憶について語りたい。麻枝准は記憶について語らせたら当世一の作家であると思うので、ここではその作品のなかでも記憶の世界の往来が最も激しい舞シナリオを取り上げようと思う。(本当は長森シナリオのほうが適当かもしれないが、あちらはまだあまり分析してないのでとりあえず。CDドラマをきっかけに、考え直したいと思っている。)

舞シナリオに登場する記憶とは、すべからく思い出である。それは具体的な取捨選択の積み重ねではなく現在の無意識の再構成としての記憶、例えば、我々がよく「思い出はいつも美しい」と語るときのこと、幼い頃に抱いていた夢がなんらかの形で自分の今に影響を及ぼしているのに気付くこと、そんな風に「現在」に強く影響された、ある特定の時点を指さない「あの頃」「これから」という言葉で語られる事象である。 思い出はすでに現在において選ばれて知覚するものであるから、その思い出の中に選択枝や迷いは現れない。このとき取捨選択に苦悩するのは現在の自分であり、過去の自分ではないのである。そうした枠組みにそって、舞シナリオは語られる。(なおここでは佐祐理シナリオは除外する。)

舞は戦いの中で、祐一と別れた日の選択についてはけして後悔することなく、ただ自分の特別な力と共に生きた幼い頃の記憶全てを断罪し続ける。かの日に魔物は舞から放たれたわけであるから、舞が戦うのは現在の自分ではなく、常に過去の自分の記憶であったはずである。

あるいは祐一にとって、幼少時の別れの日の選択を贖罪する必要はなく、祐一はただ現在の当事者として、現在の舞を理解しようとするのである。ここでは舞の記憶こそが祐一にとっての呪いであり、それを知って解放することこそが舞と共に生きる道でありゴールであると祐一は気付いていた。

フロレアールとフィクション

ここで、繋がらないものを繋げるのがファンタジーである、と言えば、メルンの言う奇跡について語りやすくなるだろう。祐一の記憶に流れこむ舞の過去の記憶は祐一にとって常識的な因果を超えていたが、祐一は現在の当事者として、現在の舞と過去の舞との繋がりを発見する必要があった。舞シナリオに言う記憶とは現在に強く影響を受けた思い出であると述べたが、その影響の糸をやはり祐一の現在と過去の記憶によって手繰り寄せる想像力がファンタジーであり、メルンの言う奇跡である。メルンが奇跡を語るときに働いている力は哲学でも論理でもない。それではそれが何かと言うと、彼女自身の内観からもたらされたファンタジーである。

ちょうど、ジャンは独白の中で、フィクションを一つ一つ自分にとって意味のあるものかそうでないかを見極めなくてはならないと語っている。では、その意味とは一体何なのかを私なりに考えてみたところ、それはフィクションの動力のようなものじゃないかと思う。それはメルンにとってジャンとの繋がりを感じとったファンタジー、そして、私にとってのフロレアールは、ソリティアトラップ云々よりも、どのフィクションを信じあるいは疑うか、作中にそこまで書かねば済まなかった業の深さから、舞の奇跡の背景を撃ち抜いた衝撃をもって、私のファンタジーを支えてくれたことに喝采を送りたいのである。

それに、共感できずとも、それでも最後のこのくだりは小気味良いと思えるところが、巧さだと思った。


We must get it over.




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