木々や星のことばかり
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1801 [3月][4月] 最終日記彼女(2000/4-2001/3)
ガンダムX風に最終回をつけるなら、認識力学は幻想だった、とか。やはり、透子が言うべきなのだろうか。こんな風にアニメの話を持ち出すと余計に分からないのだが。それに、前にも書いたような気がする。
たとえば、共通の認識、という言い方はちょっと気味が悪いというか意味深すぎて、人それぞれの認識というものがまずあって、それはまた他人と共通のものになり得る、という二段階の議論の上にある。認識力学研究所としては、透子の認識が他へ影響を及ぼすというのならば、後者よりも前者、人それぞれの認識のほうにえらく注意が向けられている。あと因果関係と。人それぞれの認識があってそれは(因果ではなく)同時的に共有されていることもあるというような、言葉にすればやや心霊的な話からは目をそむける方向なんだけれど、直弥たちはむしろその共感的とも呼ばれるような状況に翻弄される。通・不通、理解・無理解、センス・ナンセンス、context | contextless・・・。両極を行き来しながらコミュニケーションのありようを問うた道程は、これもまた、恋愛なんていう幻想に満ちて語りつくされた物語に過ぎない。ただ、本当に僕の耳に入ってくるものは、その道の終わりに立った僕が、あるいはそこから何歩か歩き始めた僕が、後ろを振り返ったときに、どんな奴がいて、誰が何を言っていたかということだ。僕は人の言葉を正確に覚えられないのだけれど、誰かが何かを言っていたことは風景みたいに覚えている。そしてそれは、季節とともに移り変わってゆく。
調子が悪い日はコーヒーを飲むと腸壁が荒れてとても気分が悪くなる。どうにもろくなことを考えなくなるのだが、風邪につきそれも三倍増である。いや、これは本当は奴らの陰謀で、コーヒーにはごく微量の精神的毒物が混ぜられており(以下電波)・・・まぁ、あながち嘘でもないか。それよりも帰ってきたミスドのシナモンロールが小さくなってしまったことのほうが怪しい。これがアブダクションか! 甘ったるさ半減で、茜としてはどうにも納得しがたい。
ノベライズがあるというのを知りませんでした。
映画じゃなくて近年レンタルビデオで見た私のような人は(小中和哉とは知らずほんとたまたまだっただけに)運が良かったと思う。いや、末永に借りたのだったっけ?
今日はざうすけオフ。二次会からは上野さんとこのお祝いオフと合流。JINZOなみなさんとは半年ぶりだー。
上野さんが何かもってこられるみたいなので、私ももってゆこう。週明けくらいにはうちとこと上野さんとこと両サイトとも要チェックかもしれない。
SP48Kさんのデジキャラclockスキンファイル「まほろくろっく」が公開されてます。まほろさん、ま、ほ、ろ、さーん。
スキン集に追加させていただきました。10を超えてるので、そろそろページを分けたほうがよさそう。
絵や文章を幾人かに読んでもらったり、お話を何十人かに語ってみせたり、この十年ばかりはそんなこんなで過ごしてきたんだけど、わりとちっちゃい頃からやりたかったプログラミングによるものづくりっていうのをようやく去年から始めて、一年半で作ったソフトの数がどれだけあったか数えると、まぁ、よほどこういうことをやりたかったのだな、というのは、なんとなく感じとれる。
ざうすけを作るまでは、僕にとってプログラミングというのは漠然とした夢とか可能性とかと一緒にあるものだったけれど(たとえばゲームを作るとかさ)、ざうすけでようやくプログラミングのスイッチが入ったときにあったのは、ただ動機としての怒りだけだった。なんでパレットがないねん、とか、WallPaperなら、なんでこのすげえ液晶を生かした萌えアプリがないねん、とか。あるいは、PrismPaintならもうちょっとポジティブな動機で、アイクルーズでプロギア絵描きたい、というもの。いずれにしても、絵やことばを人に手渡していた頃に比べ、気持ちが自分寄りではないかな。だから、僕の作るソフトウェアに関しては、いつも過分に評価して頂いているように思う。自分の作ったソフトに対する間合い、というのはまだよく分からない。
