人間の不連続に幸あれかし

そのときには、みなさんが私を見すてるかもしれませんけれど、人間は、かわるものです。

かわらなければ、やっぱり私は実在しないんだ、と思います。

皆さんのいまが、いまでありますように。

水淵季里さん

http://tonpuu.jugem.jp/?eid=38

「たとえばの話だけど,もしおれが明日,いきなり暗くて無口でとっつきにくいもとのおれにもどったとしても,しばらくは見すてないで,長い目で見守ってくれるかな」

「なんだよ,それ.そういう予定があるわけ?」

「でもまあ、いちおう予告はしてくれたわけだし、なんとか長い目で見てやるよ」

小林真と早乙女くん(カラフル,森絵都)

僕がゲームの女の子たちと共に十数年の歳月を過ごすだなんて,誰が予想したろうか.変わってしまうことが怖くて,見すてないで,と言った小林真の気持ちは何だか判るし,僕もじっさい口にしたことがあって,そのときになんでもない風にそんなことないよと言ってくれた彼と,ずっと長い目で見てくれてるみんなには感謝が尽きない.

アトリの空と真鍮の月

本件について僕の引き出しはあまり多くない.ものを考えようとすると大学でRPGサークルをやってた頃の感覚が甦ってしまうのだけどそれは違うのだ.だからなるべくRPGのことは思い出さないようにしておく.

神室立花は頼りになる娘さんだ.こちらに踏み込んで来てくれるのも嬉しい.神室立花がしっかりした村娘であることと僕が異類の娘さんと懇ろになるという話の繋がりは難しくなくてありのまんまに思えてさ,胸にすっと落ちてきたんだ.そういうところが好き.鶴女房みたいな秘められたところもあるのに魚っぽい男女の契りであるとかついには開けっぴろげでそこに性格がみえるよね.

山村に水がじゃぶじゃぶ出てくるところもいい.沼夫人の染み寄せてくるような水でなく夜叉ヶ池のざぶんとしたやつ.そして水が溢れてくるところに男女を置くとしぜん,心中という話になります.

めまぐるしく移る山村の季節と人の思惑のなかにあって,実感の置き所を迷いながら,母との関係をあれこれ考えたり,異類と共にあったり,不意に感応を得たり,心中めいた行為に人々を救うというスケールを与えたり,それはもう,大変な季節だったんだ.

アトリの空と真鍮の月

アトリの空と真鍮の月

手に取った経緯を少し補足しておくと,前作は知らない.ずっと昔,サイキックフォースの開発陣が出していた同人誌で味のあるキャラクターデザインを載せていたのが本作原画のかどつかさで,これが一番のきっかけになっている.脚本の鷹取兵馬は雪色のカルテでシステム越しに死と対面する感じが好きだった.

(4/12追記)

六車月乃の入ったスチルは,あなた一体どこの可愛らしいお嬢さまですか?というような素敵な笑顔をしているので,添えられた文章で描かれるような人に交じらないイメージとは齟齬があるのだけど,そのうちこの人たしかに油断してるとこんな顔して写真うつってそうだなぁという気になってくるのが可笑しいです.

メルクリア

SNOWからちょうど7年,である.龍神村へようこそ.日和川旭の場合,今日出会った家出娘が昔別れた子ギツネに接続されるという類の無理にはたどり着かない.うさぎは人間の女の子であるよりはうさぎとして少年の元へ駆けてゆく,そこに,お話に左右されずある者がある者であることを見る.鶴城亜泉は偶々インブルーリアへ来たので魔法による伝声を願ったけれど,それでも一貫してスケッチブックによる筆談の世界を目指していたように見える.

