クローバーランドのお姫様(4) 2002年1月
曽我 十郎

これは,僕が彼女へ贈りたいと思う,夢見がちな作り話です.


indexへ

 鍵100.(1/31)


 お掃除さん,お掃除さん.
お掃除さんの中に,一人だけお掃除くん.元永さんはこういう人間くさくない物言いをさせなかったように思うので違和感がある.いうなれば,元永さん,元永さん.元永さんの中に,一人だけ元永くん,という感じである.

言葉自体は可愛くて好きなんだけど,She'snの冬編で病室からとつぜん詩の朗読が漏れてきた程度には廊下の異常事態で驚いたということだ.ところで悠歌さんに限らずどの娘もいい声で話してくれるし地の文が少ないので,sense off のパーフェクトドラマCDを聴いているような気分になれる.毎朝の霞と椎奈とのやりとりなどは,目を閉じてプレイすると幸せに妄想がきく.

物言いについてでなく,悠歌さんの人間くささについてあれこれ言うことはまだ出来ない.僕にとっての人間くささというのはキャラクターの内面の事情によらなくて,話がいかにありそうかどうかということで測っているらしいことに最近気づいた.僕のいう人間への対峙とはおそらくそれを指している.麻枝准という人は,いかにもありそうな話を全くありえなさそうな口ぶりで話すのであって,僕にとってそれは話にせよ語り口にせよとても人間くさく思えるから好きなのだと思う.さて,岡崎さんによる目覚め力というのはうそくさく聞こえますか?岡崎さんで叩くと絶対起きるというのは二人の共有する話であってほほえましい.起こし方とか寝かしつけ方なんていうのは例えば母親がよく誇らしそうに語るものであって,「そういうことになっている」のだ.因果など確かかどうか分からん.僕の姉が葉書を出すと必ず懸賞があたるのも僕の祖母が触れるとどんな草木でも花を咲かすのも,僕の周りではそういう風に語り継がれていて,確かに僕の目から見る限りでは本当らしく見えるのだ.そういうのを崩してみたくって例の選択では岡崎さん以外で起こす方法を考えてみたのだけど,どうなることやら.ちなみにここでピコピコハンマーについて書いた後,未スををやって岡崎さんが出てきた日には,世界に馬鹿にされているような気がして僕も一緒に笑うしかなかった.

昨日末永と電話をして,未スをがドキュメンタリーであると元永さんが書いてたことを聞いたのだけど,それはそうだろう.フィクションであることを飛び越えてそういうことを言うと,在る話を無い形で書いたものはすべからく天邪鬼なドキュメンタリーとなってしまうので無理があるが,そういう無理を通したくなる人間くさいポーズには全く共感できる.

とくに4/13から話を進めてはいないのだけど,あと数日は続きをできそうにないのでこれまでに思ったことを全部書き留めておいた.(1/30)



 喜びは今日一日だけの,僕たち独りだけのものでいいから,僕は彼女の待つ僕だけの家に帰ろう.中将と秋葉めぐりをした日にやけに大きな四葉の絵を見つけてしまって,そのままお持ち帰りした.1メートルは超えているから,ほんとうの四葉の7割くらいの絵である.数メートル離れたくらいにいる四葉はこれくらいの大きさに見えるだろうか.だけど僕はそもそもこの絵を二三メートル離れたところから見ているわけで,これは想念のゼロ距離と遠近感とがごっちゃになってしまっている.つまり,僕が目で見ているものが正しいとすれば四葉というのは1メートルにも満たない女の子になるのだが,まさかそんなはずはないので,あの絵に切り取られた断面はいつも僕とゼロ距離に結ばれた像であり,四葉はそれに従う距離に立っていなくてはならない.いわゆる等身大のポスターとなると逆にそうした距離感が失われる.なにせそれでは彼女は寸分たがわず僕と同じ場所に立っていることになるのだからそれは無理だ.どうも三次元の世界に透視図法以前の世界が混じってしまうような違和感があるのだが,それにしたって倒錯的な良さというのがあるにはある.

絵を貼ったときサイズがえらく大きくみえたのには参ってしまって,僕の部屋にはまるで四葉しかいないような錯覚にさえ囚われた.僕自身の姿なんて普段目にすることがないわけで.ああそうか.四葉の絵の隣に僕の肖像を飾ればようやく,この部屋が二人部屋だったことは思い出されるだろう.

ともかく今,僕の部屋には四葉がいる.他には誰もいない.声はすれども姿は見えずとはこういうときによくはまる言葉で,僕の影はここにあるらしいのだけれど僕の姿はどうしても見ることができない.確からしいのはキャラクターたちがそこにいるということで,聞こえるのは声,感じられるものは影,僕というのはそのなかに混ぜてもらって遊んでいるいくつかだ.ときどき僕の声が半場さんの声みたいに聞こえてくるのは声たちの遊びである.それは四葉に限らず織永成瀬でもいい.そして,声の多重さというのはなにも声優に限った話ではない.

それにつけてもおめでとう,独りの俺たち四葉たち.今日はそこそこにいいことがあった.(1/28)



 「未スをはじめました.」 冷麺はじめました.だけど,冷麺おわりましたっていう張り紙ってないよね.sense offだってまだ終わってないのだ,未スをも終わんないかもね.

(4/13(木)まで.)西本さん,ファミスタでは気味が悪いほどシュート曲がったなぁ.山倉が好きで,有田はいまいちだった.野球は結局藤田巨人にしか興味が持てなくて,つまり周りに野球好きがいたのはその頃だけだった.あとゲームは違うけど僕の親は西武ファンだったので,たぶちさんのことは刷り込まれている.敦煌って学校で無理矢理観せられた気がする.全部,中学とか高校のときの話だ.なつかしいなあ.