昨日のざうすけオフの参加者は、SP48Kさん、西木さん、TOKさん、スターライトさん、たかつきさん、レオーノフさん、松莉さん、そして僕を合わせた8人。主催してくださったSP48Kさんに深く感謝いたします。ざうすけ、PrismPaintの話をはじめ、その他PDAの話など、とても盛り上がったと思います。また次もやりましょう。次は僕が幹事をやってみるかな。
オフでは配布したけれど、PrismPaint2.0をベータテスト中。レイヤ3枚、うち一枚はPainterの水彩レイヤみたいなの。今回西木さんのお話を聞いて、PrismPaintの今後の方向性は決まったと思う。
あと、実はTOKさんはTR1を持っておられなくて、PrismPaintが実際に動いているのを見ずに、PetitPaintへ移植したという衝撃の事実が明らかに。恐るべしです。
わっふるはこれまで見たことなかったんだけど、なるほど、音が鳴ると印象が断然良い。E1が欲しくなった。布団のなかで天野と会える。
ざうすけオフのあと21時頃から、uenoさんとこのミニッツ受賞記念JINZOオフと合流。もはや何人いたのかよく分からない。僕のテーブルは、ざうすけオフのメンバ以外だとuenoさん、sugichさん、Yuukiさん、やぐやぐさん、ぱえさん、あと向こうのテーブルには、Yu.Nさん、青地さん、あっしーさん、yamachaさん、村山さん、BABさん、Babo!さんがおられた模様。抜けてたらごめんなさい。やぐやぐさんにはその場でPrismPaintのバグを発見していただきました。ありがたや。
去年の夏のオフの時には、PDAでフルカラーのソフトなんていらんだろうな、とuenoさんと話していたものでしたが、時代の流れというのは早いもので、今回は二人でフルカラー談義に終始。
その後、御徒町のパセラで徹カラ。PrismPaintで絵を描いてると、またエッチな絵ですかとsugichさんに言われショックを受ける。えろ大魔王のお方にそんなことを言われてしまったからには、今日からうちのサイトもX指定にする必要があるかもしれません。
ところで、あのときお話ししたPalm用のカラーペイントソフト(フリーウェア)というのは、DrawItというソフトです。>sugichさん。PDAお絵かきな人にはあまり知られていない模様。
麻枝准の話にはときどきこんな萌えシチュエーションが混入しているから要注意である。
例1:横から佐祐理さんも一緒になって食べかけのエビフライの尻尾を口からはみ出させたまま、止まっていた。
エビの尻尾になりたい。
例2:佐祐理「ええ。久瀬っていう方ですよ」
祐一「どんな奴なんだ」
佐祐理「こんな顔をした方です」
口の端に指を突っ込んで、それをびにょーんと伸ばしてみせた。
あれですか、名倉由依がほっぺたひっぱられてるみたいな変な顔に、佐祐理さんが!
例3:がちゃん!
佐祐理さんが弁当箱に顔を突っ込みそうになっていた。
弁当箱になりたい。
この前再プレイするまで完全に読み落としていたんだけど、あまりにストレートな可愛さっぷりにショック死しそうになった。
たどり着けそうもないほど遠く霞んだ、それでいてやたら声だけはよく聞こえてくるような場所で、人たちが楽しそうに話すのを、指をくわえて眺めているだろう。自分の居場所なんて考えた時には。
大学正門前の横断歩道を渡りながら、ふと、どうして自分は今、ひとりで東京の道なんか渡っているのだったろうとか思った。近頃は、この新しい場所に違和感をもたなくなったことがむしろ寂しい。
いいや、ここがどれほど遠く離れた場所だって、構わないですよ僕は。自分との距離が遠い場所に自分がいる、っていうのは、矛盾した話だけどわりとよくあるんじゃないかな。あえて自らそうするということも。新しい自分を見つける(=新しい居場所を見つける)なんていうのは、自分がどこにいるのか分からなくなるばかりだからやんなくていい。でも、東京星にいった、あしかちゃんはいい。ようするに、素敵な旦那様がほしい。そんな旅の終わりというものに憧れませんか?