加えて鷹森日未子が勝負に負けるあたりでSNOWはおよそ神野マサキが書いたんじゃないかという符合を得ました.話の流れを裏切られる感覚があって,というのは話の勢いに乗って女の子が大きな達成とか変化をするというより,たかがお話程度に女の子を変える力はないのだよねという気持ちにさせられるのです.日未子が泣き虫であることの徹底とか.泣き虫ってこんなにいつも泣きそうな顔してるのかと思った.泣き虫が二人に増えたときの手に負えなさもすごい.わたしもう泣かないとか言わない.日未子が日未子であることがしみじみと目指されているように思う.そしてもちろん,傷からの回復を指向するエルナ編を書いたのは神野マサキではない.異世界へ飛ばされるにあたってレダのハートは別段必要じゃない.わけもなく水たまりに落ちるくらいがちょうどいい.ワタルの場合,ヴェネツィアいきたいなー,くらいは思ってたろうけど.

そういや神野マサキで異世界との往還といえばALICE♥ぱれーどがまさにレダのハートですけど,これはプロットを担当したのがPeroなので特殊な場合じゃないでしょうか.

SNOWのことを考え始めると,見た目に反して田舎らしい人々に満ちた花の降る都インブルーリアには雪降る龍神村の面影を感じます.帰ってきたよ,ただいま.おかえりなさい.

しぐれ編,桜花編の楽しい可笑しい彼方さんは望月JETの手によるものでしょうが,他はだいたい神野マサキかなぁと思います.7年がかりのアンサー.JET姉貴も今回,亜泉の小説版を書いてくれてて嬉しかったよ.

メルクリア ~水の都に恋の花束を~ 初回限定プレミアム版

メルクリア ~水の都に恋の花束を~ 初回限定プレミアム版

パメラ好きなんで,パメラには悪いけど気の利いたスチルが用意されてて良かった,良かった.

追走追想

いい歳して黒板に絵を描くのが好きだ.それが黒板なるものであるなら白板であってもいい.黒板なるもの,それは誰のものでもない黒板でなくてはならない.教室の黒板は僕のものじゃない.先生のものでもない.しいていうなら教室のものだ.黒板を制することで,広場に立つように,いやそれよりもっと表明することができるのだ.黒板をきいきいと奏でよ.白板をインクの匂いで満たすんだ.声を上げるな.ダンスみたいに大きく体を動かして描くんだ.口を開けて間抜けな笑顔のまま描くんだ.描き終わったら少し離れて全体を見渡す.さっきまでのパフォーマンスがそこに存在してるのを感じる.どっしりと置かれてる.黒板の置かれた空間に自分の時間が刻み込まれてる.嬉しい.

あまんちゅ!の黒板(2巻,p.136-137)も大変優れている.描いてそれを眺めるところまでが黒板である.そして教室の一番後ろから写真に撮られようとするとき,黒板とは彼らと黒板までの間に広がった空間すべてを指す.天野こずえはたったひとつの見開きで黒板を教室のもてる上限まで描ききってしまった.この絵は世界遺産とするべきだ.

さて,桜野くりむや涼宮ハルヒは黒板をうまく使いこなせてないものと推測されるわけだけど,だからこそ6・3・3で12年,いやそれよりもっとだろう学び舎での暮らしに当たり前のようにある黒板を使えないだなんて,そんな当たり前に不器用な人々のお話.前にも書いたように*1杉崎鍵は白板に書かれることのないくりむの語る言葉を拾い上げてそれを組み立ててゆくんだ.一存のアニメ版第一話と原作一巻の意図するところの差は「メディアの違いを理解せよ」であって*2,それは原作では白板に描かれることのないくりむの始まりの言葉が大きく白板に描かれていたり,横断幕で何かを表現したりするということでもある.オープニングの白板にも賑やかな絵が描かれている.アニメのほうはとかく絵の中に彼らが刻まれている.そこんとこは不器用じゃなくなってる.