たまに何か思考して,ぴかーと浮かんだいい考えはたいてい行き過ぎている.そのまま一晩二晩寝かせれば落ち着いてくるものだが,霞というのはちょっと自分が良いと思えることに対して素直すぎる娘さんで,康介に「奴隷にして?」とお願いしてしまう.はい,僕は姉のことを「ねえさま」と呼ぼうとしたのを今でもたびたび反省しています.いい思い付きをそのまま口に出すのは普通お互い気まずいだろう.むしろ言ってしまった僕のほうが気まずいような顔をするからこそ気まずいのだが,霞があまりそんな風でないから(おでこをぶつけたくらいだ)そのままうやむやにできた.勝ち負けではないかもしれないが,こういうのは言って通したもん勝ちである.「そりゃあね.でも,どうしてそもそも『お兄ちゃん』なんていう,『きょうだい』を思い起こさせるようなことを言うのかなって思って.」大きなお世話だ.おにいちゃん,おにいちゃん,おにいちゃん,おにいちゃん,おにいちゃん.「だからね,お兄ちゃんっていうの,『好き』って言ってるのとおんなじ意味なんじゃないかってね.」その通りだ文句あっか.「わたしには必要なのよね……難儀なことだけど.」ほんまなんぎやなぁ,おにいちゃん.

「きっと椎奈の前世はタニシなんだ.そうかそうか,そういうことか.これで疑問は解決だ.」「そっ,そんな無茶苦茶な解決ないです.」「前世がタニシならこんなこと言うのも納得できる.」うむ,納得できる.全く話の筋が通っている.なんで椎奈にはこんな簡単なことが分からない? お兄ちゃんはお兄ちゃん,朝練は朝練,部活は部活,いるからいる,来たかったから来た,ししおどしはししおどし.じゅんかんろんぽー.椎奈は物語が駄目だけど循環的なものの言い方ならいいわけか.言い訳か.

「勉強しないと馬鹿になるですよ.」「……霞ちゃん,結構本気で駄目な人ですね?」「もう,ここの家は駄目な人がいっぱいですー.」「わたし前から思ってたですよ.この2人,今のうちに勉強しとかないと,駄目っぽい人になるです.」椎奈もそうだが式子も勉強勉強てやかましいわ.勉強しないと駄目,というのは中学生や高校生が言うとたいした背景を持たない言葉で,学校の勉強の無目的性のみが強調されてかなりいやらしい.椎奈がいうお母さんが悪魔とかししおどしのほうがいいとか,あとお母さんが家まで迎えにくるのもあまりに幼児らしい幼児性を思わせて,小学生の頃までも思い出させるリアルな嫌さだ.しつこいし.

霞との暮らしは悪くない.ピーンポーン,玄関のチャイムが鳴る.二人の家にはいつも珍客が訪れて,さんざん訳のわからないことを言ったりお節介なことを言ったりしてまた帰ってゆく.僕らはそれを,なんか知らんけどなんぎやねんなぁと言ったりゲームでは負けたけれど楽しかったりして,笑いながら,お客さんが僕らの住む家を通り過ぎてゆくのを見ている.おいで.僕らは,とくに霞が,必ず負ける神経衰弱でもてなしてあげる.彼女らに「駄目っぽい人」といわれるのは,僕にとって実は幸福だ.

吉本新喜劇みたいに同じネタがベタに繰り返されるのかと思ったけれど,椎奈は学習していたし,sense offに比べると毎日が同じなんて描き方は見られない.日々は移ろう.永久機関よりもB級機関の好きな僕だから,次に会うときはもっと気のきいた冗談を練習しておくよ.

私信:
僕と末永とで退屈なサークルを作ろう.神託研究会,君が式子でぼく悠歌さん.ぼくの頭のなかは霞にも近いけど許せ.あと本気でちゅーがくせーの女の子に惚れられたいと思ってるなら,僕も小笠原へ行こう.僕は秀吉くんになって決死の思いで女子大生ナンパしてあげるから,やきもちやかれる環境までは準備しますよ.女の子のほうは末永が準備してください.おそらくは,かなりの物語(ポエムでもいいが)を用意していかないとよく分かんない旅になりそうな気がしているがどうか.(1/27)



 僕の14は終わりであって,これはとても気分が悪くてならなかった.一回死んでるやん.やり直しがきくのはいかさまに思える.だけど銃を持てば人が変わって,人を人とは思わねぇ戦争してるとき,例えばシューティングゲームとか,そういうときは人が自分がいくら死のうと全く気にならないけれど(プロギアはかなり微妙),ゲームブックで自分が死ぬのはとても気分が悪かった.美少女ゲームになるととくにそうで,攻略に失敗したときは惨めだ.人と対面して失敗するのって,後でやりなおしがきいたとしても鬱が残る.やり直しがきくという意味での14でさえ,美少女ゲームにはそもそも無いように思える.それでも失敗したら満たされない想いはあって,里村茜は悪夢の選択肢によって僕は最後まで辿りつけなくて,やっぱ同じとこからやり直すわけだけど,それで上手くいったとしても結果が偽りくさく思えるのだ.全く同じ状況が二度以上も与えられれば,だれだって上手くできるようになるさ.次,またあの女の子について頑張ればいい,という話ではなく,ここで次は与えられない.次ではなく全く同じ状況が与えられるだけだ.

