呉さんて代表作は水夏になるのか.やってないので思い至らんかった.
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伝法な語りっぷりも良いが,そうでなくとも技の百貨店みたいな文章だった.前後の繋いでゆくとことか,普通でない出来事の取り扱いとか.文章というのは別に上手くなくたって良いのであまりそうした感想はもたないのだけど,こんなけ積み上げたらさすがに蔵とか建ちそうである.順当に人気あるわなぁ.
日本では毎年のようにやってるにせよ
これはすごいな.
http://www.tbs.co.jp/vermeer/
むかし模写したぶどう酒のグラスでなかったのは残念にせよ.
おねティ#13
うふふ.ほほほ.素敵ね.
しかしみなさんここまでいちゃいちゃやられると,苺さんのほうに情が移るよな.
竜潭譚のこと
どっかから反応があるとは思ってなかったので驚いた,とだけ.
いくのん,とまた呼ぶことにしている.
http://homepage2.nifty.com/~undine/08/dwl07.html#7
絵のなかに任意のフォント文字を埋め込むのってなかなか綺麗にゆかんので,センスある人がやったんだろうなと思った.
D.C.A.S.
さくらさん若いよ.あと音夢っちのいない朝倉家はちょい寂しい.
アニメで知られているような猫っぽい所作の頼子さんはA.S.収録話*1がゲーム初登場である.というのも,ゲームのほうでは猫耳メイド服の少女は美咲さんだったということで当事者たちはいちおう了解している.
美咲の見上げる視線を追うと,そこにはねこの頼子さんが塀の上を歩いていた.
不意に深い一行であった.美咲は頼子と呼ぶので,頼子さんというのはまずは猫耳メイド服の少女を指すことになる.純一的にはメイド服でないにゃんこを「ねこの頼子さん」と呼ぶことにしているわけだけど,頼子さんというのはそのまま美咲であったので,純一としては名前の上で厳密に分けようという感じではない.
今の頼子さんは美咲のうちで,飼いねこ頼子として,のほほんと暮らしている.
今の頼子さんは美咲である,が,そこはあえて交ざったままに.出会った頃ずっと頼子さんて呼んでたことの,名前への愛着であるなぁ.
ところでアイシアが恋愛指南お姉さんとなっている.「ねぇ,そこの学生さん」で,呼ばれた純一のほうが丁寧語になっちゃってるから年上の雰囲気だ.クリスマスっぽい奇跡がわざわざクリスマスよりも早い時期に顕れるてのは,早すぎるクリスマスケーキを売ってたこのひとのサンタマジックなのだろうな.
*1:もとはW.S.か
フィリパ・ピアス「真夜中のパーティー」
短編集,表題作.真夜中のリビングに子供たちだけの時間が偶然生まれる.しかしその夜のパーティー自体は子供たちが知らず巻き込まれている感じの不思議さを帯びない.それは巻き込まれるというよりも自覚的な余興として,上の姉弟らは小さな末っ子ウィルソンに不思議な景色を演じて見せる.余興ってのはウィルソンが朝になってから母親に夢みたいな出来事を語ったとき,それを母親が信じるかどうかを見るっていうね.ウィルソンだけはおミソなので作り物の夢に巻き込まれてる.彼はまだ小さいから他の姉弟とよりも両親と同じ時間のほうを生きているのだろう.
真夜中の時間とその前後にある父と母の眠り始めた夜,ふたりの目覚める朝とを繋ぐちょっとだけいつも通りでない手がかりがよい.チャーリーが自分の耳の中にハエが入ったと思って,眠る両親のところへ訴えにいったことをきっかけに真夜中のパーティーは始まる.あれ,入ったような気持ちになるんだよなぁ,もぞもぞと.そして,無理矢理起こされたウィルソンはパーティーでは半分眠って夢見たようになっていて,朝,寝過ごしている姉弟をよそに自分だけは起きて父母と朝食をともにする.チャーリーの胸にいっとき迫った不安とウィルソンの夢,そんな小さくてもやもやとした気持ちが,真夜中の時間があった手がかりとして残される.
