the radio star terminal 2004年3月

五色の短冊,わたしが書いた.


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 さらば,東京!

(2004/3/30)

 早見裕司の「精霊海流」が発売されましたよ,お兄ちゃん!

(2004/3/26)

 学位授与式.式服はいいものだった.修士用のはコスパから借りてきたようなおもちゃであるが,博士用は生地からして全く違う.肩に気持ちの良い重みがかかり,また手触りがいい.あと背中のフードが可愛らしい.と,ひとしきり修士の子らに自慢して回る.大人気ない.

あと優秀修士論文賞おめでとう.そして,一時のさようなら.いつかまた,どこかで.

僕は30日に東京を離れます.研究の都合で月に一度は東京に来るんじゃねぇの?と思うけど.そのときはまた皆々さまどうぞ宜しくお願いします.

(2004/3/25)

 復刊したペガーナの神々を手にしていた時「タトゥーノ」が目にとまって,これも何かの縁と一緒に買って帰った.このへんは何を読んでもB-Roadsのサプリメントとしか思えないが,F-RoadsがそうだったようにこれもまたB-Roadsの優秀なサプリメントであった.ものを何かに見立てること,あるいは別の何かを類推することの組み合わせによって物事の呪術的な在り方を表現できるようにしたい,という大まかに話をする分にはいいが具体化の困難なアイデア一つを17年に渡って多方面から解説し,僕らの手に触れられるもの(例えばTRPG)にしてきたのは尊敬すべき仕事だと思う.以下,タトゥーノより気に入った門倉節を抜粋.(正確には門倉直人の文章であるとは限らないが,少なくともその影響下にあるのは確か.)

「なぜなら,ときに魔術使いは心象を手繰ることに集中しすぎて,そのプレイヤー自身さえも忘我状態に陥らせることが多いからである.」(p.3)
「魔術を作り,実際のセッションの中で使った際に,『このダメージでは弱すぎる』『強すぎる』『抵抗ができない』など,多少の問題が起きるかもしれません.はじめからうまくできるとは限りません.問題が起きれば,直せば良いのです.直せば直すほど,その魔術は,完全なものとなっていきます.(中略)そして,あなたが作る魔術に誰もが期待しはじめていることに気付くはずです.」(p.12)

色や絵画などのヴィジュアルを利用した見立てや類推は記号的に処理できないため,プレイヤーは自分のナイーブな感性を働かせざるを得ない.端的に言うとタトゥーノはキャラクターの心魂は消費しないがプレイヤーの心魂を消費するように設計されている.ユルセルームにおける魔法がプレイヤーにとって他人事ではなくプレイヤーを巻き込む性質を持つように描かれるのは,その設計によるものであると思う.一方,ダメージや抵抗に関する操作上の事態を魔術の研鑽というストーリー上の事態へ読み替えてゆく態度には,プレイヤーはただ自然に巻き込まれるばかりでなく,巻き込まれるような方角へ自ら舵を取ることもするという指針が示されている.これは何度も言っているような気がするが,僕のフィクションへの接し方は門倉氏の提示してきたこのものの見方が元になっていると思う.

心を解き放ち,ただ巻き込まれるがままでは話に入り込みすぎて自分を見失ってしまう.舵をコントロールしすぎると傍観者になって話に入れなくなる.理想はめいめいがこの手綱さばきを上手くすることと思われるが,実際は,巻き込まれるがままの人,それに釣られて引っ張られる人,その人たちを客観的に見ている人,わが道をゆく楽しい人,というようにぐちゃぐちゃに混ざっているもので,それでも意外にセッションは上手くゆく.みながみなどれか一つの状態になってしまうのが一番いけない.あと個人的には巻き込まれるがままの人を偏愛するし,それに合わせて話を書くものだからいてくれないと非常に困った.

水姫のところにちょっぴり呼応した話.

(2004/3/25)

 三月入ってからほとんど挨拶回りの毎日.今日はNAIST飲みで男の子分を補給.ここの人間はやはり無茶苦茶で面白い.漫画かと思う.

この前の高校飲みもそうだったが,みんな男の子だなーと思う.レースゲームとか好き.僕はからきし出来ない.人は独りで居るとどんどん女の子になってゆくのだと思う.時々こうして男の子分を補給すると何か回復した気分になる.例えるならカルシウムに近い.