ゆゆ式の白板は(2巻,p.100),なにこの唯一神アトン…….天野こずえの文脈においては当たり前かもしれないが,自然に白板へ絵が描けてしまうことのすごさを改めて思い出しておきたい.すごいというか,自然であること,うっかり自然であったことに対する抵抗感というか.白板に絵なんて恥ずかしくて描けないよね! 小学6年生のとき,突発的にどこにでも誰が見てても落描きできた頃があった.それ以来,長らくない.大学の間に年々羞恥心が減って,そしていまやおっさんなのでようやく怖いものなしになった.若い頃のほうが取り返しがつかなかったり失うものが大きいんだよ.ゆかりも20年くらいたってからさ,昔も白板に気後れすることなく絵を描けてたことがあったなとしみじみ思うんだよ.わけもわからずやっていて,たまたま出来ていたものごと.けれどきっとまわりの子たちはみんな判ってやっていたんだ.いろんなことが遅れてきて気づかれる,元がなんであったか判らないけれど今は幼さであると断じるしかできない気持ち,いつも追いつけないでいるという気持ちについて,誰にでもあることかもしれないけれど三月生まれの僕はそれを早生まれの追走と名付けたい.

あまんちゅ!(2) (BLADE COMICS)

あまんちゅ!(2) (BLADE COMICS)

ゆゆ式 (2) (まんがタイムKRコミックス)

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マイマイ新子と直角の魔法

近鉄奈良線からは毎日のように遺構を掘る人たちが見えた.いつもどこかで道路工事が絶えないように,平城宮跡の発掘も終わらないものであるように思えた.学校では小学何年生かの頃に新校舎の建築が始まって,事前発掘が行われるのを見ていた.長方形の大きな柱の跡のようなものがたくさん出てきてこれは大変なことではないかと思ったが,その上に特にどうということもなく校舎は建った.平城宮跡の端っこには昭和50年の雰囲気を残したボウリング場があって,何らかの遺構でもあるだろう田んぼのあぜ道を抜けて歩いて行くのだった.あぜ道はときに子供の自転車にも踏み荒らされた.発見された柱の穴や溝の跡は復元の過程で逆に盛り土となり,モトクロスさながら,しかし自転車を押したり落ちたりしながら進んだ.僕らはそんな風に,四角ばった遺構とともに育った.

当時は平城宮址(へいじょうきゅうし)と呼んだ.いまは址の字が使われず平城宮跡と書くため,へいじょうきゅうせき,あるいはへいじょうきゅうあととしか読めないだろう.ただし,小さい頃の僕に漢字は判らなかったので,ひらがな9つで「へいじょうきゅうし」と発音するのが最も正しい.きゅうし,って何だろう?と思っていた.道路工事と違って平城宮址の発掘は何度も同じところを掘らないから,いつしかその掘る人たちは見えなくなって,代わりにつまらない建物がにょきにょきと復元された.飛鳥ボウルのそば,先のボウリング場は平城京にも関わらず飛鳥ボウルという名であるが,そのそばに東院庭園,南に朱雀門,そしていま,1300年の祭りへ向けて大極殿が建てられている.もう僕の記憶の中にしかない遺構たちは年を追う毎にその直角度を増しているだろう.土のなかから綺麗な直角が出てくることはずっと奇妙に思っていて,10年前に掘ったばかりの穴みたいに見えたのだ.いま建っている門やら大極殿を引っこ抜いてもきっとあまり変わらない穴ぼこが残るだろう.

遺構を透かして見たはるかその向こう側に,1300年前のどんな景色を思い浮かべただろう.いや,そんな景色は見えやしなかった.そこにいまの東院庭園の壁や朱雀門があるようには思えなかった.遺構はもっと土のにおいがして,僕が雨上がりの砂場で固めたり掘ったりして遊んでいたら何か見つけてしまったような,そういう気持ちに近いところにあった.東院庭園や飛鳥ボウルから見て国道24号バイパスを挟んだ向かい側,奈良そごうの事前発掘の折には長屋王の邸宅跡と木簡の出土が話題となったが,その中でも蘇というチーズのような食べ物に関する記述がよく採り上げられていた.当時の食卓の様子を想像しようとしてもうまく出来なかった.せいぜい学研の歴史漫画で読んだような絵として再現されるくらいで,しかしそれはとても違った感じがした.ただ,木簡そのものには親しめる気持ちがした.直角にあいた土の穴に不思議はあって,埋もれかけたおんぼろの木片に何か書いてある.それは,当たりもう一本,だったかも知れない.