2000年に書かれた訳者あとがきによると,1999年のクリスマス頃のフィリパ・ピアスはおばあちゃん業に忙しかったという.80歳近くのことである.「トムは真夜中の庭で」が40歳前の作品で,ついに正真正銘のおばあちゃんになられたのだなぁ,と思っていたら,2006年のクリスマス前にお亡くなりになっていた.勝手な想像であるが,どこかまだ不思議な時間の中に暮らしておられるような気がしてならない.
- 作者: フィリパ・ピアス,Philippa Pearce,猪熊葉子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2000/06/16
- メディア: 単行本
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キラッ!
http://www.macrossf.com/movie/movie.html
これ作詞が松本隆なんで,つまり早見優の「誘惑光線・クラッ!」のセンスですにゃ.
ランカ・リー可愛いなぁ.地上波なんで見てなかったんだけど,BDで追いかけようかしら.
長崎俊一「西の魔女が死んだ」
京都シネマ.余裕だろうとのんびりしてたら予想外の満員御礼,立ち見有り.17:10の回まで四条をぶらぶらして待った.
ここのおばあちゃんはまいと話すとき,まいのことぺたぺた触りながらやる.映画ではおさげを交互に引っ張りながら話すのが好みだ.
内容は小説に忠実にみえて,取捨で別の方向へスライドさせてますよ.たばこ,にやり笑い,魔女談義,の三点.
おばあちゃんは孫の前でたばこプカプカやる不良なんだけど,これを大幅カット.あと「にやり」とする魔女笑いもなくなっている,ように見えた.この人の境遇やらはみ出したワルっぷりは芳乃さくらと朝倉純一の祖母に近いのだけど,そういう感じではなくなっている.
自分で見ようともしないのに何かが見えること.妄想と想像の違い,というのはこの人が何度も言い聞かせることなんだけど,これもカット.たぶんこれ,文章で読むと面白いんだけど映画のなかで言葉にすると理が勝ちすぎるんだろう.結果として,鶏小屋が荒らされた後にマイ・サンクチュアリ*1で吹く嵐の意味も変わってくる.梨木香歩のほうでは自分で望まないのに勝手に拾いとってしまう,解釈してしまう薄暗いもの.長崎俊一のほうは理屈の具体化されない風雨で,しかし郵便屋さんという人間が助けてくれる類のもの.
不良なおばあちゃんでエッジを立てたり言葉に依ったりする代わりに郵便屋さんを足して,関わる人間の数の多い,しっとりとした映画にしている.だから,終盤が大きく変わる.
「でも,おばあちゃんだって,わたしの言った言葉に動揺して反応したね」
おばあちゃんはにやりと笑って片目をつぶった.
「そういうこともあります」
梨木香歩のほうは言葉のやりとりが多くて,そういうこともあるだろうと先回りして断っているからここでもそう切り返している.もちろん,ここでにやりと笑う.長崎俊一のほうはにやりと笑わないし切り返さず無言になる.このあと初めてたばこを吸う様子が,むしろおばあちゃんのやるせなさであるのかな,そういう感じで一度だけ登場する.おばあちゃんがまいの言葉に応えられなかったことで,あのとき酷いことを言ってしまったというまいの後悔はより重くのしかかっている.銀龍草*2の話がないのもここでふたりのやりとりを断つため.
ママの「この人はこういう死に方をする」という言葉の有無でおばあちゃんの違いはまとめられる.梨木版は有りで,ママを普通でない気持ちにさせる魔女みたいな死.長崎版は無しで,おばあちゃんみたいなおかあさんみたいな死.
それで,ガラスに残されてた言葉が帯びる,やんちゃさの程度も違ってくる.梨木版は泣き笑いだが,長崎版は切ない.
19:15,上映終了後,ロビーに人が多いのでまだ何かやってるのかとラインナップを眺めたら,19:00からは滝の白糸(生演奏付き)本日限定とあって悔しかった.ひとつ早い回で見れてたらこちらにも間に合ったのだが.
そんなに好きな映画でもないけど劇場で演奏付きというのは機会なさそうだからね.
鏡花物も映画化されると人間が増えたり生々しくなったりする方に振れるのだ.それで映画化とはこういうものなのかと思っている.