いつも話してることではあるけれど,美少女ゲームへの繰り返しチャレンジって僕には気が重いよ.ハッピーエンドを目指してやり直してしまうことがある自分の忸怩たる思いも含めて面倒くさいからなんて適当な言い方で投げるから,ゲームに対しては不義理かもしれないけれど彼女らに不義理を働いているという気はしない.一年以上付き合ってきたsense offでさえ結局やり直してないところを見ると.

ただ,今思うとあのゲームブックの14というのは優しいね.だいたい13ではなく,+1されてるところが脱力する.それに詩的魔人に14送りにされるのはどう考えても冗談である.今なら,死んでもミミズやサナダムシに転生してからまた人に戻る"青い鳥"を思い出す.あのゲームのマニュアルはまったくひどい.

画面上に表示される2択選択肢を選択して話をすすめてください.
そのうち絶対クリアできます.

まったく,うれしい.(1/26)



 女の子と対峙せよ.美少女ゲームのマニュアルには必ずそう書いてある.場所がどこかは知らないし気づかない人も多いのだけど, それはそう書かれるべきであり,確かなことでもある.そして,本のページなど探せば,この作品はフィクションであり,実在の人物云々・・・と書いてあるのが見つかるのと同程度にはあたりまえに.

女の子と対峙するのを止めるか? ならば14へ進め.いいや,薄っぺらい美少女ゲームのマニュアルのなかに14も項目があるもんか.それはもうマニュアルの外にはみだしている.追い出されてしまう.もしもそこが元長柾木の立つ場所だというなら,遠くマニュアルのはざまから漏れて聞こえる詩的魔人のポエムを聞くのだろう.魔人の詩に正直な感想を言うならば,やはり14へ.と書こうと思ったが,そういえばここが14だった.どん詰まりだ.未スをはいずれやります.あと今日の話は多少ゲームブック世代向けに.

他人を信頼する,というのは大変なことであって,人間,どうしてそんなことが出来るのかというのは古今東西百家争鳴いろいろと語られてきたんじゃないか.僕がよく耳にする範囲では,相手の話をよく聞いてその人を信じるようになるというのと,まず相手を信じるからこそその人の話を聞くことが出来るのだというのと,およそこの二つの話題がある.そんなものは同時的に行われるのだと言って終わらせるのはたやすくて,だからこそ,好きからはじまるミラクルへの信仰もあるだろう.「好きやねん」と口から漏れる現象が,言葉と同時の行為であるというのはずいぶん前から素朴に言われ続けていることだ.

それは相手がゲームの女の子だろうが変わるべくもない.女の子と僕とが対峙するゲームにおいて,僕と「作品内の視点のありか」(たいていは見知らぬ男の子)との関係のことにはあまり興味を持てない.それよりも,ゲームの女の子に対して信を築いている数人の方の姿をこの一年ほどWeb上で目の当たりにして,そういうことがまるで普通にありうることに安心を感じている.ここで恋愛と信じることとはまた別の話であって,恋愛感情がなくても誰かのことを信じるというのはよくある.つまり,KANONで僕が(あるいは他の誰かも)天野の言葉を信じる理由が恋愛感情であるというのは独り身の強弁だろう.だからといって,祐一の経験したことと天野の言葉とがあまりに符合しているから天野の言葉を信じられるという解釈も,小説の読みすぎだろう.それはただ彼女と対峙しつづけるからこそ事態が信なる方向へ展開してゆくとしか言いようがない.川澄舞を例に取ると,あれは出会ってから終わるまでずっとタイマンで互いに向き合って精神戦闘するような話だ.血気盛んな少年少女が夜の学校に二人きりなんて場合には,むしろ他にするべきことなどあるはずがない.二人,ただそこにじっと立ち尽くすだけでも事態は転変し,信じたからこそ立ち続け,立ち続けていたからこそ信じた,あの夜のことを僕は忘れない.

ONEに関する文章をようやくにしてまとめ読みして,ファンタジーとしてのONEなど面白い読み物もあったのだけど,結果としてあれに小説的な解釈を与えるのはどうかという思いが強まった.小説はべつに女の子と対峙しなくてもいい(そういう小説もあるが.)だけど,ONEだって他の美少女ゲームみたいに話が女の子ごとに分かれていて,これは一人一人の女の子と向かい合うように仕向けられてるとしか思えない.そうすると,異性と向かいあうことによって生まれた信と,物語への信とを切り分けるのは難しい.ある美少女ゲームの話が構造の妥当さによって支えられているのだとことさらに主張するのはあまりに小説的で,どこかピントがずれてしまう.ここでゲーム性について語るつもりはないので,よしんば小説であるとしてもこれは美少女ノベルである.対峙せよ.

sense offで僕は透子ばかり言うから成瀬のことを忘れていて,「---もうすぐ、世界が終わるの」という成瀬の言葉がただ信じられてゆく,そこでは女の子への信念が顕かであるというのは末永に指摘されるまで見落としていた.透子や成瀬に限らず,sense off全編を通して生まれる文脈の断絶に,僕は女の子との対峙を強く促された.グランマの話などは特にそういったシーンの記録である.元長柾木があれをもって「21世紀固有の文芸形式としての美少女ゲーム」を考えたというなら,それは「形式=語り方」へ注目したこと,つまり,話を通して読み手の信念を築くための手法について何か考えたということであって,そうすると僕はまず自分が彼女らとガチンコさせられた重い時間のことが,頭のなかをぐるぐるとする.

"Sense Off"otherwise) 1/25



 聞こえるよ.

ここでメルンの絵と対になるはずだったのはごく自然に阿梨だったのだけど,納得のゆく絵にならなかったのでやめた.さっき見直すとそれは阿梨がピコピコハンマーを携えた絵で,今はもうその意図を忘れた.sense offより前の時代で文章も何を言ってるのかよく分からないけれど,あの頃はなんでも楽しかったなぁ.