(2004/3/21)

 マドロミャーナの子守歌(桜野みねね) コミックブレイドMASAMUNE 春季号より

また人の話きかない女の子である.うわー.その相手が明確に男の子であるあたり,Healing Planet よりもずいぶんサービスがいいと思った.あと読みやすい.

もちろん僕としては,相手はアンジェリカみたいな子のほうがいいわけですが.

(2004/3/18)

 OZ(樹なつみ)

ムトーはヴィアンカが心の内を明かして以来,彼女のことを下の名前で呼び,またフランクな話し方をするようになる.一方でフィリシアに対しては丁寧語のままだ.第一,フィリシアとムトーはいつまでたっても「軍曹」(サージェント)「博士」(ドクター)と呼び合う.しかし,この差は親密度の差というよりもムトーが世慣れているだけであって,ヴィアンカは彼女の歳よりも少し上くらいに扱ってあげるほうがいいが,おぼこなフィリシアには極力クッションを置いた言い方をしてあげるのがいいということだろう.単に女泣かせとも言うが.

呼び方が変わらないと二人の距離がいつまでも変わらないというわけでもない.

不思議だね
最初と同じヘアスタイルなのに…
まるで印象が違う

これはOZ内で久々にフィリシアのお下げを見たムトーの台詞であるが,呼び方のほうもこんな風に明らかには気付かないだけで,ムトーの言う「博士」は最初の頃と最後とでは聞くほうにとっては印象が異なっていたのではないかと思う.恋する乙女のフィリシアとしては「じゃ2人のときもそう呼んでください!! 博士なんてかたいもの」と文句の一つも言いたくなるわけだけど,ムトーにヴィアンカの話を持ち出されてうやむやにされてしまう.これは最終巻のムトーの告白を読んでから後戻りしてみると,ムトーの都合で彼女のことをフィリシアと親愛を込めて呼べなくなっているようにも思える.その前提でゆくと,告白の後OZ内での別れの前にようやくムトーは,フィリシア,と心の中でこっそりと名前呼びするのだけど,それはあまり劇的なものとしては描かれない.極端な例ではあるが「やっとフィリシアって呼んでくれました…!!」とはならない.そんな風に呼び方というのは相手に対するあるべき取り扱いやら自分の希望やら過去の習慣やらが交じり合って綺麗にはゆかないものである.以前,出席した結婚式で,それはあるサークルの先輩が新婦で後輩が新郎であって,いつも名字+先輩で新婦さんのことを呼んでいたから今さらどうにも呼び方に困っているらしかった.周りに囃し立てられて下の名前で呼んだら,新郎さん,どつかれていた.相手を下の名前で呼ぶことによって素朴に関係が規定されないのは当たり前といえば当たり前であるが,僕としては割り切れなくてヴィアンカの肩を持ちたくなる.

フィリシアについては,先ほどのお下げのシーンにおける次の会話が気に入っている.

ムトー 「またお下げにしたんですね」

フィリシア 「少しでもリオンを油断させられたらと思って」

容姿に対する自意識が立派である.女って怖いね.お下げを解いた時にはお年頃な感じがするだけであったが,都合によってまたお下げにするといった戦略的に髪型を変える様子を見るとどうも女になったくさい.名字呼びが名前呼びへ変わるためだけにあるのではないのと同様,お下げも解くためだけにあるわけではないのだ.わざわざこんな感想を抱いてしまうのはなんか形式ばった恋愛ものの読みすぎかと思うのだけど.

あとサイバノイド・バイオロイドについて,19のことを人間らしいと認める者がいるということは,1024がネイトと同じように冷いイメージを持たれたり(遊牧民のピーター曰く「悪魔が目に見えたらきっとああいう姿をしてる…! 冷たい瞳だ…」),リオンと1030ナンバーが似ていたりする(フィリシア曰く「あなた達は…世間知らずのリオンの相似形よ!!」)ということと同じで,単に人間の人間らしさを語るのと同じやり方で人工物の人間らしさを語れるということ,我々が人工物に対しても人間と対等な視線を向けてしまうことがあるというだけの話である.ムトーのじいさんならばオンボロトラックにジェシーと名前を付けていた,ただそれだけの話で.もしも人工物を純粋に人工物として見るとすれば,人工物に対して人間らしさを云々すること自体ナンセンスなはずであって,しかし,じいさんは口をきかないものたちに対して人間らしさを問い,ムトーは口をきくものたちに対してそうであった.ここで,人間らしい,という言い方は人工物に対して使うことが出来るし,もちろん人間に対しても使われるのである.19たちについてはそういうことが描かれていたと思う.