想像は土の上,30センチメートルくらいの世界にあった.ちょうどしゃがんで手で触れるような範囲だ.そこに高い壁はなかった.そもそも東院庭園が建つまで平城宮址に高いものは無かった.柱の跡は置き石や低い植木で示され,視線を遮るものはなく,馬鹿みたいに無駄な野原だった.転がるようにして走った.1300年前のことを思ったけれど,それはいまの僕と変わることはなくて,1300年前にもやはり土の上,30センチメートルくらいのところで泥だらけだった.そこには直角に囲まれた雨上がりの砂場があって,建物はなかった.

千年前の周防の国は詳細な歴史絵巻のようだったけれど,あれは諾子の目に映った風景でも新子の風景でも貴伊子の風景でもないだろう.新子が田んぼの風景を千年前へ繋げてゆくときの,一瞬,落書きのような絵が交じる,あれじゃないけどあれがきっと一番近いんだ.断片的で,だけど鮮やかで.喜びだけど,ちょっと焦点がずれると説明できなくなってしまうようなこと.それは土の上,30センチメートルとかの自分の知ってる狭い範囲のことでしかないのだけど,強い気持ちで.貴伊子の本棚には確か小公女があったのだけど,落窪の姫があってもおかしくないと思った.それは新子もそうで,そうした平安の少女の断片の,近くて,鮮やかで,他は曖昧な.そういや諾子も落窪を読んでたそうな.そういう不思議な繋がりとか,あるんだ.

周防の風景が落書きよりもっと詳細であるのは,彼女らの視線であるよりむしろ直角を後の世に伝えるためである.直角は人の手の証であり,水路を形作る.人工の水路はどこかありえない遠い場所から流れてくる,流れてゆく.僕は大きくなって京都で暮らすようになった.京都の人はいまから140年前の遷都から立ち直るために新しい人工の水路を掘り始めた.山ひとつ超えた近江の国から水を引こうというのである.結果,琵琶湖疏水は石造りの水路で目に見えない国からやってくる水を京都へ迎えた.この水の流れは北から南へ流れる市内の自然の川と逆行して北上する.どこかわかんないところからやってきて,ありえない方向へ.それこそ人の手の仕業であって.桜の季節に花びらが流れるのにもどこからやってきたのだろうかと想像させる.周防や防府はそのために描かれた.直角に満ちた人の手の跡は想像の原資であり,映像では描くことのできない諾子や新子,貴伊子,そして僕の視線へとどこかで繋がってゆく.

「マイマイ新子と千年の魔法」を舞台挨拶の回で見てきました.以上がその感想めいた何かでした.

生徒会の繰り言

小説1巻については,自分たちがなにものであるのか,自分たちが知ってること,やってることの,その真実みたいなものへ向かって,重ねて引用したり語り直してみずにはいられない感じが若々しくて好みです.おかげでね,あの頃おれたちもやったよなぁ,ともやもや思い出せるようなことを,今になってようやく言語化できたんだ.彼らのこの議事録を書くともいうべき小説の語り方をアニメで真似するとすればドキュメントアニメを撮ることになっちゃうので,それはどうにか工夫しなきゃならんとこですね.メディアの違いを理解せよ,という議題はそりゃそうであるが,ここでは改めて言わずにはおれぬ話だ.1巻に出てこない顧問の先生もあえて出してまで口を酸っぱくしてね.

もちろんドラマCDだとしても小説と同じにはできない.自らについて評価をくだすときの,その浅はかな様子すらも愛おしいよ.