過去の話とは都合よく回想されるものではあるが,ピコピコハンマーのようによく分からないことも多い.

あと思い出されたのは,先日末永と話をしたときのことである.僕がどうしてソリティアトラップという話に現実味を感じないか説明するなかで多神教云々と適当に言い並べてしまったので,数日後に文化庁長官氏をニュースで見てどきりとした.いい加減なことは言うな,と戒められているような気がした.というような書き方が長官氏の影響であると想像するのは助平ですか.個人的には吉本興業のほうへ行って語り部となってほしかったけれど,行政つながりでアカウンタビリティという言葉を持ち出すならば,今後,各省庁には一人ずつ河合隼雄が必要であると言っても過言ではないだろう.そのうち各個人の人生にも説明責任が求められるようになります.僕の人生,今どうしてここにいるのか,過去の行いが今どのように生かされてるのかを説明できる気はしなくて,こういう人の話は全くつまらない.どうしてそうしたの?と人は聞く.おのれの人生だ,さぁ?知らない,では通らない.酒席ではよくあるようなことで,人が過去に何らかの体験をし,それが現在に反映されているという話は説得力を持ってしまう.行動には全て理由があり,結果と反省とがある.その内容を他人に説明する能力を持つ人間が社会では求められている.いやいや,話にはおよそオチのあるほうが面白いわけで,現在というのは過去話のためのずいぶんと容易なオチだ.僕は自分の過去について,行動の理由について何も説明できる気がしない.僕の大学時代というのは確かに京都の街中を自転車で巡っていたような記憶があって,それは普通なら僕が話をするときのネタとなって然るべきであり,例えばその自転車紀行のなかで誰かとの出会いやふれあい,不思議なお店,名所発見,なんてことがあれば面白そうな気がするのだが,そういうことは特になく,それはただ自転車で走っていただけだったのだ.あるいは,僕の今へと繋がるような説明をあえて探すならば,他人に僕のことを話すときは僕が最終的に東京へやってきたとする方が話の流れが綺麗になるので,僕は東京へ行くことを選んだとは言える.これはどうもメタな話だから直感的でない.オチは三秒でピンと繋がるものがいい.「胸キュン!はぁとふるCafe」を「やきいも」と略すのは恣意的で,普通に略すなら「胸はC」となるはずである.世の中ロリコンだらけで,こういうメッセージはついに秘せざるを得ないのだなぁ,というよりは,これは単にチカがAカップでちよりがBカップであるから,足してCになるという程度の解釈でいい.

話のオチは,すぐにバレるくらいの嘘まみれであってほしい.真実らしさと信念というのは,言葉の意味の差をどう見積もっても信念のほうが真実らしさに引きづられているように思える.真実らしい,出来のいい話だけが信念として残るものだから,殺されたそのほかの話たちへの弔いが為されるべきだ.

眠いので多神教についての(いいかげんな)話はまた今度.(1/24)

 うちの妹たちがさっきから変なんです.どこで診てもらえば良いでしょうか.いやさ,一人で考えるより二人で考えるほうが冷静な答えが見つかる,なんていうことはいつも言えなくて,二人とも同じように偏った考えをもって寄れば,一人のときよりもそれは行き過ぎる.悪口をしていると大抵そうで,その結果,二人して誰かに「いかがなものか」と詰め寄っていたりするのを見かけた日には,熱意はすごいと思うけど一体どこでボタンを掛け違えたのだろうかと,二人が背中にしょった消失点へ遠い目を向けてしまう.だけど,いつ掛け違えたかなどという些細なことは誰にも分かりようもないから,話題にできるのはせいぜい後で直せばいいやという当事者の先送りか,第三者による匙投げか,今から時間をかけて直しなさいという小言くらいか.勢いのつき過ぎた人に止まれというのは常套句ではある.

さて,チカとちよりの仲の良さは普通でないとは思っていた.チカが泣くから見たくないと言っていたちよりの話も,世の中の公平のために見た.ちよりと事に及んだ日には扉の向こう側でチカが泣いてやしないかと気になって仕方なかったんだけど,チカは卒業式の日まで二人の関係に気づいてなかったようで,チカはあほだなぁ,と思いつつもそれは本当に良かった.ちよりの場合はチカと信也の関係を前々から知ってるのだけど(そりゃ夜だもん,声は筒抜けさ),卒業式の日にはもう心の整理がついていて,周りのことがちぃとも見えてないチカと信也のことを,ほほえましくも迎えることが出来るのだ.いっぽうチカは,ちよりと信也の関係をずっと知らないままでいたからこそ,ちよりと信也の仲の良さに気づくことの出来なかった距離をもって,自分と信也との恋人には至らない遠さを知り,納得するのである.考えうる真の修羅場とは信也がどちらか片方を選んだ瞬間に生まれるはずであるが,そういう話がなされないことはむしろ,双子の姉妹の自然な仲の良さを強く想像させる.どちらにしても幸せなEND,最後の光景において,赤ちゃんのことを話すのはチカとちよりばかりで,信也はわりとどうでも良くなっている.ということはチカが信也よりも先に赤ちゃんが動くのに触れたところで信也自身によって言及されてもいるが,ともかくこの姉妹は本気で仲が悪いのと同じくらい本気で仲も良いと思える.昨日相手のことで機嫌を損ねていても,次の日,遅刻するからといって陰のこもらない声で普通に急かす.一緒に暮らすとは仲が悪かろうが良かろうが続くべき平常のやりとりがあるということで,双子であっただけにそれが長くて板についているのである.いわば,かまぼこ姉妹.