最後に,19について.

パメラ 「それにしてもまどろっこしい事をしたものさ
 "19"なんて表層プログラムを入れとくなんて
 おかげで私は覚醒がずい分遅れたよ」

リオン 「わかってないな
 "19"のおかげで君は彼の分までデータを得られた
 他の一〇ナンバーの様に"パメラ"だけだったら最初から騒ぎをおこすだけだったろう」

"19"が表層だとすれば,ここで"パメラ"は深層ということになるだろう.後になってから19が,実はパメラのふりをしていた,なんて言うのだけれど,表層というものがそもそも何かのふりをするものなので,パメラを取り込んで表層も深層もなくあたかも一つになったかのような19の言い方は事態をわやにしている.リオンと話すときのパメラは実に生き生きとしていて演技という気がしない.かと言って,リオンが廃棄を決めたように完全にパメラというわけでもなさそうだ.19としてはわやにするしかない.自分が誰だかなんか判るか.だけど,ムトーがパメラの瞳を見てそれが19の瞳だと気付いたなんて恋人同士みたいなことを言ってくれたからそれで良かった.ムトーが何と言おうが自分が誰であるかは判りはしないだろうが,OZの消滅するあの瞬間,ムトーが恋人同士みたいに言ってくれた,そのことさえあれば,二人にとっての永遠を手に入れることが出来たから.

お兄ちゃんとこからロボットに追われる男の子という題を連想してOZのことを思い出した.OZは兄を追いかける妹,女の子を追いかける男の子,男の子を追いかける女の子の話でもある.このやたら追いかけるところがロマンスであった.昔の漫画は姉のを借りて読んだのがほとんどであるので手元になく,古本屋にもなかったので漫画喫茶で読み直した.1月の泣きそうだった夜にそんなことをやっていた.

(2004/3/15)

 こなたよりかなたまで

彼方くんという人は,アクセル,ブレーキの踏み方が優しい,と思ったら,時にはふざけてみたり色気を出してみたり,聞き手へのサービスを尽くした語りをする人だった.楽しいドライブだった,と言えば,彼も喜んでくれるだろうか?

この物語が前提条件なしにいい話だったり悲しい話だったりするのではなく,あくまで彼方くんが語る中ではそうであったということは彼のことを思うなら決して忘れちゃいけないことだ.

佳苗や九重さん,いずみや優たちの話をあそこで語り終えることが出来るあたり非凡であるが,そんな風に優しく振る舞う彼を見る辛さは残る.彼方くん,君こそ頑張らなくていい.そんなにサービス満点の語りを僕らに聞かせてくれる必要はないのに,やっちゃうんだなあこの人は.彼が優しいっていうのはつまりはそういうところである.

「それでははじめよう.
 僕たちの不器用でぎこちない物語.それは平凡に続くはずの日々に,思いがけない展開を運んでくる彼女との出会いの物語だ.
 でも,まずは朝.彼女があらわれる前の日の朝,物語はそこからはじめる事にしよう――――――」

冒頭で彼方による語りであることを示してからこの長い回顧録は始まり,まずは彼の親友二人を聞き手に紹介し,その後は聞き手に自分たちといっしょの時間を歩み直してもらうことによって当事者的に話を理解してもらうという工夫がなされている.しかし,時々「この時の僕には,彼女は堂々と嘘など必要無く生きていく人のように見えた.」であるとか,「後から聞いた話によると」といった,過去を参照する言い回しを交えることによって,これらの出来事がすでに終わっていて,それを彼方が改めて語り直しているということを確認している.だから,物語についての諸々のこと(例えば短さや語られなさ)は一足飛びに作品の問題として扱うのではなく,まずは彼方くんの問題として扱ってあげるべきだ.吸血鬼や退魔といった一般人の彼方くんには理解できないことは当然,彼はまともに語ることができないわけで,それは彼の限界を明確にするものであって,作品の限界ではない.また,彼が限界を持つことによって彼の語りの良さ,ひいては作品の良さが損なわれているとも思えない.むしろ,判る範囲における描写の緻密さと判らない範囲における描写の粗雑さの差が極端であるために,ありえない出会いを理解はできないがただ在るものとして受け入れている彼の地に足のついた様子が際立っている.

彼の手が届く範囲において彼が話を盛り上げる様子にもやりすぎ感が漂う.しばらく秘密にしておいてヒントを小出しにしつつ,じゃじゃーん,と明らかにするというやり方を彼は好む.そんなにもったいぶって雰囲気つくらなくてもさ.あんたは新城沙織か.