場所、なんていうのはそもそもなくて、つまりは一対一の関係しかないという気はします。
昨日は夜になってからとても鬱になったので、21時ごろからアキバへ行って不良さんになってきた。23時までプロギア(ボルト&ネイル)。平均的に3面まではいけるようになった。ただしボスあるいはその手前で撃沈気味。調子に乗ってボルト&チェーンに変えてみるが、やはりイバラのカップリングか。キャラ的にはこの二人が好きなのだがなぁ。
鬱だったのでアクセルを踏み込んでしまった。Prismにレイヤの透明度&レイヤの入れ替えを実装してしまう。まるでPainterとPhotoShopを足して2で割ったような構成。これで塗りミスもずいぶんと減るだろう。でもやりすぎ。ヨンパチさんのアドヴァイスに従って、ちょっくら頭を冷やしますー。
久々にemacs上でM-x calendar p f。Flore'alは先月の18日までだったか。なんにせよ、初夏といえばフロレアールである。去年のこの日にEnd.2を見て、その後気が乗らなくて、全部読み終えたのは二ヶ月後のこの日。いずれにしても、sense offを終えたせいだろうか、今とは全然違う感想である。フロレアールに関してはまだまとめて書いていないので、もう一度やり直したい。
JAGARLさんが始められた模様なので。
webの構成を変更。waffleとこことは別のページというより、アバウトに繋がっている。そろそろ、Christmas 12.2184というのが何を意味するのか分かる人の率も減ってきたかもしれない。
カラーのタイトル画というのはとても懐かしいが、昔と違うのはPDAで描いているということだ。文字はPhotoShopだけど。ぜんぶPhotoShopで描かない理由は単に、絵はPDAのほうが描きやすいからである。
PDAで描いた絵として掲載している絵が65枚になった。僕としてはよく描いたほうだと思えるけど、開設時に考えていた1年で50枚というペースからはずいぶん遅れている。半年で200枚近く描いた方もおられるのでなおさらである。実はこの濱口よしたかさんという方は、僕がまだWebpageを持っていないような頃から好きだったCG作家さんで、カラーにせよモノクロにせよ、氏のようなストーリーのある絵が僕も描ければいいと思う。
天野は可能な限り不細工に描くことにしている。そう、彼女の可愛さが分かるのは僕だけで良いのです。 他の人にとってはへちゃだけど、僕だけが可愛く思えるような絵が、天野を描く上では理想なのである。
松江の。年上の人から見た僕と年下の人から見た僕の印象というのは、わりと180度くらい違うように聞く。自覚症状としては、年上の男の人の前では僕はなるたけ可愛く甘えるような(白痴的な)振る舞いを見せて、年下の男の子にはやたら馴れ馴れしく(同レベルで)話し、年下の女の子の前では多少カッコつける(声まで変わる)ようだ。まるでひどい。年上の女の人とは接する機会がない。おばちゃんにはなぜか人気がある。あと、性格悪いって最近よく後輩に言われる。もしも、人に言われて嬉しい言葉があるとすれば、日記どおりの人ですね、とかいう感じだろう。あとあんまり喋れなかったけれど、いっぱい触ってきてくれたから僕は満足でした。まったく子供やね。緊張して触り返せなかったので申し訳なし。ああ、まったく。つまりは一日中緊張しっぱなしだったんですか。
「こんにちはっ」
「でっかいおむすびですねっ」
「飲み物なくて大丈夫ですかっ」
寒気がするほどに、よく晴れた日だったと思う。わけわかんない言い方だけど。予想以上に面倒見のよさそうないい人だったので、甘えすぎてしまいました。ごめんなさい。
思い出すとなんだか辛いわ。
四葉が可愛くて仕方がない。あ、四葉って半年で髪が伸びましたね(2001年1月号と今月号参照。)あの発育途上の胸というのをえらく主張してくる絵が忘れられない。服装はその1月号のバグパイプの時の。髪は今の長さに合わせた。
今回は落書きでいこう、という感じで、致命的なエラーのチェックを兼ねて、しゃかしゃかと。レイヤがあると何がいいかって、少々色に失敗しても取り戻せるので、落書きが楽にできることなのである。