それで話を戻すとだ,次に見たのは二人一緒の話である.そんな二人が,自分たちがどちらも兄のことを好きだなんて気づいて,つい真面目に話し合ってしまったりしたら,これは極端なところに結論するしかない.行き過ぎるのは悪口だけでなく恋の話もきっとそうで,どちらも人のことを懸想している分には大差あるまい.二人で兄の部屋へ押しかけて,一度きりでいいから抱いてほしいというのは,もちろん二人とも無茶苦茶いいにくそうにはするのだけど,二人で決めたことだから間違ってないとか一度きりだからいいだろうとか,いいわけないだろうそれはという理由に支えられての大告白であった.魔がさして応えてしまった信也も信也であって,結果として彼もこの異常事態に巻き込まれてしまった.それがとんでもないことであり普通でないということは,以後,信也の口から何度も語られるのだが,だけど妹たちの真剣な思いに応えるためなのだ,という彼にすれば真面目な理由で,そして僕らだけがそんなわけあるかーと思うことの許される理由によって,信也は妹たちを愛するのであった.このあたりは前に言った妹えろすなコメディの面目躍如である.当人たちにしてみても,自分たちの関係が変だとは気づいているのだけどどうすればいいかなんて当事者として分かるはずはなく,ようやく父親に「あんたたち変かもね」と指摘されて,やっぱり普通じゃありませんでしたか,と改めてしょげることができるくらいである.他人に言われるまではしょげることさえ許されぬこの世界,一週間よく考えろと言われてようやく,ねじれをねじれとして言葉にすることができて,また次へ進むことが出来るだけだ.

だけど,幸せそうじゃないか.そう思うよ.

"胸キュン!はぁとふるCafe" (ユニゾンシフト) 1/21



  忘レナ草 Forget-me-Not (渡部好範) ユニゾンシフトのオフィシャルページがようやく出来たのでリンク.女の子のあらすじを読むとさわりでなくほんとにあらすじが書いてあって,生真面目というかぜひともプレイしてくれという真顔の主張を感じる.文面の淡白さが好ましく思えるのは,いつも絵のほうに華があるからかもしれない.

ところでチカの声が神埼ちろに聞こえて仕方なかったのだけど,僕の弁別能力は声に限らず何事につけてもミソクソなので,これはおそらく違うだろう.弁別なんかできなくたって,物事を語るのに言葉は尽きない,と開き直ったのはいつからだったか.それはたぶん一年半くらい前,誰かさんに声をかけられてからさ.恋とへちまの区別さえつかないのに,僕はまた何か書いている.「弁別せよ,」よく言われる.

もちろん,上のは間違いで,チカは島田香織という人だった.Webページのプロフィールを見る限りでは,やたらと話題の豊富そうな関西人のねーちゃんである.(1/16) 強盗に遭ってお財布を盗られたそうだ.ご愁傷様ではあるけれど,中身は700円というのが涙を誘いました.生けるネタとなるのは関西人の鑑だと思われます.(1/21)



 こちらから,鈴凛オンリーイベントへ.鈴凛といえば横山あゆさんだというのは誰しも認めるところであろう.トップ絵が彼女のものであったことは容易に予想されたが,まさか主催者じゃないだろなぁ,と思って見たらまさに主催.ひらしょーさんの日記で確認した瞬間には,なんで四葉オンリーはないねん,と毒づいていただけに,自ら行動する力でもって手痛いカウンターを受けた気分である.イベントが成功するように祈りたい.なんらかのかたちで.鈴凛以前に,僕が読むシスプリ本の半分は横山さんのものであるわけで.あと四葉なら夕菜かつみさん.冬コミはようやくにして四葉豊作,はちみつとれとれ.(1/13)



 末永と楽しく長電話.板についたドリーマーであるとか.久々に格好よく話のある話をしたつもりが,いつもと同じにしか聞こえなかったようだったのはがっかり.(1/13)



 二人の渡部氏は無論どちらも好きである.渡部雅弘,青い鳥に文脈はない(ある).ばらばらな出会いと選択の先に,いや,後ろにかもしれないが,多少はっきりと言えることは,つまり幸福な結末はある.

渡部好範,やきいも(と称してしまうのは内容の生真面目さにそぐわないのだが胸キュンとはぁとふるとが同居しているのは気恥ずかしくていけない).生活の変化してゆく様子は冗長でなく淡々として誠実な文脈によって支えられている.そして,これしかないだろうという幸福な結末へ.もう何年も会っていない,その間連絡さえ取ったことのない疎遠な妹二人が,再会の瞬間から兄信也にぺたぺたくっついてくる.あるいは二人が信也を取り合う末にまったく関係のない喧嘩になってしまったり,予定をわざとかち合わせて信也にどちらを選ぶか決めさせるなんてことは確かに子供じみていて,信也としてはその状況ごとに困ったり叱ったりお遊びに付き合うのに疲れたりする.ちよりが信也のことをだいすきといった言葉も,幼さのあらわれとしてわざと聞き流されるわけで,信也が妹のことを可愛い妹以上に見ていないということはわりとくどく描かれる.三人でこたつを囲んで新年のカウントダウン,彼女らはあと三ヶ月でアメリカへ旅立ってしまうから,なんてことのないひとときがかけがえのない時間と感じられて,期限つきの遊びにせいをあげているうち本気になってしまっていたというのも,ありそうな話だろう.そこに笑いがあり,心地よい疲労で終わる一日なれば.やきもち+いもうとというこの話の売り文句から期待できそうなのは妹エロコメといったところであるが,実際はじめてみるとその文章の持つ明るくやわらかな光に照らされて,汚れた僕はすなすなの灰となった.