それはそうとして,アニメの第1話で杉崎鍵がやたら桜野くりむにちょっかいを出す点こそ小説と同じといっていい.くりむ可愛いよくりむ.冒頭,PCの前に座ってる杉崎と立ってるくりむを横から撮ったショットが素敵です.そうやってようやく背丈がおんなじなのさ.

こよみディテクティブ

僕の探偵に関する知識はまったく偏っていて,だいたいは京都の人々であって,第一には「二の悲劇」の法月綸太郎,次に「夏と冬の奏鳴曲」のうゆーさん,それでもって「クビキリサイクル」のいーちゃんが続く.探偵というか後ろの二人は語り手だけど,きっと似たようなものだろうよ.*1,*2

探偵は当事者の事情に対して外からやってくる,あるいは後からやってくるものである.それで京都に住む探偵にとって当事者とはいつも女の子であって,探偵は女の子の周りで起こっている事態について間違っていたり,たどり着けなかったりして,やりきれない気持ちを抱えるか,あるいは記憶があいまいになって気持ちを抱えることすら許されないか.京都の探偵小説って恋愛小説のようで,だけど,可憐な彼女たちに対してどうしてこうもやりきれないことになるのかと思い始めていたところ,いーちゃんは,玖渚にたどり着いてくれた.玖渚友が命を落とさなかったこと,クビキリサイクルでいーちゃんが玖渚友までたどり着けたことは,すごく大事なことだと思ってる.僕にとって西尾維新とは男の子が女の子のところまでたどり着ける作家だった.

ところでいま,くびきリサイクル,という題を思いつきました.つまりは化物語のはなし.男の子が女の子のところまでたどり着けるお話が満載で幸せ.

阿良々木くんが事態に対して遅れてしまったこと,手が届かなかったことを悔やむのは化物語全体を通して続くことで,彼はそのために,女の子のために奔走する.忍のこと.ひたぎの所作や過去について誤解していたことのいちいちの振り返り.だけど,彼は最終的には女の子に追いついている.追いつくことのできる仕掛け,武術における特殊な歩行法みたいな,瞬間,距離が詰められているみたいな,これは女の子との距離についてのトリックのお話だ.つばさキャットで阿良々木くんが町中を駆け回ったあげく忍が隠れていた場所はその最たるものであるが,いや,これ,普通に恋愛小説って言っていいのだけど,探偵小説を経由してしか恋愛を語れない不器用な京都人たちの,最後のランナーが阿良々木くんなのかな.アニメ版はこういう面倒な経由地をもたず,阿良々木くんがひたぎの所作や過去についての勘違いに悔やんだりしない,もっとストレートな恋物語になっている.

なお,走るとか追いつくとかいう言い回しについてはこちらを参照のこと.ttp://d.hatena.ne.jp/imaki/20051001#p2

あと,月に兎がいること,海があることへの阿良々木くんのこだわりかたが気に入っています.以下,ひたぎクラブより,

「・・・(前略)・・・なんで月に兎がいるか,知ってるか?」

「月に兎はいないわ.阿良々木くん,高校生にもなってそんなことを信じているの?」

「いるとして,だ」

あれ,いるとして,じゃないか?

いたとしたら?

何か違うな…….

いるとして,ではしっくりこないのである.月に兎はいるとしか思えないのだ.みたまんま.このひとの文脈がよほど整理されてる様子は,まよいマイマイにも出てくる.

「一周して,メタ的な悩みになっているわけね.鶏が先かひよこが先か,みたいな感じだわ」

「それはひよこが先だろう」

観念的な操作とかメタとかない.みたまんま,ひよこが先だろう,である.阿良々木くんに惚れる! この阿良々木くんであればこそ蟹は見えないのであるし,蟹という文脈にまみれた戦場ヶ原にとっては外からやってきた異星人の恋人だったろう.「姑獲鳥の夏」で言うところの榎木津.ただし,阿良々木くんはこのあと八九寺と出会ってから,戦場ヶ原や関口くんみたいに文脈にまみれてものを見ることになる.二十箇月もの間子供を身籠っていることができると思うかい.