以下謎の呪文。墨で主線→水彩レイヤに薄墨で塗り→水彩レイヤの不透明度50%に→一番上の通常レイヤ(不透明度40%)を薄い色で全面塗りつぶし→輪郭にそって切り抜いて透明部分(マスク)を作る→透明部分を保護して茶系色の水彩で全画面塗りつぶし→レイヤの統合→統合結果を一番上の通常レイヤへ移動→下のレイヤを背景色で塗りつぶし。各段階において次のこと何も考えてないところが落書き的である。僕の場合、いつだって場当たり的ではあるが。どうにも濃く塗りすぎてしまうので、あとからレイヤの透明度で調整することがたいていであるとか。
Todo:レイヤの透明度のファイルへの保存(今ごろ気付いた)、ペン・消しゴムを逆送りに、ツール切り替えを順送りに、ズーム・ルーペからのツールの復帰が怪しい?、レイヤ保存ファイルを一つのファイルへ統合。
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機械式のスポイト (決定ボタンを押している間はペン先がスポイトに変わる。PhotoShopでいうとAltキー。) |
画面上下左右反転 |
移動 |
Undo/Redo |
保存ディレクトリを選択可能 |
mab方式MORE連携に対応。 (1)MaYoさんのImage Viewerのサムネイル画面から画像を開いてPrismPaintで編集可能。 (2)PrismPaintからImage Viewerを起動可能。 |
▼version 1.3 からの変更点
・レイヤ機能の追加
・不透明度を10段階に
・全画面塗りつぶしの追加
・保存ディレクトリを選択可能に
・ImageViewerの起動を可能に
・全ペン先を円形に変更
・1画像につき必要な保存用メディア領域が3MBに増加
・戻るキーと操作メニューキーの役割を変更
・カードキーにUndoを、逆送りキーに画材の種類変更を、順送りキーにブラシ・消しゴム切り替えを割り当て
・x2ズーム時に画面端でブラシの挙動がおかしくなるバグの修正
僕が、心霊的で不健康でなおかつ好ましいと思えることは、たとえば舞が魔を待ち構えるのが一階の廊下でなく屋上だったとしたら様にならないだろう、とか、逆に佐祐理さんといっしょにお昼を食べるのが校舎の一番上でなく中庭の芝生だったとしてもやはり気持ちが悪いというような感じ方である。
終ノ空での三角とか四角とかいう卓司くんの発想は、数学あるいは論理学の記号の形状からの連想であるところが、勘違いの過程としては妥当であるし、面白い。卓司くんの思考の流れは追いやすいし、ドライかつ健康的であるようにさえ思える。僕の中ではさっきの舞の話とは正反対の場所にあるのだけれど、これはこれでさっぱりとして好ましいのである。
なんか一月ごろに書いた日記が発掘されたので、せっかくだから載せてみる。わけわかんないから床に埋めたのだったと思う。
2001年1月21日(日)
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「真理は見つかった?」
「い、いいえ、なかなか真理までの道は険しいです」
末永にもなんとなく気に入ってもらえたようなので、なによりである。ところで、SCA-自さんって実は女の子のことなんかどうでもいいと思ってるんじゃないかと感じられるときがある。あと、最近缶コーヒーがまずく感じられて仕方が無い。
あずさ回数券。僕はやっぱり、かすみ遊戯がおもいらされてならないのれす。
もう一年くらいになるだろうか。一年もすれば、魔法というのはたいてい力が失われてしまう。指を鳴らして、魔法を解いて、さようなら、メルン。
ジャン=ロタールはいくつもの魔法を心得ていただろうし、それがあだ花であることも知っていただろう。だけど、それでメルンが目を丸くしたり喜んでくれるのなら、はかなくても良いと思えたのである。
魔法がきれてしまったら、また別の土地で、別の人たちに別の魔法を見せればいい。魔法しか知らない魔法使いは、誰かのために驚きに満ちた時間を作ることさえ出来れば良くて、でもそれは短くて、だから、旅を続けるしかない。
祭りの季節にはきっと喜ばれるだろう。また、夏が来る。
シスター・プリンセスのキャラクターコレクション(12冊でてるやつ)の中身は彼女たちの日記であって、これはとても恥ずかしい代物だ。どうも僕の場合、僕自身が彼女たちの兄であるという気はぜんぜんしなくって、ただ誰かを慕う気持ちでいっぱいになっている女の子たちの気持ちに触れて、それを愛でるという感じが近い。まだ全員分読んでないのだけど、それぞれ年相応の少女らしさが出ていて好きだ。咲耶くらいの年になると男とか女とか考えちゃうんだけど、年少の子らはただなついているという風で、やはり年相応に頭が悪い。この子はこういう子だ、という作り手のキャラクターに対する確信度の高さにおいて、文章書きの公野櫻子さんという人には惚れる。