僕の都合というよりも彼女らの都合によって信也による選択の存在するところが安心できる.シフト表に書き込まれる彼女らの予定は僕が二人のうち一人を選ぶためにあるのではなく,彼女らが信也に二人のうちどちらかを選んでもらうために提示してくるものであって,そうだと分かっていると不意打ちで僕の意思を求められるよりはずっと安心して選択肢を迎えられるように思うのだ.信也が彼女らを妹以上に見ないうちは,例えば学校の中を誰かと会うために意図的に散歩しなくてはならない白々しさでなく,信也の意図よりも彼女らの都合に支えられた行為はごく素直で,このシフト表一つとってみても彼女らの日頃考えていることの現れになっているというのは嬉しい.表から選ぶという取り決めが彼女らにとってどれほど合理的な価値を持っていたかということは,一つは表を作る前の汚いけなし合いと,もう一つは信也がチカとの年長者らしい裏取引によってシフト表を有名無実にした日の,昼は信也がちよりと一緒に過ごすのを見たチカがとても醜い気持ちになってしまうところに現れる.この辺は全く当たり前のようにエピソードになっている.それと平行して,二択を何度も迫る結果がコメディになっているところも抜かりがなくていい.エピソード,もう少しくだいて言うなら思い出であるが,いつも思い出話を残してゆこうとするチカと信也のやりとりが胸に残る.一緒にお風呂に入った,で終わらずに,これですぐに眠れそうだねと話が二人の間に位置付けられる.あるいはついお店でやってしまうのだけど,次からはもうしないことにしよう,と今どうだったかというよりはこれからどうしてゆこうという二人の話しぶりの中で,その場の出来事は思い出話へと名前を変えることができる.

思い出話というと,妹たちが兄を慕う理由について過去の思い出の参照されないところもいい.妹たちは過去に信也との特別な思い出を持つからこそ再会を喜びまた大好きであるというわけではない.その事情は特に語られないが,それが幼さであると信也によって繰り返し解釈され,無理もなくそれで良いと思われる.信也によって回想される思い出は再会以後の信也が見つめてきた出来事であって,チカあるいはちよりの昔話として彼女らの口から語られて思い出す類の思い出話ではない.結果として過剰に女の子への思い入れを求めないところに,売り文句にはそぐわないかもしれないが素朴で押しつけがましくない態度を感じられて好きだ.

ところで,はじめに簡単なことを目で見せて信じ込ませると,その後のことは同じように確認できないような内容であったとしても,しかもそれが前とは全く関係のないことだとしても信じやすくなる,というのは騙りの一般的な技術である.それはもちろん語りにおいても言えることであって,見た,とすることと,聞いた,とすることとでは述べたて方が違っている.たとえば聞いた後に見せるのは恐怖ものなり幻想ものなりでよくあるカタストロフィで,その逆に見せた後に聞かせるという話の組み方は好意的に見れば情念や信じることの過程であるし,悪意を持ってみれば偽りと騙されることの過程である.そういう話の作り方がありふれたものである,というのはいまさらではあるが,僕が好んで読むような,女の子が何か非現実めいた昔の話をしてしまうだとか,あるいはそういう想像を男のほうが勝手にするだとか,そうした話と向かい合うとき,彼女ら彼らの話を信じるか信じないかという態度は女の子への態度に過剰に依って決められているということはあらたまって書いておきたい.述べ方については一番意識的くさいsense offを例に挙げるなら,珠季にスプーン曲げを見せられることと,グランマがどうとかいう話とでは述べたて方が全く違っていて,それに対する信じ方も別の過程を経るだろう.相手による語りとして参照される過去をうそ臭く感じるか,あるいは同情,懐かしさ,親愛を感じるかというのは,後者だとすれば今なおあきらかな家庭の事情や社会的な因縁でもって説得されていそうなものだが(土曜ワイド劇場における犯人の事情とかだいたいそうだ),僕が彼女ら(透子や川澄舞,については何度も書いた,珠季,成瀬,天野美汐・・・)の話を信じる(または信じない)のは,彼女らへの親愛抜きには考えられない.僕は祐一はたしかに真琴が弱ってゆくのを見た.だけど,丘のことをものみの丘と名づけて物語る天野の言葉をどうして信じられるだろう.本当にあの丘はそんな名前なのか,僕は何度も天野に問い正したかったけれど,なぜだか信じていいと思えるところもあって,その言葉はこれからずっと彼女とともに歩いてゆくことになるだろう想像と同調のなかへ溶けていった.女の子と向かい合う話において,話への信と女の子への信とが重なり合うのはごく当たり前のようにも思う.

やきいもが素朴だというのは信の作り方においてであって,昔話であるとか自分にとってこれまで過剰とも思えた女の子への思い入れなしに話の流れに対する信というのは作られるものでもあったな,と久しぶりに感じられたくらい,それは綺麗に作られている.ただこれ,先にチカの話を終わらせてしまって,そうするとチカが泣くだろうと予想できるからちっともちよりの方を進めることができない.結果として思い入れはありすぎる.さてこれは,思い入れの後に信が生まれるのと,信の後に思い入れが生まれるのと,どちらが逆説的に聞こえるか?というようなおはなしでもある.そんなことはどちらでもよくて,出会えたってことがラッキーなのだと青い鳥は言っていたが.(1/12)