やけに客観的だったりお話めいていたり,そうしてくれなくては人の闘病記など本人以外にとってまともに読めたものになるはずがないのである.だからこそ,彼は優しい.聞き手に対してともかく優しい.

(2004/3/13)

 鋼屋ジン×古橋秀之対談(Newtype 4月号)より

「鋼屋 そもそもロボットと魔術ってすごく相性がいいものなんです。僕が好きなロボットの原点て、『ヤットデタマン』なんですよ。あのアニメのロボットって、カギで錠前を開けるという儀式をしないと出現しない。それこそ、『マジンガーZ』のころから、ロボットというのは合体や変形といった『儀式』がなくては出現しないものでしたよね。
古橋 ロボットアニメって、長年『いかにロボットを成立させるか』という問題に取り組んでますよね。たとえば、『伝説巨人イデオン』だったら、イデの力で成立している。(・・・以下略・・・)」

やっぱ,ヤットデタマンなんですか.

ここで鋼屋氏が話題としているのは「いかにロボットを出現させるか」ということであって,古橋氏はそれを「いかにロボットを成立させるか」という話へスライドさせている.この二つの話は全く違う.前にも書いたけれどアニメのロボットがそこに出現するためにはロボットを成立させるための理屈が必要なのではなく,視たり聴いたりしている人をロボットの側やロボットの中へ引き込むようなケレンこそが必要であって,鋼屋氏の言う儀式とは日常から外れた奇抜さやつい口ずさんでしまうような催眠的なリズムを指しているように思える.つまり一言,魔術はカッコイイからこそ僕らの元にありえないロボットが出現するのである.

(2004/3/11)

 昨晩友人にいい歯医者さんを紹介してもらったので今日の午後から行くつもりだったが,水曜は定休.予定を空けていたのでせっかくだから小石川植物園へ行ってきた.躑躅は美なりしなり.されどただ赤かりしのみ.いや,五月じゃない.五月じゃないから観客も少な,かなたより来たりたる,一群れの幻.歯科外科室で再会するだろうか.先週の蔵王では駅前広場でジェラートを,しかし,僕たちは巡り合うことが出来ただろうか.ローマのものはローマで.フィレンツェのものはフィレンツェで,つまり,ミラノでは駄目なのである.

うまくゆかない気持ちを抱え,西の魔女に聞いてみて

「『西の魔女が死んだ』の魔女は抑制がかなり効いていて,
不思議な体験や直感というものを大切にし過ぎると,
生きてゆけないほどの苦しい目に遭うという部分も描かれます.
(川澄舞のようですね.)」

「つまり、見えてしまったものにどう処するかが肝要で、上等な魔女は外界からの刺激によって動揺することはありません。いいかえれば、不意に訪れてしまった「直観」なんて、たかだか外界からの刺激にすぎないのです。自分の思いつきに振り回されがちなぼくら(ぼくら?)にはこういう本は有難い。」

類似することを有り難がってそれを求め過ぎるのはどうにも愚かではあるが,類推することによって対象に巻き込まれ,事態とともに在り,それでようやく生きているという風になるように思う.しかし,行き過ぎると自家中毒になる.ぼく地球のモク・レンが同じ名の花を地球に見つけたのもその種のことだったと思い出される.

女の子には花の名前を付けるのがいいと思った.植物園を周っていると椿に花梨といちいち足を止めて見入ってしまう.女の子が生まれたら彼女と同じ名の木を植えよう,それが縁起のいいことなのか悪いことなのかは良く知らないのだけど,少なくとも物語としては豊かだ.彼女が健やかであるにつけ病になるにつけ彼女と同じ名の彼女と同じ歳のもう一つの生命が理由になるだろう.それに彼女がお嫁に行ったとき残された木はどれほど慰めになるだろう.魔術的な類推が物語る余裕を生み出している.北と南に善き魔女が居る.東と西には悪い魔女.西の魔女は悪い魔女だとばかり思っていたら,西の善き魔女が居たり死んだりする.愚かであったり自家中毒をもたらしたりするにしても,物語がなければ北と西とをひっくり返す余地がない.