昔、少女話を書いたときに、僕が想像していた少女の年齢と読んでくださった方の思った少女の年齢とが5歳ほど離れていたことがあった。僕が15歳くらいを考えていて、先方は10歳くらいだと受け取っておられたのだ。その読者の女性は絵画教室の先生で、いろんな子供たちを見てきた結果、いわく、小学校高学年くらいになるともう大人みたいなこと考えることがあるよ、とのことで、その印象を僕の話の少女にもあてはめておられたようだ。僕の描く挿絵が幼すぎることもあっただろうけど、それにしても、僕は子供に触れる機会は少ないわけで、10歳くらいだと言ったその女性の話の確からしさからは、子供たちの世界について色々と想像をかきたてられた。つまり、公野さんについても同様に、彼女の見てきた少女の世界というものについて想いを馳せたくなる。
世の中、並木さんが見たように、ケンカしても仲のよいきょうだい、あるいはお互い無関心だったり、うっとおしいと思っていたり、なんていう理想的な兄弟像ばかりでない。もっとお互いに不自然な行動を取り合うような兄弟もある。僕はシスプリの彼女たちとそのお兄ちゃんとの関係が異常だとは思えない。普通のブラコンじゃないか。がんばれ。アニメのはあからさまに変だけど、あれ公野さんじゃないし、そんな妹生命体たちのことはどうでもいいや。でも、あれはあれで別の部分が面白い。
並木さんというのは「目隠しの国」の人で、お気に入りなのです。それはそうと、かなでっちゃんとあろう君との間の気持ちの高まり具合はずっと上り坂だし、なんかもうどんどんえっちになってくしかない状態なんだけど、5巻ではどうなるのだろうか。いやそれはともかく並木さんだ。
こんなときに聞く曲。え?あんなものは期間限定ですよ。
ちまちまと絵に手を加える。PDA絵に限らず僕にとっての絵というのは、ボトルシップとかジグソーに近いです。
主線の黒い絵というのは、僕の頭の中でどうしても像を結ばない。だから、いつも描かない。
ところで、夢に色があるか、ということが時々話題になると思いますが、おととい、ついに僕の夢にも色のあることが判明しました。ああこれは、黄色だ、とか夢の中の僕が確認していたのだから間違いない。そういえば、世の中には文字だけの夢をみる方がおられると知って驚愕しました。いつもビジュアル的に恐ろしい夢を見る僕としては、なんだかうらやましくも思います。
CDドラマ長森編って聞いてたっけ。まだだったら今日渡すけど。
僕がいつも天野のことを魔女と呼ぶのは、彼女の根拠の知れぬ予言と、それが祐一の陥る不可解な状況と符合してしまうところに依る。天野の思い出の中にあるらしい「あの子」というのはよく分かんないし、妖狐の事情を我がことのように語れるのも謎だ。ここで天野の言葉が祐一の直面する事件を解き明かす結果になっているのは、物語のありよう、例えば「おとぎ話だから」という要請に支えられているのではないし、天野の過去に祐一と同じような妖狐との出会いを想像するのも、まずは深読みのしすぎであるように思える。
どこまで見えてるんだろうか、この人は。そんな風に思うことがある。自分が何が好きか分かんなくなったときに友達に電話してみたら、そりゃあんた読書やろ、あんた俺よりほんまいろいろ本読んでるし本が好きなんちゃうん、なんて言われて、憑き物が落ちたようにほっとしたことがあった。僕の知る読書好きの人に比べれば僕の読書量というのは噴飯モノの少なさであるので、僕は自分の趣味が読書であるなんて言う度胸はないのだが、僕がWebでやってることについてはあまり知らない彼がなんのためらいもなくそう言うと、むしろ僕が僕自身のやってることを知りすぎているために惑わされてるんじゃないかという気がしてくる。僕は彼にはわりと日常的な話しかしないんだけど、そうすると、何か僕の知り得ぬ秘密の道のりをたどって、僕の趣味の世界というのを彼は見ているのだ。そして、そういうものほど説得力を感じられることがある。
何か見透されてはっとするようなやりとりは、特別な誰かとの間にだけある。きっと、ものの見え方というのは鋭角的で、特定の誰かに対してだけ見透すような力が働く、あるいは強い説得力を持ち得るんじゃないかな。