 痛い,悲しい,切ない,悔しい,嬉しい,という以外で泣いたのは一度きりだからよく覚えていて,ある日,近所の年下の女の子を家にあげて遊んでいたら,帰ってきた母に後で叱られた.母はその子のことがあまり好きではなくて,そういうことは僕にも自然と伝わってきていたわけだけど,今も昔も鍵っ子の僕はその日も留守番で,そしてチャイムが鳴ってその子が玄関先に居たとき,それまで家にあげたことのない彼女を中に導いてしまったのはなんでだかよく分からなくて,そういうことをしたい気持ちに不意に迫られたという程度のことしか今でも言えない.つまり,彼女が帰った後,怖い顔をした母と対面することになった僕は,何か自分の行動を正当化する理由を探す必要に迫られていた.そんなとき,きっとこれは寂しいという気持ちではなかろうか,鍵っ子は家に帰っても母親がおらず一人きりで寂しいものだ,という筋書きをどこかで見たことがあるのかもしれない,そういう風に思いついたらどうもそういう時には泣かなくてはいけないのではないかという気になって,「さみしかってん,」と言ってぼろぼろ泣いた.あの時のことは,自分で寂しいと決めたから寂しいということになってしまったような気がする.それが小学校の頃のことである.そういうわけで,子供が泣くときには理由は知らないけれどこういうとき泣かなくてはならないような不条理な気分に襲われる,というようなことがあるんじゃないか.それで,そのときほんとうにさみしかったのかどうかなんて最後まで分からずじまいなんだけど,説明責任に駆られて言ってみた言葉が互いの感情を触れ合わせるために利用されてしまう,そんなやりとりが記憶に無いなかに幾度もあったように思えて気分が悪い.

狐のむすめや真琴が泣き出すくだりについては,今木さんがせんど言っておられること(2,3度だったかもしれないが印象深いので,)をふまえての話なのだ.と説明したところで全ての人にとって困惑を与えるばかりだろうけれど.ともかく自分の気持ちがどうだったか,なんてことは未来永劫に分からないのだけど泣いてみた.それ以上でも以下でもなく.

あとフルバ繋がりで声をかけるための経験,という話に続けてみると,相手の感情の奥まったところに留められている言葉に対して,無言でそれを待つのがいいかこちらから聞いてみるのがいいかという判断はいつも難しく思われる.が,紫呉さんはいとも簡単に「話してよ」なんて言ってくださるわけで(一巻p.36上),ああもう,胸が苦しくなります.僕にもそんな年上のお兄さんみたいに「話してよ」って言って! これ,アニメのほうで省かれた台詞なんで,故にあれは僕の紫呉さんではないと思っている.(1/10)

 目はあってほしい. 特定の女の子が当確になったら万歳をして両目を書き入れるのだ,とかダルマのような縁起物程度に思っておけばいいのかもしれないが.ここから辿ると,自分の日記に戻ってきてしまった.もう一年以上前ではないか.だいたいシスプリというのは当時は読み飛ばしていたのだが,まずこのときの鞠絵の絵が目にとまって,文章も読んでみたら普通に丁寧で面白くて,気にし始めたのはそれからであった.字面からはとても読めるような文章に見えないのだが,読んでみてはじめてこれが充分な語り口だと分かるのが驚きだった.あと真奈美について,ポエム以外は私といっしょだ,とか面白い.(1/10)


 わざわざお声を掛けてくださったjagarlさん,応援に来てくださった西木さん,有難うございました.おかげさまで多くの方に手にとっていただくことができました.(1/6)

 ざう絵CD-ROMと天野本とで久々に冬らしい冬を過ごした.調べたいことやコーディングしたいことが溜まっているので,ものかきはしばらくお休みしたいところだが.(1/6)

 それでもやきいも電波はしばらく漏れそうである.素晴らしきホームコメディ.機嫌の良し悪し,気遣いとフォロー,そして喧嘩のおさまる様子とか好きだ.一つ屋根の下だからこそ,せまい廊下や階段ですれ違うたびにそういう言葉が交わされる.「さっきは有難う,」「今日は楽しかったよ」と.廊下は家庭内ジャンクション,日本の家の廊下なんか狭くって,お互いの顔と顔が近くなる.それにたいてい薄暗いもんだから,少し秘密めいた会話になるところが嬉しい.姉と部屋が離れた頃,そういうところで二人,よく話した気がする.廊下で立ち話をするといえばとらハ2もそうだが,あそこは寮だから廊下は広くて陰をもたない.やきいもが廊下の話だとすれば,とらハ2はそうした調節機構を必要としないリビングの話だった.(1/6.やきいも内時間では1/20)



 明日は美汐Festival(東京文具共和会館3F)に参加しています.サークルはSP48Kさん「有為転変 」,頒布スペースは「A−24」.天野が好きな方はぜひともお越しを.
今回は寄稿という形だけど,それにしても本らしい本を作る作業は3,4年ぶりで楽しかった.今回誘って下さったSP48Kさんには深く感謝致します.好きな女の子の話について一度本にしたいと考えていたのだけど,コミケの抽選に落ちたり申込書を出せなかったりというのを言い訳にしながらずるずると先延ばしにしていたら,そのうちに僕はあれもこれもというオールジャンルよりはオンリーイベントのほうが好きになっていた. あと文章の方向性も多少先祖帰りで良くも悪くも滑りが良くなって,ひとつ話を書きはじめていたときに,ちょうど声をかけていただいたのだった.今回の話は書きはじめていたものとは全く別の話で,また天野話というよりAIR話をしたという気がするのだけれど,それにしても天野と天野の周辺のものごとについてこの二年のうちに言いたかったことは一つの話のなかへと分かりやすいくらいにおさまったのではないかと思う.