近い遠いじゃないんだよ.見える,見えないで化けて出てくるゼロ距離恋愛小説.

大好きだわ.

化物語(上) (講談社BOX)

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化物語(下) (講談社BOX)

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化物語 第一巻 / ひたぎクラブ【完全生産限定版】 [Blu-ray]

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小説の「化物語」読んで,その後でアニメ1巻を見た感想ですよ.

*1:ttp://imaki.hp.infoseek.co.jp/r0210.shtml#12

*2:ttp://imaki.hp.infoseek.co.jp/old/g9911.html#28

生徒会の一言

なにか話す,だべるってことの,はじめるときは,ゼロから1へのジャンプでさ.人と人がそこにいるとき,どうやって,なにを,話しはじめるんだろうね,まったく.

適当になにかを言やぁうまくやりとりが回りはじめるというものでなし,なんだろ,その話しはじめることに対する自信が,敏感に伝わるじゃない.空気みたいに言葉をいえる人に惹かれる.僕が思う部長の資質はそれ.僕もかつては部長だったんだけどな.ぼんやりで,目から鼻へまるで抜けてかないことも自信の源になりえてさ,あのころはそういうのが良かったのだと思うよ.まじいつも鼻すすってたし.来るものは拒まないというよりも,拒むほどなにか考えてない.ただそのままに,毎週,三畳もないような歴史部室に集ってだべっていたのだ.

大学のサークルでの僕が会長を代行することになったときの自信は技術的なところに根ざしてた.いまではちょっとそういうとこもないので,話しはじめることに自信がない.それでも仕方がないのでいつもなにかを言ってる.

さっきびっくりしたのはゆゆ式を読み返していて,ゆかりが部長で,ゆかりが毎回のテーマを気まぐれで出してるってのに今さら気づいて.これ,まとめの板書がゆずこなもんだからさ,ネタ出しもゆずこだと思っていたのだわ.ゆずこは書記か.そもそもこの部に部長という役職があったのか.僕のなかでゆかりとゆずこはほどよく交ざってたのだけど,ゆずこだけが締められるあたり(p.81右上)違うんだよな.部長というのは僕にとってゆかりがぼんやりであることを確かなものにします.空気みたいになにかを喋ってくれる,ちいさな神様みたいなひとだ.

桜野くりむという生徒会長,というかつまり部長であるが,ぼんやり気味な彼女が自信ありげに何か議題を言うことによっていつもはじまってる部活のおはなし.それに尽きる.実のところ筋道と理屈の人である杉崎鍵にとってみりゃあ,そりゃ神様みたいなひとだと思うよ.くりむ本人が自分をどう思ってるかは知らない.僕が神様っていうときは,例の古典に言う「神様みたいないい子でした」というやりきれなさもあるのだけどね.

杉崎鍵はひととおり言語化する人だけど小説も妙にうまくて,くりむの魅力は明らかな言葉で説明されるのに加えて彼の小説の構成にも現れている.章のはじめに必ずくりむの一言を置くというところが杉崎鍵の心のありかだ.そうでなくてはなにもかもがはじまらないのだから.自分のこと,自分の過去に言及するという,そんな自分たちの部活動のことをさらに文章にしようっていう語りたがりな僕らの情熱だけじゃなくて,そういう杉崎鍵の小説の才能が好ましい.口でも言ってるがどんなけあんたはくりむのこと好きなんだ.

生徒会の女の子たちによると杉崎鍵こそが部活の大黒柱ということだけど,僕はどちらかといえば杉崎鍵による見方のほうを採りたい.

