alpha centauri, omega century 2004年2月

幾光年の断絶の果てに.


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 タイムマシンにお願い.

(2004/2/8)

 真っ白けでわからーん(笑)

でも,最後まで愛とともにアチャすけと呼べそうなことだけは判った.

(2004/2/4)

 機を逃していたので,書淫について僕が好きで水姫も何らかの形で気にはするだろうと思ってたけど挙げてなかったので,あれれ,と思ったこと.

書淫にはプレイヤーのメモ取り支援があって,本文を引用して自分のメモを記入することがゲームシステム上で出来る.ただし,つまりはエディタであるから僕流にカスタマイズできないのが辛くて,結局は紙にメモを取った.だけど,プレイヤーのメモをシステム的にサポートすることによって,プレイヤーの気持ちを話の行われている場所へ迎え入れようとする態度が感じられて好きだ.ゲームはディスプレイでメモは手元にあるというのは分裂していて,僕の理想としてはゲーム画面に直接ペンで文字を書き込めるようなのがいい.

あと,hakoniwaを思い出した.見てなかったらここのサイトはぜひ.

(2004/2/3)

 コンテンツとはもともと閉じたものであって,インタラクティブ性を与えることにより利用者の体験として開いていったとしても,未だ開かれた部分よりもコンテンツとしてのまとまりの方が大きい.だからインタラクティブコンテンツなんていう呼ばれ方をする.利用者に対して完全に開かれたコンテンツとはそれはもう人間であるといっても過言ではあるまい.

では,人間そのものではないが人間を背景に持つROがどれほどコンテンツ的であるかというと,RPGというコンテンツからストーリーを抜いて残る程度にはコンテンツ的だ.RPGというものがそもそもどういうコンテンツだったかということについては,それが全てではないがROをやってみてようやく判った部分がある.現在のキャラクターの状態と自分の技量に合わせて,キャラクターの人生設計上最適な場所と相手を選んで経験値と金を稼ぐ方法が,ただそれを考えているだけで面白い.しかも,セーブして後戻りが出来ないため,シミュレータを前にしてそれだけで1時間はすぐに過ぎてゆく.世界が複雑すぎて最適解が求まらない.各職のスレを眺めていると,若いプレイヤーの質問に対して先輩のアドヴァイスがあれやこれやと飛び交い,難儀な質問者に対しては「効率よりもあなたが満足のゆくように育てるのが大切」とオチがつくくらい,まるで進路相談か就職相談室のような様相を帯びている.

ROがコンテンツ的でない部分について考えると,どうにも小学校や中学校の頃のことが思い出される.あの頃はゲームというのがほんとに生活に溶け込んでいて,学校でも休み時間にはゲームの話をすることが多かった.ゲームの話というとRPGに関して言えばおよそ育て方の話で,極端な構成のパーティや極端なステータスなんていうのは当時からあった話であるし,早解きや低レベル解きというのもあった.それどころか,あいつは素早さは高いが器用さは少ないとか,じゃれあいながら「何ポイントのダメージ」だとか,日常の物事を説明するのにRPG的な言葉がえらく使われたものだ.ROで別のプレイヤーと話をすると,日常生活のことかROの話になる.RPGの話を生活と交ぜて素で出来る空間というのが懐かしいと思った.割といい年こいた人たちがやってるので,結構,童心に返ってるのではないか.ゲーム内で行われる各種ユーザ主催イベントにしても,単にコミュニケーションが楽しいというわけではなく,そこにRPGがあって,RPGについて話をしたりRPGを道具としたパフォーマンスの出来ることが楽しいのである.インタラクティブ「コンテンツ」のさいはてはこのあたりにあって,この先は単なるコミュニケーションツールだかナンパツールになってしまうと思う.

(2004/2/3)

 インタラクティブ性という言葉は体験という言葉と結び付けられることが多い.ゲーム内で操作可能な要素が増えるほど,どんな操作をすることによってゲームを体験したか,つまり自分らしいやり方に依存して理解した部分が強調される.ただしゲーム体験を語るには単に操作の手順だけでは十分でない.