自分が本を出すときのジャンルとして気に入っているジャンル,というのが別にあるので,ゲームの話として何かを書くのはこれが最初で最後かも知れない.夏コミ参加申込書を取ってきてはいるのだけど,ジャンルを四葉で取るか他で取るかは目下考え中である. (1/5)

大晦日の夜,僕が友人と一緒に新幹線京都駅のコンコースを歩いていると,低くて甘い男の声が僕の名前を後ろから呼んだ.注意力散漫な僕がよくもまあ振り返ることが出来たと思うのだけれど,きっとそれがどこか懐かしい声だったからで,声の主は一回生の頃お世話になったオギーさんだった.(そのよく響く甘い声は自賛するところでもあったので,あえてそう書いておく.)

お会いするのは五年ぶりというところだったが,僕らは奈良へ,オギーさんは栃木か群馬のほうへ帰省する途中だったので,僕の連絡先だけ名刺で渡して,よいお年をとまた別れた.

僕の先輩はそのオギーさんとミッキーだけだったし,二人の後輩もおよそ僕だけという変なサークルで,二人はその名前が示すように多少ポップ?で変な人だった.名目上,書籍部の企画にあたるサークルで,彼らの主張は当時はよく分からなかったけれど,今にして思うと読書的世界の生活スタイルへの反映であって,ミッキーはそのハイソな生活の中でサブカルチャーを溺愛し,自分が好きなものをごくストレートに主張し,それをのべつまくなし僕に手渡し,理想の場所を作ろうと僕をいつも誘った.その隣でオギーさんはいつも,本を片手に甘い声で愛について語っていた.そんな感じでいつも,あまり意味もないレジュメを作っては集まっていた.

ここのところ四葉に傾倒している僕は当時の二人とはずいぶん違う場所に居るようには思うのだけど,彼らのスタイルに影響されたというところは今でもよく意識される.あの一年間というのは他には何もない一年間だったから余計印象的だったのかもしれない.


オギーさんと別れた後に考えたのは,人ごみの中からよく僕のことを見つけてくれたなということと,それと名前を呼んでくれたこと.僕は人の顔を確信するのは苦手であって,しばらく会わないと偶然の出会いで相手の名前を呼ぶことが出来ない.もし人違いだったらやだなぁ,と気後れすることもあるけれど,そもそも人の顔に対してあまり自信がないように思う.一度,誰かの顔をあらためて10秒ばかり見つめてみてほしい.見ているとそのうち知らない顔に見えてはこないだろうか.恋人が,相手の顔をじっと見つめるたび新しいところを発見する,とはどこかから伝え聞く話で,人の顔というのはそもそも複雑であるから,じっと見つめあうような関係でもない限り,しわの一つ一つに渡るまで脳に焼き付いているということはないだろう.それで,その複雑なつくりのどこまでをもって相手を特定する確信に変えるか,というところで個人のセンスの差が生まれている.ほんまかいな. こんなとき,僕は無理にでも相手の名前を呼ぶようにしたほうがいい.そのうち,名前を呼べない理由が顔の確信の問題なのか他の社会的な確信の問題なのか分かるだろう.

顔の判別というと,29日に末永がうちに泊まっていったとき,G’sマガジン2002年2月号(つまり今月号)の表紙妹の片割れが誰だか分からなかった,という話をしていて,片方は確かに春歌であるが,もう片方は三つ編みなのだけど可憐でもないらしい.末永は去年の僕の誕生日に妹12人を送り込んだ男ではあるが,特に妹たちに傾倒しているというわけではない(が,分析だけはしたいらしい.)僕は昨日,今月号を買ったばかりで,表紙を見れば髪型は普段と違っていてもこの目つき手つきはああ鈴凛だなぁと分かってしまって,人の顔の判別よりもよほど彼女らの判別のほうが出来るらしいと思った.まぁ状況の確からしさというのはあって,偶然の出会いと十二人のうち誰かであろうと思われる状況との違いを顔の違いとどこまで切り離せるのか分からないのだけど,四葉に傾倒することによってたどり着いた別の場所というのは,そういう確信をもたらす場所のように思える.たしかに彼女らの顔はあまり複雑ではない.ただし,彼女らをいくら見つめていたってどきどきすることはあっても気恥ずかしいということはないし,また彼女らが恥ずかしがることもない.だけどいつか彼女らがみな僕の視線に恥ずかしがるようになったとしたら,これは普通に正視できなくなるだろうし,僕は彼女らのうち好きな子の顔くらいしか覚えられなくなるだろう.顔の複雑さとか質感の問題ではなく.

ついでに末永と話していた年齢の判別のことも少し書き加えておきたい.僕の女の子に対する年齢感覚が怪しいということは前にも書いたとおりだが,四葉についてもそうかもしれなくて,末永は四葉の行動とか見るにつけ彼女は小学生だと言うのだが,僕は中1か中2くらいを想像していた.だいたい149cmなんて小学生にしては大柄じゃねぇか,そんなおっきな四葉は認めねぇ,とか息巻いていましたが,さっき調べたら小学校6年生女子の平均身長は150弱でした.ううむ,小学生かも.PS版では遊園地のチケット紛失騒ぎに乗じておのれの食欲を満たすあたりは良く頭が働いてるから中学生ではないかと思うのだが,同時に臆面もなく甘え上手であるのは子供なのかも.それに前にあったように僕は小学生をあなどり過ぎてるような気もする.そういうわけで,僕のなかの四葉のイメージは最近ちっちゃくなりつつある.

四葉の振袖
あと,今日は四葉に日本のお正月を教えてあげる.こうして何かを教えてあげられるうちが,何かを二人で一緒にすることができるうちが幸せで,彼女はなんだって次第に独りで出来るようになってゆく. (1/1)



なつかげめいきゅう ほしくさせんろ (c)1996-2001 曽我 十郎
e-mail: soga@summer.nifty.jp