七夕の夜.君に逢いたい

小さい頃は幼稚園やら地域のなにかやらで笹の葉を飾ったものだったけど,七夕の夜に何をお願いしたかは覚えてない.クリスマスのお願いだったら幾つか覚えていて,たぶん,願いがおもちゃになって叶うから.たとえばヘビみたいな形のルービックキューブ(キューブじゃないよなあ),鉄でできた竹馬(竹じゃないよなあ).七夕の願いは手元に残らない.叶わない.クリスマスっていうのはすごいものだね.

あるときのクリスマスプレゼントは野球盤だった.ごひいきの西武がなくてクラウンライターという名前だった.父からはクラウンが西武なんだと教わったけれど,その意味は長らくよく判らなかった.球団名というのは不意に変わるものなのだと漠然と感じていた.そもそも西武が所沢の球団ということもよく判ってなかったと思う.西武の試合は大阪球場で観るものだったから,所沢というのはどこかかけはなれたお話だった.それに,野球盤の向こうに大阪球場を透かしてみることはなかったし,大阪球場の向こうに所沢の西武球場を想像したこともなかった.それはぜんぶ切り離されていた.大きなもの,向こうがわにあるものを想像するのは詩的なことで,僕は詩的な子供ではなかった.ぼんやりで,だけど簡単な子供時代で良かったさ.僕はそんな風だったから,涼宮ハルヒが小学生のころに野球場の5万人から1億数千万人を想像してしまったというのはそうした詩情のほとばしりで,もうそこから彼女,ぼんやりではいられなくなったのだなと思わずにいられない.

キョンという人は,会って一週間ばかりでそのへんに勘づいてる.校庭落書き事件の概要を聞いただけで,キョンはそのときハルヒがどんな風にラインカーを用意したかとかどんな顔してたかとか細々と想像するんだ.それはどこか思い詰めた悲壮感に溢れていたんじゃないかってさ.それが「涼宮ハルヒの憂鬱」の冒頭で僕らが知ることのできる,ハルヒと出会ったばかりのキョンのひとだ.ユー,結婚しちゃいなよ.

後に掲載された「笹の葉ラプソディ」はこのときキョンが想像したハルヒの姿をそのまま引き伸ばしたものである.だから,作中での時間の流れがどうであろうが,それは既にキョンとともに僕が引き受けていたハルヒの悲壮感を,あらためて一編のお話として追いかけることだ.キョンが過去にハルヒと会っていたかどうかはあまり問題じゃなくて,僕が高校生のハルヒと出会って,彼女の悲壮感を漏れ知って,それをお話として引き伸ばして想像してしまう.その順序のほうが大事だ.

そうだよ,想像はしてしまうものであって,因果は関係ない.

笹の葉ラプソディの前半が好きなんですよ.このむすめ,いつもシャーペンとかで背中を攻撃してくるんだよっていう,背後をとられてる存在感.ヤブ蚊に刺されて服のなか掻いてもらってる様子も血色豊かでさ.そういう彼女がいるっていう気配,肉の重さや脂肪分みたいなとこと,16光年,25光年先への想像とが繋がってて,どちらからも手をはなすことが出来なくって引き裂かれてるところが「憂鬱」以来の魅力であると思います.

涼宮ハルヒの退屈 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの退屈 (角川スニーカー文庫)

連載当時はベガやアルタイルに向けて笹の葉を飾るっていうのが楽しそうで,だけどなんでみんな楽しそうじゃないんだって切なくなってた.店頭で笹の葉ラプソディをアニメにしたのが流れてるのを見かけて,また切なくなって,だけど読み直してみようと思って文庫にまとめられていたのを買った,そのあと憂鬱をつばさ文庫版で読み直した.せっかくだからアニメ版の笹の葉も見てみたら,前半のやりとりが省略されていて残念だった.どちらかといえば後半のハルヒと別れた後の話のほうがあんまりいらないと思うのだ.

Day after p17n

何度朝を迎えても次の一日がはじまり

何度夜を迎えても楽しい語らいが繰り返され

何もしなければ、永久に楽しい明日が続いていく

流されるだけでは、あさっては来ない 

p17n++

(参考)