コンテンツ(ゲーム,映画,小説)の体験される環境は多様であり,テレビの大きさだけとってみても僕みたいに14型の小さなテレビの人もいれば,家族用の大きなワイドテレビの人もいる.画面との距離の取り方も様々だ.多くの人はテレビをPCのディスプレイほど自分の近くには置かない.そうすると同じゲームでもPC版とコンシューマ版ではプレイヤーと画面との距離が異なっている.自ずと印象も異なる.僕の感覚だと,画面の中の女の子の顔を見つめてどきどきする分には,ディスプレイの距離のほうがいい.テレビだと僕が女の子のことをちょっといい感じに思う都度,テレビの方へいちいち体を近づけることになる.これは悪いことばかりではなくて,僕の女の子に対する好感度に応じて僕とテレビとの距離を変えることが出来る.美少女ゲームは特殊な例かも知れないのでゲーム以外の例を挙げると,映画はビデオよりも大画面であるので迫力があるとよく言われる.しかしビデオはビデオで良いところがあって,自分好みのソファーで鑑賞することが出来たり好きな人と話をしながら見ることが出来る.本ならば文庫本はいつどこで読むのも自由であるし,逆に大きな本ならやっぱり二人で読むことも出来る.一般的にコンテンツ体験は,いつどこでだれとどうやって視聴したかという部分にずいぶん影響を受けている.今日読んだ話がたまたま昨日起こったことに似ていると興味が高まる.昼間にエロゲーをしてもあまりしっくりこない.入院していた時に読んだ本は忘れられない.映像はともかく美少女ゲームを友達と一緒にプレイすることがどこまで一般的かは知らないが(僕の周りでは普通にある),二人で一つの話をあれこれ考えながら追いかけたことはどれも思い出深い.

コンテンツのインタラクティブ性とは「どうやって」体験することが出来るかであるが,そこには,いつどこでだれと,という背景が伴う.マインスィーパやソリティアのようなパズルを集中してプレイするような状況ではあたかも自分の全身が計算機であるかのように「どうやって」解くかだけがあるかも知れないが,フィクションを相手にするときはマウスクリックする参与者としての自分がもっと残っていて,今日がいつで今どこにいて今日は何をして明日は何をする予定で,それを強くは意識しないにしても,クリックすることは今ここにいる自分との繋がりを持って感じ取られ,記憶をあやなしてゆく.

フィクションにおけるインタラクティブ性は多かれ少なかれフィクションとプレイヤーの生とをインタラクションさせるために導入されている.顕著な例は経験値稼ぎであって,あれはフィクションへ捧げたプレイヤーの生活時間をフィクション内の数字として刻んでゆくものだ.ハイスコアという瞬間最大風速でなく,時間の流れを直接刻むことがRPGの発明である.多かれ少なかれというと当たり前ではあるが,ここでわざわざ言うのは,フィクションに対する感想文を見るにつけ,そのインタラクションの過程が描かれることはめったにないからで,結果だけではなくいつだれがどういうことをやっていてそのなかでフィクションがどう受け取られていったのかというような話を僕はもっと聞きたい.

(2004/2/3)

 アチャすけとな.それでいいことを思いついたのであるが,僕が凛(マジシャン⇒セージ)やるんで,アーチャーみたいな格好いい男の子はアーチャーやって僕と結婚してください(未実装).しかしどちらも基本的には後衛職なので困る.アーチャーのあの多芸ぶりは実はスイッチローグに近い.魔術師と弓手と遠距離系二人では相性が悪そうであるが,上手く出来ているものだ.

最近結婚結婚と言ってる気がしますが,やっぱあれですか.周りの同僚さんたちがこの春やたら結婚するからですか.春ですねぇ.

Fateは買ってません.凛とアーチャーのカップルの行く末が判るまでは怖くて買えないのです.買ってないもんだから,セイバーのブレストプレートを剥がすと実は機械の体で,戦闘毎に士郎君が分解修理とかそういう助平な想像ばかりしています.スパナの似合う少年が主人公というのは実に良い.

(2004/2/1)


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alpha centauri, omega century 1月(2004/1/1 - 2004/1/30)
 「君の嘘、伝説の君」,vision,「HAPPY★LESSON」(森真之介)

alpha centauri, omega century 12月(2003/11/24 - 2003/12/31)
 嵐が丘,ONE2.

alpha centauri, omega century 11月(2003/11/2 - 2003/12/11)
 未来にキスを.

ウラニワ(1996 - 2003)


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曽我 十郎