シダ園の前でおばちゃんが猫を撫でていた.僕が通りかかると勝手に「お兄ちゃんがおいしいものくれるって」と猫へ語りかける.いつの間にか僕が彼女の語りの登場人物にされてしまっている.あいにく食べ物を持ち合わせてなかったので,そのまま微笑みあって通り過ぎた.シダ園は突き当たりなのですぐに引き返したが,おばちゃんの姿はどこを見渡してもなく,猫だけがそこに残っていた.食べ物を出していたら僕は一体どうなっていたのだろう.

寒咲大島という早咲きの白い桜が満開だった.卒業の季節に桜が咲くのを初めて見た.これまで卒業式に桜が咲くという話は嘘だと思っていた.遥か昔の卒業生達が桜の前で写真を撮っている.つまり,そのおばちゃん達に写真屋を頼まれて僕もシャッターを切った.昼間っから一人で植物園を散歩している男の子の使い道などこれくらいのものである.

京都に居た頃,皆で府立植物園へ行った記憶があるがどういう理由で行ったのかすっかり忘れてしまった.ただ小石川の温室でフトモモの木を見て末永のことを思い出した.あるいはさねかづらを見て百人一首にも歌われる割にハイカラだと思った.ちなみにモクレン科だという.そんな風に花を見て花を見ずであるが,それでは花を見るとは一体どういうことだというのか,と中学生のようなことを考えた.中学生といえば先に学校から見学に来た制服の一団とすれ違ったが,精子精子とやたら説明のあるこの植物園は彼らの姿と併せて見ると酷く気恥ずかしい.この小石川,つまり東大付属植物園の木からイチョウの種に精子のあることが発見されたのだという.

この温室というのは妙なところで,異なる国の植物が一つの部屋に収められている.大抵植木鉢で時には同じ土に植わっていたりする.動物園では異なる生き物を同じ場所には住まわせないので,これだけ色んな人たちが密集していてどうして喧嘩しないものか.人工の植生がデザインされているのだろう.週間少年ジャンプの岡野剛の新連載は人間以外の生物にしか興味ない女の子がやたら可愛いかった.そういうわけで生物といえば少女であるが,人工物が加わると途端に少年の領域となる.EXPO'90 国際花と緑の博覧会,通称花博では「咲くやこの花館」と呼ばれる大温室が建てられた(この名は当然,大阪であるから.)万博の大温室,空から見れば睡蓮の花,特別な幾何的形状を持つガラス張りの威容は少年が回遊するに相応しいパビリオンである.星巡りのハンドルを回せばガラス越しに星々は円を描き,四季折々の花,熱帯の蘭,ヒマラヤのケシ,地球ごと季節が移り変わる.幾千の,星の落とした種を育む汎天球儀の植物園.そういう場所に少年たちを置いたシナリオを書こうと思い,万博後も残された大温室を再訪した.僕が予想し,また期待していたものは沖縄海洋博(僕の生まれた年だ)のアクアポリスで,万博跡の寂れた様子であった.しかし,予想は外れ,今は春べと咲くやこの花,衰えず,フラワーアートや何やらの教室も開かれ,飾られている.例によって平日の昼間であったのに周りの花屋にはおばちゃんが何人も訪れて植木鉢を買っていた.徒花が当たり前の万博にあって花博と言えばなおさらであるが,温室と庭園はそのままに続いている.先日,同世代のお兄ちゃんズにはつくば科学博が好評で花博はどうも不評であったため改めて話で補うことにした.万博が残す物などたいしたものではないが,花ほどの数ある話はただ在るがままに残り続ける.僕が書いたこの毒にも薬にもならない話もその一つである.

あるいは,木崎湖へ行ったということもそういうことである.

そんな風に29歳の誕生日を過ごした.一つ仕事を終えた気分で小石川からの帰り際,また物語の旅を一つ思い出した.今日は,僕にとっての東京が始まったアンナミラーズの目黒店へ行くべきだったのだ.バースデーセレモニーは今日を除いて他にありえない.がっかりだ.そんな風にしおれながら研究室へ戻ると,K原氏から誕生日プレゼントを頂いた.僕の好物である缶コーヒーとショートケーキである.心で涙しながら有り難く.いずれ同等のものをお返しします.結婚祝いは缶コーヒーでいいですか?

(2004/3/10)

 2004年3月6日(土)〜2004年3月8日(月)まで松本・木崎湖・軽井沢へ.メンバーは某所で集まったDALさんやまうちさんflurryさん薫さん転さんと私.このときのお話は口にすると溶けちゃいそうなので書きません.ひみつ.えへへ.

(2004/3/9)


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