特定の誰かというより特定の仲間うちで働くということもあって、それは例えば家族のメンバが信じる神話めいた力だったりする。うちの家族で信じられている神話の一つは、僕の姉が懸賞を出せばやたらと当たるというものであるが、そうした不思議さや、ドラマを見てよく泣いてしまうような普段の感受性の強さが、彼女の発言にいつも確からしさを持たせている。僕はいくら彼女が理の通らぬことを言ったとしても、それで納得する、あるいはせざるを得ないようなことが多い。発言力、とも言うかもしれないが、そうした言葉の確からしさというのはどうもまた神話的である。こうした神話は、うちの家族の中でしか信じられていないだろうし、他のコミュニティにおける彼女の立場とは、まるで違うんじゃないかな。
キャラメルボックスの春の舞台、エトランゼ、では、家族の感情の色を読みとることの出来る少年というのがいた。その力が、DVでぐちゃぐちゃになった少年の家族を離散させたり回復させたりする契機となるのだけど、この少年の力にはファンタジーとしての要請というよりも、家族のメンバだけで信じられているだろう神話のほうを先に感じる。家族はみな少年が感情の色(怒りとか喜びとか)を読みとれることを信じている。だけど、家族以外の人間にとってそれは与太話に過ぎない。母親が、父親が、姉が、何を感じているのかを指摘する。その指摘がまるで天から降ってきたものであるかのように信用されるということは、わりとよくあるように思う。
ねがぽじの透というのも、名前の通り、彼らの仲間うちにおいて物事を見透す力を持っているし頼りにされているのだけど、クラスの中で浮いていることを見れば分かるように、その力はまひる達に対する場合に限られている。けして誰にでも頼りにされる兄貴ではないし、限定的であることとあのうさんくさい言動は無縁ではない。うさんくさいから限定されてるんじゃなくて、限定的であるがゆえに、うさんくさい。透の言うことが確からしいと信じられている場が、まひるの周りに形成されている。すける時空、とでも呼べばいいだろうか。まひるたちの視点で見てみると、まひるがあれほどまでに迫害されるはっきりとした理由は、透の発言を通してしか見えてこない。それは僕らからすると、よく分かんない、仲間内の符丁であるようにも思える。
WhiteAlbumのはるかの透視力というのもある。付き合いの狭そうな彼女が冬弥たち以外に対してあれほどの鋭さを持ってることは想像しがたい。
ものごとを見透す力というのは、とてもローカルな場で確認されるものだと思う。天野に話を戻すと、彼女の場合、先に挙げた例のように祐一の家族であったり長い付き合いの仲間であったりするわけではないのだけど、彼女の言葉が全てを説明するように思えるということは、これから一生の付き合いになるような、予感というものを感じさせるのだ。けして天野の過去と祐一の現在とが重なっている必要はなく、天野の未来と祐一の未来とが重なってゆく風景こそが先に想像される。天野の予言を神話的に信じる、っていうことはそういうことだと思う。後になってから天野が、あのとき私は実は適当なことを言っていただけなんですよ、なんて言ったとしても、僕は別段怒る気はしないだろう。どうして天野が好きかっていうことは、まず未来への予感があって、その次に過去への詮索が始まるのである。天野が過去に妖狐となんらかの関わりを持ったと予想するのは自然であるし、僕自身もそうした仮説を持っているのだけれど、はじめに天野に惹かれた理由はそうじゃない。物語の時系列、ひいては構成なんていうのは、天野を好きになる事情を詮索した先にある墓場みたいな場所なんで、こうして時々、日の当たる場所に出たくなる。丘の上で、ぴろと一緒にお昼寝だ。
なんていう書き方をするから、また島根の人(いじめっ狐)に「あなたの言う物語とおはなしとの間にはどういう違いがあるんですか」とか揶揄されるんだけど、僕の場合、物語とかおはなしとかストーリーとか神話とかいう言い換えは読み手の注意を喚起するものであって、例えばフローライトと蛍石程度には交換できる。その場限りにおいて意味を提供する文脈は不足させてないつもりだけど、いや確かに、僕はそれぞれが具体的に何を意味してるかなんてことは決めずに文章を書いています。・・・みたいな答えでよろしいでしょうか?